scene.1
それは、幼い日の他愛のない約束。
小さな手の、小さな温もり。
いつまでも心に残っている、あの秋の日の――
少女にとって、それは「晴天の霹靂」で、「降ってわいた幸運」だったが、彼にとっては果たしてどのような意味をもつ出来事だったろう。
リアネイラは両手をあげて喜びそうになったがそこは堪えて、真面目顔のまま、父である国王に訊き返した。いったいどういうつもりなのか、と。
国を守る騎士団の一員であるかたわら、少女の護衛をも勤める騎士セオドアスは、玉座から離れた場所で黙然と拝跪している。
国王はいたずらな笑みを口元に浮かべ、頬を紅潮させているリアネイラと、視線を床に落としたままのセオドアスを見やった。
ここまでは予想通りの展開だ。リアネイラの反応も、セオドアスの沈黙も。
現国王は、行政、外交手腕に優れ、登極以来二十数年もの間、戦を招くこともなく、大国に囲まれながらも平和を保ち続けてきた。名君との誉れも高い。
その名君とも称される父が、娘に投げかけた「君命」はいささか意地悪なものだった。
「わ……わたしはともかく、セオはきっと困ってます。いきなり婚約しろなんて!」
王はさも愉快そうに笑って、リアネイラに応えた。
「それでは、他の男のもとへ政略的に嫁ぐほうがよいか?」
「ですから、わたしではなくて!」
この娘と面会するのは、ずいぶんと久しい。
正妃の娘ではなく、側室との間にもうけた娘で、年は十七。
亡き母よりも、自分によく似た容姿の娘だ。自分譲りの琥珀色の瞳は、鮮やかな光を含ませ、活き活きと美しい。赤みをおびた金の髪は母譲りだ。
「セオドアスであれば家柄も良く、王族を娶るに何ら支障のない身分だ。家督は長男が継いでおることだし、相続に関わる事は改めて詮議するゆえ、問題はなかろう。セオドアスに異存はあろうか?」
玉座に深々と腰かけ、今しがた側近が手渡した書簡を器用に片手で広げながら、国王は何気ない口調で、問う。
答えたのは、騎士セオドアスではない。
「父様! セオが、異存があるなどと言うはずがありません。君命には従うのが、騎士です! それをご存知でそのように言うのは、卑怯ではありませんかっ!」
娘とはいえ、国王に食ってかかるとは。
焦り、冷や汗が出そうな思いをしたのは、玉座からへだった場所で跪いているセオドアスだった。
王は口元を緩ませる。
正妃との間にも娘は二人、他の側室との間にも娘はいるが、この闊達な娘を、王は甚く気に入っている。正妃や他の血縁の者をはばかって、それを前面には出せないが。
「護衛という肩書きの他に、婚約者という肩書きが一つ増えるだけだ。それ以外のことは、リアネイラ、そなたが自分でなんとかしたらよいだろう」
「……っ!」
今度こそ、リアネイラは閉口した。
この悪戯好きな父王に、全て見透かされている。それに気がついたのは、少々遅すぎるというものだった。
ひと月前、リアネイラは十七歳の誕生日を迎えた。それを皮切りに、縁談があちらこちらから舞い込んでくるようになった。
身分の低い側室の娘ではあるが、王に認知され、しかも王宮の隅ではあるが、屋敷を与えられている「王女」だ。国王と縁続きになろうという思惑しかない縁談話に、リアネイラは心底うんざりしていた。
辟易していたが、我慢もし続けていた。
国王の血縁者である自分の立場を、リアネイラは諦めまじりに弁えていた。
そして、今朝のことだ。国王からお呼びがかかるとは予想だにせず、リアネイラはいつもと変わらぬ装いで、いつものようにセオドアスのもとへ駆けて行く。
「セオ! セオ、いる?!」
「はい、ここに」
「さーっ、今日もいざ勝負っ! じゃなくて、稽古よ!」
「…………」
セオドアスは大きくため息をついた。
リアネイラは少年のような格好をし、使い慣れた剣をその手に持っている。剣術の稽古をするのが、毎朝の日課になっていた。
セオドアスは静かな口調でリアネイラを窘めてみる。
「…………姫。剣の稽古など、姫には必要のないものです。そろそろおやめになってはいかがですか」
「必要かどうか、決めるのはわたしでしょう? わたしは必要だと思ってるから」
「しかし、姫、怪我でもなさったら」
「セオはそんなへましないって信じてるもの。それよりセオ、名前で呼んでっていつも言ってるのに。姫なんて、わたしの柄じゃないよ」
「そういうわけには」
「丁寧な言葉遣いも似合うけど、セオの自然体じゃないでしょう?」
「…………」
初めてこの姫と出逢った時も、そうだった。
物怖じのしない笑顔で、まっすぐに見つめてくる。
リアネイラは、七歳だった。そして、セオドアスは十七。
もう、あれから十年が経つ。月日の流れのいかに速いかを、この時ばかりはセオドアスも、不思議な思いとともに、感ぜずにいられなかった。
――十年前。
セオドアスは正式に騎士団員になり、その後すぐにもう一つ別の役職を与えられた。王の側室の娘の護衛役がそれだった。
「初めまして! ええっと、わたしはリアネイラ。リィラって呼んでね。あなたは?」
拝跪し、名乗ると、幼い姫は身を屈ませて、セオドアスの顔を覗き込んできた。
「セオ……ドアス? う~んと、言いにくいなぁ」
「え、は」
「セオって、そう呼んでいい?」
「は、お望みなら」
「じゃ、これからはセオって呼ぶね? よろしく、セオ」
小首を傾げ、幼い姫は笑顔を見せた。
王宮に迎え入れられたものの、自分が「王女」であるということをあまり意識していないようだった。
それは母親から受け継いだ気質のようだが、屈託のない明るさと闊達さは、父である国王に外見ともによく似ている。
惜しげなく咲く花のような明朗活発な姫が、セオドアスの仕えるべき主人となった。