浴びるほど
侍従キィノ編なのでセオもリィラも登場しません
日暮れ近くになって、突然風が強まった。湿気を帯びた風と空を覆う灰色の雲が、雨を報せる。
気晴らしを兼ねて街に買出しに来ていたキィノは、空を仰いだ。
のんびり気ままにそぞろ歩きを楽しんでいたのだが、それも終いのようだ。
ぽつり、と大粒の水滴が鼻先にかかった。
「やば。どっか避難しないと」
キィノが雨宿りをしようと駆ける足よりも早く、雨は降りだした。しかも水桶をひっくり返したかのような勢いで。
「キィノ! キィノ、こっち来なよ」
呼ばれた声のするほうに、キィノは足を向けた。
酒屋の軒下に逃れ、キィノは濡れた額を手の甲で拭った。
「久しぶり、ノーラ」
自分を呼んだのは、顔馴染みの女性で、軒を借りている店の娘だ。赤毛と灰色の瞳の彼女は、キィノより三つ年長で、背もこぶし三つ分くらいは高い。闊達な少年のような笑みを見せる彼女に、キィノも笑みを向ける。
「久しいね、キィノ。今日は買出し?」
「まーね。雨に降られる前に屋敷に戻りたかったけど、ノーラに会えたからいいか」
「口がうまいね、相変わらず。じゃ、ついでだし、店に寄ってきなよ」
ノーラは店の扉を押し開けた。
各地の地酒や果実酒の即売店は、扉を開くと、甘い匂いで客を迎える。
「温かいモンでも淹れてくるから、そこに座ってて」
「うん、ありがと」
キィノは抱えていた荷物をテーブルに置いた。
飲食店ではなく、酒の即売の店のため、テーブルと椅子は一脚しかない。テーブルの上のランプは火が消え、店内は薄暗い。
キィノはランプに火を入れた。橙色の灯りと消炭色の影がテーブルの上でゆらゆらと踊る。
「お待ち」
ノーラが淹れてくれたそれは、温めた果実酒だ。蜂蜜が入っていて、やや甘い。
「ん、美味しい、これ」
鼻先をくすぐる湯気も、甘く香る。
秋の雨は冷たい。さほど濡れはしなかったが、やはり身体は冷えてしまっていた。その身体を内側から温めるのに、酒はもっとも手っ取り早い方法だ。
「ちらっと聞いたけどさ、お姫さん、ついに結婚が決まったんだって?」
「え、ああ、うん」
唐突にふられた話だったが、必然の質問だった。ノーラにはよく、リィラのことを話して聞かせていたのだ。
「十年越しの恋を実らせたってことだよね。詳しい顛末を聞きたいねぇ」
「いいけど」
ノーラは自分用にも椅子を一脚持ってきて、キィノの差し向かいに腰かけた。もちろん、手には果実酒がある。
「キィノは……」
ノーラが言いかけたその言葉を、突然の閃光が遮った。青白い光が走った数瞬後、天を裂くような激しい轟音が響く。
雷鳴がとどろき、雨足はさらに強まっていく。
まいったなぁ。
キィノはため息をついた。
帰るのが、遅くなりそうだ。
二杯目の果実酒を自分とキィノのため淹れてから、ノーラは話を戻した。
ノーラは椅子の背もたれに肘をかけた。
国王陛下の、めかけ腹とはいえ気に入りの娘の恋の成就話は、話題性がある。友人らにも教えてやろう。ノーラは、そんなことを気楽に考えていた。
「それで、キィノは?」
「オレ?」
「いや~、こういう場合さ、キィノの立場は、幼馴染みの姫にほのかな恋心を抱きつつも、潔く身をひくっていうのが常套じゃない?」
「…………」
キィノは苦笑した。苦い、というより、少しすっぱいような気分だ。
「オレ、そんな風?」
答えるより、尋ね返してみた。キィノは時々、こんな風にずるい手を使う。
「え。いや、どうかな」
訊かれて、ノーラは返答に窮した。思わぬキィノの反応だった。じっとみつめてくるその双眸に浮かぶ色は、少し蒼ざめている。
「寂しげ……ではあるかなぁ?」
「……そう? でも、それはそうかな。友達……とかいうとまた母さんに叱られるけど、親しい人の結婚が決まるって、そういうもんじゃない?」
「ああ、そうかな。嬉しいような、ちょっと寂しいような?」
「そうそう。実際、ほっとしたし、嬉しいよ、リィラのことは」
「へえ、そうなんだ」
ノーラはカップをテーブルに置くと、窓の外に目を向けたキィノの横顔を見やった。
再び、雷光が走る。
思わず肩をすぼめたのは、ノーラだった。キィノは頬杖をついて、そしてやはり窓の外を眺めている。
キィノのそうした表情を、ノーラは初めて見る。
気分が落ち着かないのは、やまない雷雨のせいなのだろうけれど。
向き直らず、キィノは語りだした。
「オレね、昔すごく怖がりで、雷がダメだったんだよね」
今の様子を見ている限りでは、とても信じられない。雷鳴に、まるでびくともせずにいるキィノは、ようやくノーラの方に顔を向けなおした。
「いつだったかなぁ。雷が鳴り続けてる日があってさ、しかも夜で、オレ、怖くて眠れなかったんだよね」
くすっと、キィノは笑う。
「あんまり怖くてたぶん声あげてたんだと思う。自分じゃ憶えてないけどさ。で、その声聞きつけて、何故だかリィラが部屋に来たんだ」
懐かしさに目を細めるキィノを、ノーラはやや戸惑いがちに、見る。どう対応していいやら、わからない。
「怖がるオレの傍に来てくれて、大丈夫だよって慰めてくれたんだよね。普通、男女逆だよね、こういうのってさ」
「……お姫さんは、雷平気だったの?」
「うん。リィラはね、雷、けっこう好きなんだって。ヘンだろ? 母親から、雷は天の神が奏でる音楽なんだって聞かされていたらしいよ?」
「派手な音楽だねぇ」
「雨も音楽。風は歌……ってさ。まあ、リィラの母親は旅楽団の歌姫だったからね。逞しい人だったんだよね」
あれはまだ、リィラの母親が存命だった頃のことだ。出逢って間もない姫に励まされ、あげく一緒のベッドで眠ってしまったのだ。晴れた翌朝、キィノは母親のハンナに雷を落とされた。そっちの方がよっぽど怖かったなどとは、その時はとても口にできなかった。
リィラは、キィノを庇うようにしてハンナの前に立ちふさがり、再び「雷」からキィノを守ろうとした。
「違うの、ハンナ! わたしが怖くって、雷が怖いからって、キィノに一緒に寝てくれるように頼んだの! だからキィノを怒っちゃだめ! キィノは悪くないの!」
嘘が下手なくせに、そうやってキィノのために、嘘をついた。半泣きになって。
結局、ハンナが折れた。もちろん、説教をこんこんとした後に、ではあったが。
「……キィノは、本当にお姫さんのことが大事なんだね」
しみじみと言い、ノーラは嘆息した。
「うん、そうだね」
臆面もなく、キィノは認めた。
「キィノとお姫さんって、幼馴染みの友達って関係だと思っていたけど、ちょっとだけ、違ったね」
「…………」
「妙な言い方かもしれないけど、何のかんの言っても、やっぱり主従関係なんだね、二人って」
「改めて言われると、確かに妙な気分だね」
キィノの臆面のなさは、男としての「照れ」がさほどないからだ。幼馴染みの姫に対して、キィノはある程度の距離と節度をもって接している。リアネイラ姫を女性として扱いながら、男である自分をさほど意識していない。
主従、と言ったが、膝を屈し、何でも命令に従うような冷たい関係ではない。
それが傍から見ていると、少々……妬けるのだ。
「……ん? あれ?」
ノーラは自分の思考の流れに、首を傾げた。
「何、ノーラ?」
「……いや、なんでも」
ノーラは慌てて首を振った。しかし眉間に皺を寄せたままだ。
打ち鳴らす太鼓のような雷鳴は、次第に遠ざかっているようだ。雨足もさっきよりは弱くなっている。
だが、あいかわらず店内は薄暗い。ランプの小さな灯りだけでは心もとないくらいだ。
しかめっ面をするノーラを見、キィノは気づかれないよう、笑みをこぼした。
好機は、生かさないと。
リィラに言ったその言葉を、今度は自分に言い聞かせてみる。
ここで挫けるわけにはいかないよね、と。
「ノーラ。あのさ」
やおら、キィノは真面目顔になって、話し出した。
雨は、もうやみかけている。
雲間から黄昏の色をした日が射し、雷鳴も、もう遠く響くだけだ。
「オレね、屋敷を出ようと思ってるんだ。近いうちに」
「へえ、そうなの? お姫さんについてはいかないんだ?」
「新婚家庭にお邪魔するほど野暮じゃないしね。……前から考えていたことだから」
まだ少し先になるが、リィラはセオさんの用意した屋敷に行く。そこに、おそらくは母親は伴うことになるだろうが、自分は辞退するつもりだ。……まだ、そのことは話していないのだが。
「屋敷を出て、どこへ? 王都を出るとか?」
「王都からは出ないよ。時々は、リィラにだって会いに行きたいし」
「じゃ街に住むの? それは、ちょっと意外な選択だったな」
「意外って、どうして?」
「キィノはさ、てっきり宮廷にでも入って、侍従長だの、事務官だの、そういうのになるもんだと思ってたからさ」
「まあ、それはそれで悪くないけど、考えてなかったなぁ、正直」
「そうなんだ。キィノってさ、宮廷の膝元にいたせいかな、あたし達とは、やっぱちょっと違ってたよ」
ふうん? とキィノは相槌をうった。もしかして自覚していたのかもしれない。ノーラは大人びた顔をする「少年」を見やる。
「キィノは、あたし達みたいなのとも対等につきあってたけど、それでいてやっぱり上流な雰囲気がいつも漂ってた。環境のせいなんだろうね」
「由緒正しい平民出なんだけどね?」
「うん、だから、環境で変わったってことだよ。ずっと上流階級の中で暮らしてたら、自然と身につくんじゃない? 本人の資質ももちろんあるだろうけどさ」
「自分じゃわからないけどね」
「じゃ、たとえばお姫さんだけど、お姫さんだって、母親は旅楽団の出で、身分的に低かったわけで、生まれは上流じゃないでしょ? でも、やっぱりお姫さんって雰囲気はあったんじゃない?」
「……う~ん、それは、まぁ、たしかに」
いかにもお姫様然とはしていないが、やはりリィラには独特の品格がある。高飛車なものではない。だが漂う雰囲気は、下町の娘とは違っている。
環境が、リアネイラを姫として育て、品位を持たせた。たしかにノーラの言うように、資質もあってのことだろう。
「だからね、そういうこと。だいたいさ、あたしがキィノに会った時の印象つったら、「上品ぶったお坊ちゃん」だもの」
「優男の烙印も押してくれたよね、たしか」
「そうだっけ? や、それは憶えてないや」
ノーラはあっけらかんと笑う。
「そういう男は、ノーラの好みじゃないんだ?」
「え?」
今日のキィノは意外性に飛んでいる。ノーラに返答を止まらせたのは、これで何度目か。
「優男」
「え、や、そりゃま、優男はそんなに好きじゃないけど、別にキィノのことじゃないよ」
「…………このお酒」
「はえ?」
あまりに唐突に話を変えられ、ノーラは素っ頓狂な声を返した。
「美味しいね。買っていこうかな。三本くらい」
「あ、ああ」
そそくさと、ノーラは立ち上がった。
突然の雷雨は、突然でもまだ予測はつく。ところが、今日のキィノときたら、通り雨よりも予測不能な言動ばかりだ。
幼馴染みの姫の結婚話が彼を情緒不安定にしているんだろうか。
「冷やしても温めても美味しいからね。今年の新酒さ」
棚から目当ての酒を取り、両腕に抱えて戻ったノーラから、まずは一本だけ受け取った。
「ありがとう、ノーラ」
キィノは立ち上がり、少し腰を屈ませたままの姿勢で窓の外を見やった。まだ雨は残っているが、ほんの小降りだ。いつやむかわからないが、足早に過ぎ去った雷雨が戻ってくることはなさそうだ。
「そろそろ屋敷に戻るよ。今夜は、こいつで夜更かしだ」
「一人で?」
「……今夜は、リィラと二人で。最後に、ね」
語り明かそう、一晩中。自分は酒に強いが、リィラの酒量は少ない。酔い潰してしまったら、また母親に叱られるだろうし、もしかしてセオドアスの顰蹙もかうかもしれない。
けれどリィラは付き合ってくれるだろう。だからその時に、屋敷を出ること、リィラについてはいけないことを、告げなくてはならない。寂しがるかもしれないけど、分かってくれるだろう。
そして、酒の席だからこその話も聞かせてやろう。
リィラは、どんな顔をするだろう。
驚いて、でもきっと、「頑張って! 応援してるね!」と言うだろう。自分がリィラにそう言ったように。
今夜の酒の肴となる彼女を見て、キィノはいたずらっぽく笑った。
ふと思いついて、ノーラは酒棚からもう一本、瓶を取り出してきた。
「キィノ、これ。一本は、あたしからのお祝いってことで」
三本分の代金はもらったが、さらに一本、キィノに持たせた。荷物は重くなったが、キィノはありがたくノーラの好意を受け取った。
今夜飲み明かすというのなら、四本位じゃ足りないだろうけど、キィノの腕はもう荷物いっぱいになっていて、とてもこれ以上は持てそうもない。
「お姫さんに、よろしく」
「うん、ありがと。それとね、ノーラ」
「うん?」
店の扉を引いて開けるノーラに、キィノは一歩だけ近寄った。身長差が、この時ばかりは口惜しい。
「オレね、王都からは出ないよ。ノーラが、街にいるからね」
「……は?」
「これから本腰入れるから」
「なん……なんのこ」
「いいよ、今はまだわからなくってもさ。オレも最近気がついたところだからね」
「や、だから」
「リィラのことが一段落ついたからかな。そろそろ自分も頑張らないとね」
「はぁ」
「今度、また一緒に飲もうね、ノーラ。とことんつきあうから」
「それは、いいけどさ」
「できれば、二人きりで」
「えー……と」
キィノは晴れ晴れと笑う。
西日がまぶしく、ノーラは手をかざしてその陽射しをよけた。それと同時に、キィノの視線をも、ついよけてしまった。
キィノの言わんとしていることがまったく解からないほど、ノーラは子供でもないし、鈍感でもない。ましてやとぼけて知らん顔ができるほど無神経ではない。
第一、何、この動悸は?
ノーラはまさかの事態に、自分で呆れるほど動揺している。……予測不能……じゃ、なかったのかもしれない、と。
「……わかった」
意を固めて、ノーラは挑むような顔をキィノに向けた。
「受けて立つよ、その勝負!」
キィノは笑う。もしかして、ノーラは、照れているのかな。
そう思うと不思議とくすぐったい。
「でもそう簡単には負けないからね」
素直じゃないような、けれど素直なノーラのその言葉が、キィノは嬉しかった。ともあれ、認めてくれたのだ。男として勝負をかけることを。
「うん。じゃ覚悟しといてよね、ノーラ」
ノーラは敗色濃厚そうな自分を、満面の笑みのキィノから感じ取って、思わずむうっと口を尖らせる。
先手を打つことに成功したキィノは、にこやかに手を振り、いずれは出る現在の住処へと、帰っていく。駆け足になって。
ノーラはしばらく店先に立ったまま、キィノの立ち去っていったほうを見つめていた。
どんなに激しくても一時的な通り雨。けれど、それは本当には一時的なものではないはずだ。
ふと、ノーラは空を仰いだ。
空にはまだ巨大な雲が横たわっている。黄昏時の陽光に反射し、まるで黄金の城のようだ。
「……負けないんだから」
ノーラは呟く。今夜はきっとお姫さんを酔い潰してしまう彼を、今度はきっと自分が潰してやろう。
そんなことを意気込む自分自身を、ノーラは笑った。
「負けないからね」
そして、ノーラがそう思っていたのとほぼ同じ頃に、キィノもそう独語していた。
突然の雷雨がもたらした好機を、ちゃんと生かせたかな?
水溜りをよけて走る足が、軽い。気分と同じくらいに。
雷雨は、もしかしてオレには幸運の先駆けなのかもしれないな。
にやついて、そんなことを思うほどに、キィノの足も心も浮かれている。
雨の匂いの残る街に降り注ぐ夕の光は、甘い美酒のようだ。
そして、その美酒を浴びて、すっかり酔ってしまった。
爽快なほど、晴れやかに。
一応、注意書き。
未成年の飲酒は、日本では法律で禁止されています。
こちらの世界では禁止されていませんので、その点ご理解ください。