白い花をあなたへ
その日、リアネイラは珍しくセオドアスを伴わずに、王墓へ赴いた。
できることなら一人で来たかったのだが、王女という身分柄、さすがにそれは許されなかった。供は、女官のハンナと、他に数名の護衛官。
王墓は、王宮の敷地内にあるが、リアネイラの住む屋敷からは遠く隔たっている。
「散歩がてら、ゆっくり王宮見学しながら行くのも楽しそう」と冗談めかしてリアネイラは言うが、暢気に散歩ができる場所ではないことは、重々承知している。
冗談と分かっていても、物堅いハンナなどは、「暢気顔で散策などして、よもや曲者と誤解でもされたらどうするおつもりですか? 場所柄を弁えくださいませよ?」と窘め、リアネイラは肩をすぼめて苦笑するのだ。
気軽に出歩ける「身分」ではないことも、むろんリアネイラは承知している。自分の軽はずみな行為が、いかに多くの人に迷惑をかけるか、心配をかけるか。それもまた十分すぎるほど、リアネイラは理解していた。
王宮内でのリアネイラの身分は決して高いものではない。それは、すでに故人であるリアネイラの母も同様だった。
リアネイラの母親は、貴族でも大商家の娘でもなかった。「歌姫」と呼称されていたが、町娘よりももっと卑しい旅の楽団員で、二親もない、孤児だった。
その孤児である娘が、愛の女神の気紛れによって、大きく運命を転進させられた。それは、場末の歌姫がようやく十六になった年のことだ。
まるでお伽噺のようだったわ、と、本人はあっけらかんと笑って語った。
強く、朗らかな笑顔だった。
国王陛下の寵愛を得た「歌姫」は、王宮に招かれる前と変わらぬ態度をとり続けた。驕らず、謙らず、己の生きる道を己の足で歩き、生き抜いた。
泣き言も恨み言も、表立っては、口にしなかった。心労がたたって臥せっても、娘を気遣い、笑っていた。
「陛下のわたしへの愛は、一時的な熱情のようなものだったのかもしれない。けれど、わたしを見捨てるようなことはなさらなかった。誠実に、わたしを慈しんでくださった。愛してくださったわ。それは、まぎれもない真実よ」
母は、己の人生を悔いることなく全うした。辛苦に耐え続けることで、国王陛下への愛をも全うした。
リアネイラは首を伸ばし、嘆息した。
細い雲が折り重なり、太陽の光を和らげている。
中天から西に傾きつつある太陽は、雲間から長い光を大地へ伸ばしていた。
昼下がりの陽光は、風に凪ぐリアネイラのしなやかな金の髪と、散り落ちる木の葉を鮮やかな色に照らしだす。
新涼の季節、木陰に入ると風はひやりと冷たい。リアネイラは抱えていた白い花の束を、胸に寄せた。ハンナに手配し、手に入れてもらった白百合。それは、母が好んだ花だった。
リアネイラは一人、墓標を前に、佇んでいた。
ハンナと護衛官は、離れた場所でリアネイラを見守っている。他に人はなく、清澄な秋風だけが淋しげに通り過ぎてゆき、時折、地に落ちた枯葉を舞い上がらせていた。
リアネイラは白百合を一輪だけ、墓前に手向けた。
「……ありがとう、母様」
早くに身罷ってしまったのは、残念なことだった。どうしてもっと長く生きていてくれなかったのかと、嘆きたくなる時もある。
だが、今日はそれを伝えに来たのではない。
ありがとう、と、伝えたかった。
産んでくれたこと。育ててくれたこと。愛を教えてくれたこと。
「わたしも母様のように、わたしらしく、悔いないように、生きてく。母様の娘として恥ずかしくないように」
あなたはあなたらしく、悔いることのないよう、生きてゆきなさい。
それが母の遺言、……願いだった。
リアネイラが屋敷に戻ったのは、太陽が西に傾き、陽光の長さと強さがよりいっそう目に鮮やかになった頃だ。日暮れにはまだ早く、辺りは金色の光に満ち満ちていた。
「ただいま、セオ!」
屋敷に入ってすぐ、リアネイラは自分の帰りを待ってくれていた騎士の元へ駆けていった。
「リィラ」
騎士セオドアスの、穏やかで深いとび色の瞳は、リアネイラのときめきと笑顔の源だ。
セオドアスは安堵したように軽く息をついてから、墓参の随従ができなかったことを、リアネイラに詫びた。
「大将軍からの呼び出しだったんでしょう? そっちの方が大事だよ。用は、済んだの?」
「ああ。また明日も行かねばならないが」
セオドアスの任務はリアネイラの護衛だが、それ以前に国に仕える騎士という立場上、優先順位はおのずと決まってくる。国事に関わることがあれば、当然ながらそちらを優先せねばならなかった。
とはいえ、リアネイラの護衛は国王陛下からの勅命ゆえ、おろそかにはできない。だが、いずれ勅命は無効になる。
守ることは、義務によって行なわれるものではなく、己の意思ゆえの行為になる。リアネイラはもう、セオドアスにとって、仕えることを命じられた「主」ではないのだから。
「リィラ、その花は……」
「うん?」
「墓前に供えてこなかったのか?」
リアネイラの両腕に抱えられた白百合を見やり、セオドアスは僅かに眉根を寄せた。
「うん、あのね、これは……」
リアネイラはセオドアスのとび色の瞳をまっすぐに見つめ、微笑んだ。
「これは、セオに」
そして、白百合の花束をセオドアスに差し出した。
「セオにも、あげたかったの。伝えたかったの」
セオドアスはためらいがちに花束を受け取った。花を贈られたのは初めてのことでいささか戸惑ったが、思えば、リアネイラからは贈られてばかりではないか。リアネイラ自身をも含めて。
「あのね、セオ。……わたしと出逢ってくれてありがとう。わたしの傍に、いつもずっといてくれて、ありがとう」
セオドアスは目を細め、はにかんだ笑顔を浮かべているリアネイラを見つめた。
ひたむきに向けられる琥珀の双眸が、秋の夕照のように、まぶしい。
「これからもずっと……ずっとセオの傍にいさせてね」
「……リィラ」
愛しさが胸にあふれ、言葉に詰まる。己の不器用さが、もどかしかった。
セオドアスは手を差し伸べ、リアネイラの温かな頬に触れた。セオドアスの手に、リアネイラの手が重なった。
リアネイラはさらに微笑みをやわらげ、祈るように言った。
「セオのこと、ずっと好きでいさせてね」
「ああ」
セオドアスは重ねられたリアネイラの指を掴み返し、その手を口元に引き寄せた。そして甘やかに微笑んで、誓う。
少し冷たいリアネイラの指先に口吻を落とし、
「リアネイラ」
愛しい人の名を、誓いの証であるかのように、囁いた。
恥ずかしげに、リアネイラは嬉笑を返す。
「セオ、あの、……わたしね……」
白百合の甘い香気に酔ったように、リアネイラの頬が茜色に染まっている。
「リィラ」
今度は愛称で呼び、セオドアスは白百合の花束を持ったその手をリアネイラの背に回し、身を寄せた。そして悪戯心を隠すように目を細め、もう片方の手を、リアネイラの顎に当てた。
いつまでもリアネイラの傍にいる。誓おう。それを声にはしなかった。
「…………」
代わりに、誓約の証を求めた。
リアネイラの、とまどいがちに開かれた、その唇を。