闇落ち未亡人クレアの献身
私クレアは今日、愛する人と結婚する。
王都の大聖堂は、朝から華やかな空気に満ちていた。磨き上げられた白い石の床、色鮮やかなステンドグラス、壁に飾られた王国旗。貴族たちが並ぶ長椅子の間を、花びらを持った子どもたちが走り回っている。
そして、私は、純白のドレスを身にまとい、父に手を引かれながら、祭壇へと歩いていく。祭壇の前には、私の婚約者——いや、もうすぐ夫になる人が立っていた。
カイル・ヴァレンティス。王国騎士団所属の騎士。若くしていくつもの戦功を立てた実力者でありながら、驕りとは無縁の人。
カイルは、私に気づくと少し照れたように笑った。
「……似合ってる」
ぼそりと、そんな一言。思わず笑ってしまう。
「それだけ?」
「いや……その……」
困ったように頭をかく。
「綺麗だ」
今度ははっきりと言った。顔が熱くなる。普段はぶっきらぼうなのに、こういう時だけ真っ直ぐなのだ。幸せな心持ちで、笑みをこぼす。
その瞬間。頭の奥で、何かが弾けた。
——ぱきん。ガラスが割れるような感覚。頭の奥で、まるで本をめくるように記憶がよみがえる。
戦場。
炎。
崩れる城壁。
そして、血に染まった騎士。彼は、笑っていた。胸を魔族の槍に貫かれながら。
その背後で、光が爆発する。
勇者の覚醒。
魔王軍幹部の消滅。
歓声。
英雄の誕生。
そして——棺。
白い花。黒い服を身にまとう私。
私は泣いていた。いや、泣いているどころじゃない。
叫んでいた。狂ったように。
『名誉ある死です』
『騎士の鑑でした』
『王国の誇りです』
そんな言葉が飛び交う中で、私はぐちゃぐちゃの顔で、口元をゆがめる。
『……ふざけないで』
声が震える。
『ふざけないでよ』
そして——世界が黒く染まる。
王都が燃える。
勇者が剣を向ける。
『旦那さんもこんなことは望んでなかったはずだ!』
あの人に鍛えられた剣筋。その中にあの人の面影を見ながら、私は笑う。
『そんなことはわかってる』
叫ぶ。
『それでも——あの人の死を誇らしいと言った、あなたたちが許せないのよ!!』
勇者の剣が振り下ろされる。
その前に、私は、自分の胸に短剣を突き立てた。
「クレア?」
私は、はっと息を呑んだ。気づけば、まだ結婚式の最中だった。カイルが心配そうにこちらを見ている。
「顔色が悪い」
温かい手が、そっと私の頬に触れる。血まみれではない、ひとつの汚れもない、カイル。
私はゆっくりと瞬きをして、それから微笑んだ。
「少し緊張してしまっただけよ」
私の言葉に、少しほっとしたように表情を崩すカイルに、私の胸は苦しくなる。それは、愛おしさと、未来への絶望だった。
(……どうして)
自分の手を見下ろす。白い手袋に包まれた指先が、ほんの少し震えている。
(どうして、今になって思い出したの)
「……クレア?」
カイルの声に、現実へ意識を戻す。気付けば、神父がこちらを見ていた。誓いの言葉は、私の返答を待つタイミングとなっていた。
目の前にいるのは、これから夫になる人。
そして――半年後に死ぬ人。
(……嫌だ)
私はゆっくりと息を吸う。そして、いつも通りの声色で言った。
「誓います」
周囲から見れば、私は今この瞬間、とても幸せそうに微笑んでいる花嫁に見えるだろう。でも、心の中ではグルグルとした感情が渦巻いていた。
(安心して、カイル)
私は心の中で、そっと呟いた。
(あなたは死なせない)
ヴェールが上げられ、そっと近づいてくるカイルの顔を薄目で見ながら、私は目を閉じた。
◇
式は滞りなく終わり、気付けば私は教会の外に立っていた。白い花びらが、風に乗って宙を舞っている。祝福のために用意されたものだ。カイルに手を引かれ、馬車へとエスコートされる。
「おめでとうございます!」
「末永くお幸せに!」
そんな、私たちの将来と幸福を願い祝う声が飛んでくる。私は微笑んで頷きながら、その光景をぼんやりと眺めていた。
チラリと横を見ると、カイルは参列者に丁寧に頭を下げていた。相変わらず真面目な人だ。誰に対しても礼儀正しく、余計なことは言わない。少し堅いけれど、その分、信頼できる。
――だからこそ、原作の作者も、きっと使いやすかったのだろう。
「クレア」
動き出した馬車の中で名前を呼ばれ、顔を上げる。カイルがじっとこちらを見ていた。
「疲れていないか」
「いいえ」
私は首を振った。そして、いつものように微笑んだ。
「どうかした?」
「いや……」
カイルは少し言いにくそうに口を開く。
「顔色が、少し」
「そう?」
私は首をかしげる。
「自分ではわからなかったわ」
嘘ではない。むしろ、今はとても落ち着いている。
「大丈夫、少し考え事をしていただけよ」
「……そうか」
カイルはそれ以上は聞かなかった。それだけ言って、彼はまた視線を前に戻す。会話はそこで終わり。
沈黙が落ちるが、不思議と気まずくはない。沈黙が落ちても当たり前のこととして受け入れ、穏やかに過ごせる関係性は、婚約者時代から、すでに築けていた。
私たちは、クレアの猛アタック(といっても貴族令嬢としての慎み深いものだったが)によって形となった関係性だ。舞踏会で酔っ払いに絡まれていたところをカイルに助けられ、一目惚れ。カイルは「自分は口がうまくないから、楽しくないだろう」と遠慮していたが、クレアのアタックによって婚約者となった。
私は、この結婚に満足していた。だからこそ、思い出してしまった未来が、余計に厄介なのだ。
ふう、と少し息を吐く。視線を上げると、向かいに座るカイルは、相変わらず背筋を伸ばしたままだった。騎士らしい、きちんとした姿勢だ。ただ、先ほどから何度か、こちらをちらりと見ている。
(……気にしているのね)
私は少し考えてから、口を開いた。
「カイル」
「どうした」
すぐに返事が来る。反応が早いのは、この人の良いところだ。
「騎士団のお仕事は、忙しいの?」
ほんの世間話のような調子で尋ねる。カイルは少しだけ目を瞬かせた。
「忙しいと言えば忙しいな」
「そう……」
私は頷く。
「危険なお仕事も多いのかしら」
「まあ、それなりに。騎士だからな」
淡々とした答え。けれど、その声には少しだけ苦笑が混じっていた。
無口で、実直。自分の仕事について誇張もしないし、愚痴も言わない。
だからこそ、こういう人は、物語の中で死にやすい。
私は心の中で小さくため息をついた。
「クレア」
今度は、カイルの方から声をかけてきた。
「なあに?」
「さっきの質問だが」
彼は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「何か、気になることがあるのか」
「気になること?」
私は首を傾げる。
「危険な任務のことを聞いていただろう」
ああ、なるほど。
「単なる興味よ」
私は柔らかく答えた。
「騎士団のお話は、あまり詳しく聞いたことがなかったから」
「そうか」
カイルは短く頷く。
「もし不安にさせたなら、すまない」
「え?」
思わず声が出た。
「式の直前に、少し顔色が悪かったからな」
(……あら)
私は瞬きをした。どうやら、思っていたより、気を遣われていたらしい。
「心配してくれたの?」
「当然だ」
即答だった。
「君は俺の妻になったのだから」
とても真面目な顔で言われる。私は少しだけ困ってしまった。こういう言い方をされると、なんだか照れる。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫」
私はじっとカイルの顔を見て、微笑んだ。
「危険なお仕事だということは、最初からわかっていたもの」
これは本当だ。騎士なのだから、危険があるのは当然。
ただ、死ぬ未来までは、知らなかったけれど。
「それに、貴方は無茶をする方ではないでしょう?」
彼は少し驚いた顔をした。
「そう思うのか」
「ええ」
私は頷く。
「むしろ、無理をしてでも他の人を守るタイプね」
「……」
カイルは少し黙った。それから、小さく息を吐く。
「否定はできないな」
やっぱり。原作通りに進めば、この人はきっと、迷わず勇者をかばう。自分の命と引き換えでも。
(まずは情報ね)
原作の記憶はある。でも、簡単な時系列ならわかるが、細かい部分までは曖昧だ。
特に、カイルが死ぬ戦い。そして、その原因。あれが、どこで起きるのか。そこから調べないといけない。
まあ、幸い、騎士団の情報なら、一番詳しい人が目の前にいる。
「カイル」
「ん?」
「今度、騎士団のお話を聞かせてほしいわ」
「騎士団の?」
「ええ」
私は頷いた。
「どんな任務があるのかとか、どんな人たちがいるのかとか」
ほんの好奇心のように言う。カイルは少し考えてから、頷いた。
「構わない」
「ありがとう」
馬車が少し大きく揺れた。窓の外を見ると、街の中心部に入ってきている。そろそろ自宅に着くだろう。
私はゆっくりと息を吐く。まだ起きていない未来なら、絶対に変えられるはずだ。
◇
その日の夜。ヴァレンティス家の屋敷の書斎で、私は机に突っ伏していた。
「……詰んでる」
この世界は、前世で読んだ小説の世界だ。
「勇者アルトの聖剣譚」というタイトルのラノベ小説。物語の主人公は、勇者アルト。魔王を倒し、世界を救う英雄。勇者が仲間を増やし、魔王を倒し、世界を救うという王道ストーリー。
この物語はハーレム勇者ものだ。そのため、基本的に勇者の仲間となるメインキャラは女性。ただ、物語の作りこみが良く、ストーリーも面白かったので前世の私は兄から借りて読んでいた。
そして私の夫カイルは、その物語の中で、ほんの数行だけ登場する人物だ。
彼は、勇者覚醒イベントのために死ぬ騎士だった。
「ひどすぎない?」
メインキャラですらない。勇者を庇って死ぬ。それだけの役。あまりにも扱いが雑すぎる。
勇者アルトが絶望し、怒り、聖剣が真の力に目覚める。魔王軍幹部を一撃で消滅させ、勇者は真の英雄になる。
……で。残された妻の私はどうなるのか。
その死をきっかけに、彼の妻であるクレアは発狂。闇の魔女となり、王国を壊滅状態にしてしまう。
魔王戦の後、勇者アルトはクレアと戦うことになり、彼女の自害を見送ってから、王国復興のために尽力する――というところでストーリーは終了する。
「……作者、私に恨みでもあったの?」
いや、まあ、サブキャラの人生なんてそんなものかもしれない。でも、今の私は、そのサブキャラ本人だ。冗談じゃない。
私は紙に目を落とした。先ほど書いた、今後の動きが書いてある。念のため、誰にも理解されないように日本語で書いておいた。
①勇者アルト、王都の騎士団に合流
②王国遠征軍が魔王軍幹部と遭遇
③勇者、致命的な攻撃を受けそうになる
④カイル、庇う
⑤カイル死亡
⑥勇者覚醒
「……やっぱり詰んでる」
この構造、あまりにもシンプルすぎる。
カイルは勇者を庇うから死ぬ。逆に言えば、庇わなければ死なない。
しかし、庇わなければ勇者が死ぬ。勇者が死ねば、魔王は倒されない。
カイルが死なずに勇者が助かったとする。そうすると、勇者の覚醒イベントが起きない。
つまり。
「夫を助けると、世界が滅ぶ」
どうしろというの?私は頭を抱える。そのとき、扉が開いた音が耳に届いた。
「クレア?」
振り向くと、カイルが立っていた。バスローブを身にまとって、少し髪が濡れている。
「何してるんだ?」
「ちょっと……考え事」
カイルは机を覗き込んだ。紙を見て、沈黙。
「……なんだこれ」
「暗号文を考えていたの」
「暗号?」
怪訝そうな顔。当然だ。普通の人ならそう思う。カイルは少し首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、私の目元をすっと触る。
「目、赤いぞ」
「え?」
「泣いた?」
ぎくりとする。私は慌てて顔を背けた。
「泣いてないわ」
「嘘つくな」
カイルはため息をついた。そして、ぽん、と私の頭に手を置いた。
「何があったか知らないけど、俺はここにいる」
その一言で、涙が出そうになる。
だって、私は知っている。この人は、あと半年もすれば死んでしまう。しかも、自分の意思で。騎士だから、当然だと思って。
私は必死に笑った。
「ねえ、カイル」
「ん?」
「もし」
喉が震える。
「もし、あなたが死ぬ未来があるって言ったらどうする?」
カイルは少し考えた。そして、あっさり言った。
「騎士だからな。そういうこともあるだろ。誰かを守って死ぬなら、騎士としては上等だ」
私は絶句した。ああ、やっぱり。この人はそういう人だ。
だから原作でも、迷わず勇者を庇った。
「まあ、でも」
そう言って言葉を切る。そして、困ったように笑って口を開いた。
「愛する奥さんを残して死ぬなんて、嫌だけど」
私は椅子から立ち上がった。
「あなたの死、却下」
「そんなこと言われてもな」
「とにかく却下」
カイルはしばらく私を見ていた。そして、ふっと笑う。
「……変なこと言うな」
「真面目よ」
「そうか。でも、ありがとな」
「え?」
「そんなに心配してくれるなら」
彼は笑った。
「簡単には死なないようにする」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
だってこの人は、簡単じゃなくても死ぬ。それが物語だから。
私は拳を握る。
(絶対に変える)
原作なんて関係ない。勇者の覚醒イベントも関係ない。魔王だって関係ない。
この人は、絶対に死なせない。
■■■
その知らせは、突然やってきた。
「騎士団から招集?」
朝食の席で、私は思わず声を上げた。カイルはパンをかじりながら、あっさり頷く。
「ああ。今日、王都に勇者が来るらしい」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
勇者アルト。原作の主人公。平民出身の少年で、聖剣に選ばれた存在。
そして、カイルが死ぬ遠征の中心人物。
私は勢いよく立ち上がった。
「私も行く」
「どこに」
「騎士団」
カイルが目を丸くした。
「なんで」
「見学」
「見学?」
「妻として、夫の職場を知るのは大事でしょ」
カイルはしばらく考えていたけど「……まあ、いいか」とあっさり許可した。
◇
王国騎士団本部は、王城の隣にある巨大な建物だ。中庭では、騎士たちが訓練している。剣がぶつかる音。掛け声。金属の匂い。カイルは慣れた様子で歩いていく。途中、騎士たちが次々声をかけてきた。
「おうカイル!」
「奥さん美人じゃん!」
カイルは適当に手を振って返す。どうやらかなり顔が広いらしい。
「人気者ね」
「普通だ」
「嘘」
そんな会話をしていると、中庭の中央に、人だかりができていた。
その中心にいたのは黒髪の少年だ。十七、八歳くらい。背は高くない。でも、手に持っている剣が違う。
黄金の柄。白い刀身。神聖な光。間違いない、聖剣だ。勇者は聖剣が扱える者の称号。魔物はほかの人でも倒せるが、進化した魔族は聖剣でないと止めを刺せない。だからこそ、勇者しか魔王を討伐できないのだ。
「……勇者だ」
カイルが呟いた。ちらりと彼を見ると、勇者の姿を食い入るように見ている。勇者の隣には、彼のハーレムパーティのひとりである幼馴染の魔術師(美少女)がいたが、彼女の方には目を向けていないので、ちょっと安心した。まあ、カイルが浮気心を持つような人ではないとわかっているけど、心配してしまうのは妻としての本能だ。
さて、肝心の勇者は困ったような顔をしていた。騎士たちに囲まれている。
「すごいな」
「本物か」
「本当に聖剣だ」
そんな声が飛び交う中で、勇者は完全に萎縮しているように見える。
(あら?)
たしか勇者アルトは能天気なタイプで、特に緊張とかはしなかったはずだけど。そんな風に首をかしげていたら、一人の騎士が言った。
「勇者様、腕前を見せてくださいよ」
周囲がおお!と声を上げる。騎士団の面々は、他人の剣技とか力自慢とか、とにかくそう言ったのを見るのが好きなのだ。
「え、あの……」
「遠慮するなって」
突然の催しに、周囲は沸き立っている。勇者アルトは、戸惑ったように体を震わせていた。
「やめとけ」
静かな声だった。騎士たちがこちらを振り向く。
「なんだよカイル。見たいだけだぞ」
「相手は勇者様だぞ」
カイルは肩をすくめた。
「だからだ」
そして言う。
「勇者は見世物じゃない」
一瞬、空気が静まった。カイルは勇者の方を見た。
「……初めてだろ、こういうの」
勇者はこくりと頷いた。カイルは軽く笑った。
「なら今日は帰れ」
「え?」
「騎士団なんて、慣れてから来ればいい」
騎士たちが文句を言おうとする。しかし、「俺が責任取る」とカイルが言うと、誰も反論しなかった。それだけ信頼があるらしい。少年は驚いた顔をしていた。
「ありがとうございます……」
「礼はいらない」
カイルは軽く手を振った。
「勇者なんて大変だろ」
そして、笑う。
「せめて最初くらい、楽にしておけ」
ああ、この人がこういう人だから、私はカイルを好きになった。
そのとき、私の視界で、何かが輝いた。屋根の上。太陽に照らされたその場所。
何気なく目をやって、ふいに原作の描写が頭に蘇る。
魔王軍の間者が潜入し、勇者を暗殺しようとする。そして、それを防ぐために、勇者の幼馴染が——。
「カイル!!」
私は叫んだ。カイルが驚いた顔で振り向き、私の視線の先へすぐに目を向ける。
次の瞬間。屋根の上から黒い影が飛び出してきた。勇者に向けて呪いの短剣を振り下ろす。
しかし、すぐに自身の剣を抜き、投じたカイルの剣が、その胸を貫いた。
一瞬の静寂。そして、喧噪。騎士たちが一斉に動いた。
「魔族だ!」
「捕まえろ!」
私はその様子を、じっと見つめていた。手が小さく震えている。カイルが、私を労わるように、肩を優しく引き寄せた。
「……クレア」
「なに」
「なんでわかった」
私は固まった。言えない、原作知識なんて。
「……女の勘よ」
カイルは数秒、私を見ていた。そして、ふっと笑う。
「すごい勘だな」
そう言って、私の頭を軽く撫でた。
「助かった」
その言葉に、私の心は一気に沸き立った。
今、私は原作のイベントを一つ潰した。
勇者暗殺未遂事件。原作ではここで、勇者の幼馴染が彼を守り、呪いに倒れてしまう。勇者は彼女を救うために神殿を訪れ、聖女を仲間にして、薬草を求めて冒険に行くことになるのだ。
でも、私はそれを変えた。つまり、未来は変えられる。
そのとき、騒々しい空気が中庭に流れ込んでいた。その先頭に立つのは、騎士団長だ。彼はいつも以上に厳めしい表情で私たちを見た。すでに間者が運ばれた中庭で、ざわめいていた騎士団の面々は、彼のピリっとした空気に、ビシっと姿勢を正す。そして、その口から発される言葉を待った。
「魔王軍幹部が動いたとの情報が入った!」
騎士たちがざわめく。
「遠征軍を編成する!」
■■■
遠征軍の編成は、驚くほど早く進んだ。
勇者が王都に現れたという知らせはすぐに国中へ広がり、それに呼応するように魔王軍の動きも活発になったらしい。王城では連日のように会議が開かれ、騎士団は慌ただしく出入りを繰り返していた。
そして、カイルは遠征軍の一員として、勇者アルトの護衛に任命された。
当然といえば当然だった。騎士としての腕も立ち、団内での信頼も厚い。さらに、先日の魔族の潜入事件では勇者を守る形になったのだから、むしろ任命されない理由の方がない。……問題は、それが原作通りだということだ。
「そんな顔するな」
出発前の朝、屋敷の玄関でカイルは苦笑した。鎧を身に着け、腰には剣。いつもより少しだけ厳しい表情をしているが、それでも普段と大きく変わるわけではない。
私は無意識に、彼の腕を掴んでいた。
「無事に帰ってくるわよね」
「帰ってくるさ」
「絶対?」
「絶対」
迷いなく言い切る。その言葉が嘘ではないことを、私は知っている。
だってこの人は、死ぬつもりで戦場に行く人ではない。ただ、目の前に守るべき誰かがいれば、そのために体が動いてしまうだけなのだ。
「……クレア」
彼は少し困ったように笑った。
「そんなに心配なら、俺が強くなるしかないな」
「もう十分強いでしょ」
「そうか?」
「そうよ」
「そんな顔してると、こっちが不安になる」
軽く笑いながらそう言われて、私は慌てて表情を整えた。
「してないわよ、そんな顔」
「してる」
「してない」
カイルは少しだけ首を傾げて私を見つめたあと、諦めたように息を吐いた。
「まあいい」
そう言って、ふっと視線を緩める。
「心配してくれてるのはわかるから」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
この人は、本当に鈍いのか、それとも優しいのか分からない。私が未来を知っていることも、彼が死ぬ運命にあることも知らないのに、それでも私の不安を受け止めようとしてくれる。
「……ねえ、カイル」
私はふと、彼の胸元に視線を落とし、小さく呼びかけた。
「魔術って、厄介よね」
「いきなりだな」
「だって、見えているものを簡単に誤魔化せるでしょう?」
「まあ、そうだな」
「私は魔術師だから、魔術を使う魔族が出たらって考えてしまうの」
そう眉を下げると、カイルは私の頭を優しく撫でた。心から心配しているような、慰めているような、そんな仕草。これから戦場に赴く本人が、残していく妻を心配する。そんなチグハグな、でもカイルらしい心遣いに、胸が苦しくなる。
「もし戦場で、敵が幻影魔法を使ったらどうする?」
そんな問いに、カイルは一瞬だけ驚いたような顔をしたものの、すぐに真面目な表情に戻った。
「幻影魔法か。厄介だな」
「どうするの?」
「普通は本体を見極めるしかない」
それは正しい答えだった。
原作でも魔王軍幹部は幻影を使い、騎士団を混乱させる。隊列が崩れたところを突かれて、勇者に致命的な攻撃が迫るのだ。そして、騎士団の誰かが怪我を負う。この時点だと、名前も明かされていない騎士。――のちに、その騎士がカイルであったことが判明する。
私はゆっくりと言った。
「外側に目を向けた方がいいわ」
「外側?」
「手品と同じよ。注意をひいている場所じゃなくて、別のところに種を隠しておくの」
カイルは数秒、黙って私を見つめた。疑うでもなく、笑うでもなく、ただ静かに考えているようだった。やがて彼は小さく息を吐く。
「わかった」
あっさりと頷いた。
「信じるの?」
「お前の勘、当たるからな」
私は思わず目を瞬かせた。カイルは玄関を出る前に振り返る。
「帰ってきたら、続きを聞く」
そう言って手を振り、遠征軍の列へと歩いていった。遠征軍の列が動き出す。王都の城門がゆっくりと開き、騎士たちは北へ向かって進み始めた。
私はその背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
(お願い)
祈るように思う。
(生きて帰ってきて)
原作の未来なんて、全部、壊してやる。
◇
遠征軍は王都から北へ三日進み、魔王軍の部隊と遭遇した。遠見の魔法陣の中で、戦場の景色がゆっくりと揺れている。水面に映る光景のように、少しだけ輪郭が歪んでいるが、見間違えるはずがない。そこに映っているのは――私の夫だ。
剣を振るうたび、陽光が刃に反射する。鋭く、無駄のない動き。鎧の隙間からこぼれる黒髪が、風に揺れた。
「……カイル」
思わず、小さく名前を呼ぶ。もちろん届くはずはない。遠見は、あくまで“見る”だけの魔法だ。
今日の戦いは、原作ゲームでも重要なイベントだった。勇者アルト率いる部隊と、魔王軍幹部との最初の本格衝突。そして――
(ここで、カイルは怪我をする)
原作ではそうだった。戦闘の終盤、魔族幹部の奇襲。アルトが一瞬だけ対応を誤り、カイルがそれを庇う。
腹部を貫かれる重傷。死亡するわけではない。だが、この怪我が後々の展開に響き、彼の死亡ルートへと繋がっていく。
森を抜けた丘陵地帯。勇者を中心に騎士たちが円陣を組む。そこへ、魔王軍が現れ、戦闘が始まる。
最初は騎士団が押す。勇者の聖剣が魔族を切り裂き、騎士たちも連携して戦う。
だが——魔王軍幹部が現れ、幻影魔法を使う。視界を奪う霧。そして分身による攪乱によって敵の本体がどこにいるのかわからず、混乱する騎士団。
そして、その瞬間。魔族幹部が地面を蹴った。黒い影のような速度で突っ込んでくる。勇者に致命的な一撃が迫っている。
「カイルっ……」
刃が振り下ろされる。原作では、身体を使って勇者を守るしか方法がなかった。
――だが、カイルは、ワンテンポ早く動いた。ほんの一瞬の差。それだけで、魔族の刃はその身を貫かず、カイルの剣が閃いた。鋭い一撃。魔族幹部の体が大きく弾かれ、地面を転がる。戦場がざわめいた。
「……」
私は、しばらく動けなかった。胸の奥で、何かが強く鳴っている。
あの瞬間は、原作の分岐点だった。怖さと、喜びと、信じられない気持ちが混ざりあう。ぐちゃぐちゃの感情のまま、その光景を凝視した。
遠見の中で、戦闘は終わりに向かっていく。魔王軍の部隊は撤退を始め、勇者側の兵たちが歓声を上げていた。
そしてカイルは――普通に立っている。血だまりの中でもなく、仲間に抱えられるでもなく、いつもの無表情で剣を鞘に収めている。怪我は、ほとんどない。
私は思わず、魔法陣の前に膝をついた。
「……よかった」
ぽつりと声がこぼれる。
原作では、このあとカイルは重傷で数週間寝込む。その間に、物語は大きく動く。
勇者の精神的負担。仲間たちの不安。そして、カイル自身の無理。全部が積み重なって、最終的に、死亡イベントへ繋がる。
でも、怪我がないなら、あの連鎖は起きない。
「……できる」
私はゆっくりと立ち上がった。
魔法陣の光が揺れている。遠見の向こうで、兵たちが帰還の準備を始めていた。カイルもその中にいる。きっと、あと数時間もすれば帰ってくるだろう。この家に。私のところに。
遠見の魔法に映る戦場の光景は霧のように薄れ、やがて完全に消えた。
静かな家の中で、私は小さく息を吐く。ふっと、窓の外を見ると、夕焼けが空を赤く染めていた。
「……早く帰ってきて」
大きな安堵とともに、胸のうちに芽生えた、小さな疑問。
(……あの勇者、魔王軍の攻撃を把握していたような動きだったわね?)
■■■
その日の夜は、いつもよりも静かだっただ。まだ報告や後片付けがあるようで、カイルは帰宅できていない。使用人たちは遠征軍の帰還を待つ空気を察してか、足音を忍ばせるようにして動いている。
私は書斎の椅子に腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
視線の先には、机に広げた紙。そこには、必死に記憶をたどって書いた原作のイベントがびっしりと書き込まれている。
その一番上に、今日の戦いについての記述を見つける。
『魔王軍幹部戦(初戦)
→騎士一名重傷(後にカイルと判明)
→勇者、精神的に追い詰められる(伏線)』
私はゆっくりとペンを取った。そして、その記述の横に、そっと文字を書き足す。
『→回避』
たったそれだけの書き込みなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。けれど同時に、もうひとつ気になることがあった。
(……おかしい)
私は目を閉じて、あの光景を思い返す。魔王軍幹部の奇襲。あれは本来、完全な不意打ちだったはずだ。原作でも、勇者は反応が遅れ、カイルが庇うことでしか防げなかった。
けれど、今回は違った。勇者は、一瞬早く動いていた。完全に見切っていたとは言えない。だが、まるで「来ることを知っていた」かのような反応だった。
「……偶然?」
小さく呟いて、すぐに首を振る。あれは偶然ではない。むしろ――
(知っていた、に近い)
その考えに至った瞬間、胸の奥がざわついた。同じように未来を知っている存在がいるとしたら。それはつまり――
「……まさかね」
苦笑しながら、私は立ち上がった。考えるだけではわからない。ならば、調べるしかない。
◇
数日後。私は行動を開始した。とはいえ、新妻の立場でできることは限られている。堂々と騎士団へ出入りするわけにもいかないし、勇者に直接話しかけるのも不自然だ。
だから私は、もっと穏当な方法を選んだ。――噂を集める。
王都の社交界は、情報の宝庫だ。貴族たちの集まる茶会や晩餐会では、戦場の様子が尾ひれをつけて語られている。特に勇者アルトは、今や誰もが話題にする存在だった。
「勇者様はとてもお若いそうよ」
「まだ十代なのでしょう?」
「それであの強さだなんて、やはり神に選ばれたお方ね」
そんな声が飛び交う中で、私は静かに耳を傾ける。
「……あまり、女性と話さないらしいわね」
「ええ、そうなの。王女殿下がお声をかけても、ずっと困った顔をしていたとか」
「照れているのかしら?」
「それにしては……少し極端では?」
思わず、カップを持つ手が止まった。さらに別の席からも声が聞こえてくる。
「騎士団の方々とは普通に話しているそうよ」
「むしろそちらの方が打ち解けているとか」
「なんだか……変わった方ね」
私はそっと視線を落とした。
(……違う)
これは、原作の勇者ではない。原作のアルトは、典型的なハーレム主人公だった。女性に対して鈍感で、距離感がおかしくて、無自覚に好意を集めるタイプ。誰にでも優しくて、その結果としてヒロインが増えていく。
けれど、今のアルトは。
(普通の男の子だ)
むしろ逆だ。女性に慣れていない。距離の取り方が分からない。だからこそ、ぎこちなくなる。
そして――男同士の方が楽そう。それも、はっきりと伝わってくる。騎士たちと話すときの方が自然で、余計な力が抜けている。
私はゆっくりと息を吐いた。ひとつ、確信する。
(あの勇者……転生者ね)
確信の理由は、はっきりとは言えない。けれど、感覚としてわかる。
あの反応。あの性格。そして、違和感。少なくとも、「物語の中の存在」として作られた人格ではない。
もっと現実的で、不器用で、どこか居心地の悪そうな――
(……ちょっとだけ、可哀想ね)
ふと、そんな感情が浮かんだ。
原作では、勇者は特別だった。誰からも求められ、愛され、自然と中心に立つ存在。
けれど今のアルトは違う。周囲の期待に押し潰されそうになりながら、それでも必死に役割をこなそうとしている。
しかし――このままだと、覚醒イベントが起きない。
重要なのはそこだ。原作では、カイルの負傷(あるいは死)が引き金となって、勇者は覚醒する。絶望と怒り。それが聖剣の力を解放する鍵だった。聖剣の力を解放し、強化できなければ、魔王を倒すことはできない。
けれど今回、カイルは無傷で帰還した。つまりこの先、勇者は覚醒しない。
(さて、どうしたものかしら)
カイルを守ることだけを考えていた。その結果、物語の根幹に関わる部分を崩してしまっている。
私は、カイルを生存させるためなら、世界を敵に回してもいいと思っていた。それだけの覚悟で、カイルの死亡イベントをへし折った。
もし勇者が魔王に勝てなかったら、闇落ちしてラスボスになるこのポテンシャルで、カイルだけを世界から隔離して一緒に暮らしてもいいと思っていたし、なんなら魔王と裏で取引でもしようかとも考えていた。そもそも、ハーレム勇者アルトがあまり好きではなかったから、勇者の命を取引材料にしても構わないとすら思っていた。
けれど。私はゆっくりと目を閉じた。
あの戦場でのアルトの表情。怖がりながらも、必死に剣を握っていた姿。
そして、カイルの背中を見て、少しだけ安心したように息を吐いていたあの瞬間。
(……嫌いじゃないわね)
むしろ、原作の勇者より、ずっと人間らしい。
だからこそ、私は静かに決めた。
カイルを死なせるつもりはない。それは絶対だ。
でも、勇者が覚醒しなければ、世界は救われない。
なら、別の形で、覚醒させればいい。
自宅への戻り、机の上のノートを引き寄せる。新しいページを開き、静かに書き始めた。
『勇者覚醒イベント(改変案)』
インクが紙に染み込んでいく。その文字を見つめながら、私は小さく笑った。
物語は、もう原作通りには進まない。
――ならば、私が、続きを書けばいい。
◇
夜が更けても、眠気は訪れなかった。
机の上に広げたノートには、いくつもの案が書き連ねられている。どれも「勇者の覚醒」を引き起こすための仮説だったが、そのすべてに共通している条件があった。
――強い感情の揺れ。
原作では、それが「喪失」だった。仲間の死。取り返しのつかない出来事。その絶望が、勇者の中に眠る力をこじ開ける。だが、同じことは使えない。使うつもりもない。
「……だったら、“失うかもしれない”で、足りるはずよ」
完全な喪失ではなく、その寸前。
手が届くか届かないかの境界で、人は最も強く願う。
守りたいと、叫ぶ。
それが引き金になるのなら――
■■■
ある日のこと。私は街中でお店が連なる区画へ足を向けた。そして、お目当ての人物へ声をかける。
「あら?あなた、もしかして勇者様の……」
「え?あ、はい」
こちらを振り返って、私の姿を目にして慌てて頭を下げる少女に、私は穏やかに「頭を上げて頂戴」と声をかける。恐縮したように、おずおずと頭を上げた少女。あの日、勇者の隣にいた、幼馴染の魔術師だ。
「急に声をかけて、ごめんなさい。こんなところでどうかしたのかしら?」
「あっ……えっと……」
私が首をかしげて問いかけると、目の前の少女は慌てたように視線をうろつかせた。まあ、街中に彼女が買い物に出ているのを遠見で把握したうえで、わざわざこちらが出向いたのだけど。
ここはちょっとお高めの商品を扱うお店が連なっている区画だ。貴族である私がいるのは違和感がないが、平民の勇者アルトの幼馴染、つまり同じく平民であるこの少女からすると居心地の悪い場所だろう。
「何かお困りごと?」
「あの…その……」
「私には言いにくいことかしら?…あ、自己紹介してなかったわね。クレア・ヴァレンティスよ」
そう名乗ると、彼女は聞きなれた家名にちょっと安心したように息を吐いた。
「……ヴァレンティス?あの、もしかして、カイル・ヴァレンティスさんのご親族ですか?」
「カイルは私の夫だけれど」
「!奥さんなんですね!」
「ええ、夫の職場で貴女のことを見かけていたものだから……つい声をかけてしまって」
ごめんなさいね、急に話しかけられて怖かったでしょう?と苦笑すると、彼女は慌てて否定した。
「そんなことないです!あの、ただ貴族様に何か自分がやらないかと思って、ヒヤヒヤしちゃっただけで……あっ、私ルージュです!アルトの幼馴染で、魔術師をしてます」
「ええ、よろしくね、ルージュ様」
「!様なんてつけないでください!すごいのはアルトで、私は一般人なので!」
「そう?でも、勇者様と一緒に戦ってくれてるんだから、敬意を持たないと…」
困ったように笑うと、ルージュは慌てたように「呼び捨てにしてください!」と言う。まあ、貴族に敬称をつけられるなんて、彼女からしたら生きた心地がしないだろう。目の前の少女が拒否することを見込んで敬称を付けていたので、彼女の意向を汲んだことにして、予定通り敬称なしで呼ぶことを了承する。
そのまま、この区画にいる理由を尋ねると、どうやら勇者アルトへのプレゼントを買いたいらしい。あともう少しで彼の誕生日なのだという。
「まあ、それで大切な贈り物にしたい、と」
「はい…アルト、頑張ってるから。何か特別なものを贈りたくて。でも、何がいいかわからなくて、悩みながら歩いていたら、ここまで来ちゃって」
「特別なもの……そうね、ルージュは魔術師だから、魔力を扱うのは得意でしょう?魔力を石に籠めたペンダントとかどうかしら?」
「石に?そんなことできるんですか?」
驚いたように私を見るルージュに、逆に私も驚く。魔術師なら当然習う術のはずなんだけど。……ああ、そういえばルージュは攻撃魔法に特化していて、師匠もそのタイプだったはず。そもそも魔力も高かったから、補助的に使う魔法石については習わなかったのかもしれない。
「ええ、魔力を宝石に籠めることで、そこに籠めた魔術を発動させることができるのよ。魔力が少ない人が、いざというときのピンチのときに使えるようにストックしていたりするわね」
「そんなことができるんですか……」
「よければ、私の家で手ほどきしましょうか?魔法石にするには、宝石も厳選しないといけないの。私の家には厳選済みの宝石もいくつかあるから、貴女にプレゼントするわ」
「!そんな、そこまでしていただかなくても……!」
そういって恐縮する彼女に、「いいのよ」と微笑む。
「恋する乙女には、手助けしないとね」
「!恋っ!?あ、あの……!」
ボンッと頬を赤く染めた彼女の背を押し、我が家への道を進む。
(想いを込めたプレゼントで、勇者アルトとの関係を一歩、進めて置いて頂戴ね)
貴女との恋路の発展が、世界を救う鍵となるんだから。
■■■
2週間後。騎士団には、新たな任務が下されていた。
魔王軍の小規模拠点の制圧。規模としては先日の戦闘よりも小さいが、敵は魔王軍幹部の配下であり、油断できる相手ではないとされている。
そして、そこには当然――勇者アルトと、カイルの名もあった。
私は遠見の魔法陣を展開しながら、静かに息を吐く。遠見の中では、すでに戦闘が始まっていた。
崩れかけた砦の跡地に、乾いた風が吹き抜ける。瓦礫の影から次々と現れる魔物や魔族に対し、騎士たちは隊列を崩さぬよう踏みとどまり、剣を振るっていた。
中央には勇者アルト。そのすぐ傍には、ルージュの姿がある。ルージュは何度も大魔術を使って周囲の魔物を一掃している。それでも、途切れることなく送り込まれる魔物たちに、苦しそうな表情をしていた。
そんな彼女の想い人である勇者アルトの胸元には、ルージュからプレゼントされた魔法石のペンダントが輝いていた。
(……やっぱり)
間違いない。アルトは、ルージュを守るように立っている。
戦況を見ているようでいて、視線の端は常に彼女を追っている。危険が近づけば、わずかに体がそちらへ傾く。ほんの小さな仕草だが、遠見越しでもはっきりとわかるほどだった。
――この勇者は、あの子が一番大事なのだ。
原作のアルトとは決定的に違う部分だった。
ハーレムを築く勇者ではない。誰にでも優しく、結果として全員を救おうとする存在でもない。
ただ一人。守りたい相手がいるだけの、普通の少年。
私は静かに息を吐いた。
(だったら、やることは一つね)
勇者の覚醒を引き出す方法。その答えは、もう目の前にあった。
戦場の空気が変わる。魔族たちの動きが、わずかに揃った。統率の取れた動き――つまり、指揮を執る存在がいる。
やがて、その主が姿を現した。
人型に近いが、明らかに異質な気配を纏った魔族。手にした武器から、禍々しい魔力が滲んでいる。
騎士たちの緊張が一段と高まった。アルトも剣を握り直す。その隣で、ルージュが息を呑んだ。
(来る)
私は遠隔魔法を展開し、意識を集中させた。
直接的な干渉はしない。ただ、ほんのわずかに――流れを整える。
魔族が踏み込んだ。狙いは勇者。だが同時に、もう一体が回り込む。
視界の死角から、ルージュへと迫る影。不自然ではない。戦場ではいくらでも起こり得る展開だ。
そして、アルトは、その瞬間に気づいた。
「――危ない!」
反射的な声だった。彼女の前へと飛び出し、剣を振るう。
ガキンっ!と甲高い衝突音が響いた。魔族の一撃を、かろうじて受け止めている。だが体勢は不安定だ。苦しい表情で、ぎりぎりと剣を押しあっている。
(――ここ)
私は、ルージュの足場を、意図的に崩した。
「―――えっ!」
短い悲鳴とともに、ルージュの身体が虚空へと投げ出される。彼女の小さな身体は、大きな抵抗をする術なく、崖下へと消えていく。
背中にあった存在の消失に、アルトは一瞬意識がそれた。その隙を、正面の魔族が見逃すはずがない。
アルトの目が見開かれる。
迫る刃。逃げ場はない。
けれど――彼は、退かなかった。
「……っ!」
喉の奥で、声にならない声が漏れる。
それでも。それでも彼は、そこに立つことを選んだ。
その瞬間。聖剣が、光を放った。
今までとは明らかに違う輝きだった。
まるで意思を持つかのように、光が膨れ上がる。
アルトの身体を包み込み、そのまま剣へと収束していく。
守りたい。絶対に失いたくない。
ただ、それだけの――強い願い。
「うあああああああ!!」
叫びとともに、剣が振り下ろされた。
光が弾け、空気が震える。
魔族の身体が、大きく吹き飛んだ。そのまま地面に叩きつけられ、動かなくなる。
静寂が訪れた。アルトは息を乱して剣を地面に突き立て、崩れ落ちる。そして、愛する少女が消えた崖下を呆然と見ていた。
「……ルー、ジュ」
小さく呟いたその言葉は、絶望しかなかった。周りの騎士たちも、何の言葉もかけられず、痛ましく彼を見ている。
(……少し、やり過ぎたかしら)
ほんのわずかに、申し訳なく思う。
お目当ての人物の様子を見てみると、気を失っていた。あら、ダメージはなかったはずだけど。まあ、この高さから落ちれば無理ないわね。でも、今起きてもらわないと困るので、そっと魔力を指に這わせて術を行使する。
ぼんやりと目を開けた彼女は、ちょっとの間を開けて、ガバッと起き上がった。そのまま上を見上げて声を上げる。
「アルトー!!!!無事ー!?」
崖の下から響く、ルージュの声。その声を聞いて、アルトは伏せていた顔をハッと上げた。
「ルージュ……ルージュ!!!大丈夫か!!!」
「大丈夫ー!でももうクタクタで、飛翔の魔術使えないの!悪いけど、ロープか何かおろしてくれるー?」
「下すっ!すぐ、すぐ下すから!!!」
泣きながらそういうアルト。周囲にいた騎士たちも、「すぐに準備する!」と慌ただしく動き始めた。そのままロープで彼女を引き上げる。その姿が見えると、周囲に歓声が上がった。
「……大丈夫か」
アルトは掠れた声で、幼馴染に問いかける。少女は目を潤ませながら、何度も頷いた。
「うん……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、アルトはルージュを強く抱きしめた。
私は、そこでようやく息を吐いた。
(……成功だわ)
胸の奥に溜まっていた緊張が、一気にほどけていく。
カイルの姿を探すと、少し離れた位置で、周囲を警戒しながら戦況を見ていた。危険な位置にはいない。無理に前へ出てもいない。――巻き込まれていない。
その事実に、全身の力が抜けた。私はその場に座り込む。
「……よかった……」
震える声が、自然とこぼれた。
原作で必要だった「カイルの犠牲」は、もう必要ない。
◇
夕方。玄関の扉が開く音に、私ははっと顔を上げた。
廊下を抜けて、玄関へ。そこに立っていたのは、いつも通りのカイルだった。少しだけ疲れた顔をしているが、それでも――無傷だ。
その姿を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……おかえりなさい」
声が、少しだけ震える。
「なんだ、その顔」
「どんな顔よ」
「安心した顔」
図星だった。私は思わず視線を逸らす。
「別に」
「そうか」
それ以上は何も言わない。けれど、私の方へ手を伸ばし、髪をそっと手に取る。
「ただいま」
目を細めて、穏やかにそう言うカイルに、私はぎゅっと抱き着いた。
◇
居間に移り、向かい隣り合って座る。いつもと同じ光景。それが、どうしようもなく愛おしい。
「……勇者がな」
カイルがぽつりと言った。
「少し変わった」
私は顔を上げる。
「変わった?」
「ああ。前より、迷いがない」
短い言葉だったが、その中に確かな評価があった。私は小さく息を吐く。
「そう」
それだけで十分だった。
「ああ、それと。勇者の幼馴染――ルージュからの伝言だ。浮遊の魔法石をプレゼントしてくれて、ありがとう、と」
「まあ、もしかして、浮遊の魔法石を使ったのかしら?」
「ああ、崖から落ちたが、魔法石が発動したことで怪我ひとつしなかったそうだ」
あの日。勇者アルトへのプレゼントに魔法石を作ろうと我が家に招待したときに、私は彼女に手本として、浮遊の魔術を籠める様子を見せた。そして、作成した魔法石を彼女へプレゼントしたのだ。「お守り代わりに」と。そう言えば、彼女が必ず身に着けるだろうことは、わかっていた。もちろん、確実性を上げるために、身に着けておきたいと思うように思考誘導の魔術も少し使ったけど。
「役にたったのならよかったわ」
「クレアがそこまで魔術に長けているとは思わなかったな」
「あら、カイルにもお守りあげてるでしょう?」
「……あれも魔法石か?」
「ええ、怪我の治りが早くなるように魔術をかけているわ。本当は、怪我をしない防護の方がいいけど、それだとすぐに使い切って魔術が切れそうだったから」
私がそう言うと、彼はお守りを入れている胸元を静かに触った。そして、私の肩を静かに抱き寄せる。私は、彼の胸元に顔をうずめて、すうっと息を吸い込んだ。
しばらくの沈黙のあと、私はそっと顔を上げて、彼の頬に手を伸ばす。ぴくり、とわずかに動く。けれど、振り払われることはなかった。
「……どうした」
「無事でよかったって、思っただけ」
カイルは少しだけ目を細める。
「大げさだな」
「そう?」
「これからも、無事で帰ってくる。……クレアのお守りもあるし」
そう言って、肩をすくめた。その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
原作では――当たり前じゃなかった未来。けれど今は違う。
「……ええ」
私は指先に少しだけ力を込めた。
「これからも、そうして」
カイルは一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、小さく息を吐いた。
「努力する」
ぶっきらぼうな返事。でも、それで十分だった。
物語は、もう私の知っているものとは違う形で進み始めている。
けれど、それでいい。結末なんて、誰かに用意されるものじゃない。
守りたいものがあるなら――自分で、そこへ辿り着けばいいだけだ。
私はそっと目を閉じ、カイルの温もりに身を預ける。
この人が、ここにいる。だったら大丈夫。
どんな未来でも――全部、私が書き換えてみせる。




