華の装い
あなたが、大好き。――だから。
大好きなあなたのために、ささやかなことでもいい、わたしに何かできればいいのに。
あなたの笑顔が見たいから。あなたの優しい微笑みが、大好きだから。
秋風が去ろうとし、早朝には霜降が見られるようになった、とある曇天の昼下がりのこと。
国王の庶子である王女リアネイラは、与えられた屋敷の一室で、両腕を組み、眉をしかめ、大いに悩んでいた。
すぐ傍に控えている侍女のフィスリーンは、失笑を堪えている。
「それほど迷われなくともよろしいのに」
「だって……」
リアネイラは口を尖らせ、拗ねたような表情をフィスリーンに向けた。
今居る、衣装や宝飾品等の収納部屋に、リアネイラ自ら足を運ぶことは、ほとんどない。
衣装部屋に収納されているドレスの全ては父である国王から贈られたものだが、一度も袖を通したことのないドレスも何着かあり、それどころか、何着あるのかすら、リアネイラは把握していない。数え切れないほどたくさんあるというわけではないが、私室にある普段着だけで事足りているため、衣装部屋に収納されているドレスの管理は、どうしても侍女達に任せきりになってしまう。
せっかく贈ってくれたのだから着てみせるべきだろうとは、思っている。
だが父王に会える機会は少なく、ゆえに、贈られたドレスを着る機会も、必然的に少なくなる。
もともと軽装が好きなリアネイラが、理由もなく贅沢な衣装をまとうことはなく、そのため、どのドレスを「着たい」のか、自分でも判断がつかないのだ。
「これが良いな、と思ったものを選ばれればいいんですよ」
フィスリーンは衣装にかけられた埃よけの布を軽くめくってみせた。
フィスリーンが手に触れたそれは、タフタ素材を活かし、流れるようなドレープの美しい濃緑色のドレスだ。
「そうは言っても……どれがいいかなんて、わかんないよ」
リアネイラは大きなため息をつき、琥珀色の瞳を曇らせた。
今日、「ちょっとドレスを着てみようかなって思ったんだけど」と、リアネイラが言い出したのには、理由がある。
父王に会いに行くわけではない。特別な来客があるわけでもない。
ただ、「たまには、いつもと違う自分を見せたい」と思ったのだ。
いつも傍に居てくれる人に。
かけがえのない、大切な、大切な彼に。
彼のために装いたい。
もしかして喜んでくれるかな。そんなささやかな期待を胸に抱いて。
フィスリーンに手伝ってもらい、リアネイラはようやく着替えを済ませた。選んだドレスは、象牙色のドレスだった。
「こちらの常盤色のドレスの方がきらびやかでしたのに」
フィスリーンは名残惜しそうに、リアネイラが最後までどちらにするか悩んでいたもう一着のドレスを見、嘆息した。
「うん、でも……セオって、白が好きなんじゃないかなって。白っていうか、無垢な生地っていうか……」
着慣れないドレスを窮屈そうにまとっている自分が鏡に映っている。
似合っているかどうか、自分では分からない。
「そうかもしれませんわね。さすが姫様。セオドアス様のお心をよく分かっていらっしゃいますわね」
「そんなことないよ。なんとなく……なんだし」
「いいえ、姫様。セオドアス様のお好みは姫様自身ですもの。姫様がより引き立てられる衣装を好むと思いますわ」
「もうっ、フィスリーン! またそんなこと言って!」
フィスリーンは九割方本気で言ったのだが、リアネイラはからかわれたと思ったのか、あるいは照れもあってのことだろう、怒ったふりをして、こぶしをあげた。そのこぶしをあっけなく止め、フィスリーンはまた笑う。
頬を薔薇色に染め、拗ねた顔をしているリアネイラの、なんと無垢で初々しく、愛らしいことか。
ほっこりと和み、微笑ましい気分になる。
「せっかくですし、髪も整えましょうか? ドレスに合った髪飾りを、すぐにお持ちしますわよ?」
「ううん、いいよ、フィスリーン。夜会に行くんじゃないんだし」
「……でも、勿体無いですわ」
一見地味なドレスに見えるが、すみずみまで意匠をこらして作られたドレスであろうことは、リアネイラにも分かる。だからフィスリーンが「勿体無い」と思う気持ちも分からないではない。ドレス単体ではドレスの魅力が半減してしまうということなのだろう。
象牙色のドレスは単色のため、視覚的に訴えてくる色鮮やかな派手さはない。だが胸元の刺繍は細かな花模様を描き、小粒の真珠がちりばめられているという贅沢さだ。
腰から裾までふんだんに使われるフリルがスカート全体に立体感を持たせ、上品さと可憐さを含ませている。
「よく似合ってらっしゃいますわ、姫様」
「……そ、かな……」
リアネイラはやや赤みのかかった金髪を両手で後頭部へとかきやり、そのまま両腕を上げて背筋を伸ばした。
「そろそろセオ、軍務棟から戻るよね。庭で、待ってようかな」
「あらでも姫様、通り雨がきそうですわ?」
「え、……ほんとだ」
リアネイラは窓の外に視線をやった。
フィスリーンが言うように、空には分厚い雨雲がかかっていた。だが、ところどころに青空が見え、陽光の欠片を落としている。
「部屋で待たれたほうがよろしいのでは?」
「ん……」
ガラス窓に、水滴がかかった。一滴、二滴と、次第に勢いを増していく。
唐突に降りだした雨の勢いは強く、視界が遮られるほどだった。
激しい雨音に、リアネイラの嘆息が紛れ、消える。
コツコツと、ガラス窓を指先でつつく。指先から冷気がしのびこんできそうだ。
リアネイラは視線を上げ、雨に濡れたガラス窓の向こう、遠い空を眺めやった。
結局、リアネイラは私室へは戻らなかった。
母の形見である有棹撥弦楽器ウードを抱え、庭園へ続く通路で、待っていた。
扉を開け、リアネイラはそこから雨に濡れる庭園を見つめていた。
雨脚は遠退きつつあった。空を見上げると、すでに何箇所かに晴れ間が見えている。
「もう……やむかな?」
雨が上がるのを、そして待ち人が来るのを、リアネイラは焦れながら待っていた。
無意識に、ウードの弦を掻き鳴らしていた。高い音は、梢と梢を伝って落ちる雫の音のように繊細なもので、低い音は、濡れた枯葉が地に落ちる音のように微かなものだった。
どれほどそうしていただろう。
さほど長い時間ではなかった。雨は上がり、小鳥達の忙しない鳴き声が、木立の合間に聴こえる。
開け放たれた扉の向こう、庭園は様々な音、色、香りに満ちている。
それはごく自然な光景で、そして今、ごく自然に、リアネイラの傍にはセオドアスがいる。
「リィラ」
名を呼ばれ、リアネイラは微笑んで振り返った。
「おかえりなさい、セオ」
セオドアスは、何をおいても先ず、リアネイラの元へ向かう。
護衛が務めであった頃からの癖とも言えるが、リアネイラの傍に在りたい気持ちが、ごく自然に、そうさせた。
「おかえり、セオ。お仕事、お疲れ様」
リアネイラの屈託のない朗らかな笑顔は、秋空の鮮やかさを思わせる。
「ああ」
セオドアスは笑みで応じ、それから改めてリアネイラのまとっているドレスに目をやった。
どこかへ行くのか、それとも来客があったのかなどという無粋なことは口にしなかった。ただ、国王陛下からの賜り物かと、それだけを確認した。
今リアネイラが着ているそれは、セオドアスとの婚約が正式に決まった後に国王が大量に贈ってきたドレスのうちの、一着だった。
「よく憶えてたね、セオ。父様が贈ってくれたドレス、たくさんあったのに」
リアネイラは目を瞬かせ、はにかむような笑顔を見せた。
わたしなんか、どんなドレスがあったかなんて、ちっとも憶えてなかったのに、と。
セオドアスは目を細め、ふっと表情を緩めた。
「それが、リィラには似合うだろうと思っていたからな」
「ほ、ほんと?」
リアネイラの頬に、温みのある薄紅色の花が咲く。
「よかった。セオに似合うって言ってもらえるのが、一番嬉しい」
セオドアスは手を伸ばし、ゆるやかな癖のあるリアネイラの金の髪に触れた。親指が耳先に触れ、リアネイラは思わず肩をすぼめた。
「……リィラ」
着慣れない窮屈なドレスをまとっているのは、自分のためなのだろう。
それを察し、セオドアスは胸を詰まらせていた。
幼い頃から、リアネイラは自分のためではなく誰かのために行動を起こすことが多かった。
自惚れても良いのなら、おもに自分のために。
ひたむきに、自分を見つめ続けてきた少女は、幼いばかりの少女ではなくなり、鮮やかなまでに美しく、魅了してやまない唯一人の娘として、今、目の前にいる。
出逢った時と変わらないのは、一途な琥珀の瞳、清純な心根、そしてリアネイラの存在、そのものだ。
「リィラ、庭へ出ようとしていたのか?」
「うん。けど、どうしようかなって迷ってたの。ドレス汚しちゃったら大変だし。でも、雨上がりの空を庭から眺められたらいいなって思ってて……って、きゃっ」
リアネイラが言い終えないうちに、セオドアスは身を屈め、そしてリアネイラの身体を抱え上げた。リアネイラが持っていた、ウードごと。
「セッ、セオッ?! や、な、何……っ?」
セオドアスの、こうした強引さにはまだ戸惑ってしまう。嫌な訳はないが、焦ってしまう自分が情けなくなる。
嬉しいのか、恥ずかしいのか。様々な感情がリアネイラの鼓動を速まらせている。
こともなげにリアネイラを横抱きにしたセオドアスは、ゆっくりと歩みだした。
「庭へ出たかったんだろう、リィラ? こうしていればドレスは汚さずに済む」
「けどっ」
「けど?」
「……ううん。なんでも、ない」
セオドアスの甘やかな微笑に、リアネイラは抗えない。
リアネイラはウードをしっかりと抱え込み、セオドアスに身を任せた。
だけど……やっぱりちょっと恥ずかしいな、と、心の中で呟いて。
湿気を含んだ風と、雨に濡れた土の匂いが、二人の肌を優しく撫ぜる。
地上に降り注ぐ幾筋もの黄金色の陽光は、リアネイラの瞳の輝きにも似て、まぶしく、美しかった。
「見て、セオ! 空、すごく綺麗だね!」
西の空に傾きかけた太陽は、幾重にも連なる雲に隠され見えないが、雲を多彩に照らし染めている。雲間から零れる陽射しは、雨に濡れた地上に、活き活きとした光彩を与える。
「ああ、本当に綺麗だ」
「うん」
リアネイラの明眸が、さらにきらめきを増す。
綺麗だと、セオドアスが言ったのは、リアネイラに向けてだった。
そうとは気づかず、リアネイラは屈託なく笑っている。
「ありがと、セオ。こうしてセオと一緒にいられて、わたし、すっごく嬉しい」
「リィラ」
「セオも嬉しいって思ってくれてたら、……もっと、嬉しいな」
「嬉しいさ。リィラが思うよりも、ずっと」
「ほんと?」
「本当だ」
セオドアスの抱きかかえてくれている腕の強さと、包み込んでくれるような優しげなとび色の双眸が、リアネイラを甘く蕩かせる。
「あ、あのね。毎日は無理だけど、セオがもし望んでくれるなら、……ドレス、また着ようかなって……」
似合うと言ってくれて、嬉しかった。
そして、セオドアスのために装えることが、何より嬉しかった。
だから、もしセオドアスが望んでくれるなら……――
「望んでも、かまわないか?」
セオドアスは、リアネイラの耳ともで低くささやく。
「え? う、うん」
「では、また見せてほしい」
「…うん。じゃぁ、また着てみるね」
「楽しみだ」
柔らかなセオドアスの笑みに、リアネイラははにかんだ笑みを返す。そして、まっすぐにセオドアスを見つめ、心を彩るセオドアスへの想いを、ためらいなく告げた。
「セオ、大好き」
それを、リアネイラは繰り返し、告げる。
言葉だけではなく、吐息に、視線に、ウードを奏でる指先に託して。