あなたのために
ところどころ破れた箇所があり、全体的に薄汚れたそれは、古い魔術の書だった。
いったいどこから探し出してきたものか、リアネイラは真剣な眼差しでそれを見ている。
胡桃材の卓子に置かれた香茶は、すっかりぬるくなってしまい、香りも薄らいでいる。たった一口飲んだだけの香茶は、もはやリアネイラの眼中には入っていなかった。
リアネイラは卓子に本を広げて置き、ページが閉じないよう、重石代わりに別の小冊子を乗せた。
「……合ってる、よね?」
ひとりごち、リアネイラは手元の布に薄く描かれた図形と、本に描かれた図形とを、見比べる。
リアネイラの左手には白い綿のシャツ、右手には刺繍糸の通った針が握られている。
刺繍枠をはめた場所は、シャツの表側の左下部だ。極力目立たぬ場所を選んだのは、自分の腕に自信がないということもあったが、『護符』というものは、目立たぬようにする方が効果が高いような気がしたからだ。
リアネイラは、黙々と、針を動かしている。時々は、「あっ」とか「えっと」とか、小声をもらしたが、まだ、針を指に突き刺し、「痛っ」という声は上がっていない。
白い綿のシャツは、セオドアスのものだ。
リアネイラは、得意とはいいがたい裁縫に、かれこれ二時間ほどかかりっきりになっている。
下準備からの時間を含めると、いったいどれほどの時間をこの刺繍に費やしていることだろう。少なくとも、半日はかかっている。
昨夜、何気なく開いた古い魔術書は、リアネイラの好奇心をひどくかきたてた。とはいっても、リアネイラに魔力はなく、魔術書を読んでみたところで、魔法を使えるようになるわけではない。それはリアネイラ自身分かっていて、けれど夢見がちな娘らしく、「魔法を使えたら」と空想を楽しんだ。
書かれていた呪文らしい文字列は、リアネイラには読めなかった。説明書きだけが、母国語で書かれていたため、読み取ることができた。
魔術の歴史やその効能、また用途に応じた呪文や魔法薬の処方箋などが、ある部分は事細かに、ある部分は大雑把に書かれ、その中でリアネイラの興味を大いにそそったのは、幾種類もある魔方陣だった。
その中のひとつ、『護りの陣』が目にとまった。
そして、
「セオに、またお守りをあげよう!」、と思い立ったのだ。
かつて贈った琥珀の指輪は、その時の約束とともに、返してもらった。
だから、もう一度、今度は「わたし自身」の想いを込めたものを、セオに贈ろう。
いつも傍にいて自分を護ってくれる、かけがえのない彼ために。
刺繍糸の色は、淡い金色。
セオドアスの髪と同じ色の糸を、白い布に通していく。図形の大きさは、リアネイラの拳ほどの大きさだ。なにぶん柄が細かく、魔方陣の外枠、つまり円陣を縫うだけでも時間を食ったというのに、見慣れない魔法の文字は、一文字仕上げるだけでも時間がかかる。とにかく根気よく続けていくしかない。
「……ふぅぅっ」
一文字仕上げては、嘆息する。やっと、と安堵し、そして、まだまだ、とうな垂れる。
早く完成させたいという焦りがため息となる。
セオドアスには内緒だったから、作業は主に夜に行なった。必然的に夜更かしをすることになり、朝は遅くなる。剣術の稽古は休んだ。セオドアスは心配そうな顔をしたが、休む理由は訊かなかった。
結局、三日三晩かかって――それでも大急ぎで完成させたのだが――、護符の刺繍は完成した。明け方である。
朝日が白いシャツに施された金色の刺繍にあたり、魔方陣を浮かび上がらせているのだが、ソファーで眠るリアネイラの琥珀色の瞳には映らない。それを見ているのは、リアネイラに膝を貸しているセオドアスだった。
リアネイラが何やら内職をしているのは、知っていた。だから、何も訊かなかった。訊かずにいたが、朝、いつもならとうに起きている時間のはずなのに一向に部屋からでて来ないリアネイラを案じ、心配で、扉を開けてしまったのだ。
部屋の奥、毛布を身体に巻いてこそいたが、ソファーに座ったまま、リアネイラは眠っていた。安らかな寝息をたて、セオドアスが部屋に入って来たことにも気づかない。
セオドアスは、リアネイラが胸元に抱き寄せているそれが自分のシャツであることを、そしてリアネイラが繕ったのであろう刺繍がシャツの裾に施してあることを知り、胸を詰まらせた。
細かな模様をひと針ひと針、思いをこめて、縫い続けたのだろう。寝る間を惜しんで。
「……リィラ」
セオドアスは、リアネイラの赤みをおびたやわらかな金の髪を撫ぜる。指先にからめ、そのままそっと頬に触れる。
リアネイラはまだ目覚めない。目覚めさせるつもりもなく、セオドアスはリアネイラの身体の上に毛布をかけなおした。
やがて目覚め、リアネイラは見つけるだろう。
今までも、そしてこれからもずっと見守り続けてくれる、セオドアスの温かなとび色の瞳を。