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第四章『花は歌い、獣は吠える ――前半――』

「…………静かな朝だね」


 新車のキャンピングカー、正面の運転席には虎杖先生その横には空白の助手席が並んでいる。大きなフロントガラスから差し込む昼の光が、狭い空間をほんの少し広く見せる。


「うわ、また負けた!?」

「クハハ、オレ様に勝とうなんて百億年早いぜ美琴ォ!!」


 運転席のすぐ後ろには、小さなテーブルとL字型のベンチシート。

 テーブルには水筒やトランプが散らばり、俺と仁がカードを切るたびに心地よい音が響く。

 仁の豪快な笑い声が、閉塞した車内にわずかな明るさをもたらしていた。


「ママ、次はこれを読んで!」

「希望ちゃんはご本が好きなのね」

「うん、ママの声をいっぱい聞けるから好きだよ」


 壁際には流し台とふたくちコンロがあり、棚には缶詰や薬、簡易ランタンが押し込まれている。車体が揺れるたびに、ガチャガチャと不安定な音を立てた。

 その向かい側ではリナが希望と並んで腰を下ろし、絵本を広げていた。

 彼女が指で文字をなぞるたび、希望が小さな声で復唱する。


「誰も出歩いていませんね――。とても静かで寂しい朝です」


 窓辺に腰かけた柊が、遠くの景色を見つめながらぽつりと呟く。割れたビルの残骸や黒煙が立ちのぼる街並みが、ガラスに淡く映り込む。

 最後部には二段ベッドがあり、狭い車内に、それぞれの営みが折り重なる。


「美琴くん、少しいいかな?」


 虎杖先生が運転席から俺を呼んだ。

 俺は仁とのトランプ勝負を切り上げ、カードをテーブルに置いて助手席へ移動する。

 仁は「おいおい」と不満げに口を尖らせていた。


「はい、どうかしましたか?」

「次の目的地を決めておきたいと考えていてね」


 ハンドルを握る先生の声は穏やかで、車体の小さな振動に溶けていく。

 後ろを振り返ると、それぞれが思い思いに時間を潰している。


「あの高校はバス通学をしている子が多い。今いる君たちもそうだろう」

「はい。仁の家なんかはそこそこ近いと思います」


 そう答えると、仁が椅子の背から体を起こし、だるそうに前へ歩み寄った。


「ンだ美琴。テメェに心配されるほどオレ様の心は弱くねェよ」


 軽く顎をしゃくってニヤつく。


「親父もおふくろもオレ様は心配しちゃいない。向こうもオレ様が死んでるとは微塵も思っちゃいねェだろうな」


 そう言いながら、彼は腕を組み、すぐに話題を切り替える。


「まぁでも、物資とか情報って点じゃ、結構有益なもんが手に入るかもな」

「お父さん関係の伝手とか?」

「あぁ。もう引退してるが、今でも警察幹部から仕事の相談は受けてるらしいぜ」


 仁は思い出したように口元に指を当て、茶化すように笑った。


「……っと、これ外に漏らしちゃいけねェ話だったか? ま、秘密な」


 冗談めかして肩をすくめると、今度は車内の家電を指さす。


「それより気になるのはこっちだな。冷蔵庫や照明、コンセント全部サブバッテリー頼みだろ。容量なんざたかが知れてる。持って一日か二日だ」


 先生が小さく頷く。


「確かに、電気は生活を保つために重要だな」


 仁は窓の外へ視線を投げ、軽く息をついた。


「電気がありゃ睡眠の質も多少はマシになる。飯も妥協せずに済む。……そう考えりゃ、次の優先順位は電源の確保だろうな」


 少し間を置いて、思い出したように付け加える。


「例えばライブハウスや劇場跡なんかは、電源設備が地下に残ってる可能性が高い。親父も昔よく言ってたぜ、非常時はそういう施設を拠点にしろってな」


 窓の外では、赤錆びた看板が風に揺れていた。

 次の行き先が、自然と形を取り始めているように思えた。


「ライブハウス……か、近くにあるのか?」


 俺が首を傾げると、仁がにやりと笑った。


「おう、最近できたばっかのやつがある。カーナビにはまだ載ってねェけどな」


 仁は指で机をとんとん叩きながら言葉を続ける。


「バーと一緒になってて、酒出すから未成年は入れねェ場所だ。オレ様も気になっちゃいたが、結局外から眺めるしかできなかった」


 そこで一度肩をすくめ、けれど目は楽しげに細められていた。


「……ま、今なら誰に止められるわけでもねェ。ちっとは探検ってやつも悪くねェだろ」


 虎杖先生が半眼になってハンドルを握り直す。


「……仁くん、君はこういう状況でも物見遊山気分が抜けないのか」

「クハハッ! 生き延びるコツってのは楽しむことだろ? なァ美琴!」


 振られた俺は思わず苦笑いを返すしかなかった。


「でもそうだね。こういう世界にだからこそ楽しもうという心意気は大事だと思うかな」

「さすが美琴だぜ。分かってンなァ!」


 仁は嬉しそうに俺の肩を叩きながらそう言うと、道案内のために彼に助手席を譲る。

 そして仁は意気揚々と虎杖先生に道案内を始める。


 ✿ ✿ ✿


「……で、こっちの通りを抜けりゃ見えてくるはずだ」


 仁が身を乗り出して窓の外を指さす。

 彼の記憶を頼りに、キャンピングカーは市街地の奥へと進んでいった。

 道端には放置された乗用車が並び、片方のタイヤが外れて斜めに傾いているものもある。


「本当にあるのかしら……?」


 リナが膝に絵本を抱えたまま呟く。


「バーやライブハウスなんて縁のない場所だったからね。近くにあっても気づかなかったのかも」


 希望は俺とリナの会話に気づかず、窓に額を押しつけて外を眺めている。


「バーにライブハウス。なんだか不良になってしまった気分ですね……」

「まぁ意外と、行ってみたら楽しいかもしれないよ。柊」


 確かにどっちも薄暗いイメージがあるし、夜のお店に近い雰囲気もある。ドラマなんかでも取引現場や悪い大人が利用している場面で使用さることも多く、あまり良いイメージはないかもしれない。


「心配すんな。あそこは街でも結構話題になってた。オレ様も前に通ったことがある」


 仁は自信満々に胸を張った。


「もっとも、バー併設だから未成年はお断りってやつでな。オレ様も一歩も入れてねェ」


 虎杖先生が小さく溜め息をつく。


「教師が引率していながら未成年が入れない建物に行くことになるとはね」

「クハハ! 別にやましいことしにい行くわけじゃねェンだ。構いやしねェだろう」


 会話の間にも車は進み、やがて通りを抜けた先に建物の影が現れる。

 キャンピングカーの窓越しに覗くその光景は、外の世界との落差を一層際立たせる。

 かつては夜ごとに賑わいを見せたのだろう。


「お、見えてきた。あれかな?」

「思ったよりも小さい建物ですわね」


 入口付近には赤いカーペットの切れ端が風にあおられ、壁にはまだポスターが数枚残っている。バンド名と日付は途中で破れ、最後の公演が途切れたまま時間に取り残されていた。

 派手に輝いていたはずの看板には、今や薄れて読みにくいロゴで『Live & Bar GARDEN』と記されている。

 仁が口の端を吊り上げ、どこか誇らしげに言った。


「到着だね」


 虎杖先生がウインカーを点滅させながら建物の脇に車を寄せる。

 ドアを開けた途端、冷たい外気が流れ込んでくる。埃と錆びの匂いが鼻を刺し、車内に漂っていた新車の匂いをあっという間に塗り替えていった。


「これは……。結構荒れちゃってるね」


 俺が一番に足を踏み出すと、靴裏が細かいガラス片を踏み砕き、じゃり、と乾いた音を立てた。

 続いて仁が飛び降りるように降り立ち、肩をぐるりと回して伸びをする。


「おぉ、やっと外の空気吸えたぜ。……クサいけどな!」


 リナは希望の手を取りながら慎重にステップを下りる。


「希望ちゃん、足元に気をつけてね」

「うん!」


 最後に柊がゆっくりと姿を現す。外の景色を見上げ、眉をひそめながらつぶやいた。


「……静かすぎますね」


 確かに、その通りだった。

 昼下がりの街は不自然なほど音がなく、風が看板の鉄枠を軋ませる音だけがやけに大きく響いている。


「……本当に、ここなのね」


 リナが小さく眉をひそめる。希望の手をぎゅっと握りしめながら、警戒心を隠さない。


「思ったよりちっせェ建物だろ? でも入れば分かるぜ。地下がメインなんだよ」


 仁が楽しそうに顎をしゃくる。


「前に外まで来たときも、入口の向こうからベース音がガンガン響いてたからな。中は結構広ェ」


 虎杖先生が割れたガラスに手をかざし、注意深く中を覗き込む。


「照明は落ちているようだ。非常灯の明かりがかろうじて残っている程度だな」


 俺たちは順に中へ入った。

 狭いロビーには、破れたポスターやライブの告知チラシが床一面に散乱している。壁の黒い塗装はところどころ剥げ、落書きの跡まで残っていた。

 そして、すぐ正面に階段が口を開けている。


「クハハ、当たり前だが静かだな」


 仁がにやりと笑う。


「こうも静かだと、ライブハウスも不気味に見えるね」


 俺は唾を飲み込み、暗い階段を見下ろした。

「人気はありませんね、チラシの日付もあの日で止まっていますね」


 柊が声を潜める。

 プリントの文字はかすれ、湿気で端が丸まっていた。


「本来であれば、音楽で賑わっているはずなのに、こうも静かだと不気味だね」


 虎杖先生が確認するように呟き、俺たちは順に階段を下り始めた。

 コンクリートの壁は冷たく、ところどころに非常灯が取り付けられているものの、薄赤い光は頼りない。靴底がきしむたび、静まり返った空間に乾いた音が反響する。

 やがて下りきった先に広がっていたのは長方形の大きなフロアだった。

 観客席だった床には転がったパイプ椅子や壊れたペットボトル、折れたサイリウム。

 奥にはステージがあり、暗がりの中でもマイクスタンドのシルエットが見える。


「ここがライブフロアか」


 思わず息を呑む。ここは教室でも体育館でもない、完全に別世界だ。

 壁一面にはポスターが貼られ、ステージライトの残骸が天井からぶら下がっている。

 散らかった床さえも、そこに人々が押しかけて笑っていた光景を想像させた。


「なんだか不良になった気分ですね」


 柊が小声でつぶやく。


「クハハ、オレ様らもついに大人の世界デビューってやつだな!」


 仁が肩を揺らして笑う。その口ぶりは冗談めいているが、目はどこか楽しげに輝いていた。

 リナは苦笑しつつ、希望の耳を塞ぐ。


「こんな所、本当なら未成年は入っちゃダメなんだけどね……」

「あはは、でもやっぱりこういう普段は入れないところに入るのってわくわくはするよね」


 心臓がどくどくと高鳴る知らない世界に足を踏み入れた興奮が、全身を震わせていた。

 俺たちはそれぞれにフロアを見回していた。

 普段の学校生活とはまるで違う光景に、少しだけ浮き立った空気が流れていた。


「へぇ、こんなとこ、ホントにあったんだな」


 暗いのに、胸の奥がざわつく。大人の世界に足を踏み込んだような、高揚感だった。

 ――そのとき。

 カチャリ。

 金属の留め具が外れるような乾いた音が、フロアの奥から響いた。

 一瞬にして、空気が凍り付く。


「今の音、聞こえたかい?」


 虎杖先生が低く問いかける。

 次の瞬間――。


「やめてっ……! いやぁああっ!」


 少女の悲鳴が、暗闇の向こうから響き渡った。

 先ほどまでの浮ついた心臓の鼓動が、氷水を浴びせられたように一気に冷え込む。

 俺たちは互いに顔を見合わせ、声のする奥へと駆け出した。

 ステージの中央――。

 スポットライトの残骸が揺れるその下で、少女が床に押さえつけられていた。

 桃色のツインテールが乱れ、フリルの付いたアイドル衣装は胸元が引き裂かれかけている。網タイツは破れ、細い脚が無理やり押さえ込まれていた。


「は、放してっ……やだ! やめて!」


 少女が必死に叫ぶ。

 だが男たちは薄汚い笑みを浮かべ、彼女の腕を押さえつけたまま耳を貸さない。


「アイドル様も、こうなりゃただの女だろ――」


 一人がベルトを外し、金具がカチャリと音を立てる。

 もう一人は少女の顎を掴み、涙に濡れた顔を無理やり上げさせる。

 煌びやかなステージで輝いていたはずの少女が、無惨に押さえつけられている。

 アイドルとしての笑顔の象徴リボンやフリルが無惨に裂かれ、舞台衣装が晒されていく。


「――ッ!」


 その光景に、俺の胸の奥が煮えたぎるように熱くなった。

 血が耳鳴りのように轟き、視界が赤く染まっていく。


「――テメェら」


 仁の低い声が隣で響いた。

 笑いも軽口も消え、怒りそのものだけを孕んだ声音だった。


「クズどもがァァ!!」


 仁の低い唸り声が、ステージの上に落ちた。

 その瞳は獣のように血走り、もう誰の声も届かない。


「仁君、待っ――!」


 虎杖先生の制止すら無視し、仁はステージへ飛び上がった。

 その手に握られていたのは、漆黒の木刀。あのショッピングモールで完成させた彼の新しい武器だ。

 柄から鞘にかけて緻密な薔薇の彫刻が刻まれ、非常灯の赤い光を受けて妖しく浮かび上がる。

 次の瞬間。

 ――ドガッ!!

 乾いた破砕音とともに、木刀が男の側頭部を直撃した。

 血飛沫が花びらのように飛び散り、彫刻の溝を伝って赤が染み込む。

 まるで黒い薔薇が、血を吸って咲き誇るかのように。


「ぎゃッ!?」


 押さえ込んでいた男が吹き飛び、少女の腕が解放される。


「もう大丈夫ですよ」


 俺はステージに駆け上がり、少女の体を抱き寄せた。

 すぐさま別の男が俺に襲いかかってくる。


「どけェッ!」


 太い腕が振り下ろされる寸前、俺は身をひねり、相手の肘を掴む。

 足を払って体勢を崩し、肩で押し飛ばす。

 重い音を立てて男の背中がステージに叩きつけられた。


「くそっ、このガキども!」


 別の男が拳を振りかざす。

 俺は咄嗟に少女を庇い、自分の肩でその一撃を受け止めた。

 鈍痛が走るが、構わず反撃に転じる。


「この程度!」


 肘で顎を打ち上げると、男の頭がガクリと揺れた。

 横目に見えた仁は、もはや止まらない。

 木刀を振るうたび、血が彫刻をなぞり、赤い薔薇が咲き乱れていく。

 その顔には怒りしかなく、笑いも冗談も影を潜めていた。


「仁、それ以上はダメだ。死んじまうぞ!」


 俺が声を張り上げても届かない。


「外道の一人や二人、殺したところで構いやしねェだろうが!!」


 彼の木刀が直線的に落ちる。その動きには一切の迷いも躊躇もなかった。


「仁君――すまないが止めさせてもらうよ」


 虎杖先生の投げたメスが彼の腕に絡みつき、鋭い痛みが仁の意識を一瞬だけ現実に引き戻す。


「なァ!?」


 引かれるようにしてバランスを崩し、仁は尻もちをついた。

 その顔には、獣から人へ戻りきれない怒りの色がまだ残っていた。

 やがて静まり返ったステージでは荒い息と、血の匂いが漂っていた。

 倒れた男たちは呻き声をあげるか、完全に意識を失って転がっている。

 非常灯の赤い光が、その光景を冷たく照らしていた。


「……はぁっ、はぁっ……」


 仁は肩で息をしながら、血に染まった木刀を握りしめていた。

 黒薔薇の彫刻に沿って流れ込んだ血がまだ滴り落ちている。

 彼の顔には獣の怒りが色濃く残り、誰も不用意には近づけない迫力があった。


「仁君、もういい……」


 虎杖先生が彼の腕を掴み、真っ直ぐに視線を合わせる。

 仁はしばらく睨みつけるように息を荒げていたが、やがて力なく木刀を床に落とした。

 俺は震えている少女に視線を向ける。

 桃色の髪は乱れ、フリルのついた衣装は引き裂かれた跡が痛々しい。

 彼女は俺の胸に縋りつき、かすれた声を絞り出した。


「……たす、けてくれて……ありが、と」


 その声は今にも消えそうで、けれど確かに生きていた。

 涙に濡れた瞳が俺を見上げる。

 かつてスポットライトの下で観客に向けて輝いていたであろうその瞳が、今はただ、必死に救いを求めていた。


「もう大丈夫です。俺たちがいますから」


 そう告げると、少女の肩がわずかに震え、堰を切ったように泣き声が溢れた。

 リナがすぐに駆け寄り、乱れた衣服を直しながら彼女を抱きしめる。


「怖かったでしょう……でも、もう平気よ」


 柊は拳を握りしめ、ステージに散らばる男たちを睨みつけたまま動かない。

 希望は状況を完全に理解していないのか、ただリナと少女を見て小さく「よかった……」と呟いた。

 少女はまだ震えながらも、涙を袖で拭って小さく息を吸い込んだ。


「……わ、私……桃園ももぞの 桃もも。地下でアイドルしてたの。あ、アイドルって言っても、全然有名じゃないんだけど……ね」


 その声はかすれていたが、必死に笑顔を作ろうとしているのが分かった。

 衣装が乱れたままの彼女は痛々しいはずなのに、どこか舞台の上に立つときと同じように「明るさ」を取り戻そうとしていた。


「桃園 桃?」


 柊が目を瞬かせる。


「え、もしかして――あの桃園さんですか?」

「知ってるの!?」


 桃の瞳が一気に輝きを取り戻す。


「えへへ! 嬉しい! やっと誰かに名前分かってもらえた!」

「ちょ、ちょっと配信で見たことがあるだけで」


 柊は頬を赤くしながら視線を逸らす。


「歌ってるのもダンスも、その……上手でしたから」


 場の空気が一瞬和んだ。

 だが、ステージの隅では呻き声をあげる暴漢たちが、まだ床に転がっている。


「ンで、こいつらをどうするんだ?」


 仁が木刀を肩に担ぎ、忌々しげに見下ろす。

 まだ怒りが収まりきっていないその顔に、桃が思わず身をすくませた。

 虎杖先生が一歩前に出て、冷静に言う。


「殺す必要はない。だが放置すれば、また誰かを傷つけるだろう」


 周囲を見回し、壁際に転がるスピーカー用のケーブルを拾い上げる。


「縛って控室に閉じ込めよう。動けないようにしておけば、しばらくは安全だ」


 俺は頷き、桃を安心させるように声をかけた。


「心配しないでください。もう桃園さんが襲われることはありませんから」


 桃はまだ怯えた表情を残しながらも、小さく「……ありがと」と呟いた。


「あぁそうだ。俺は美琴です。よろしく」

「わたくしは姫金 リナですわ。よろしくお願いしましわ」


 リナが自己紹介をすると、彼女は俺の傍に歩み腕を絡める。

 まるでこの人は自分のものだと象徴するような振る舞いだ。


「私は柊 雫です。よろしくお願いします」


「オレ様は仁だ。黒薔薇 仁、まぁよろしくな」


 仁は木刀を担いぎながら暴漢たちを睨みつつ、桃に自己紹介をする。


「うむ、私は虎杖 紬だ。彼ら教師であり現在は引率を務めているよ。よろしく頼むよ」


 虎杖先生は暴漢たちをケーブルでぐるぐる巻きにしながら、その作業を仁に担わせて桃に自己紹介を行う。


「はい、みんなご丁寧にありがとうございます。それじゃ私は桃園 桃――改めて☆」


 桃は立ち上がり、軽く両手でハートを作ってみせる。


「ももちゃんだよ、よろしくねっ☆」

「「………………」」

「ちょっと、何か反応してよ!?」


 妙な沈黙に、桃は頬を膨らませて叫んだ。


「場違いにもほどがあるだろ」


 仁が呆れ顔で頭をかき、木刀を肩に担いだまま視線を逸らす。


「けどまぁ、暗いよりはマシか。勝手にやっとけ」

「わ、私はすごいと思います」


 柊が小さな声で続ける。


「こんな状況なのに、明るく振る舞えるなんて……すごい勇気だと思います」


 桃はぱぁっと笑顔を浮かべた。


「ありがとう! やっぱり応援してくれる人がいると、元気が出るんだ~!」


 だが、リナだけは腕を組んだまま冷たい視線を崩さなかった。


「でも、現実を見なさい」

「え?」

「歌? 踊り? そんなもの、この世界では無意味ですわ。大きな声や音は化物を呼ぶ。そんなことすれば、真っ先にあなたが死ぬわ」

「――っ」


 桃の笑顔が一瞬にして固まった。


「夢を見るのは自由ですわ。ですが、わたくしたちを巻き込まないでちょうだい」


 リナの言葉は刃のように鋭く、ステージの空気を冷えさせた。

 桃は唇を噛みしめ、俯いたまま小さく拳を握る。


「……分かってるよ。でも……私だって、生きてるんだ。生きてるなら、夢くらい――持たせてよ」

「夢を見るのは自由。でも、私たちを巻き込まないで」


 リナの声は冷たく響き、桃の笑顔を一瞬で凍らせた。


「リナ……まぁまぁ」


 俺はそっと声をかける。


「確かに危険かもしれないけど、彼女だって生き残るために必死なんだ。ここに一人で置いていくわけにもいかないし――これからどうするか、一緒に考えよう」


 その言葉に、桃の目がぱっと輝いた。


「美琴くん……!」


 彼女は俺の手を両手でぎゅっと掴み、涙で濡れた頬をほころばせる。


「ありがとう……! 私も連れてって! 一人じゃ、もう怖いから」


 必死な声と温もりが手に伝わり、俺は一瞬言葉を失った。


「……っ」


 その様子を見ていたリナの表情がぴくりと揺れる。

 彼女はすぐに笑みを作ったが、その瞳の奥には小さな棘が走っていた。

「――まったく。美琴様は誰にでも優しいのですのね」


 そう言いながら、リナは当然のように俺の反対の手を取る。


「彼女を助けるのは構いませんけれど、危険なときはわたくしが必ずお傍にいますわ」


 左右の手をそれぞれ桃とリナに握られ、俺は困惑して視線を泳がせるしかなかった。

 仁が呆れ顔で鼻を鳴らし、柊は小さく肩を震わせて笑みをこらえている。


「……ンだこの茶番は」


 仁がため息をつき、木刀を肩に担いだまま呆れた顔をする。


「戦場で三角関係とか、頭お花畑かっつゥの」

「ふふっ、でも、ちょっと安心しました」


 柊が口元を押さえて笑みを漏らす。


「こういうやり取りができるってことは、まだ人間らしくいられてる証拠ですから」

「あのね」


 ぽつりと声を上げたのは希望だった。

 小さな手を胸の前で握りしめながら、みんなを見上げる。


「希望ね……こうやってケンカしたり笑ったりしてるの、すごく好き。だって、パパとママが言ってたよね? ケンカするほど仲良しさんって!」


 その無垢な言葉に、一瞬、誰もが言葉を失った。

 桃は潤んだ瞳で希望を見つめ、リナはわずかに表情を和らげる。


「そっか。ありがとう、希望ちゃん」


 桃が小さく微笑むと、希望は照れたように笑って俺の袖をきゅっと掴んだ。


「だから……みんなで一緒にいるとね。希望はとっても安心するんだよ」

「安心かぁ、俺は胃が痛いんだけどなぁ……あはは」


 俺が小声でぼやくと、桃は「やだぁ、美琴くん真面目~」と笑い、リナは「からかわないでくださいまし」と睨み合いを続ける。

 その様子に、仁は肩をすくめて歩き出した。


「うん! これからも、みんなで一緒だよね?」


 希望の無邪気な笑顔に、俺たちは一瞬だけ互いを見つめ合った。

 答えを言葉にしなくても、その場にいる全員が小さく頷いていた。

 やがて暴漢たちを縛り上げ、ようやく一息ついた俺たちは、再び場内を見回した。

 割れた照明、焦げたケーブル、床に散らばる破片。ライブハウスの内部は戦場のような有様だ。


「ここで少し探しておいた方がいいわね」


 リナが舞台袖に転がっていた懐中電灯を拾い上げ、灯りを確かめながら言った。


「車まで戻るにしても、最低限の電源は必要ですわ。非常用のバッテリーや発電機、残っていないかしら」

「そうだね」


 虎杖先生が頷く。


「外の状況が読めない以上、準備は多いに越したことはない。とりあえずみんなで探してみようか」

「まぁ当初の目的だしな」


 仁は木刀を肩に担いだまま、乱雑に積まれたアンプやスピーカーを蹴飛ばすように調べ始めた。

 柊は心配そうに辺りを見回しながら、小さく口を開く。


「でも、こんなに壊れていて、本当に残っているでしょうか」

「壊れてても直せる可能性もあるからね」


 俺は落ちていたケーブルを拾い、プラグ部分を確かめながら言った。

 その時――桃が、おずおずと手を挙げた。


「ねぇ、バッテリーなら、たぶん心当たりがあるよ」

「心当たり?」


 俺たち全員の視線が彼女に向く。

 桃は胸に手を当て、震えを押し殺すようにして続けた。


「この地下に機材庫があるの。バンドさんたちが使う照明の予備とか、充電器とか……大きなバッテリーも置いてあったはず」

「地下……まだ続いていますの?」


 リナが目を細める。


「ふむ、確かにそれなら見つかりそうですわね」

「うん。もし良かったらももちゃんが案内するよ」


 桃の声はまだ不安げだったが、その瞳は必死に仲間と歩調を合わせようとしていた。

「機材庫、か」


 仁が鼻を鳴らした。


「まぁこんなごった返した場所で探すよりかはマシかもな」

「当てのない探索よりかは効率的だろうね」


 虎杖先生が周囲を見回し、声を落とす。


「では桃園君、すまないが案内をお願いしても良いかな?」

「じゃあ、案内するね」


 桃は胸に手を当て微笑んだ。


「ここの階段を下りれば、地下に続いているから機材庫に行けるよ」


 ステージ裏の階段は狭く、湿った空気が下から這い上がってきた。

 足を踏み出すたびに鉄骨がきしみ、靴音が地下の暗闇に吸い込まれていく。


「やだなぁ、ここ。暗くてももちゃん怖いんだ」


 桃が小声で呟き、俺の袖をそっと掴む。


「確かに地下って不気味だよな」


 俺は頷き返すと、横で頬を膨らませたリナが腕を絡める。


「わたくしもとーーっても怖いですわ」

「リナ、なんか怒ってます?」

「いいえ、全く怒っていませんわよ――」


 ひしひしと伝わるリナの怒りを感じつつ、やがて分厚い鉄扉にたどり着く。

 錆びたプレートには白文字で機材庫と記されていた。


「ここだよ」

「おう、開けんぞ」


 仁が扉を押し開けた瞬間――鼻を突く悪臭が溢れ出す。

 ライトを掲げると、そこには無数の死体が散乱していた。

 床一面に転がる化物の亡骸。

 その多くは頭部を噛み千切られ、腹部は抉られ、臓物が赤黒く広がっている。

 壁には爪痕のような裂け目が刻まれ、乾いた血が飛び散っていた。


「……っ」


 柊が思わず口元を押さえる。

 希望は目を覆われたまま、リナの胸に抱き寄せられていた。


「な、何これ……誰がやったの……?」


 桃が蒼白な顔で後ずさる。

 俺は息を呑み、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「これは、普通の化物じゃない」


 仁も木刀を握り直し、険しい目つきで頷く。


「喰ってやがるな……同族を」

「喰異体か」


 虎杖先生の低い声が、地下の空気をさらに重くした。


「やけに縁があるね。私たちも――」


 全員の顔に緊張が走る中、桃だけは意味が分からないというように首を振っていた。


「喰……異体? それって、どういう……」


 だが誰も答えられなかった。

 答えるより先に、この場所に長居する危険を全員が直感していたからだ。

 重苦しい沈黙を破ったのは、虎杖先生だった。


「ここは危険すぎる。バッテリーを探すのは後回しだ」


 周囲を見回しながら、声を落とす。


「まずは車に戻ろう。安全を確保してから、再度どう動くか決めるべきだ」

「ああ、オレ様も賛成だ」


 仁が低く唸るように言った。


「こんな惨状を見ちまったら、いつ喰異体が戻ってきてもおかしくねェ」

「わたくしも異論はありませんわ」


 リナが希望を抱き寄せたまま頷く。


「まずは安全な場所へ」


 柊も顔色を失ったまま、俺の袖を引いた。


「戻りましょう、桜我咲さん。ここにいるのは、よくありません」


 桃だけが不安そうに周りを見回し、震える声を絞り出した。


「じゃあ……ももちゃんも一緒に……行って、いいんだよね?」

「ああ」


 俺は短く答え、彼女を安心させるように頷いた。

 そして俺たちは、足早に機材庫を後にした。

 背後に残された異臭と、無惨な死骸が、じわじわと背中を押し立てるように追いかけてくる。

 階段を上がり、再びステージ裏に戻ったその時だった。


「――ぎゃあああああッ!」


 耳を劈くような悲鳴が、控室の方角から響き渡った。

 直後に、肉が裂ける湿った音と、骨の砕ける不快な音が重なる。


「な……!」


 柊が息を呑み、希望を抱きしめるリナの腕に力がこもった。

 俺と仁は顔を見合わせ、ためらう間もなく駆け出した。

 控室の扉を押し開けると――そこには、惨劇が広がっていた。


「チッ、遅かったか……」

「これまた酷いね」


 縛り上げていたはずの暴漢たちが、無惨な姿で床に転がっている。

 四肢は引き裂かれ、腹は抉られ、顔面は原形をとどめない。

 血の匂いがむせ返るほど濃く漂い、吐き気を誘う。

 そして、その血溜まりの中心に――それはいた。

 異様に膨れ上がった上半身。

 顔の位置には、耳孔のような無数の穴と、震える鼓膜めいた膜。

 細長い脚には金属片が突き刺さり、歩を進めるたびに「キィン」と甲高い音が鳴る。

 肩から垂れ下がる触手状の器官が、空気を撫でるように震えていた。


「……っ」


 俺は言葉を失った。

 唇も目もないはずなのに、俺たちを見据えていると錯覚させるほどの威圧感。


「……ッ……グゥゥゥゥ――」


 低い唸り声を響かせた瞬間、壁に立てかけられていたギターの弦が勝手に震え、共鳴音を立てた。

 同時に、スピーカーの残骸までもが「ブゥン」と震えだす。

 全身の毛穴が逆立つ。

 ――音そのものが、奴の眼だ。


「美琴様!」


 リナが俺の腕を掴む。

 だが、喰異体はそれ以上動かなかった。

 ただ、足元の暴漢の死体を最後にひと噛みし、ずるりと肉を啜る。

 そして次の瞬間。

 その姿が、空気に溶けるように揺らぎ――透明に、消えた。


「なっ!? 消えやがった!?」


 仁が叫び、木刀を構える。

 だが、どこからも気配はしない。

 残されたのは血溜まりと死臭だけ。

 俺は冷や汗を垂らしながら息を呑んだ。

 ――食事は終わった。もう興味はない。

 そう告げるように、奴は姿を消したのだ。


「もうここは駄目だ」


 虎杖先生が低く吐き捨てるように言った。


「車に戻ろう」


 誰も異を唱えなかった。

 俺たちは一斉にステージ前を駆け抜け、エントランスへと向かう。

 だが――。


「え、どうして!?」


 柊が立ち尽くした。

 そこにあるはずの出口は、分厚いシャッターで塞がれていた。

 内側から見ても隙間はなく、まるで最初から外界を拒絶するように、重々しく閉ざされている。

 仁が拳で叩く。ガン! ガン! と鉄の音が虚しく反響する。


「クソッ……開かねぇ!」

「完全に閉じ込められてしまいましたわね」


 リナが青ざめた顔で呟いた。希望を胸に抱きしめる腕に、力がこもる。

 俺はシャッターの隙間に耳を寄せた。

 ……風の音も、人の声も、何も聞こえない。


「まずいね」


 虎杖先生の言葉に、場の空気が凍りついた。

 仁が拳でシャッターを叩きつけた。


「非常口を探しますか?」


 柊が息を荒げて言う。

 だが、その時だった。

 外から、低く不気味な唸りのような音が響いてきた。

 それは風の音にも、機械の音にも似ていたが耳に届いた瞬間、胃の奥を鷲掴みにされるような不快感が走る。聞き慣れた化物の唸り声。


「さっきまで何も聞こえませんでしたよね!?」


 柊は突然の出来事に俺の表情を伺いながらそう聞く。

 希望が耳を押さえ、小さな悲鳴を漏らした。

 直後、再び外から複数の咆哮が呼応するように重なった。

 まるで見えない檻に囲まれたかのように、ライブハウスをぐるりと取り巻いていく。


「外、もしかして囲まれてる?」


 桃が青ざめ、俺の袖を掴んだ。

 虎杖先生が険しい顔で頷く。


「さっきの音。あれは奴の力なのか。外の化物どもを呼び寄せ、操っている……」


 確かに、窓ガラスは割れるかもしれない。

 非常口を蹴破れば、外に飛び出すこともできるだろう。

 ――だが、その先で待つのは、無数の化物に囲まれた地獄だ。

 俺は冷や汗を流しながら拳を握りしめた。


「つまり、ここから出ても生き残れないってことか」


 リナが小さく頷き、希望を抱き寄せる。


「外はもう罠ですわ。わたくしたちは……この中で、生き延びるしかありませんわね」


 重苦しい沈黙が場を支配していた。

 俺たちはエントランス近くのバーカウンターに身を寄せ、ひとまず体勢を整える。

 ステージの残骸と血臭が漂うこの場所が、安全とは到底思えなかった。


「無理に突破するのは自殺行為か……」


 虎杖先生が低く言い、カウンターに両手をついた。


「ならば、ここで持ちこたえるしかない」

「でも……どれくらいの数がいるんでしょう」


 柊が不安げに問いかける。


「もし数十とか、百とか……」

「百以上いても不思議じゃねぇな」


 仁が舌打ちし、木刀を乱暴に床に叩きつけた。


「外のあの声、化物が群れで待ち伏せしてる証拠だろ」

「それに」


 リナが希望を抱き寄せたまま、冷ややかに付け足す。


「透明になったあの喰異体が、まだこの建物のどこかにいる可能性がありますわ。わたくしたちの目を盗んで……」


 その言葉に、空気が一層冷え込んだ。

 桃は青ざめて両手を胸に当て、必死に笑顔を作ろうとした。


「で、でも……! ここライブハウスだし、物はいっぱいあるよね? 食料とか、飲み物とか! ももちゃん、冷蔵庫に色々残ってるの見たことある!」

「それは助かる……かな」


 俺はうなずき、気持ちを切り替えるように声を出す。


「生き残るには、とにかく準備が必要だ。食料、水、バッテリー。使えるものは全部かき集める」

「つまり、探索を続けるしかないということですね」


 柊が小さく息を整え、周囲を見回す。


「ライブハウスの内部を、もう一度きちんと調べましょう。何があるか、どこに危険があるか……把握しないと」

「うん……!」


 希望が小さな声で頷いた。


「希望もお手伝いするよ」


 その無垢な言葉に、ほんの一瞬、張り詰めた空気が和らいだ。

 俺は皆を見回し、強く息を吐く。


「よし。決まりだな」


 拳を握り、言葉を続ける。

 そして俺たちはいったんエントランス横のバーカウンターの探索を始める。

 床には割れたグラスが散乱し、棚にはホコリをかぶった酒瓶や缶詰が並んでいる。

 リナが手袋越しに棚を漁り、次々と物を取り出した。


「缶詰、乾パン、そして……水のボトル。意外と残っていますわね」

「お菓子もある!」


 希望が嬉しそうに、小さな手でスナック菓子を抱きしめた。


「わぁ、久しぶりに食べたいなぁ」


 その笑顔に場が少し和む。だが仁は鼻を鳴らした。


「だが酒ばっかり目立つな。こんなもん今さら役に立つかよ」

「いえ、消毒用には使えますわ」


 リナが即座に返す。


「まぁでもわたくしたちは飲めませんけど――」

「まぁ確かにそうだね」


 俺がそう言うと、桃がにやりと笑った。


「そっかぁ、美琴くんたち未成年なんだ。真面目~!」

「ちょっと、からかわないでくださいまし!」


 リナがむっと桃を睨み、再び小さな火花が散る。

 そんな二人を横目に、柊は小声で呟いた。


「でも、食料と水が見つかっただけでも一安心ですね」


 確かに、この発見は大きい。

 まだしばらくは、この中で生き延びられる。

 次に向かったのは、ステージ脇の廊下を抜けた先。

 出演者たちが使っていた楽屋だった。

 扉を押し開けると、むっとした湿気と汗と煙草の匂いが鼻を突く。

 鏡付きのドレッサー、壊れた椅子、床に散らばる紙コップや衣服。

 荒らされた形跡があり、暴漢たちがここを使っていたのは明らかだった。


「これは……」


 リナが机の上の白いケースを開けると、中には包帯と消毒液、鎮痛剤が整然と並んでいた。


「救急箱ですわ! 助かりますわね」

「これで怪我人が出ても応急処置できますね」


 柊もほっと息をつく。

 だが仁は棚を漁り、顔をしかめた。


「見ろよ」


 仁が取り出したのは、黒いバッグ。その中には、刃渡りの長いナイフが入っていた。


「やっぱり、暴漢ども、元から人を襲う気満々だったんだな」


 俺は奥歯を噛みしめる。


「結局、こんな世界になっても怖いのは人間か」


 嫌な空気が漂う中、不意に桃が「あっ」と声を上げた。

 彼女がドレッサーの隅から引っ張り出したのは、煌びやかなアイドル衣装。

 胸元にフリルのついたドレス、スパンコールが光を反射する。


「これ、昔、ももちゃんが着てたやつだ……!」


 桃は一瞬嬉しそうに抱きしめたが、すぐに顔を真っ赤にして慌てて衣装を後ろに隠した。


「み、見ないでっ! これは黒歴史だからっ!」

「そうですか、似合いそうですけどね」


 思わず漏らした俺の言葉に、桃はさらに赤面し、リナはぴくりと眉を吊り上げた。


「――美琴様? 余計なことを口にしない方がよろしいですわよ?」


 リナの冷たい微笑みに、俺は思わず肩をすくめた。

 そんなやり取りに、希望がくすりと笑い声を漏らす。


「みんな仲良しだね」


 緊張と不穏さの中で、小さな和みが広がった。

 そして次は再びステージ裏に戻り、奥の階段を下りていく。

 やがてたどり着いたのは、鉄扉で閉ざされた機材庫。

 仁が肩で押し開けると、そこには無数のケースや機材が積み上げられていた。

 ライトを照らすと、銀色のケースに照明、音響とステンシルされた文字が浮かび上がる。


「ここなら、使えそうな物があるかもしれませんね」


 柊が慎重に棚を覗き込み、埃を被った箱を開いた。


「ありましたわ!」


 リナが声を上げ、両手で抱えたのは黒光りする長方形のバッテリー。


「車の電源にも使えますわよ、これは」

「よし……!」

 俺は胸をなで下ろす。

「これで車を動かす可能性が繋がった」

「発電機もあるぞ」


 仁が奥から錆びた筐体を引っ張り出した。


「ただ、こっちは壊れてやがるな」

「とりあえず確保しておこう」


 虎杖先生が頷き、発電機に布をかけて持ち運びの準備を始める。


「外に出られる状況になったとき、電源があるのとないのとでは大違いだ」


 その時、希望がライトを手にして奥の壁を指さした。


「ねぇ……あそこ、まだ扉があるよ?」


 光に照らされた壁の一角、壁の一部が崩れていた。

 鉄骨がむき出しになり、瓦礫の隙間から重厚な鉄扉がのぞいている。

 本来なら棚か壁材で完全に覆い隠されていたはずだ。

 他の扉と違い、異様に古びており、錆と血痕がこびりついている。


「機材庫の構造図には、こんな扉は載っていなかったはずだが」


 虎杖先生も訝しげに近寄りかける。

 しかしリナが即座に止めた。


「今は開けない方がいいですわ。中に何が潜んでいるか分かりませんもの」


 重苦しい空気の中、その扉はただ無言で存在感を放ち続けていた。

 機材庫からバッテリーを確保した俺たちは、再びステージへと戻った。

 照明が砕け、ケーブルが絡み合い、舞台の上は瓦礫の山と化している。

 それでも、かつてここに人々が集い、音楽が鳴り響いていたことを想像させる残骸が残っていた。


「マイクが残ってますね」


 柊が舞台袖に転がる黒いマイクを拾い上げた。

 ケーブルはちぎれ、先端は煤けている。


「壊れてますけど、まだ電気を通せば使えるかもしれません」

「音響卓も残っているようだね」


 虎杖先生が指さした先には、ノブが半分折れたミキサーがあった。


「ただ、機能しているかは分からない」


 仁は壊れたスピーカーを足で小突き、低く舌打ちした。


「ガラクタばっかだな。音出したら化物が寄ってくるだけだろ」


 その言葉に、桃がぴくりと肩を震わせた。

 手にしていたマイクをそっと見つめ、か細い声で呟く。


「もし歌ったら……あいつ、また来ちゃうのかな」


 その一言に場が一瞬静まり返った。

 俺の背中に冷たい汗が伝う。

 ――確かに、さっきの喰異体は音に反応していた。

 ステージ上のギター弦やスピーカーが勝手に震えた、あの異様な光景。


「音が、あいつの眼なんだな」


 俺は吐き出すように呟く。


「逆に言えば、音で操れる可能性もあるってことです」


 柊が冷静に言葉を継いだ。


「危険ですが、音は利用できるかもしれません」

「なるほどな」


 仁が木刀を担ぎ直し、にやりと笑う。


「じゃあ、桃。お前が歌って――」

「やだやだやだっ! ももちゃんを囮にしないでっ!」


 桃は全力で首を振り、マイクを背中に隠す。

 涙目で俺の背にしがみつき、必死に抗議する姿に、思わず苦笑が漏れた。


「クハハ、冗談だよ」


 仁が肩をすくめる。


「さすがに囮作戦は危険だからね。俺も賛同は難しいかな」


 スピーカーの残骸に手を触れると、指先にひやりとした感触が残った。

 まだ、何かが残響しているように、不気味な沈黙の中、胸の奥に不安が広がっていった。


 ✿ ✿ ✿


 一通りの探索を終え、俺たちはステージ脇に集まった。

 バッテリーや救急箱、わずかな食料や水――最低限のものは揃った。

 だが、外には喰異体の声に操られた化物たちが群れている。

 ライブハウスを出るのは、あまりにも危険すぎた。


「……今日は、ここで夜を越すしかないようだね」


 虎杖先生が静かに結論を口にした。


「まぁ、仕方ねェな」


 仁が木刀を肩に担いだまま、舞台袖の床に腰を下ろした。


「外に出りゃ即死確定だ。だったら籠城しかねぇだろ」


 リナは荷物をまとめ直し、希望の髪を撫でながら頷く。


「休めるときに休むのが一番ですわね。希望ちゃんも疲れていらっしゃるでしょう」

「うん……眠い……」


 希望は大きなあくびをして、リナの膝に頭を預けた。

 柊はステージの残骸を見つめながら、小さく息を吐いた。


「皮肉ですね。人を楽しませるための場所が、こんな風に避難所になるなんて」


 桃は楽屋から持ってきたブランケットを抱きしめ、無理やり笑顔を作って言った。


「でも、ほら! ステージの上で寝られるなんて、ちょっと特別じゃない? ……アイドル時代でも、こんなの経験したことないよ」


「桃園さんはどんな状況でも前向きですね」


 俺が苦笑すると、桃は「でしょっ!」と胸を張ってみせる。

 その無理やりな明るさに、少しだけ救われる気がした。


「今夜は私が見張りをするよ。君たちはゆっくり休みたまえ」


 虎杖先生が舞台袖にランタンを置き、静かに周囲を見渡す。


「はい、分かりました。ありがとうございます」


 こうして俺たちは、ライブハウスの舞台裏を今夜の寝床と決めた。

 疲れ果てた仲間たちが次々に毛布に身を横たえ、やがて静かな寝息が暗闇に溶けていく。

 不気味な夜の帳が、音もなく降りていた――。


 ✿ ✿ ✿


 どれほど時間が経っただろうか。

 仲間たちの寝息が静かに響く中、俺はふと目を覚ました。

 舞台袖の床は硬く、毛布一枚では寒さを防ぎきれない。

 だが目が覚めた理由は、それだけじゃなかった。


「なんだ……この胸の奥に引っ掛かる違和感――」


 胸の奥がざわついていた。

 昼間見たあの扉が、脳裏にちらついて離れない。

 錆びつき、血痕にまみれ、他の出入口とは明らかに異質な――地下奥の鉄の扉。

 ……なぜか分からない。

 だが、どうしても気になった。

 眠れない苛立ちに押され、俺はそっと体を起こす。

 誰も起こさぬよう、音を立てずに立ち上がり、暗闇の中を階段へ向かう。

 ――その時。


「……美琴様?」


 背後から、小さな囁き声がした。

 振り返ると、毛布を羽織ったリナが薄暗がりに立っていた。

 眠たげな瞳の奥には、俺を案じる光が宿っている。


「どこへ行かれるおつもりですの?」

「……ちょっと。地下の……あの扉が、気になって」


 俺が答えると、リナは小さくため息を漏らした。

 それから、きゅっと毛布を握り直し、俺の隣に並ぶ。


「ならば、わたくしもご一緒いたしますわ」

「いや、危ないかもしれない。リナは休んで――」

「却下です」


 きっぱりとした口調。

 リナは俺の袖を取って、決して離さない。


「あなたを一人で行かせる方が危険ですわ。……それに、放ってはおけませんもの」


 袖をきゅっと掴まれ、俺は言葉を失う。


「……なに? どこ行くの?」


 小さな声がして振り返ると、桃がブランケットを抱きしめたまま目をこすっていた。

 寝ぼけ眼のまま、俺とリナを交互に見て首を傾げる。


「ちょっと用があって――」

「ももちゃんも行く!」


 説明しかけた俺の言葉を遮り、桃は慌てて立ち上がった。


「危ないからおすすめしませんわよ」

「そ、そうかもしれないけど……ももちゃん、まだみんなと上手く馴染めていないし……それに少しでもみんなの役に立ちたいの!」


 そう言って俺の腕にしがみつく桃。

 リナの眉がぴくりと動き、隣で冷ややかな笑みを浮かべる。


「……またですの?」

「だ、だって怖いんだもん!」


 桃は必死に言い訳しながらも、俺の腕を離さない。

 重苦しい沈黙の中、俺は頭を抱えるしかなかった。

 結局、リナと桃――ふたりに左右を固められる形で、地下への階段を降りていく。

 きしむ鉄骨の音。

 湿った空気が這い上がり、冷たい予感が背筋を撫でる。

 闇の底、機材庫の奥の扉。

 ――そこには例の、鉄の扉が待っていた。


「開けるぞ」


 俺は分厚い鉄扉を押し開けた瞬間、冷気と鉄臭い空気が押し寄せてきた。

 湿り気を帯びた風が頬を撫で、胸の奥がざわりと騒ぐ。


「……ここ、なに?」


 桃が小さな声を漏らす。

 扉の向こうにあったのは、狭いながらも書斎のような空間だった。

 壁一面を埋めるスチール棚にはファイルや論文の束が押し込まれ、机の上には黄ばんだ書類が散乱している。けれど、それらのほとんどは血に濡れ、乾いて固まり、ページ同士が貼り付いていた。無理に捲ろうとすれば、粉のように砕けて読めなくなる。

 ただ、ところどころ視界に飛び込んでくる文字があった。


「完全体、新人類……か」


 その断片だけで、この場所がただの書斎ではないことを雄弁に物語っていた。

 桃が思わず小さく声を漏らし、俺の背に隠れる。


「ここ……やっぱり普通じゃないよ……」


 リナは眉根を寄せながらも、机の上に散らばる紙片に目を落とす。


「……どれも断片的ですわね。まともに読めるものは残っていませんわ」


 その時、俺の視界にひとつの印が飛び込んできた。

 机の端に押しつけられるように刻まれた、奇妙なマーク。

 思わず息を呑む。

 ――見覚えがある。

 幼い頃、孤児院の地下室。埃まみれの壁や古びた机に、同じものが刻まれていた。

 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 俺の育ったあの場所は――最初から、この事件に関わっていたのか。


「美琴様……?」


 俺の硬直に気づいたのか、リナがそっと袖を引いた。

 桃も不安げに俺の横顔を覗き込む。

 喉が乾き、言葉にならない。

 ただひとつ、確かなのはここが俺の過去と繋がっているという事実だった。


「こんなの、音楽の場所に似合わないよ……。どうしてライブハウスの地下に」


 俺は答えられなかった。


「ねえ……美琴くんたちは、何を知っているの?」


 桃が小さく口を開いた。

 怯えながらも、どうしても気になって仕方がないというように。


「新人類とか完全体って……あの紙にも書いてあったし……。それに、ニュースで流れてたあの動画でも……言ってたよね?」


 その瞳は揺れている。まだ何も知らない彼女には、すべてが置き去りの言葉だった。

 俺はしばらく迷った。

 だが、この状況で黙っていることは、むしろ裏切りになるように思えた。


「そうだな。隠しても仕方ないか」


 やけに冷たい空気の中で、俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「桃園さん。俺は――人間じゃない」

「……え?」


 桃の瞳が大きく見開かれる。


「俺は、新人類と呼ばれている存在なんだ。クローンとして、実験で生み出された人間の模造品だよ」


 自嘲のように笑いながらも、胸の奥は痛んだ。


「俺は化物に噛まれても、血を浴びても、その力を取り込んで変異できる。それが俺の戦い方だ」


 桃は言葉を失い、震える唇を押さえた。

 リナが横から支えるように声を添える。


「ですが美琴様は――決して怪物ではありませんわ。むしろ、この状況で誰よりも人間らしく戦ってくださっています」

「でも……そんな……」


 桃は一歩後ずさり、だがすぐに首を横に振った。


「違う。私、怖がってるんじゃない……。ただ、びっくりしてるだけ。だって、美琴くんはちゃんと優しいじゃない……!」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 だが同時に、桃の真っ直ぐな眼差しが、なぜかリナの胸をざわつかせた。


「だからって、簡単に信じるものではありませんわ」


 リナの声は、書斎の冷えた空気を一段鋭くした。古びた革張りの椅子、煤けた背表紙の列、乾いたインクの匂い、すべてがその一言に緊張を足す。

 桃は小さく喉を鳴らし、胸の前でブランケットをぎゅっと握りしめる。


「……違うの。ももちゃん、軽い気持ちで言ってない! ほんとに、ほんとに思って――」

「本当に、という言葉ほど、逃げ道になるものはありませんわ」


 リナのまつ毛が影を落とす。上品な微笑の形は保ったまま、言葉だけが鋭利に尖る。


「信じる、と口にするのは簡単。でも、それは美琴様の重荷に触れるということ。あなたは、その重さを背負う覚悟をお持ちかしら?」


 桃の瞳が揺れた。だが下がらない。


「覚悟、あるよ。怖い。でも、逃げない。ももちゃん、ここにいたいって思ったの。美琴くんが、誰より優しいって分かったから」

「優しさは、ときに毒ですわ」


 リナが一歩、書棚の影から踏み出す。


「優しいからこそ、彼は自分を削ってしまう。あなたの信じるは、その傷口に指を触れる行為かもしれない――その想像が、できまして?」

「……じゃあ、どう言えばいいの?」


 桃の頬に熱がさす。言葉が少し乱暴になる。


「怖いです、信じません、って言えば、それが正解? 違うでしょ。誰かが信じなきゃ、ここで足が止まる。ももちゃんは、前に進みたいから言ってるの!」

「前に進む――ええ、素晴らしい志ですわ」


 リナの指先が、クロスボウの弦に触れて止まる。その動きは優雅だが、声は冷たい。


「ではお訊きします。あなたは、彼を前に進ませるために、何を差し出せますの? 言葉だけ? 涙だけ? それとも――あなたの命と心、その両方?」


 書棚の奥で、古びた木材がきしむような音がした。

 湿った空気がわずかに揺れ、天井から埃がはらりと落ちる。桃は唇を噛む。


「差し出すよ。ううん、差し出すって言い方は違う。一緒に持つの。重いなら、半分持つ。ももちゃん、そんなに強くないけど……強くなりたい。ここで見てるだけの子じゃいたくない」


 リナの微笑が、わずかに崩れる。


「言い方は綺麗ですこと。ですが、半分持つと口で言うのは容易くても、重さを測る秤も持っていないのに、どうやって均等に割るおつもり?」

「じゃあ、教えてよ」


 桃が一歩近づく。埃を被った本の背が肩に触れる。

 固着した紙がばきりと鳴り、書棚全体がかすかに震えた。


「リナちゃんは美琴くんの恋人でしょ。なら、どうやって彼の痛みを支えてるのか、教えて。私、真似するから。間違えたら直すから。――だめ?」


 リナの睫が震えた。嫉妬の色が、上品な仮面の隙間から滲む。


「真似……? あなた、恋を模倣品で済ませるおつもり?」


 声の温度が下がる。


「わたくしは美琴様を愛している。その上で覚悟を積み重ね、夜毎に迷い、朝にまた選び直している。あなたの今、思ったから信じる。という衝動に、彼の心を預ける気は毛頭ありませんわ」

「愛してるから、独り占めしたい、ってこと?」


 桃の声に、初めて怒りが混じる。


「分かるよ、その気持ち。でも……今は世界が壊れてる。独り占めして守れるならしてよ。だけど、独りじゃ守り切れないでしょ。だったら、ももちゃんにも守らせてよ」

「言葉遊びは、その辺に」


 リナの足音が床を鳴らす。距離が、もう一歩縮む。


「世界が壊れていようと、彼の境界まで壊して良い理屈にはなりませんわ。線を引くの。そこに踏み込むなら、礼儀と覚悟を示すこと――それが最低限の約束ですわ」

「じゃあ、その礼儀って何?」


 桃がまっすぐに見返す。涙が滲むが、引かない。


「ここで、土下座でもすればいい? そんな形だけのこと、いくらでもできるよ。でも、ももちゃんは形じゃなくて――これからの時間で証明したいの」


 書斎の奥、古い置き時計が止まったまま黙っている。

 沈黙の中で、二人の呼吸だけが熱を孕んでぶつかる。

 リナが吐息を細く落とす。


「時間で証明――結構ですわ。ならばまず、彼の秘密を守る誓いを立てなさい。ここで口にしたこと、これから知ること、すべてを命にかけて守ると。破った瞬間、あなたは敵です」

「誓うよ。命にかけて」


 桃は即答した。声音は震えていたが、迷いはない。


「でも、誓うだけじゃ足りない? だったら――私も戦う。怖いけど、戦う。歌う場所が化物を呼ぶなら、歌わない。必要なら、囮になる。だって……」


 一拍。桃はブランケットを握りしめた手を、ゆっくり解く。


「ももちゃん、助けてもらったから。あのとき、美琴くんが手を伸ばしてくれた。だから今度は、ももちゃんが誰かのために手を伸ばしたい。独り占めの反対って、見捨てないことだと思うの」


 リナの指先が微かに強張り、クロスボウの弦が小さく軋む。


「綺麗事を……」


 そこで言葉が途切れる。桃の瞳の真っ直ぐさに、嘘の影がないことを、リナ自身が一番よく分かってしまう。

 嫉妬が疼く。恋人としての場所が揺さぶられる恐怖が、喉の奥を焼く。


「そろそろやめようか」


 俺はふたりの間に身体を滑り込ませた。

 リナの手をそっと取る。握り返してくる指が、わずかに震えている。


「リナ。俺は、絶対に裏切らない」


 囁くように、しかしはっきりと。


「それから、桃園さん」


 桃の方へ視線を移す。彼女は涙をこらえながら、まっすぐ俺を見ていた。


「桃園さんの言葉は決して、軽くなんかない。誓いも、今、ここで受け取った。だけど、線は守る。俺のことも、みんなのことも、守るための線だ。分かってくれるかい?」


 桃は強く頷く。


「分かったよ。約束する」


 リナは唇を結んだまま、俺の手を少し強く握り返す。

 その力に、俺は静かに頷いた。


「……ありがとう、二人とも。ここで壊したくない。壊すために生き延びてるんじゃないよね」


 熱の残る沈黙。

 地下の淀んだ空気が震え、埃がふわりと舞い上がる。止まった置き時計の針が、ほんの一瞬だけカチと鳴った気がした。

 俺たちは同時に、音のした方へ顔を向けた。

 言い合いの熱が、じわりと冷めていく。

 ――嵐の前の静けさを、ようやく思い出したかのように。


 互いの言葉は棘を帯びていたはずなのに、最後に残ったのは、かすかな火照りと疲労感だった。

 俺は深く息を吐き、暗い書斎を見回す。

 棚に並ぶ本はどれも劣化し、触れれば崩れ落ちそうだ。

 それでも、この部屋がまだ何かを隠していることだけは分かる。

 ――得体の知れない何かが、俺たちを見下ろしている。

 沈黙の底で、古い木材がきしみ、小さな音が反響した。

 桃園さんが肩をすくめ、リナは無言でクロスボウに触れる。

 それ以上言葉は出てこなかった。

 俺たちは互いに視線を交わし、同時に頷いた。

 この先で何が待つのかは分からない。だが、もう引き返す道はない。


 ――第四章『花は歌い、獣は吠える ――前半――』終幕

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