25話 梟の慟哭
どれほどの時間が経ったのか分からない。
森の暗さや大魔法の残滓で、もはや昼や夜も分からない。
一睡もせずに駆け抜けられたから20時間ほどかもしれないが、もしかするともっと短い、あるいは侵攻にかけた日数を考えるなら数日走り続けたのかもしれない。
アリン村についたとき、他部隊も合わせて千はいただろう王国軍は20を切るほどであった。
レノは第1の護衛を都合よく使い、なるべく多くの隊員を救いながら撤退したつもりだったが、結局は第9ですら20名も残らなかった。いや、逆に第4、第6は一人も残らなかったのを考えると、奇跡の生還と言える。
だが、余りにも悲しすぎる奇跡だった。
「レノ、、、メラがいない。」
レノに遅れて到着したゾラとラナがアリン村を一周して戻ってくると、そう言ってレノの前で立ちすくんでいた。
「俺、探しに戻る」
「ダメだ!!」
森へと歩き始めたゾラの腕を震える手でレノがつかんだ。
「すまない、これは僕の責任だ」
「謝んなよ!!お前が謝ったら!!誰が!!誰のために…!!
おいレンジ、お前強いんだろ、一緒に、戻ってくれないか。俺の、大事な親友なんだ。頼む。」
そう言って泣き崩れるゾラを前に、レンジはタケルを見た。タケルの指示があれば行くのだろう。
だからこそ、最悪のタイミングでアリン村に設置された軍用通信機は音を鳴らした。
『……こちら……暫定司令部……リンドブルム侯爵……』
生き残った隊員たちが、一斉に通信機に注目する。王都が消滅した今、誰が何の法に基づいて指揮を執っているのかは不明だが、とにかく「上」からの指示だ。
救援か、撤退ルートの指示か。
誰もが蜘蛛の糸にすがる思いで耳を澄ませた。
『……戦況は……決定的である。これ以上の……抵抗は無意味だ……』
スピーカーから聞こえる声は、ひどく無機質に聞こえた。
『……全軍に通達。直ちに戦闘を停止、武装解除せよ。我々はエルフ軍に対し、無条件降伏を受け入れた……』
時が止まった。 武装解除。降伏。
「ふ、ざけんな……!」
ゾラが呻くような声を上げた。何のための撤退戦だったのか、何のための闘いだったのか。
まして獣人にとって、エルフへの降伏は意味が違う。 エルフの獣人差別は一層過激なもので、捕虜になれば、良くて奴隷、悪ければ実験のモルモットだ。
特に、エルフを殺し回ったこの部隊の末路は、死よりも凄惨なものになるだろう。
『……繰り返す。直ちに武装を解除し、エルフ軍の拘束を受け入れよ。抵抗する者は反逆罪とみなす……』
「レノ!」 バムが叫んだ。老兵の彼でさえ、顔色が蒼白だ。「従えば、我々は……!」
レノは無表情だった。ただ静かに、通信機をそっと手で抱えた。
隊員たちの目に絶望の色が浮かぶ。 この人は、あくまで軍人だ。
これまでも非情な作戦を遂行してきた、「死神」だ。
ーーガシャリ、グシャッ。
乾いた音が響いた。 レノが、通信機を地面に落とし、その軍靴で粉々に踏み砕いた音だった。
「あ」 誰かが声を漏らす。
レノは靴底についた破片を払い、わざとらしく肩をすくめた。
「悪い、手が滑った。それに安物の通信機だったからな、ノイズが酷くて何も聞こえなかった。そうだろ?」
レノが隊員たちを見回す。
その瞳に宿っていたのは、諦めでも忠誠でもない。仲間を見つめる、温かい目だった。
「め、命令は……聞こえませんでした!」 ミラが即座に反応した。
「ああ、聞こえなかっ」
その瞬間、レノの首をめがけて白い閃光がまたたき、上からは灼熱の花びらが散った。
だが、いずれも届かなかった。
一瞬で凍り付いたからだ。
「この事態を我々は看過できない。あの情報の真偽に関わらず、明確な軍法違反だ。だが、レイカもレンジも手を出すのが早すぎる。」
口を挟んだのはタケル=グレンフィールだった。
「俺もやりたくないけどなぁ、こいつは明確な軍法違反だぜ」
「いや、あの放送が本物であるかどうか分からない以上、通常の命令とは異なる」
タケルとレイカ、レンジのにらみ合いが続く。
「我々第1は王都に向かい、事態を確認する。
それが事実と確認できれば、その時点で第9に帰順を呼びかけ、従わなければ追討する。それまでは手を出さない。それでどうかね」
「ちっ、まぁいいか。どの道、あの化け物ーーじゃねぇや、ヤマトがくたばるわけないし、まずは合流するか。」
「ねえ、お腹すいたってば」
「……というわけで、レノくん。僕たちは王都に戻る」
タケルは馬に乗り、振り返った。その瞳には、複雑な色が混じっていた。
「君が選んだ道は、茨の道だ。だが、君ならあるいは……。次に会う時はきっと敵同士だが、君の武運を祈っているよ」
「あー、クソッ。面倒くせえ」
レンジが舌打ちをして、レノの足元に何かを投げた。
高級な火炎魔石だ。 「凍え死ぬ前に使え。……死神サンが凍死じゃ笑えねえからな」
レイカは何も言わず、じっとレノを見つめた後、興味を失ったように視線を逸らした。
そうして3人は王都の方向に向けて、馬に乗り込む。
タケルとレイカが早々に馬を走らせ始めたが、レンジは数歩歩むと止まった。
「ああ、そうだ。メラって眼鏡かけたやつか?そいつなら、死んだよ。矢で致命傷だった。」
そういってレンジは馬を駆け出した。
ゾラは、何も言わなかった。本当に探しに戻れば被害が拡大することは、間違いなかった。
ノーリスクで探しにいける戦力が離脱する以上、誰かが汚れ役を引き受けなければいけなかった。
諦めがつくように、たとえそれが嘘でも。
ゾラの慟哭が夕暮れに吸い込まれて消えていった。
ーーそれから数刻。レノは24時間はアリン村で撤退してきた仲間を待つことを決めると、懐から地図を取り出し、広げた。そこには王都への帰還ルートではなく、西に聳える峻厳な山脈が記されていた。
「降伏すれば、俺たちは家畜以下の扱いを受ける。だが、もう世界に味方はいない。エルフとヒト族の包囲網をかいくぐるなら、道は一つしかない」
レノの指が、地図上の「白き死の山脈」をなぞり、その先にある中立地帯を指した。
「エルフも追いたがらない死地を抜けて、この地上で唯一の獣人国家、自由部族連合を目指す」
静寂は一瞬だった。 ゾラが、バムが、ラナが、そして全員が、獰猛な笑みを浮かべて武器を握り直した。
「了解、ボス。地獄の底までついていくよ」
第9大隊ペシェシュエットは、この瞬間、太陽王国軍であることを辞めた。森の冷気が一段と厳しさを増している。それはエルフの魔術による気候操作か、あるいは単に夜が近づいているからか。
レノは倒木の上に地図を広げ、魔石灯の頼りない明かりを当てた。隊員たちが息を殺してその周りを囲む。
「現状を確認する。第4、第6は壊滅的な被害だ。王都に残る第1と第2、ネシア商業都市に展開する第3と第5、ヒライ要塞を守る第7、セキフ平原で巡回している第8。この中で友好的に接することができる可能性があるのは、第7だが…」
「何か不安でも?」
ミラが首をかしげる。
「おそらく敗退した可能性が高い」
「カイヤ大隊長が、ですか?」
「この逆侵攻作戦が無謀とはいえ、王都が落ちるなんて本来ありえない。中央のセキフ平原、西のネシア商業都市で圧勝しているからだ。
となると、少なくともヒライ要塞で何かがあったと考える方が自然だ。
だから、これから先、友軍に出会うことは期待できない。」
そうしてレノの指は、地図上の等高線が密に重なるエリアをなぞった。
「生き残るルートはただ一つ。東の山脈『シルブレット』を越える」
その名を聞いた瞬間、隊員たちの間にどよめきが走った。
シルブレット山脈。標高4000メートルを超え、年中猛吹雪が吹き荒れる「白き死の山」。
ドラゴンの生き残りがいるとか先代魔王を裏切って魔王城エクリプスを占拠している有翼族の昔の本拠地があるとか言われ、どんな軍隊ですら迂回する天然の要塞だ。
「正気じゃない……」 ラナが青ざめた顔で呟く。
「あそこは装備が万全でも遭難するわ。今のボロボロの装備で挑めば、凍死か滑落死が関の山よ」
「その通りだ」 レノはあっさりと肯定した。
「正直、全滅の可能性すらある」
絶望的な話に、沈黙が落ちる。しかし、レノは淡々と続けた。
「だが、平地でエルフに捕まれば生存率は0だ。
それに、エルフたちも『あんな死に場所を生きて越えられるはずがない』と考える。
だからこそ、追っ手の数も減る。」
レノは顔を上げ、部下一人一人の目を見た。
獣人、犯罪者、はぐれ者。
社会から弾き出された彼らの瞳に、恐怖と、それ以上の期待が灯っているのをレノは見逃さなかった。彼らは「死神」の采配が起こす奇跡を、どこかで信じている。
「俺は賭けが好きだが、負ける賭けはしない。山越えの準備として、エルフの物資集積所を一箇所襲撃し、防寒具と食料を奪う。その後、一気に雪線まで駆け上がる」
レノは落ちていたサーベルを拾い上げた。
「ついて来れない奴は置いていく。だが、ついて来た奴は俺が必ず『自由』な場所まで連れて行く。……どうする?」
最初に動いたのは、部隊最年長のバムだった。 老兵は愛銃の手入れをしながら、シワだらけの顔でニカっと笑った。
「孫娘の仇も討てねぇまま、エルフの奴隷になるのは御免だね。それに、雪山なら俺の猟師としての腕が役に立つ」
「俺も行く」 ゾラが拳を突き上げる。
「仕方ないわね……凍傷になるまえに言いなさいよ」とラナ。
「補給計画、練り直します」とミラ。
レノは口元だけで笑った。
「契約成立だ。まずはエルフの倉庫でショッピングと行こう」




