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第五章『春宵』

 夜を割って差し込む薄い光が、ライブハウスの埃を金色に浮かせていた。

 誰も口数は多くない。耳鳴りはまだかすかに残り、身体は重たいまま――それでも出発の準備は進む。俺は荷を背負い直し、皆を見回した。


「出発する前に、ひとつ見せたいものがあるんだ。地下の扉の件なんだけど……」


 短く言うと、全員が顔を上げる。ためらいはあったが、うなずかなかった者はいない。俺が先に立ち、昨夜の鉄骨階段を降りていく。きしむ音。湿った空気が肺にまとわり、冷たい予感が背骨をなぞる。機材庫の奥――例の鉄の扉は、朝でもやはり黒く重かった。


「開けるぞ」


 押し開けた瞬間、鉄と血の乾いた匂いが吐き出される。

 狭いが、明らかに書斎と呼ぶべき空間。スチール棚に押し込まれたファイル、論文の束。机の上には黄ばんだ紙……だがほとんどが、血で貼り付き、干からびて固着していた。


「このライブハウスって、確か新しい建物でしたよね? どうしてこんなのが……」


 柊が息を呑む。


「あぁ、オレ様の情報は間違いねェよ。にしたってライブハウスの地下に書斎か……センスがないな」


 仁が舌打ちまじりに笑う。

 桃は毛布をぎゅっと握り直し、俺の袖の端をつまんだ。希望はその陰に隠れて、そっと周りを覗く。

 リナは顔を強張らせつつも、机の紙片を冷静に確かめた。


「やはりどれも、開きませんわ。無理に剥がせば粉になります」

「保存処置の薬品もないしね。ここでいじるのは危険だ」


 虎杖先生が手を引き、短く首を振る。

 俺は机の端に視線を落とす。そこに、刻み付けられた奇妙なマーク。

 ――やはり見覚えがある。孤児院の地下、埃にまみれた机や壁に刻まれていた、あの印だ。


「美琴君?」


 桃が不安げに覗き込む。

 言葉が出ない。喉の奥が乾いて音を立てるだけだ。

 目に入る断片――完全体、新人類。昨夜拾い上げた活字の欠片が、ここでも刺のように目に触れる。


「やっぱり、ここ普通じゃないよ」


 桃の声が揺れた。

 俺は深呼吸を一つ置いてから、皆へ向き直る。


「確かめたかったのは、これだ。きっと俺の過去とも繋がっている。でも今は、ここで情報をこじ開ける手段がない」

「手がかりが要る、ってことですね」


 柊が短くまとめる。血の気のない顔に、それでも思考の火だけは灯っていた。


「みなさん、私の母の職場に行きませんか?」


 唐突に出た母という言葉に、皆の視線が彼女へ集まる。

 柊は一拍だけ目を伏せ、それから正面を見た。


「私の母は、市立図書館の資料保存室にいました。……母なら、本を直すことに関して誰よりも詳しかった」

「図書館、か」


 仁が肩を回して小さく笑う。


「行くなら、さっさと決めようぜ。ここに長居はごめんだ」

「賛成ですわ。美琴様の手がかりも、柊さんのお母さまの手掛かりも、そこで繋がるかもしれません」


 リナが静かに言う。声は落ち着いているが、矢筒を抱える腕には迷いがない。


「そうだね。雫君のお母さまにも会えるかもしれない、事件発生当日のことを考えれば職場で待機している可能性も大いにあり得るからね」


 虎杖先生はそう言いながら持っていける本をいくつか回収していく。


「ももちゃんも行く。……怖いけど、何かできるかもしれないから」


 桃が小さく拳を握る。


「しずねぇのママに会えるの!? 希望、たのしみになってきちゃった」


 場違いなほど明るい声だったが、その無邪気さが逆に皆の胸を揺らした。


「決まりだな」


 俺は鉄の扉をもう一度見やり、静かに閉じる。重い音が地下に沈んで、消えた。


「出発前に、水と包帯を追加で。道中、喰異体がいるかもしれない。目的地は、市立図書館」


 持っていける分の本を回収していき、俺たちは階段を上がる。湿り気と鉄臭は背後に置いていくはずなのに、胸の奥だけは冷たいままだった。

 それでも、朝の光は確かに強くなっている。

 俺たちは荷を締め直し、扉の向こうの街へ向き合った。次の目的地は決まった。謎はまだ解けない。だが、花の栞を手繰るように俺たちは歩き出す。


✿ ✿ ✿


 ライブハウスシャッターの扉を力任せに開けると、磨かれたガラスに新しい白い車体が映った。どうやら化物たちもいなくなったらしく、車高のあるキャンピングカーは、朝の光を受けて鈍く光る。まだ新車の匂いがする。


「発電機は後ろのラゲッジに入れる。発電庫をこの毛布で巻いてくれ」


 虎杖先生の指示に俺と仁は動く。


「了解」


 黒いポータブル発電機を二人掛かりで持ち上げ、床下収納に収める。ラチェットベルトで十字に固定し、燃料缶はビニールで包んで別区画へ。水と包帯、食糧を順に積み、揺れ止めのクッションを噛ませた。

 虎杖先生が最終確認を指差しで終えると、運転席へ乗り込む。俺たちは後部のベンチへ。テーブルの角をロックし、荷の紐をもう一度締める。


「シートベルト、忘れないで」


 カチリ、と留まる音が続く。

 イグニッションを回すと、静かなアイドリングが足元から伝わった。大きなフロントガラスが光を集め、狭いはずの室内が一段広く見える。

 日が少し高くなってきた。先生がウインカーを上げる。タイヤが滑らかに路面を捉え、車はゆっくりと街路へ出ていった。

 運転席の虎杖先生がハンドルを握り、助手席の柊が案内をする。


「次の合流で左、川沿いに出て、そのまま県道を北西です」

「了解。橋は無事かい?」

「昨日の偵察情報では通行可。落橋は二本先です。早めに側道に逃げましょう」


 短い会話に、いつもの落ち着きが戻っていた。

 後部のダイネットで、桃が目をまんまるにして回転椅子をくるり。


「え、見て見て! テーブルがベッドになる! ここ、隠し収納? わ、冷蔵庫ちっちゃ……かわいい!」


 希望は窓にぺたっと張りつき、「外が動いてる!」と当たり前のことに笑う。

 リナは狭い通路でバランスを取りながら、矢筒と荷物の固定を確認していた。


「桃園さん、はしゃぎ過ぎですわ。希望ちゃんも、窓に寄りすぎないで――頭をごっつんしてしまいますわよ」

「はーい!」


 桃は素直に座り、ベルトのカチャリという音に合わせて鼻歌を一つ。昨夜の歌の余韻が、まだ喉のどこかに灯っているみたいだった。

 俺は最後尾で発電機の箱を足元に引き寄せる。ライブハウスから持ち出した黒いポータブル。燃料、良し。コード、良し。

 仁が後ろを覗き込んで「重てェな、それ」と鼻を鳴らす。


「お前が持ってみるか?」

「やだね。オレ様は助手の助手だ。つまり何もしねぇ」


 虎杖先生がバックミラー越しにため息をつく。キャンピングカーの中には、人の重さと笑いが少しずつ戻っていく。

 河川敷が見えてきたのは一時間後だった。護岸のコンクリートが欠け、草がその隙間からよく伸びている。流れはゆっくりで、浅瀬が白くきらめいていた。


「ここで小休止。水と、洗濯も少しだけなら」


 柊の提案に、全員がうなずく。

 停車。サイドブレーキが鳴り、外気がどっと車内へ。草と水の匂いがふくらむ。

 桃が真っ先に飛び出した。靴を脱いで、(くるぶし)まで水に浸かる。


「つめた――っ、でも気持ちいい!」


 希望も真似をして「つめたーい!」と跳ねる。水しぶきが小さな虹を作り、二人の笑い声が風にほどけていく。

 俺は川の縁で発電機を地面に置いた。排気が水面へ向くよう位置を調整し、ロープで杭に固定する。


「行くぞ……」


 スターターを引く。エンジンが咳き込み、低い唸りで安定した。


「お、直ったみたいだな」

「試しにこれを使ってお湯でも。簡易ポットを繋ごうかね」


 虎杖先生が無駄のない手つきで配線をまとめ、ガスの代わりに電気でケトルを鳴らす。

 仁は川石に腰を下ろし、空のペットボトルに水を詰める。


「クハハ、こいつは文明の匂いだな。湯の音ってのは、戦場でも腹が減る」

「あなたは戦場じゃなくてもお腹を減らしていますわ」


 リナは苦笑し、携帯用の洗濯バッグに水と洗剤を入れる。衣類を揉み込み、ぎゅっと回す。

 やがて、河川敷にロープが一本張られた。二台のポールの間、洗濯物が並んで風に揺れる。Tシャツ、タオル、靴下、それと色とりどりの小さな布たち。


「はい、男性のお二人はこっちの石のラインより前に立ち入り禁止です」


 柊が小石を並べて即席の境界線を作る。


「ンだ、何かやましいものでも隠してンのか?」


 仁が鼻で笑う。


「あら、乙女の秘密をのぞき込もうとは良い度胸でございますことよ?」


 リナがにっこり。余裕の笑みに、仁は舌打ちしてそっぽを向いた。


「美琴君も、ね?」


 虎杖先生が視線だけで釘を刺す。


「あぁなるほど……下着が干してあるのか……」


 俺の肩を柊が軽く押さえると、桃が顔を真っ赤にして手をぶんぶん振った。


「だ、男子立ち入り禁止エリア! ここは女子の聖域! なにとぞご理解を!」

「せいいき!」


 希望が胸を張って復唱する。小さな声なのに、やたらと誇らしげだ。


「聖域ねぇ……下着なんぞただの布だろうが――」


 仁は「はいはい」と言いながら境界の石に腰を下ろす。俺も反対側の石に腰掛けた。

 風が乾いた布の間を抜け、花みたいな洗剤の香りがふわりと漂う。川のきらめきと一緒に、それは束の間の平和を演出していた。


「で、あのエグイ下着を干したの誰だ?」


 仁が視線を逸らしながら呟く。


「仁さん!」


 リナが即座に睨みつけ、柊は石をもう一つ追加して線を強化する。


「罰として仁君は取り込み係だね。乾いたら向こうの洗濯物を頼むよ」

「はァ!? ふざけんな!」

「公平ですよ。見るのを我慢できないなら、干した人の代わりに取り込むんです」


 柊の理屈に、仁は口をぱくぱくさせてから、結局「チッ」と舌打ちした。


「じゃあ美琴、お前も手伝え」

「俺まで巻き込むな」

「仲間は平等だろうが」


 仁と俺のやり取りに、桃と希望が笑い転げる。


「ももちゃん、せいいきを守れたね!」

「うん、希望ちゃんと一緒に守った!」


 二人が洗濯ロープの前で胸を張る姿は、小さな守護者のようだった。

 ロープに揺れる布と、その向こうの青空。

 ほんの短いひとときでも、そこには確かに生活があった。

 柊は川面を見ながら、先生に道順を確認していく。


「橋を渡ったら、市役所前通り。図書館はその先の並木の向こうです。正門が塞がれていたら、搬入口に回りましょう。保存室は地下一階、南側」

「雫君のお母さまは、その保存室に?」

「はい。非常時は、資料を守るクローズ運用が決まっていましたから」


 声の端に、刃物の薄さみたいな緊張がのる。虎杖先生はそれ以上、余計な言葉を差し挟まない。

 桃は、水を滴らせた足をぶらぶらさせながら俺の隣に来た。


「ねぇ美琴くん。この車に名前つけない? この子も仲間だもんね☆」

「名前?」

「うん。ももちゃんのユニットも車に名前つけてたよ。推しは呼べる名前がある方が愛が深まるの」

「名前、ねぇ。………………しおりってのはどうかな?」


 俺が口にした瞬間、桃がぱっと顔を明るくした。


「いい! 可愛い! ページに挟んで、道に迷わないおまじない!」


 桃は車体の側面を撫でて、「しおり号、よろしくね」と小声で挨拶した。


「しおり号!」


 希望もすぐに真似して復唱する。はっきりとした声に、少しだけ温かくなる。


「――ダセぇな」


 仁が鼻を鳴らした。


「ガタゴト号とかでいいだろ」

「それはもっとダサいですわ」


 リナが冷ややかに返し、柊も苦笑する。


「可愛いと思いますよ。響きが柔らかくて」


 結局、誰も異論は出なかった。

 その瞬間から、このキャンピングカーは――しおり号になった。

 発電機の唸りと、ケトルのコポコポが重なる。湯気が薄く立ち上り、カップに温かさが移る。


「はい、砂糖は一人一袋まで」


 柊が紙コップを配る。希望は両手で受け取り、ふうふう息を吹いた。

 仁は一気に飲んで咳込み、先生に背を叩かれていた。


「お行儀が悪いね。君は――」

「熱ぇんだよ!」

「熱いから、ふうふうするんですよ」


 リナは小さく笑い、仁に濡れたタオルを渡す。

 洗濯物が風で翻るたび、桃が慌てて下着の列を隠す。


「やーん、見ない! 見ないで!」

「見てねェよ」

「今、見た!」

「見てねェ」


 小競り合いの向こう、柊の横顔が一瞬だけほどける。


「こういう時間、ちゃんと残しておきたいですね」

「ああ」


 俺はうなずく。

 どれだけ先が見えなくても。どれだけ紙の頁が濡れて、花が綴じられていても。

 こういう息継ぎを、俺たちは手放しちゃいけない。

 ケトルが鳴り止み、発電機の回転を一段落とす。水の匂い。洗剤の匂い。草の匂い。どれも、生きている匂いだった。


「よし。乾いたやつから取り込んで、移動再開だ」


 虎杖先生の号令で、皆が動き出す。

 桃はしおり号に飛び乗って、窓から「また来るねー!」と河原に手を振る。希望がそれを真似て「またくるねー!」と笑う。

 俺は最後に発電機の燃料コックを閉じ、コードを巻いた。低い唸りが消えると、川の音が戻ってくる。

 振り返れば、ロープに残った水滴が朝日にきらめいていた。押し花にしたみたいな、短い時間。

 キャンピングカーはゆっくりと河川敷を離れ、土の道から舗装路へ。

 笑い声の残り香と、まだ胸の奥にある冷たさを抱えたまま、俺たちは頁をめくりに行く。

 しおり号は小さく揺れて、川砂利を踏みしめる感触から滑らかな舗装へと移った。フロントガラスいっぱいに、白い雲の切れ端が流れていく。


「柊さん、次の目印地まではどれくらい?」

「この先の信号を右。堤防沿いから県道に合流します。橋は一本目が使えます――落橋は二本先です」

「了解」


 助手席の柊は紙地図とタブレットを見比べ、指で素早くルートをなぞる。虎杖先生はハンドルを軽く切り、ウインカーのカチカチという音が一定の拍を刻んだ。

後ろでは、桃が窓枠に頬をつけて外を眺め、希望はさっきの聖域を守り切った満足で少しだけまぶたが落ちている。仁はベルト越しにあくびを噛み殺し、リナは膝に矢筒を置いたまま、弦のささくれを糸で丁寧に処理していた。


「さっきの河原、また来ようね、しおり号」


 桃が車体をぽん、と叩く。


「号を省いてしおりって呼ぶのも可愛いですね」


 柊が振り返って笑う。

 新車の匂いに、洗剤のやさしい香りが重なる。さっきまでロープに揺れていた布の、まだ微かに残る水気が空気を丸くしていた。

 市街地に入ると、沈黙は少し重くなる。割れたショーウィンドウ、斜めに傾いた電柱、信号は全部同じ色で止まっている。バス停のガラスの下に、誰かが置いた押し花が挟まったまま色を失っていた。


「先生、ここで左に逸れてください。大通りは車が詰まってます」

「見えた。住宅街を抜けるよ」


 狭い路地に入ると、電線がだらりと垂れ下がって道を塞いでいた。先生が速度を落とす。


「高圧じゃない。ポールに掛けてあるだけだ、俺が降りる」

「美琴、オレ様も手伝うぜ」


 停車。俺たちは手袋をはめ、仁と二人でケーブルを持ち上げて壁際に寄せる。小さな火花がひとつ弾け、金属臭が鼻に刺さった。


「はいよ、通れ」

「助かるよ」


 再び走り出す。しおりのタイヤが、枯葉を踏む乾いた音を一つ二つ。


「そういえば、さっき言っていたクローズ運用って、どういうことだったっけ」


 俺が訊ねると、柊が短く答える。


「外部の利用停止、館内封鎖。所蔵資料は保存室で閉じて守る。……非常時は、それが決まりです」

「つまり、誰かが中に残ってる可能性が高い、ってことだな」


 虎杖先生の言葉に、車内の温度がほんの少し下がる。


「母が、そうであるといいのですが」


 柊はそこで言葉を切り、前だけを見た。仁がわざとらしく背もたれをきしませる。


「おい美琴。なンか言えよ。空気が重てェ」

「そうだな。じゃあ、着いたらまず――」


 言いかけて、窓の外に目をやる。


「まず、入口を確認。正門がダメなら搬入口。保存室は地下一階、南側……だっけ」

「はい、そうですね」


 桃が俺の袖を引く。


「美琴くん、怖くなったら言ってね。ももちゃんが手を握るから」

「あはは、それじゃ頼りにしようかな」

「そんなことをしなくても、わたくしが美琴様の背中をお守りしますわ」

「リナ、あまり無茶はしないでくれよ」

「あら、その言葉はそっくりそのままお返ししますわ」


 桃は満足げに笑う、そして希望にタオルをそっとかけてやる。もう完全に眠っていた。

しおりは住宅街を抜け、並木道へ出る。真新しい白い車体に、木漏れ日が斑に流れた。

 リナが窓の外を見たまま、ぽつりと言う。


「わたくし、図書館って好きですの。静かで、剣を置くみたいに心が落ち着きますわ」

「剣は置いていけないけどな」


 仁が笑う。


「……ほんとに、例え話というのを理解できないのかしら?」


 リナは肩をすくめつつも、目元にはかすかな柔らかさがあった。俺は何も言わず、矢筒の留め具をひとつ締め直す音だけを聞いていた。


「みなさん、看板が見えてきました。市立中央図書館です。ただ、通りはこの先で塞がっていますね……」


 柊が指差す先、倒れた街路樹と、横倒しのバンが道をふさいでいた。


「手前の駐車場に入れる。今日は近づき過ぎないで、周囲を一周して戻ろう」


 先生が方針を告げる。


「偵察か……」

「そうだ。入口、窓、監視カメラ、非常用の発電設備。……閉じて守っているなら、それを無理に破壊して入るわけにもいかないだろう?」


 しおり号は速度を落とし、遠巻きに円を描くように街区を回る。

 図書館のガラスは、陽の下でも眠っているみたいに黒かった。

 俺たちは言葉を少なくして、景色を目に焼き付ける。

 頁をめくる前に、表紙の手触りを確かめるように。


「今日はここまで。近くの公園で今日は過ごそうか」


 先生の声で、しおり号はゆっくりと離れていく。

 笑い声の残り香と、胸の奥の冷たさ。どちらもまだ消えない。


✿ ✿ ✿


 その夜は、図書館から二つ角ほど離れた小さな公園の駐車場で止まった。ブランコは錆びて動かず、砂場は固まっている。街灯は死んでいるが、しおり号の室内灯が白く四角い居場所を作ってくれた。


「発電を十五分だけ動かそうか。充電と湯沸かしを優先でいいかな?」


 虎杖先生がタイマーを見せ、俺は発電機のコックをひねる。低い唸りが夜気に溶け、延長コードのランプがちいさく点った。

 柊はダイネットに地図を広げ、マステで四隅を留める。


「正門、搬入口、地下通気口……見えた分だけ印を打ちました。明日はここから入って、ここに退路を」


 彼女は淡々と指で示し、最後だけ小さく息を飲む。「保存室、南側」。そこに母の時間が止まっているかもしれない。

 コンロではお湯がコポコポ鳴り、湯気が窓を薄く曇らせた。


「カップ麺と、缶シチューを温めますわ。足りなければ乾パンも」


 リナが手際よく配膳を始める。


「ももちゃん特製トッピングだよ!」


 桃が缶詰のコーンを誇らしげに持ってくる。


「甘くなるだろ」


 仁が文句を言いかけ、ひと口食べて「……悪くねェ」と視線を逸らした。


「ほらね!」


 桃は勝ち誇って笑い、希望の器にコーンを多めに落としてやる。


「ありがとう、ももちゃん」


 希望は両手でカップを抱え、ふうふうと息を吹いた。新車の匂いに、湯気の塩気の匂いが重なって、しおり号の空気はどこか家みたいになった。


「明日の役割分担を再確認しよう」


 先生が紙コップを手に、いつもの口調で話す。


「雫君は案内と記録。仁君と美琴君は前衛、初動の衝突対応。リナ君は援護射撃と退路確保。桃園君は――」

「はいっ。歌いません!」


 桃が胸を張る。みんなが一瞬ぽかんとしてから、笑いがこぼれた。


「必要ならお願いするかもしれないけどね」


 先生が口元だけで笑い直す。


「基本は希望ちゃんのそばで、音を立てないこと」

「うん、任せて」


 桃は希望の髪を撫で、希望はくすぐったそうに目を細めた。

 発電機を止めると、夜の音が戻ってくる。遠くの国道の風、どこかの看板が擦れる乾いた音。

 しおり号の窓には、俺たちの顔と、闇が二重写しになっていた。

 食器を片付け、ブラインドを下ろす。仁は後部の二段ベッドの下段に転がり、木刀を抱いて天井を睨む。


「そんじゃ明日クローズ運用っての、ぶっ壊してやろうぜ!」

「壊すんじゃないよ。開けるだけだ、生存者もいるかもしれないし派手な破壊行為は厳禁だよ」


 先生の返事は短い。


「はいはい、わァってるよ」


 仁はそれ以上何も言わず、枕元のライトをぱちりと消した。

 俺は入口のステップに腰を掛け、外気をひとくち吸う。冷たい。リナが隣に来て、肩が触れない距離に立った。


「緊張していますの?」

「分からない……緊張というよりも祈りに近いかもな」

「祈り、ですの?」

「そうだね」


 俺の視線が自然と柊の方へ向く。それを察したリナが優しく手を取る。


「柊のお母さんがもしもそこにいなかったら……彼女はそれを受け入れなくちゃいけないだろう。知らない方が幸せだったかもしれない、そんな最悪を想像してしまうんだ」

「それでも彼女は進みますわ。もちろんわたくしも、あなたも」


 リナはそれだけ言い、軽く微笑んで中に戻る。残ったのは、彼女の香りとほんの少しの体温の記憶だけ。

 桃は小声で鼻歌を洩らしながら、希望に毛布を掛け直した。


「おやすみ、しおり」


 車体の壁をぽん、と叩く音がして、しおり号は何も言わずにそこにいた。

 ――その時だった。

 ぱら、ぱら……と、屋根に乾いたものが落ちる音。雨ではない。葉でもない。

 先生がブラインドの隙間を指で持ち上げる。

 フロントガラスに、一枚の紙片が貼り付いていた。風はないのに、紙は静かに震えている。

 ヘッドライトも点けず、俺はそっと運転席へ移ってそれを覗き込んだ。

 紙は薄い。図書カードの切れ端だ。押し花のように褪せた薄紫色の染みが、一枚の花弁に見える。

 息を呑む音が、狭い車内でやけに大きく響いた。

 見上げれば、闇の向こう、図書館の黒いガラスが月を鈍く返している。

 無風なのに、どこからともなく紙片が二、三枚、ゆっくり落ちてくる。まるで誰かが、頁をめくるたびに余白をちぎってこちらへ流しているみたいに。


「今日はブラインドを全部降ろして、交代で見張ろう」


 先生が静かに告げる。


「分かりました」


 柊はメモに新しい印を打ち、時間を書き込んだ。桃は唇を引き結び、希望の額に手を当てる。

 俺はフロントに戻って、紙片をそっと外した。指先に乾いた粉がつく。口の中も、急に紙やすりみたいにざらついた。

 ブラインドが下りる。しおり号は夜に沈み、内側だけが灯る。

 笑い声の残り香と、胸の奥の冷たさ。どちらもまだ消えない。


「それじゃ最初は俺がやりますよ」

「うむ、だが一人だと危険だ。今夜は二人一組と行こうかな」

「では、わたくしがお供しますわ」

「任せるよ」


 交代の見張り、時計が九時を指す。室内灯を落とし、先生が短く告げた。

 新車の匂いから離れ、しおり号の外で俺とリナが見張りを行う。夜の冷気が頬を刺し、黒い建物が月を鈍く返していた。


「夜は寒いな……」


 俺は尻尾のグラを揺らしながら月夜を仰ぐ。


「グギャッ」


 じゃれつくように身体に巻き付くグラ。まるで寒さを紛らわせるマフラーみたいだった。


「グラさん、まるで子犬のようですわね」

「意外と感情豊かなんだよ、こいつ。ほら、リナにも挨拶」

「グギュ」


 リナがそっと撫でると、グラはくすぐったそうに尾の先を振り、今度は彼女の手首にも一周だけ巻き付いた。


「ふふ。わたくしまで温めてくださるなんて、淑女に手が早いですわね」

「それは俺の役目なんだけど」

「あら、では――お任せしますわ」


 リナは半歩だけ近づき、肩が触れるか触れないかの距離で立つ。白い吐息がふわりと揺れ、月明かりが睫毛の影を伸ばした。


「……こうしてると、昨夜のことが嘘みたいだ」

「嘘ではありませんわ。怖かったのも、痛かったのも、本当。でも――こうして隣に立てているのも、本当ですわ」

「強いな、リナは」

「いいえ。強いふりをするのは、あなたの隣にいたいからですわ」


 冗談めかしながらも、瞳だけはまっすぐだった。


「明日、図書館に入ったらさ」

「ええ」

「ちゃんと戻ってきて、また河原に行こうな」

「はい、もちろんですわ」


 リナが静かに頷き、ふと思い出したように付け足す。


「ではわたくしからも一つ……怖くなったら、桃園さんの手ではなく、わたくしの手を握ってくださいませ」

「手?」

「ええ。緊張で震えたとき、こうして」


 リナは自分の掌をそっと重ねてきた。温度が移り、胸の奥の冷たさが少しだけほどける。

 ふと、グラが自分を無視するなと言わんばかりに先端で身体を叩いた。


「嫉妬するなよ」

「グギャッ」

「まあ。でしたら公平に――」


 リナはグラの巻き付いた手を一度撫で、もう片方の手で俺の袖口をきゅっと摘む。


「これで両方温かいですわ」

「ずるいな」

「淑女の嗜みですわ」


 しばし無言。風はほとんどなく、遠くで何かが軋む音だけが夜に滲む。黒いガラスは月を鈍く返し、世界が薄い氷で覆われたみたいに静かだ。


「……ねぇ、美琴様」

「どうした?」

「わたくしが前に出ても、止めなくて大丈夫ですわ。怖くないと言えば嘘になりますけれど、あなた様の隣に並ぶと決めましたもの」

「分かった、止めない。でも必ず戻ってきてくれ。俺の隣は、空けておく」

「はい。必ず」


 肩を並べ、同じ空を見上げる。グラが満足そうに俺たちの間で丸くなった。


「愛してるよ、リナ」


 月に溶けるくらいの声で言うと、彼女は喉の奥で笑って、目だけこちらを見た。


「わたくしも、ですわ」

「ありがとう」


 俺たちは同じ方向を見た。吐息が重なり、ほどけて、また重なる。


✿ ✿ ✿


 時計の針が十一時をまたいだ。俺とリナが車内へ戻ると、仁と柊が無言で頷き合い、しおり号の外へ出る。

 夜気は先ほどより冷え、アスファルトの匂いに湿った土の匂いが混ざっていた。図書館の黒いガラスは、相変わらず月を鈍く返している。

 フロントバンパーの影を背に、二人は少し離れて立った。

 仁は木刀を肩に担ぎ、柊は首元のジッパーを上まで引き上げて、吐く息を整える。


「……静かですね」

「夜だからな」


 仁が小声で笑い、柊は足元の砂利を靴先でひとつ弾く。


「音はあまり立てンなよ。オレ様が怒られる」


 短い沈黙の後、柊がぽつりと口を開いた。


「お母さん、無事だといいなって……今はそれだけ、ずっと考えてます」


 彼女の声は淡々としていたが、指先だけがポケットの中で落ち着きなく動いているのが分かった。


「母は普通の人です。朝に弱いくせに私のお弁当だけは早起きして作ってくれて、図書カードに鉛筆で小さく日付を書くのが癖で……。帰りに牛乳買ってきてって、最後のメモも普通で」


 柊はそこで息を吸い、月の方を見た。


「――生きていてくれれば、ただそれでいいんです」


 仁は「ふーん」と鼻で息を笑い、木刀の位置を持ち替える。


「生きてンだろう。お前の母さん」

「そう言っていただけると心が和らぎますね」

「冗談じゃねェぜ、根拠は三つある。まず、そういう普通は、想像以上に強ェ」

「……雑ですね」

「雑なもンか。普通ってのは無駄を極限に省いた完成形だ。普通は基本、基本を極めた人間ほど侮れないものだぜ」


 仁は木刀を肩に担ぎ直し、続ける。


「二つ目。図書館で働くヤツは、避難訓練の時に本棚の倒れ方を先に考える。つまり、逃げ道を先に見る。だから生き残る」

「急に具体的ですね」

「三つ目。朝弱いくせに弁当は作るタイプは、死なねェ」


 柊は耐えきれず吹き出した。


「最後のは偏見です」

「偏見だが、オレ様の経験則だ。そういうヤツはしぶとい」


 柊はうつむいて肩を震わせ、すぐに真面目な顔に戻る。


「どういう経験則ですかそれ?」

「さあな」


 それっきり、短い沈黙が挟まった。春の夜は薄く湿って、街路樹の若葉が擦れる音だけが小さく続く。遠くで風にあおられた看板が、かすかにカタ、と鳴った。


「安心しろ、今のところオレ様たちは運がいい。お前の母さんは生きてるよ」

「美琴も生きてた。あの金髪(パツキン)女もな」

「リナさんのことですか?」

「アイツしかいないだろう」


 柊は呆れたように言う。


「仁さん、人の名前は大事にした方がいいですよ」

「愛敬だろ」

「絶対に違うと思います」

「良いツッコミだ。いつものお前らしいな」

「私、そういうポジションになった覚えはありません!」

「周りの人間が強靭過ぎるからいいんじゃねェか?」


 クローンの美琴に戦闘狂の仁、クロスボウをオリジナルで作るリナ、メスを投げナイフみたいに使う虎杖先生、両親を失った希望、アイドルの桃。確かに柊のポジションは他のメンバーに比べると薄いかもしれない。


「みなさんの個性が豊か過ぎるんですよ――」

「クハハ、そうかもな」


 二人の間に笑顔が戻る。問題児の仁と学級委員の柊が、こんな会話で笑い合うなんて前の日常では考えられなかったかもしれない。そんな野暮を言うや奴は今はここにいないだろう。


「仁さん」

「ンだ?」

「明日、足がすくんだら――前に出るのを手伝ってください」

「当たり前だ。オレ様が前を切り開く。お前は道を指示しろ。手は震えててもいい、声だけ出せ」

「なんだか、いつもの仁さんらしくなくて、やっぱり少し気持ち悪いですね」

「おい」

「冗談です。ありがとうございます」


 柊はまっすぐに頭を下げた。顔を上げた時の目は、暗がりでも芯が通っていた。

 仁は視線を少しだけ外して、鼻を鳴らす。

 時間が静かに進む。二人は車体の影を背に、同じ方向を見て立ち続けた。

 やがて、しおり号のドアが小さく軋んで、虎杖先生が顔を出す。


「交代の時間だ」

「了解だ」


 仁が短く返事をし、柊は振り返る。


「仁さん」

「なんだ」

「さっきの三つ、覚えておきます。……本当に、ありがとうございます」

「礼はいい。身体が冷えただろう。湯でも残ってたら飲んどけ」

「はい」


 二人は肩を並べてドアへ向かう。春の夜気が背中を押し、白くない息が音もなくほどけた。明日は図書館に入る。現実からの逃げ道の用意はない。だからこそ、いま出来る準備は――この短い会話と、揃った歩幅だった。


✿ ✿ ✿


 ――春の夜は、思っていたよりも優しかった。

 バスの影に寄りかかるようにして、二人は立っていた。車体の中ではみんなが寝息を立て、わずかな灯りがカーテンの隙間から漏れている。


「冷えないかい、桃園君」


 虎杖先生は白衣のポケットに手を入れ、首をすくめる。夜番の合図みたいに、肩から下げた救急ポーチが小さく揺れた。


「だいじょーぶ。春の夜って、すこしだけ寂しくて、でも気持ちいいね。星も近いし」


 桃はフードを指でつまみ、空を見上げる。彼女の声はよく通るのに、夜に溶けると不思議と柔らかかった。

 しばし、街灯に集まる蛾の影を眺めてから、虎杖先生が切り出す。


「……みんなには、馴染めているかい?」

「うん。みんな優しいよ。仁くんはちょっとコワモテだけど、あれ、驚くくらい気配りさんでしょ?」

「柊ちゃんはお姉ちゃんって呼びたくなるし、希望ちゃんは天使で……」

「美琴くんは――んー、ああ見えて照れ屋さんだよね。リナちゃんは――一番まっすぐで、一番綺麗に強い人。普段は柔らかいのに、弦を引く指だけはぜったいに震えない。でね、美琴くんの前だと少しだけ背筋が伸びて、言葉が丁寧になるの。あれ、かわいいよね☆」

「同感だ。彼女は頼られるのは得意だが、頼るのは下手だ。だからこそ、私たちが肩を並べて歩かせてやらないといけない」

「うん。わたし、ちゃんと合図してあげる。……それと、ちょっと嫉妬もするけど、リナちゃんのまっすぐさ、すごく好き」

「ほう、観察眼が鋭い」

「だって、歌うときってお客さんの呼吸、ぜんぶ聴いてるから。空気の形がわかるんだ」

「空気の形、ね。いい表現だ」


 虎杖は口角をゆるめ、缶の麦茶を差し出した。桃が受け取ると、ぬくもりが指先から腕に伝う。


「……先生、って呼んじゃってるけど、わたし、先生の生徒じゃないのに変かな?」

「変じゃないさ。呼びやすい呼び名が、その人との距離だ。好きに呼んでくれていい」

「じゃあ、つむぎさんでもいい?」

「ふふ、君がそうしたいなら」


 からかい半分の言葉に、桃は声を立てて笑った。その笑い声で、バスの窓が一枚だけ震えた気がした。


「桃園君は今の世界が怖くは、ないのかい?」

「うん、もちろんゼロではないよ。むしろ正直に言うなら怖いかも、でも今はみんながいる」

「そうかい、ならば良いのかな」


 桃は缶を胸元に抱く。湯気は昇らないが、その仕草は湯気みたいに温かかった。


「ところで――」


 虎杖はおどけるように眼鏡を押し上げ、咳払いをひとつ。


「私から夜更かしの歌姫にカロリーを配給したくてね」


 白衣の内ポケットから取り出したのは、銀色の包み。開けば蜂蜜レモン味のキャンディがころん、と掌に落ちる。


「わ、懐かしい味! これ、喉に優しいやつだ」

「小さな夜のご褒美、さ」

「うーーん、美味しいね☆」


 軽口の投げ合いは、眠りの浅い子供を起こさないように、小さく、短く。

 すると虎杖先生少しだけ真面目な色が落ちる。


「怖さはね、消そうとしなくていい」


 虎杖先生は夜の道路を一度見やって、言葉を選ぶように続けた。


「消えないものを無理に消そうとすると、たいてい形を変えて戻ってくる。だから私は握り方を変える。手すりみたいに掴んで、歩くための支えにするんだ。恐れは敵じゃない。足元を確かめろ、って教えてくれる合図だよ」

「……握り方、か」

「君の歌も同じさ。この世界では化物を誘ってしまう刃にもなるけど、この前みたいに柄にもなる。握り方次第で、誰かを傷つけずに、誰かの手を引ける」

「もちろん本来の使い方が正しいだろう。誰かの未来を望み、夢を与える。どう握ってどう扱うかを君がしっかり決めるべきだ」


 先生は白衣の袖を少し巻き、胸の前で両手を重ねる。


「息を吸って、四つ。止めて、七つ。吐いて、八つ。数に意味はない、ただ今ここに体を戻す儀式だ。受験なんかでで震える子や固まった子も、みんなこれで立て直してきた」

「やってみてもいい?」

「もちろん」


 二人は街灯の下で、そっと肩を並べた。桃が目を閉じ、先生が小さく指で合図を刻む。吸って、四つ。止めて、七つ。吐いて、八つ。三度繰り返すうち、夜の匂いと体の重さが同じ場所に落ち着いていく。


「ふぅ……。胸のざわざわが、ちょっとずつ音を小さくしてくれる感じ」


 虎杖先生は小さく笑って、缶の底を指で弾いた。


「大人の仕事はね、君たちの無茶を無茶じゃない段取りに変えることだ。火の番、怪我の手当て、逃げ道の確認。君の仕事は、君にしかできないことをすること。震えながらで構わない」

「つむぎさんって、なんだかかっこいいね」

「白衣が反則なんだよ。中身はたいして変わらない」

「ちがうよ。言葉がね、背中をまっすぐにしてくれるやつだよ」


 桃は麦茶をもう一口飲んで、頬の力を抜いた。

 国道の方で、低いエンジン音がひとつだけ通り過ぎる。植え込みを抜けた猫が、振り返りもせず闇へ溶けた。


「ね、つむぎさん。怖い時、どうしてる?」

「昔はタバコで誤魔化していたよ」

「わぁお、なんだかかっこいい大人って感じだね☆」

「百害あって一利なし、さ」

「今は数字を数えたりしているかな。それでもだめなら、誰かの隣に立つ。人はね、孤独でいるほど賢くなれない」

「それ、好き。じゃあ今日は、わたしがつむぎさんの隣」

「心強い見張りだ」


 先生は肩をすくめ、少しだけ声を落とした。


「それと、もう一つ。君が何かを選ぶとき、正しさに迷ったら誰の未来が広がるかで決めるといい。君自身でも、仲間でも、誰でもいい。選んだ先で笑える顔が増える方へ。間違えても、やり直し方が分かる」

「……ねえ、ほんとにかっこいいね。そんなこと、さらっと言える大人ってずるい」

「年を取る代わりに、言葉が増えるだけさ。中身は相変わらず臆病者だ」

「臆病者は逃げ足が速いんだよ。だから生き残って、次の朝を見届けられる」

「なら、悪くない臆病だ」


 空気が一度、ゆっくりと流れ替わる。遠くの電光掲示板が時刻を入れ替え、柔らかな風が二人の前髪をそろえて揺らした。冷えはまだ優しく、春は確かにここにある。






 しおり号の窓には、白いカーテンが降りている。内側からは小さな寝息と、布団を返すかすかな音が聞こえてきた。

 外では、見張りを終えた者たちが順に戻り、毛布に身を沈めていく。

 星は、誰のためでもなく瞬いている。

 春の夜は冷え込みも緩く、吐く息は空に溶けて消えた。

 その静けさの中で、しおり号は小さな灯り舟のように、闇に浮かんでいた。

 誰も声を出さない。けれど、確かに「一緒にいる」という温度が残っている。

 ――夜は、穏やかに更けていった。



 ――――――――――――第五章『春宵』終幕


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