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1話 梟の罪(ペシェシュエット)

冷たい雨は、泥濘ぬかるみで彼らの足取りを重くしたが、血の匂いが流れて気分は幾分か軽くしてくれた。


太陽王国の南方にしてエルフ族の森羅シルフヴェール帝国との国境線に位置する辺境アリン村。

本来は最初の防衛ラインとなることが想定されていたが、突然の大規模侵攻が開始されて僅か数刻、既に「防衛」の体を成していなかった。


前衛部隊を務める第8大隊はあろうことか兵を展開するまえに塹壕を突破され、エルフ族の放った魔法砲撃によって大地は耕された畑のようにひっくり返されている。


「ひ、退けっ!撤退だ!馬車はどこにある!逃走経路の地図はどこにあるか!」


豚の悲鳴に似た声が、雨音を切り裂いた。 声の主は、第8大隊長にして防衛拠点の司令官であるオルグ少佐だった。決して獣人族ではないのだが、なんとも喋り口は豚を彷彿とさせる。


彼とその取り巻きは泥で汚れるのを嫌うかのように、戦場には不釣り合いな豪奢な馬車に乗り込み、逃走の準備を始めていた。


しかし、残存兵どころかアリン村の村民の退避すらろくに指示できておらず、人々は四方八方に逃げまどっている惨状だ。南部での巡回訓練中だった第9大隊は緊急事態を悟って急行したものの、余りにも杜撰な第8の指揮に苛立ちはピークに達していた。


「おい、民間人への指示や俺たちへの情報共有はどうなってんだ!」


第9大隊の一人、虎の獣人である青年が吠えた。 オルグ少佐は馬車の中から侮蔑のこもった視線を投げる。


「ああ、忘れていた。ようやく援軍が来たかと思えば、貴様ら、『梟の罪ペシェシュエット』だろう。

名誉ある任務を与えよう、ここに残り、殿しんがりとして友軍の撤退を支援しろ。玉砕を許可する!」


「ふざけんな!俺たちは訓練用兵装でろくに武器も食料も持っていないんだぞ!」


「獣ならば爪と牙で戦えるだろう! ……行け、早く出せ!」


少佐の一行は、泥を跳ね上げて去っていった。 残されたのは、絶望を悟った沈黙と、降り止まぬ雨音だけ。


第9大隊の兵士たちは、獣人族や後ろ暗い過去を持つヒト族たちの混成部隊で、しばしば「懲罰大隊」とも揶揄される。


誰もが社会からつま弾きにされ、この部隊へ流れ着いた。だが、だからといって無駄死にを受け入れるほど、彼らは諦めきってはいない。 怒りと混乱が広がりかけた、その時だった。


「……あーあ。雨でコーヒーが冷めちゃったな」


場違いにのんびりとした声が、塹壕の奥から聞こえた。 兵士たちが振り返ると、天幕の下、折りたたみ椅子に深々と腰掛けた青年が一人。 黒髪に黒目、線の細い体躯。軍服は着崩され、どこか気だるげな雰囲気を纏っている。


手には安物の金属製のマグカップ。中身は泥水と大差ないような粗悪な支給品のコーヒーだ。 第9大隊長に異例の若さで就任したレノである。


「レノ! 茶なんか飲んでる場合かよ! エルフの先鋒まで距離3000だぞ!」


「うん、知ってる。スキルの認知範囲に入った。あとお茶じゃなくてコーヒーね。」


レノはあくびを噛み殺しながら、マグカップを置いた。


彼のジョブは「守護者ガーディアン」。 本来は要人警護や拠点防衛に特化した防御型のジョブで、殆どがジョブ「戦士」または「獣戦士」を授かる獣人にとっては珍しいが、ヒト族ではそれほど目を引くものでもない。


華々しい攻撃魔法も、敵をなぎ倒す武術も持たない、地味なジョブである。軍事学校では「壁役」と嘲笑されることも多い。


「総員、傾注。これより第9大隊は平時軍法ではなく戦時軍法に従い行動する。」


レノの声は大きくなかったが、不思議と雨音の中でもよく通った。


「あの豚少佐の命令は『殿しんがりとして友軍の撤退をサポートする』だったかな」


レノは立ち上がり、泥まみれの部下たちを見回した。


「平時なら階級に従うから少佐の指示は聞かなきゃいけないんだけどね、戦時軍法では各大隊長は同列の指揮権を有する。自由にやって、生きて帰ろう」


「どうやってだよ!すでに塹壕は突破されて、もうすぐ包囲されるんだぞ!」


「ミラ、準備は?」


レノはどこからか上がった怒号を無視して、塹壕の端に立てられた一本のボロボロの軍旗の下、傍らに控える副官に問うた。


黒髪をきっちりと結い上げ、氷のような表情を崩さない美女、ミラ。一見すると彼女はヒト族のように見えるが、小さな猫耳だけが獣人であることを示している。


「民間人はメラとラナが先導し、西側への退避を開始しています。」


「よし。じゃあ、作戦開始だ。……総員、武器を捨てて第8の死体に紛れて泥の中に伏せろ。息が持つやつは水没した塹壕に潜れ。俺が指示をするまで、呼吸すら止めるつもりで。」


「はあ!? 正気か!?」


「エルフに捕まるよりマシだと思うけどな。」


獣人たちはしぶしぶと、泥水の中へと身を沈めていった。

やがて、大雨で隠れた靄の向こうからエルフ軍の精鋭部隊が姿を現した。

美しい銀の鎧、整然とした行進。彼らは魔力を纏い、圧倒的な威圧感を放っている。


見つかる。殺される。兵士たちが死を覚悟した瞬間――。

ブォン、と低く小さな音が響いた。レノは指先一つ動かさず、スキルを発動させた。


――ジョブスキル:<挑発ヘイトコントロール>および<防衛結界プロテクション>。


どちらも基本的なスキルだ。挑発は注目を自然と集める、防衛結界は一定の魔力・物理力を弾く。それだけだ。


ただし、レノはそれを自分自身にかけたのではない。 対象は、街のさらに後方。豚少佐が逃げていったルート上に残された、一本の「案山子かかし」に対してのヘイトコントロールと豚少佐の上空への防衛結界だった。

恐る恐る村へと進駐してきたエルフたちの知覚を強引に捻じ曲げる。


「北方の距離4000に敵影確認!後方へ撤退中!」


「逃がすな! 追え!」


エルフ軍の指揮官が叫ぶ。彼らの目には、泥に伏せた数百の兵士が見えていない。

いや、視界には入っているはずだが、脳が「脅威」として認識しないのだ。彼らの意識は、レノが作り出した「逃走する敵主力」に釘付けにされていた。


泥に伏せた背中を、硬い軍靴が踏みつけていく。泥水に顔を埋めたひとりが、痛みに声を上げそうになったが、口を泥に突っ込んで押し殺す。頭上数センチを、死の行軍が通り過ぎていく。


心臓の音すら敵に聞かれそうな静寂と、爆音のような足音のコントラスト。ドカドカと、獣人たちの背中の上をエルフの軍靴が通っていく。


兵は千人超はいただろうか。息を殺す獣人たち。たった 数分が数時間にも感じられる。急速に体温が冷えていくのを感じる。エルフ軍の後衛までが完全に通り過ぎ、オルグ少佐が逃げた方向へと殺到していった。


「……ふあ」


静まり返った村で、レノが大きなあくびをした。呆気にとられる部下たちを尻目に、レノは地面に転がっているマグカップを再び手に取る。 死神レノ。 味方を餌にすることにすら躊躇のないその指揮官は、薄く笑った。


(ヘイトコントロールってせいぜい半径2~30mだよな、さっき距離4000って言ってたぞ…)

獣人の一人がボソッと呟く。


「よし、あの豚少佐がエルフに食い散らかされる前に、後方から奇襲をしかけるよ。」


豚少佐というネーミングに皆がクスクスと笑うなか、ミラが問う。


「スキルの誘導があったとはいえ、どうして村の支配よりも逃走する部隊への追撃を優先したのでしょうか。」


「お、いい質問だね。敵は奇襲にも関わらず、千人を超える連隊規模だ。つまり、周到に用意された侵攻作戦。エルフ族の指揮官にとっては、軍事拠点の確保、敵主力の撃滅を優先するはずだ。


少なくとも村民の残っていないアリン村に駐屯という選択肢はないんじゃないかな、その意味でも、村民の避難は必須だった。」


「とはいえ、全く見張りも残さないのは予想外ですね。短期決戦狙いか、よほど食料が充実しているのでしょうか。」


レノの解説にミラが考え込む。


「レノ、ミラ、いいから、さっさとやろうぜ。まぁわざと遅れて、あの豚少佐が散々に逃げているところ見るのもいいけどな」


トラの風貌をした、右手に大きな斧を抱える若い獣人ーーゾラが割り込む。


「う~ん、こういう戦術をみんなが理解するのも大事だと思うんだけどな。そうだね、行こう。」


風が吹き抜ける。ボロボロの軍旗がバタバタと音を立てて揺れ、そこに映る黒い梟が戦場を見下ろしていた。


全3部作を予定しています。

第1部30話は本日から毎日1話以上の更新を予定。

X(Twitter)@kuroneko_renjiでも投稿しています。


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