第四章『花は歌い、獣は吠える ――後半――』
重たい鉄扉を閉めると、地下の冷気が背骨を撫でていった。湿り気は喉の奥に張り付き、呼吸のたびに錆の味がする。俺たちは言葉を飲み込み、ランタンの明かりへ戻る。虎杖先生が、揺れる炎を横目に見張りを続けていた。
「……さて、君たちはどこへ行っていたのかな?」
穏やかな声音に針の先みたいな鋭さが混じる。
「少し、気になるものを見つけただけです」
俺は曖昧に返し、リナと桃も視線だけで頷いた。みんなはまだ眠っている。希望はリナの掛けた毛布に小さく包まり、柊は腕を枕に規則正しく胸を上下させていた。仁は壁際で木刀を抱いたまま、油断のない寝息。
「はぁ――。全く、仁君はともかく君も大概だね」
「仁君が戦いに飢える狂犬なら、君はのらりくらり、まるで野良猫だ」
皮肉に、俺は肩をすくめて笑ってみせる。
「猫の方がまだ愛嬌があると思いますけど」
「そう思うなら、もう少し大人しくしてほしいね」
虎杖先生が小さく炎を絞る。その瞬間――。
……ブゥゥゥゥン……。
床下から低い唸りが這い上がり、ランタンの炎がぺたりと寝た。最初は発電機かと思った。違う。壁が鳴っている。天井が、木ねじから順に軋んでいく。耳の奥で誰かが指で鼓膜を押しているみたいだ。
「今の、聞こえましたか?」
俺の声に、虎杖先生の眼光が鈍く光る。
「あぁ。音が……内側から壁を叩いている」
眠っていた仁の指がぴくりと動いた。木刀の柄を握り直し、片目だけ開けて呟く。
「クハハ、目覚ましにしちゃァ趣味が悪ィな」
柊も身を起こす。寝ぼけた瞳がすぐに焦点を結び、眉根が寄った。
「この響き、まるで……鼓膜じゃなく、骨伝導で直接――っ」
そこで言葉が途切れ、柊は反射的に耳を押さえる。背筋が硬直した。
リナが希望を抱え込むように引き寄せる。
「希望ちゃん、耳を塞いで!」
「……ママ、こわいよ……」
怯えた声が震え、桃も毛布を握りしめて立ち上がった。
次の瞬間――。
バァンッ!
ステージ奥のスピーカーが内側から裂け、白い火花が暗闇を短く焼いた。頭蓋の奥を素手で掴まれたみたいな衝撃に、膝が勝手に折れる。鼓膜じゃない、骨が鳴っている。
――キィィィン。
耳鳴りが痛覚に変わり、視界が粒子状にほどけた。
「これは、音を媒介にした攻撃か!」
「チッ、厄介な芸当しやがるぜ」
仁が木刀を肩から滑らせ、闇の発生源を睨み込む。
ランタンの橙が、奥で蠢く影をなぞった。
浮かび上がるのは、人の形を模した何か。膨れ上がった上半身。顔の位置を占めるのは、口でも目でもなく、耳孔だらけの面――薄膜が呼吸に合わせて震え、粘膜がぬるりと光る。
細長い脚には金属片が刺さり、歩ごとに甲高い金属音が場を切り裂く。肩から垂れた触手状の器官が空気を撫で、壁が共鳴で低く喘いだ。
「なに――あれ……」
桃の呟きが震えた瞬間、圧が跳ね上がる。
ギィイイイイイッ!!
濁った悲鳴の矩形波がぶつかり、天井の照明が連続で割れ落ちる。破片が雨になり、肺の奥まで音が刺さってくる。希望がか細い声を上げ、リナが抱き寄せて覆う。
「今までの喰異体とはまるで別物のようだね!」
虎杖先生の腕が閃き、投げたメスが無音の弧を描いて薄膜へ吸い込まれた。
――ぐしゃり。
手応えはある。だが次の拍で、喰異体の膜が怒りの呼吸で大きく膨らみ、低域が増幅した。床板が海溝の波みたいにうねり、心臓の鼓動が勝手にテンポを狂わされる。
「クハハ、まぁ効かねェわなァ」
仁が床を蹴った。爆ぜる足音だけで、喰異体の耳孔が一斉にそちらへ向く。
「来いよ、音痴野郎!」
挑発と同時、触手が束ねて収束――圧縮された衝撃波が直線で吐き出された。
「がはっ……!」
仁の背が壁を打ち、粉塵が円形に舞い上がる。
胸が焼ける。俺は息を噛み、金属の筒を腹に押し当てた。内針が刺さり、冷たい液が体内に走る。
「……借りるぞ」
化物の残滓が混じった血液が、内側で熱を持つ。掌が痺れ、背骨が一本ずつ点灯していく錯覚。
「グラ、行くぞ」
俺は翼を展げ、仁の軌道に合わせてステージ上へ跳ぶ。
耳孔が俺だけを捉えたのが、わかった。薄膜が脈打ち、空気の山が迫る。
――ドオォン。
舞台板が波打ち、視界の端が白くちぎれた。胃の中身が逆流してくる。
「やっぱりあの喰異体、音で私たちの位置を聴いている!」
柊が叫ぶ。片耳から細い血がつっと垂れ、声が震えても論理は崩れない。
「音を反射させて、私たちの場所を割り出してるかもしれません! こちらの動きが全部、音で見えてるんです!」
次弾。壁面のポスターが一斉にべりっと剥がれ、舞い上がった紙が弾幕みたいに俺の視界を曇らせる。
俺は翼で斜めに切り上げ、衝撃波を面で受け流す――はずだった。
遅い。
見えない拳が横合いから顎を打ち、床が近づいた。
「っ……!」
歯を食いしばる間にも、耳鳴りが脳の芯を焼く。立て、折れるな。桃の方へは――一歩も行かせない。
背後で、桃が毛布を掴む音。リナの腕の中で希望が小さな手で耳を塞ぐ。
虎杖先生は糸付きのメスを巻取りながら立ち位置を変え、仁の前に斜めの静かな道を作る。
それでも、音は迫ってくる。この箱は敵の楽器だ。壁も床も天井も、全部あいつの肺になっている。
絶望、という言葉が舌の上に乗りかけたその時――俺は翼を畳み、グラを尻尾に変える。そして静かに伸ばし現在の立ち位置とは違う遠くを叩く。
――コォン。
狭い箱に、意図的な基音を置く。
「奴の意識をちがうところに向ければ…………」
箱鳴りが揺さぶられ、喰異体の耳孔がわずかに泳いだ。
わずかだ。けど、活路だ。
俺は息を吐く。まだ負けていない。ここから――ひっくり返す。
すると柊がそれを察する。
「桜我咲さん、仁さん! 音をぶつけて視線をずらせます! 私たち、動くたび音で見られてます!」
その声を合図にしたみたいに、仁が床を強打した。
乾いた一撃が箱の中を転がり、木刀が生む響きに、喰異体の顔が即座に仁へ向く。
「おい! 来やがれ!」
挑発に反応して触手が収束、圧縮された轟音が一直線に吐き出される。
「ぐっ……がはっ!」
肋が軋む音。仁は壁に叩きつけられ、咳き込みながら片膝をついた。床に赤が散る。
「仁さん!」
柊が駆け寄ろうとして――また音の奔流に押し返され、壁に肩を預けて息を詰める。指が小さく震えていた。
俺は翼で空を切り裂き、頭上へ回り込む。
「今だ、上からなら死角を取れる!」
翼の一拍――その音を、喰異体が拾う。
「くそ、またあれか!?」
渦巻く衝撃波。見えない重さに胸郭が沈み、細い針で鼓膜を突かれたみたいな痛みが頭の芯を焼く。
「いってぇ――」
床が背中を叩き、肺から勝手に空気が抜けた。全身の節々が痛む。骨は折れていないが、ひびの嫌な手応えが残る。
「再生まで……どれくらいだ、これ」
「美琴君、大丈夫かい!」
虎杖先生が短く息を吐き、糸付きのメスを無言で三本、連射する。
刃が触手を裂き、赤黒い体液が飛ぶ。だが喰異体は怯まず、膜を膨らませて低い唸りを増幅。
――パリン、パリン。
バーカウンターの方でガラスが次々に砕け、ライブハウス全体が楽器みたいに共鳴する。箱全体が、あいつの肺と喉だ。
「ダメだ……っ、このままじゃ全員、音に殺される!」
歯を食いしばる。耳を塞いでも無駄だ。鼓膜じゃない。骨ごと震わせて、内側から砕きに来ている。
リナがクロスボウを構え、傷の痛みに声を震わせる。
「美琴様、あの膜を撃ち抜きますわ! 弱点はきっとそこです!」
弦が鳴り、矢が走る。だが箱鳴りの逆流に軌道が歪み、紙一重で薄膜を掠めた。
桃は必死に毛布をつかみ、ステージ脇のスピーカーへ投げ被せる。
「せめて反響を抑えないと……」
布が音を吸い、ほんの一瞬だけ圧が緩む。すぐに別の壁が鳴り、低域が戻ってきた。
――この箱の全部が敵だ。
床も、壁も、天井も、喰異体の味方をしている。
恐怖に震えながらも、桃は自分の役割を見つけていた。
希望が泣きながら小さく耳を押さえる。
「……おと……いやだ……」
その声が震えた瞬間、床下の地鳴りが一段深くなる。
耳で聞く前に――骨と内臓が殴られた。
足元がふわりと浮いた錯覚ののち、箱全体が怒鳴る。
「ヤバい……! 完全に俺たちの体を砕きに来てる!」
柊が片耳を押さえ、壁に肩を預けて崩れ落ちる。
「っ……重い。このままだと身体ごと……押し潰されます――」
「柊、大丈夫か――」
次の瞬間、舞台板が下から拳で突かれたみたいに跳ね上がる。
視界がぶれ、肺がぎゅっと握られ、喉の奥に鉄の味。
「がっ――」
膝が落ちる、その前に――仁が俺の横を風みたいにすり抜けた。
割れた額から血を垂らしながら笑い、踵で床を踏み抜く勢いで打つ。
「こっちだ、音痴野郎!」
木刀が床を叩く。意地の悪い一拍ズレが箱鳴りに石を投げ込む。
喰異体の穴だらけの顔がわずかに泳ぎ、そのまま仁へ砲口を向け――。
――ドン。
胸板が沈む圧。仁の身体がくの字に折れ、壁へ叩きつけられる。
血泡が笑い声に混じった。
「へっ……聞くに堪えねェビートのパンチじゃねェか……」
足首が軋み、木刀の柄に赤が落ちる。
「仁さん、もう下がってください!」
柊が駆け寄ろうと一歩出るが、逆流する音に足を奪われ、膝から落ちる。
「雫、お前も無茶すんじゃねェ――」
ぽた、ぽた、と仁の血が舞台板に落ち、黒く滲む。
それでも仁は笑ったまま、木刀を離さない。
「仁さん!」
リナが叫び、矢を番える。
――が、その瞬間、箱全体がうねった。
横薙ぎの波が矢を空中で弾き飛ばし、同時にリナの身体を押し潰す。
「――っく!」
弦がはじけ、前腕を鞭のように叩く。皮膚が裂け、血が細い筋を描いた。
膝が床を打ち、矢は力なく転がる。歯を食いしばるリナの肩が、震えていた。
――この箱の全部が、敵の味方だ。
床も、壁も、天井も、喰異体の肺になっている。
動けば、音で居場所が晒される。
押し込まれる。折られる。終わる――。
「リナ!」
俺が駆け寄ろうと身を切り替えた瞬間、背中から鋭い衝撃波が叩き込まれる。
視界が弾け飛び、胃の中身が逆流した。
「ぐっ……がはっ!」
口の端から血が垂れる。肺が空っぽになる一拍。肩に走る亀裂。爪の根元が痺れ、握力が抜けそうだ。
虎杖先生が前に出て糸を走らせる。
刃は確かに触手を切り裂いたが、その直後、低い唸りが弾け、返しの波が指先を裂いた。
掌に赤が滲む。先生は唇を固く結び、なお糸を投げるのをやめない。
「くっ、ダメか――」
柊は壁にもたれかかり、必死に声を絞る。
「みなさん……このままじゃ――」
希望を抱きかかえる腕が震え、視界が薄れていく。
桃はそんな仲間の姿を見て、声を震わせた。
「こんな音の使い方はダメ! 人を痛めつけるだけの音なんて……ももちゃん、嫌い!」
俺は血に濡れた口元を拭い、翼を広げる。
「……桃園さん、どうするつもり?」
桃はブランケットを胸に抱いたまま、震える声で叫んだ。
「歌は、人を支えるためのものだよ! 夢とか、希望とか……みんなを笑顔にするためのものなの! それをこんな化物に、人を壊すために使わせるなんて――」
「――ももちゃん、絶対に許せない!」
涙で視界を滲ませながらも、彼女は一歩踏み出す。
足は震えている。けれど、瞳だけはまっすぐだ。
「だから、ももちゃんが歌う! 怖いけど、声であいつを釣る! その間に美琴くん、みんなを守って!」
喉を裂くように息を吸う。
次の瞬間、かすれた旋律が暗闇に放たれた。
祈りみたいに細く、でも確かに届く声。
喰異体の無数の耳孔が、一斉に桃へと向く。
触手がざわめき、ステージを割る勢いで蠢いた。
「馬鹿か! 狙われんのはお前だぞ!」
仁が血を吐きながら怒鳴る。
桃は振り返らず、必死に声を紡ぎ続ける。
最初の一小節は、低い唸りに呑まれた。
それでも、彼女は二小節目を置く。わずかに音が返ってくる。
――届く。届いてる。
「ふふーん、ももちゃんはアイドルだからね。歌ったらそれはもう注目を浴びちゃうよね☆」
わざとおどけた声の裏で、震える息を必死に隠していた。
「それでね、美琴くん。お願いがあるの」
「お願い……ですか?」
俺は血の滲む口元を拭い、桃を見据える。
桃は決意を燃やす瞳を俺に向けた。
「ももちゃんにステージを作って! 美琴くんやみんなを守るための――ももちゃんのステージをね☆」
一瞬、胸の奥に熱が走る。
「あぁ分かった。俺が囮になる。仁、付き合ってくれるか?」
「無茶な注文だな。だが――上等だァ」
仁が壁から離れ、血に濡れた額を拭いもせず笑う。木刀を肩に担ぎ直し、床を強く踏む。その一打で箱鳴りの軸がわずかにズレた。
「リナ!」
呼ぶと、彼女は弦で裂けた腕を押さえながらも立ち上がる。
「仕方ありませんわね。美琴様のお願いであれば――お手伝い致しますわ」
強がりの声の裏で、矢筒の背が小さく震えた。
「柊、指示を!」
「分かりました。桃さんをセンター。マイク、スタンド、電源を最短で!」
柊は壁に肩を預け、震える指で素早く配置を示す。
「リナさんはスタンドとライトの角度。虎杖先生は電源とケーブル処理をお願いします」
指示を出す柊の声は少しかすれていたが、抑えた拍で落ち着きを作っていた。壁の低い唸りに負けないよう、言葉を一つずつ置く。
「しずねぇ。希望もおてつだいするよ!!」
希望は小さな靴で床をきゅっと鳴らした。濡れたまつ毛が震え、でも瞳はまっすぐだ。
「希望ちゃん……。はい、希望ちゃんは最後のスイッチ係をお願いします」
柊は膝をついて目線を合わせ、希望の手をそっと包む。
「この黒いボタン。わたしが合図したらぽんって押すの。怖くなったら深呼吸して、ゆっくりで大丈夫」
指先でボタンの位置を示しながら、彼女自身の指の震えを袖口で隠した。背後ではケーブルが床を這い、ゴムの匂いと微かな静電気が空気に混じる。
「うん、まかせて!」
希望は大きくうなずき、両頬をぺちんと軽く叩いて気合を入れる。小さな掌がバッテリーの縁を確かめ、ピカピカと点滅する弱いインジケーターに合わせて呼吸を整えた。
柊は短く親指を立てる。ふたりだけの合図。箱の唸りの中で、確かなタイミングが一つ共有された。
「美琴さんと仁さんは――二十秒稼いでください!」
「聞いたな、仁」
「上等だ。その倍は稼いでやるよ」
仁が床を踏み抜く勢いで踏み込み、木刀を横薙ぎに叩き込む。迫る触手の束が弾け飛ぶ。
直後、箱全体がうなり、地面から殴り上げるような波が仁の胸を叩く。
「クハハ、同じ手を何度も繰り返しやがってなァ!」
壁へ叩きつけられ、血泡が笑いに混ざる。
「オレ様たちの音を聞いてりゃいいんだよ! 音痴野郎!」
俺は翼で波の角を切り落とし、反撃に入る。
ぬるい体液が頬に散る。同時に背から衝撃波。肩の関節が抜けかける嫌な音。
「っ……!」
口の端から血が垂れても、桃の前には一歩も踏み込ませない。翼を立て、圧を受け止める。
「スタンド、固定しますわ!」
背で、リナが血で滑る指を歯で止めながらナットを締め、スタンドの高さを桃の顎に合わせる。
「ケーブルをこちらへ」
虎杖先生が糸で断線部を束ね、ポータブルバッテリーへ差し込む。
糸が食い込み白い指先に赤が滲んでも、手は止まらない。
「希望ちゃん、準備ができたら合図で押すんだ」
「うん!」
虎杖先生がその時を待ち、柊へアイコンタクトを送る。
「希望ちゃん、今です!」
柊の声。希望の小さな指が、ぽん、と黒いボタンを押す。
淡い緑が灯り、モニターが一度ノイズを吐いてから、低く息を吹き返した。
「ケーブル固定、良し!」
リナがガムテで這わせた線を靴で押さえ、ライトの角度を指先一センチずらす。
「先生、揺れ止め確認お願いします!」
「問題ない。――桃園君、さぁ!」
前で俺と仁はなおも受け続ける。
触手の束が雨のように降り、一本は俺の翼膜を貫いた。
「がっ……!」
バランスを崩し、力が抜ける。
すぐさま仁が半歩前へ出て、血まみれの木刀で叩き落とした。
「立て、美琴! 踏ん張るンだ」
「分かってる、よ!」
――ステージは、もう組み上がった。
あとは、歌だ。
次の波。地面ごと押し上げる圧が胸を潰し、視界が白く弾ける。
肋が一本、嫌な音を立てた。喉に鉄の味。
それでも足を交差させ、前に出る。桃の位置から一歩も下がらない。
「来るなら、ここで止まれ!」
吐血を拭いながら、仁が笑う。
「なァ化物、悪いが舞台の主役はこっちなんだよ」
背後で、マイクスタンドが立つ乾いた音。ケーブルが床を這う小さな音。
桃の足音が、センターへ。
――ここまでだ。あとは託す。
マイクが握られた瞬間、桃の指先はまだ震えていた。
だがその震えは恐怖ではなく、覚悟の震えだった。
「さぁ、ももちゃんの出番だよ☆」
俺と仁が前で触手を弾き返す。
背後では柊がケーブルを整え、リナがライトを合わせ、虎杖先生が糸で舞台板を補強する。希望は小さな両手で電源を抱えていた。
全員が繋いだ舞台の中心に、桃は立った。
――歌が始まる。
最初の一声はかすれていた。
すぐに低い唸りに呑まれ、喰異体の圧が押し返してくる。
けれど、二声目、三声目――置き直すたび、マイクが拾い、モニターが歪みから戻り、スピーカーが箱の奥まで澄んだ線を通す。
直後、喰異体が咆哮した。骨を砕こうとする轟音。天井が揺れ、床が跳ね、壁が震える。
だが――桃の歌が、その音を飲み込んだ。
振動がぶつかり合い、雑音が割れて、澄んだ旋律に溶けて消える。
耳を裂くはずのノイズが、ただの風切り音に変わっていく。
「無効化してる……!」
柊の声が震える。
桃の声は弱々しく震えているのに、それでも真っ直ぐで、強かった。
一つ一つの言葉が、空気を撫でて癒すように前へ突き進む。
俺の耳にはもう、砕ける衝撃音は来ない。代わりに残ったのは――桃の歌声。それだけが空間を満たしていた。
「さすがはアイドル。凄いな、心ってのは――」
舞台は、桃の声を中心に世界を書き換えられていた。
「綺麗な歌じゃねェか。気が向いたらCDでも買っておいてやるか」
仁が呟く。血で濡れた顔に笑みを浮かべ、勝利を疑わずに木刀を肩へ。
「さて、美琴。女が勇気を見せたんだ」
「オレ様たちは覚悟で答えないとな」
俺は駆けた。
翼が燃えるように熱し、背の筋肉が裂ける――はずだった。
だが次の瞬間、翼は消えた。
代わりに腕から伸び出したのは、鋭く光る黒の爪。
「――これが、俺の新しい力だ」
「ハッ、主人公してるぜあの野郎。最後の良いところはくれてやるよ」
仁の視線は、もう美琴しか見ていない。
爪を振り下ろす。
一閃。
喰異体の首が、音もなく宙を舞った。
すでにその膜は、桃の歌で裂け、鳴き袋は沈黙していた。
巨体は断末魔を上げることすらできず、ただ音を失ったまま崩れ落ちる。
残響を裂いたのは、なお続く桃の歌声。
その旋律は血と汗と涙で汚れたステージを、光で洗い流すように満たしていた。
俺は肩で荒く息をしながら、滴る血をぬぐう。
仁は壁に寄りかかり、笑う。
「へっ、綺麗な終わりじゃねェか」
リナは矢筒を抱き締め、柊は額の血を拭い、虎杖先生は糸を緩めて大きく息を吐いた。
希望は震える手で電源を抱きしめたまま、目を潤ませて桃を見つめている。
最後に残ったのは桃の歌声。
そして、それを支える仲間たちの呼吸音だけだった。
喰異体が崩れ落ちた後、ライブハウスには耳鳴りと荒い呼吸だけが残った。
桃はマイクを抱えたまま膝をつき、声を枯らし切った喉を押さえている。
仁は壁に背を預け、汗と血で濡れたシャツが肌に張りついていた。
柊は深く息をつき、震える手で希望を抱き寄せた。小さな体が胸にすがりつき、彼女はそっと頭を撫でる。
「もう大丈夫ですよ」
安堵に滲む声に、希望もようやく目を閉じた。
俺の爪も翼もすでに消え、ただ人間の姿で膝に手をつき、呼吸を繰り返すだけだった。
――生き延びた。
その言葉が、誰の口からも出ないまま、重たく胸に沈んでいく。
リナはふらつく足取りで俺に近づき、その肩を支える。
俺の荒い呼吸と汗の熱を確かめるように、静かに寄り添った。
「立てますか?」
問いかけに、俺はかすかにうなずいた。
やがて、階段の奥の隙間から淡い光が差し込む。夜が明けたのだ。
けれど安堵よりも先に、全身を襲うのは鉛のような疲労感だった。
眠りたいのに眠れない。立っているのに立てない。
それでも、誰も倒れなかった。
仲間たちは互いを見やり、言葉少なに肩を支え合った。
新しい朝は、決して祝福のように優しいものではない。
それでも――夜を越えた事実だけが、確かな救いだった。
――――――――――――第四章『花は歌い、獣は吠える』終幕




