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第三章『散華の朝』

 三日が経った。

 あの夜の笑い声も、温泉の湯気も、今では夢の底に沈んだ記憶のようだ。

 モール内の朝は今日も穏やかに始まる――はずだった。

 低い唸りが遠くから近づいてくる。

 地鳴りにも似たローター音。

 反射的に俺は外に出て、空を仰ぐ。

 そこには黒い機体が煙を引きながら傾いていた。


「……ブラックホーク」


 あの日の朝、リナとコンビニで見上げたあの記憶が胸を刺す。

 救助の象徴だったはずのそれが、今は死神の翼にしか見えなかった。

 次の瞬間、駐車場に叩きつけられる。

 爆発。火柱。吹きつける熱風。

 視界の端が白く揺れ、学校の屋上から見た旅客機の墜落が重なる。

 何もできなかったあの日と同じ匂い――焼け焦げた金属と血の匂い。

 ――その記憶を断ち切るように、低い声が耳に入る。


「――やっと見つけたよ、ボクの弟。ぬるま湯に浸かって、旧人類に混じるのは楽しかったかな?」


 体の奥が冷たくなる。知らないはずの声なのに、知っていた。


「オイ、美琴。大丈夫か!?」


 仁もいち早く異常に気づいたのか、すぐにモールを飛び出してこの惨状を目の当たりにする。

 そしてすぐに仁が低く唸る。


「ンでここにコイツがいやがる! 醜一!」


 仁が真っ先に駆け出した。煙と焦げた空気が入口に流れ込む中、そこにいた。

 俺と同じ顔。けれど決定的に違う、氷のような目。

 俺と同じであろう、造られた存在。桜我咲 醜一しゅういちがそこに立っていた。

 美琴おれと同じ顔。けれど、決定的に違う目だった。

 氷で刃をつくったみたいな、割り切れた光。

 仁が金属バットを肩に担いで、口角を吊り上げた。


「のこのこ一人でおつかいかァ? 完全体サマが、随分と暇じゃねェか」


 醜一は首だけわずかに傾けた。


「挑発は、弱者が選ぶ唯一の初手だ。――だが安心するといい、今日は教材を持ってきた」


 醜一は手にも持った銀のアタッシュケースをモール内に放り投げる。

 パチン――遅れて届く乾いた開封音。


 次いで、床を這う薄緑の靄。鼻を刺すような腐敗臭が嫌悪感を煽る臭い。

 モール内の二階からその靄を確認した柊が、普段からは想像できないような叫び声をあげた。それは警告だ――。


「下がってください――それは駅で流れたガスと同じです。吸えば化物になります!」


 言葉が終わる前に、悲鳴が割れた。

 周囲にいた数人が、胸を掻きむしり、眼を白く剥く。足が泳ぎ、口から泡が零れる。

 ――そして、立ち上がった時には、人間ではなかった。

 醜一は、その光景をただ眺めていた。


「キミたちが命と呼ぶものは、ボクにとってはただの素材だ。欠陥は修正される。この世界は、そういうふうにできていくべきだ」


 俺は踏み出す。仁が肩を並べた。

 拳を握る。腹の底に、熱と冷たさが同居する。


「美琴、アイツはぶっ倒す。それで構わねェよなァ」

「あぁ。端からそのつもりだ……」


 そのころ、モール内の二階では、ルイの声。工具箱をひっくり返して、銀色の筒を両腕で抱えている。


「ガスマスク、試作段階ッスけど、使えるッス! 直樹さん、真紀さん、柊さん、リナさん、希望ちゃん、黒っち、受け取って!」


 次々と渡される簡易マスク。布と活性層と、ペットボトルを改造した即席の濾過機構。

 肺に入る空気が、かすかに軽くなる。

 だが足りない。ルイが唇を噛む。


「仁さんと美琴さんは外、二人の分が渡せないッス!」

「なら、僕が持っていきますよ!」


 ルイの返事を待たずに、黒狼が二つ掴む。猫背のまま、二階の吹き抜けから身を翻し一階へ降りた。足音がやけに軽い。

 一方モール内の敷地、駐車場では只ならぬ緊張感が場を支配している。

 ――熱風がまだ頬を焼いていた。

 黒い煙柱と、入口へ流れ込む薄緑の靄。爆ぜたブラックホークの残響が胸骨の内側で震えている。

 俺の顔をした刃――醜一が、火の粉の中に立っていた。

 入口の奥で、悲鳴が割れていく。鼻腔を刺す腐臭。時間がない。

 俺は踵から踏み込み、一直線の突き――額の中心。

 だが当たらない。

 醜一の足裏が砂利を鳴らさず浮き、俺の拳を紙一重で外へ滑らせる。返しの肘は前腕でやさしく置かれ、腰の回転がそこで止まった。


「何だい? その生易しい攻撃は――」


 みぞおちに掌底。肺が畳まれる。視界が白く点滅した瞬間、続いて仁の横薙ぎが唸る。

 甲高い音。

 二本の指で受け止められた。柄がきしみ、仁の腕ごと軌道を外に投げられる。

 追撃の膝を差し込む――触れたのは、俺たちの方だった。

 醜一の手は、ほんの触れる圧で重心だけ崩す。

 仁の足が半歩、勝手に後ろへ滑った。

 俺は距離を潰す。前脚でフェイント、上段回しからの軸足切り替え――。

 頬にかすった。確かな手応え、血の線。

 ……だが、消える。

 切り口が蕾のように寄り戻り、血が逆流して傷を塞いだ。ほんの呼吸一つぶんの間に。


「再生能力、しかも俺よりも早い……」


 醜一は肩を竦めるだけだ。


「完全を志向すれば、ルールは書き換わる」


 仁が吠える。


「書き換えだァ? ンなのはァ、現場叩き上げのルールで十分だッ!」


 踏み込み、踏み込み、踏み込み。執拗な連打。

 だが当たっても、軽くいなされる。重さだけが足元へ落ち、体力が削れる。


「仁、大丈夫か!?」

「クハハ、気にすんじゃねェ」


 俺は膝をつく仁を守るように角度を変える。

 肘、膝、肩、頭――人間の関節が持つ最短距離の汚い連携。

 肘が頬骨をかすめた瞬間、反対の膝が脇腹をえぐり、肩の衝撃で距離を潰す。型も礼もない、ただ倒すためだけに設計された動き。

 骨と骨の軌道が最短を描き、肉を叩き、呼吸を奪う。美しさなど欠片もない。

 けれど、それが今の俺にできる最速の殺意だった。


「はぁ……この程度かい?」


 醜一の目が、わずかに細くなる。

 避ける。受ける。当てさせたうえで無効化する。


「しまった――。関節を殺す位置にいなされた……全部、誘導されてる」


 仁が割って入り、上から叩き落とす。


「クソが、こっちは二人だッ!」

「キミたちのとの戦力は数で埋まる差じゃない」


 醜一の踵が砂利を一粒だけ鳴らし、仁の手首を指先で叩く。

 それだけで、握力が一瞬抜けた。空いた懐に軽い膝。仁の身体がくしゃりと折れる――殺し切らない浅さで。


「彼らもそうだ。ボクに銃火器を突きつけ攻撃をしてきた」

「だが無意味。反撃をして数を減らせば救援を要請する。数で押し切ろうとするその無力さ……今のキミたちと同じだ」


 きっと彼らとはあのブラックホークに乗っていた人たちなのであろう。正義を貫き通した人間の姿を醜一は嘲笑う。


「助け合おうとする姿の何が可笑しいっていうんだ……誰かのために、何かのために成し遂げようとする人間の姿勢は美しいはずだろう」


 俺は躊躇を捨て、喉へ一直線。

 寸前で止める人間のためらいを、今回は捨てた。

 それでも届かない。

 喉元に俺の拳が来るより早く、醜一の掌が胸骨のちょうどよい位置に置かれる。

 肺がまた畳まれ、視界が点滅する。


「なぜキミは、まだ人間であろうとする。……そんなもの、とうに死んだ両親が証明してるだろう?」


 喉の奥で何かが切れた音がした。怒りか、恐怖か、名前のつかない熱。


「――それでも、俺は人間でいたい。守りたいものがあるからだ」

「はぁ……それは優しさだ。最初に捨てるべき旧人類の欠陥」


 一瞬の隙。

 仁のバットが側頭部を捉えた――はずだった。

 ゴン、と鈍い音。手に手応え。

 なのに、醜一は首をわずかに傾けただけで、姿勢が崩れない。

 打撲の痕が浮き、すぐに消える。

 仁が歯を剥く。


「……化けモンがよ」

「呼称はどうでもいい。生き残った方が、名付ける」


 俺は再び距離を切り、足を割り、影になる。

 右の拳を囮に左の刃手、同時に膝を差し込む。

 醜一は視線を俺から外さないまま、仁の突進を触れるだけで散らし、俺の刃手を指で挟み、膝の支点を外す。

 地面が背中に近づいた。砂利が皮膚を裂く前に、体を捻って受け身――肋骨がきしむ。

 息が合わないわけじゃない。

 技が足りないわけでも、気持ちが負けているわけでもない。

 それでも、届かない。

 届いても、間に合わない。

 醜一は喉元に手刀を浮かべ、そこで止めた。

 血の線が一筋、顎へ落ちる。

 その時だった――。黒い影が現れる。

 モールの中から飛び出した影はすぐさま醜一に迫りそのかぎづめで彼の喉笛を掻っ切る。

 眼前を血しぶきがが覆う。


「美琴さん。彼はこの程度では死なないのでしょう!」

「あぁ、追撃だ!」


 醜一は相変わらず俺だけを見ていた。仁が踏み切り、黒狼が床を滑る。三方向同時に攻撃を仕掛ける。

 たった一音。靴底が砂利を鳴らさないスライド。

 仁のバットは二本の指に摘まれ、黒狼の爪は肘の面で柔らかく殺され、俺の拳は頬の紙一重を撫でて空を切る。

 返しの肘を入れると、胸骨のちょうど良い位置に掌が置かれ、肺が畳まれた。


「何度仕掛けてきても同じだろう。この戦いは数で埋まる差じゃない。――仕組みの差だよ」


 黒狼が低く回り込む。踵でアキレス腱を狙う角度、爪は頸動脈の線へ。

 醜一は視線一つ寄越さず、膝裏をそっと外して黒狼の重心を置き、指先で爪の支点を跳ねて無力化。

 仁の二撃目は柄元を押され軌道が折れ、逆に肩で地へ叩きつけられる。

 ――届かない。

 なら、届かせる。


「……グラ、起きろ」


 おもちゃの注射を腹へ突き刺す。心臓が背骨を殴り、腰から黒い尻尾がうねり出た。先端が四つに割れ、牙を覗かせる。

 同時に踏み込む。

 俺は正面で牽制、仁は頭上から落とし、黒狼は背に回る。

 グラの顎が脇腹を噛み千切る。拳が頬骨を砕き、バットが側頭部を叩き、爪が肩甲を裂く――。

 だが全く。手応えが、ない。

 裂けた肉が蕾みたいに閉じ、血が逆流して穴を埋め、砕けた骨が内側から押し出す力でグラを吐き出した。

 黒狼が舌打ちし、仁が唸る。

 醜一の眼に、ようやく微熱が灯る。


「そうだ。それでいい。それが美琴だ」


 胸ポケットからアンプル。奥歯で噛み割り、舌下に落とす。

 体表の影が濃くうねり、右前腕の皮膚が音もなく裂けて、機能だけの刃が生まれる。

 指先には米粒大の銃口めいた孔。


「進化は慈悲ではない。選別だ」


 消えた、と錯覚する速さ。

 次に見えたのは、グラの尾が二寸ほど空で跳ねる光景。

 同時に喉へ冷たい細線。刃が皮膚を撫で、赤い一筋が落ちる。

 パス、パス、と空気が裂け、見えない弾が肩と脇腹を穿つ。

 仁が吠えて突っ込む。柄を叩かれて握力が一瞬抜ける。そこへ軽い膝――殺しきらない浅さで肺だけが折れる。

 黒狼のかぎづめは火花一つ散らして押し返され、肩口に掌底が触れた途端、床へ吸い込まれた。

 俺はグラを巻き、背面から脊髄を狙って突き入れる。

 ――入った。硬質が砕ける確かな音。

 だが内側で新しい骨が瞬く速度で形を取り、異物である俺を押し返す。

 膝が笑い、尾骨に痺れが走る。

 三人で囲む。

 それでも、間に合わない。

 当たっても、無かったことにされる。

 刃が俺の眉間でふっと止まった。

 醜一は微笑だけで言う。


「ねぇ美琴。どちらが正しく壊れたか、続きをやるなら静かな場所がいい」


 仁が歯を剥く。


「逃げンのか!」

「違う。順序を選ぶ。壊す相手と、見せる相手を」


 刃は霧みたいに皮膚の下へ戻り、傷一つ残らない。

 彼は踵を返し、モールの奥の靄へ視線だけを投げる。


「覚えておくといい、弟よ。希望は――人間が死にきれないための言い訳だ」


 黒い影が風に溶けた。足音は最後まで一つも残らない。

 残ったのは、膝の重さと、尻尾の欠片、遅れてやってくる痛み。

 仁がバットを杖に立ち上がり、黒狼が肩で息を吐く。


「今のままじゃ、勝率は……ゼロだな」

「でも、まだ終わってない」


 モールの中から悲鳴が上がる。

 俺たちは頷き合い、崩れた入口へ駆け戻った。


 ✿ ✿ ✿


 非常灯が赤く瞬く。二階の通路を見下ろせば、薄緑の靄が床を這い、エスカレーターの段差ごとに滞留している。鼻の奥に、鉄と腐敗が混じった匂いが刺さった。


「上へ――! しゃがまないで、風のある場所に向かってくださいませ!」


 リナは声を張り上げる。大声は奴らを呼ぶ。それでも立ち止まらせる方が致命的だとわかっていた。

 一階から、悲鳴が千切れたように上がる。さっきまで名前を呼び合っていた顔が、白目を剥いてこちらを見上げてくる。制服の胸元には、昨日までの生活の折り目がそのまま残っていた。

 矢はその折り目を貫き、額の中央で止まる。


「……ごめんなさい」


 引き金を絞った指が震える。抜けた矢に骨の感触が伝わり、喉の奥が酸っぱくなった。落ちた髪留めが床を転がり、チリ、と小さな音を立てる。音に釣られて、別の化物が首を巡らせた。


「リナさん、右ッス!」


 ルイの声に、リナは体をひねり、音の源のさらに奥へと矢を撃ち込む。額、眉間、のど――三連続の乾いた衝突音。倒れた死体が通路の柵になり、避難者の背を守る。


「ルイさん! シャッターを半分だけ降ろしてちょうだい。風を作るわ」

「なんで半分ッス? 全部閉めた方が……」

「全閉めると酸欠になるし、ガスも残る。隙間を開けておけば風が通るの。流れを作って押し返すわ!」


 ルイは短く頷き、スパナを腰に差し替えてシャッターへ走った。

 鎖が鳴れば化物を呼ぶ。タオルを巻いた手で鎖を包み、音を殺してゆっくりと下ろす。

 肩幅ひとつ分の隙間から、冷たい風が流れ込み、靄を押し返していく。


「顔を覆って! マスクがない人は服を濡らして!」


 虎杖先生の声が階段室から響く。片腕で幼子を抱き、もう片方でドアを押さえながら、群衆の流れを押し上げていた。

 鬼灯先生は脚立と看板で出入口に即席のバリケードを組み、視線だけで人の詰まりを潰していく。


「柊さんと希望ちゃんは先に屋上へ! 踊り場で止まらないで!」

「鬼灯先生――はい、わかりました。希望ちゃん、お姉ちゃんから手、離しちゃダメだよ」


 希望の小さな手が袖をぎゅっと掴む。

 背後で誰かが転び、靴音が高く跳ねた。三体の化物が一斉に振り向く。

 リナは矢を捨て、足元のマネキンの脚を掴んで床に叩きつける。

 派手な破砕音が響き、化物の視線を引く。その刹那、腕時計を通路の柱に投げつけ、カン、と高い金属音を響かせた。奴らがそちらへ走る。


「今ですわ、行って!」


 避難者がすり抜ける。風が背を押す。吹き抜けを通る空気がシャッターの隙間から吸い込まれ、靄が薄まっていく。

 ルイが戻ってきて、背後から迫った一体の膝をスパナで叩き折った。潰れた脚が床に沈む。


「倒さなくても……止め方を選ぶッス」


 リナは頷き、倒れた頭部へ一矢。静かに、確実に息を止める。

 スポーツ店のシャッターの隙間から、低い唸り声。足音が増えていた。


「ルイさん、風をもう一つ作れるかしら?」

「作れるッス。……でも音がデカいッスよ」

「じゃあ、わたくしが囮になりますわ」

「ダメッス!」


 ルイは非常ベルのカバーを外し、スイッチを押し込んだ。甲高い警報が響き、化物たちの首が一斉に音の方へ向く。


「十秒だけ! 十で切るッス!」


 そのまま別通路に駆け込み、消火器を床に噴射。

 白い粉末が壁を作り、靄を押し返す。

 リナはその陰から二本、三本と矢を放ち、音源から遠ざかる道を切り開いた。


「十――!」


 警報が途切れ、化物が流れていく。通路にわずかな隙間ができた。


「屋上へ! 止まらないで!」


 虎杖先生が最後尾を押し上げる。

 階段室に風が通り、靄が剥がれていく。扉が開き、冷たい空が見えた。

 リナは振り返る。矢筒は軽い。残り四本。ルイの掌は血で擦り切れ、スパナの柄に赤い帯ができていた。


「ルイさんは先に上へ」

「リナさんは?」

「最後の二組を上げたら行きますわ。――行ってください」

「絶対に上がってきてくださいッス」

「絶対に」


 扉が閉まる。

 金属音が短く響く。

 残ったのは呼吸と足音と、矢四本分の未来だけ。

 通路の角で、学食で見た顔がこちらを向いた。手からスマホが滑り、チリ、と音を立てる。その音に化物が振り向く。

 狙いは真ん中。いつも通り。


「……本当に、ごめんなさい」


 放たれた矢は、もう言葉の届かない場所に届いた。

 その瞬間、階段室の下から鈍い衝突音が響く。

 屋上は安全――でも永遠じゃない。

 最後の二組が踊り場を曲がって消える。リナは胸に手を当て、苦い味を噛み潰す。


「終わってから――泣きますわ」


 誰にも聞こえない声で宣言し、最後の通路に踏み込んだ。背中を、冷たい風が押した。


 ✿ ✿ ✿


 ――醜一の影が煙の向こうへ溶けた。

 耳鳴りだけが残る。肺の奥が焼けるみたいに痛い。グラの尻尾を引き戻しながら、俺は一度だけ長く息を吐いた。


「終わっちゃいねェな」


 仁がバットを杖みたいに突き、低く言う。


「あぁ。とりあえずリナたちと合流しないとな」


 黒狼が無言で頷きルイが作ったガスマスクを装着する、そして猫背をさらに沈めて前へ歩く。俺と仁も黒狼から手渡されたガスマスクのゴムを耳に掛ける。鼻先に当たるフィルターの匂いが、金属とも薬品ともつかない刺激を残した。


「……行くか」


 俺の声はマスク越しで籠もる。

 モールの自動ドアは破壊され、風が靄をかき混ぜながら出入りしている。

 中は、静かだった。

 いや――人の声がないだけで、完全な静寂ではない。

 化物の低い唸りが、どこかの通路からじっとりと這ってくる。

 足元でガラス片が軋み、靄の向こうに黒い影が揺れた。


「……数は減ってやがるな」


 仁の低い声。


「減らしたんだ、リナたちが」


 俺は短く返し、靄の少ないルートを探る。

 二階へのエスカレーターは止まり、段差に沿って靄が溜まっている。

 踏み込む前に、仁が小さく指を鳴らし、俺たちは同時に駆け上がった。

 息を止め、金属の感触が靴底から響く。

 踊り場に辿り着くと、そこで目に入ったのは――壁に残る矢の痕と、散った黒い飛沫。

 床には二つの影。額の中心に綺麗な穴が開いている。


「眉間に一発。凄まじい命中率ですね」


 黒狼が呟いた。

 さらに奥。半分だけ降ろされたシャッターが、僅かに揺れていた。そこから吹き抜けの風が通り、靄を薄めている。

 俺は一目で意図を察した。


「閉じきらずに、通したのか。風と……命を」


 仁が小さく笑い、だがすぐ口を噤む。

 進むたび、見慣れた顔が視界に入る。

 食事を囲んで笑っていた奴。一緒にトランプをした奴。くだらない話をして、眠った奴。

 今は、目が虚ろで、俺たちを見ている。

 ためらえば、噛みつかれる。ためらわなくても、胸が軋む。

 一体、また一体。

 俺の刃手が眉間を割り、仁のバットが音もなく振り下ろされ、黒狼の爪が頸動脈を断つ。

 それは戦闘というより、眠らせる儀式に似ていた。

 三階の扉を押し開けると、湿った空気がまとわりついた。

 通路の蛍光灯は半分以上が割れ、ガラス片が足裏にじゃり、と嫌な音を立てる。

 すぐ右手の店先には、倒れたマネキンと、その影に沈む人影。

 近づけば、制服の袖口に見覚えがあった。名前は出てこない。

 でも、数日前に配給の列で「醤油あります?」と笑っていた顔だ。

 ——安らかに、なんて言葉は、ここじゃ使えない。


「これは……?」


 階段室へ続く踊り場に、赤いタオルが結びつけられていた。


「これはルイが普段使っているタオルですね。僕たちへの目印だと思います」


 避難経路の印だろう。仁がそれを指で弾き、「生きてやがるな」と嬉しそうに笑う。

 俺たちは頷き、四階へ上がる。

 四階は、工具のフロアだ。

 工具店の前では、棚が横倒しになり、通路を塞いでいた。

 そこに、二体。

 ひとりは顎をだらりと垂らし、もうひとりは腕を棚に挟まれたまま動けず、低く唸っている。

 仁が一歩前へ出て、バットの先で棚を押し込み、頭部をまとめて砕く。


「慣れちまったもんだな――」

「こんな作業には慣れたくはないけどね」


 そんなやり取りも、声は小さく。

 化物は減った。だが、ここまで運ばれた足跡が残っている。リナたちは、確かに通った。

 最後の階段を上がる。

 五階は、娯楽とレストランのフロア。照明は完全に落ち、非常灯が赤い影を床に伸ばしている。

 ——この先に、屋上。

 ドアを開ける瞬間、胸の奥がざわめく。

 無事であってくれ。

 俺は足を踏み出す。

 屋上の空は、もう夕暮れの色に染まりかけていた。

 風がガスの残り香を押し流し、乾いた空気が肺に入る。

 その中央に——リナ、柊、希望、ルイ、虎杖先生、鬼灯先生。

 皆、息を荒げながらも、こちらを見て立っていた。


「……美琴様! 心配いたしましたわ!」


 リナが小さく笑う。その声に、張り詰めていた何かがほどける。

 仁がバットを肩に担ぎ直し、黒狼は無言で頷く。

 俺は短く言った。


「ただいま」

「えぇ、おかえりなさい。美琴様……」


 屋上に吹く風は冷たく、けれどその冷たさすら、焼けついた肺を洗い流すようで心地よかった。

 ――ほんの数秒前までは。


「生存者はこれで全員か……少ねェな」


 仁が低くつぶやく。

 目に映る生存者は、せいぜい百数十人。ついこのあいだまで三百を超えていたはずの集団は、抜け落ちた歯並びみたいに空白を抱え込んでいる。

 その時だ。


「……おい」


 背中へ突き刺さるような声。振り返ると、縫い目のほつれたジャンパーの男が、こちらを指さしていた。


「お前……あいつの家族か何かなんだろ」


 手のスマホが傾き、割れた液晶に空の色と火の粉が滲む。画面の中で、醜一が笑わない目で立っている。

 俺と同じ形の顔。俺とは違う、氷でできた視線。


「見りゃわかる。瓜二つじゃねぇか……!」


 男の喉は恐怖と怒りでかすれていた。

 そして――爆ぜた。


「お前のせいで……世界がめちゃくちゃなんだ!」


 叫びは乾いた空を伝って、あっという間に連鎖する。


「そうだ……お前のせいだ!」

「ふざけんな! お前のせいで家族が!」

「お前があいつを連れてきたんだろ!」


 指が伸び、唾が飛び、声が重なる。

 お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで――。

 足元がふっと軽くなる。

 視界の縁が白く泡立つ。

 仁も黒狼も、そこにいるはずなのに、遠い。

 誰かが庇えば、その人まで巻き込む。

 だから、何も言わないでほしい。何もしないでほしい。

 俺のせいだ。

 俺の――せいなんだ。


「……ごめん……なさい……」


 零れた声は風に削られて消え、けれど怒号は止まない。

 一言ごとに、俺の中の何かが、静かに割れていく音がした。


「…………」


 心が挫けそうだ。逃げ出したい、情けなくそう感じる。

 俺だって望んでこんな世界は望んでいない……。

 しかし現状、どんなに弁解しても火に油を注ぐだけだ。

 あふれ出しそうになる感情を抑え込むと、それが涙になって零れそうになる。

 ――挫けそうだった。しかしそんなとき、肩に温もりを感じた。

 真紀さんだった。

 何も言わず、ただ抱きしめてくれる。洗剤の匂い。細い腕なのに、不思議と息ができる。

 耳元で、静かな声。


「美琴くん、あなたのおかげで、多くの命が救われたわ。ありがとう」


 次の瞬間、空気が切り替わる音がした。

 普段は穏やかな直樹さんの声が、雷鳴のように響き渡る。

 その瞬間、屋上の空気がぴたりと止まり、罵声を投げていた人々が息を飲む。

 直樹さんは、もう優しい笑みも穏やかな声色も纏っていなかった。

 握りしめた拳は白くなり、眉間に深い皺が刻まれている。

 真っ直ぐに人々を見据える視線は鋼のように硬く、ひとりひとりを撃ち抜く。


「ここは避難所だ。裁判所じゃない」


 靴底がコンクリートを叩き、低く響く。


「誰かを打ち据えて腹が膨れますか? 恨み言で死者が帰ってきますか?」


 その声には、押し殺した怒りと、これ以上大切な人を失いたくないという焦りが滲んでいた。


「この少年は、命を懸けて僕たちを守ったんだ! 立体駐車場の化け物だって、彼がいなければ全滅だった!」


 言葉が震え、最後は声がかすれる。だが、目の奥に宿る光は一切揺らがない。

 それは、俺を守るためなら自分の評判や立場などどうでもいい――そんな覚悟が伝わる怒りだった。

 屋上に、音のない震えが広がって、やがて静寂が落ちた。

 誰かがスマホを下ろす。誰かが帽子を取る。子どもが泣き止み、遠くで金属のきしむ音だけが続く。

 真紀さんの腕の中で、俺はようやく息を吸い直す。

 冷たかった風は同じ温度のままなのに、さっきより少しだけ肺が広い。

 胸の奥で、砕けた何かの欠片が、かろうじてつながり直す感覚があった。

 顔を上げると、仁と黒狼がまだ遠い場所に立っているのが見えた。

 ――それでいい。今は、それでいい。


 ✿ ✿ ✿


 ――ガスが抜けたと確認が取れたのは、日が傾きかけた頃だった。

 屋上で数時間、ただ風と沈黙に耐えていた体は、立ち上がるだけでも重かった。

 非常階段を降りると、モールの中は戦いの匂いをそのまま抱えていた。

 焦げた煙と、血の鉄臭さ。湿った布のような腐臭も混じり、息を吸うたびに喉の奥がひりつく。

 割れたガラスが靴底で小さく鳴り、埃が足元を這う。

 フードコートは黒く煤け、壁は所々崩れ落ちて骨組みを晒していた。

 倒れた椅子やテーブルを起こし、割れた皿やカップを袋に詰める。

 その音が、異様に響く。

 誰も口を開かない。会話をすれば、片付けているのが血か破片か、遺品かが、はっきりしてしまうから。

 モップを押し出すたび、赤黒い跡が広がり、バケツの水が濁っていく。

 バケツを交換する間にも、遠くで誰かが瓦礫をどかす音、棚が倒れる音が聞こえた。


「……これ、持ち主は?」


 柊が拾い上げたのは、小さな子供用の靴。片方だけだ。

 答えられない。答えれば、その子がもうここにはいないと認めることになる。

 柊は黙って靴を袋へ入れ、また別の破片を拾いに歩き出した。

 仁は重たい棚をずらしながら、短く息を吐く。

 黒狼は無言でガラス片を集め、ルイは壊れた扉の蝶番を直している。

 みんな、生き残った者のために手を動かしているはずなのに――空気はどこまでも重い。

 外では、遺体を運ぶ人の列がゆっくりと進んでいた。

 シートに包まれた体が並び、名前のわかる者には紙札が付けられる。

 わからない者は、ただ静かに土の中へ。

 スコップが土を掻く音が、やけに耳に残った。

 俺は手を止めない。止めれば、泣きそうになるから。

 守れなかったものの重みが、瓦礫の粉塵と一緒に肺に積もっていくようだった。


「…………」


 掃除の合間、作業に紛れて腰を下ろす。

 先ほどの怒号の嵐と、醜一の冷たい表情が脳裏をちらついた。


「パパ、大丈夫?」

「あぁ……ごめんね。希望、ちょっと疲れちゃったみたいだ」


 自分でもわかる。作り物の笑顔だった。

 希望はそれに気づいたのか、何も言わず、ただ手を強く握ってくれた。

 ――ただただ、ありがたかった。


「希望ね、絶対にパパの味方だからね――」

「困ったり、泣きたくなったら……いいんだよ」


 希望の瞳に、俺はどう映っているのだろう。

 彼女の父親の影か……だとすれば、希望が真実を知った時、それでも俺を味方だと言ってくれるのだろうか。

 ダメだ……心が、脆くなっている。


「……ごめんね、希望――」


 少女を抱きしめた。強く、ただ強く抱きしめる。

 声を殺しながら、一筋の涙が頬を伝った。


「希望ね、大人も泣いていいと思うの……でもね、大人はみんな恥ずかしがり屋さんだからね。希望は何も見てないんだよ」


 そう言って、希望はその細い腕で俺の頭を両手ごと抱きかかえ、視界を隠すようにしてくれた。

 俺は数分だけ、少女の言葉に甘えて泣いた。

 その温もりが、胸の中の亀裂をほんの少しだけ繋ぎとめてくれる気がした。


「パパ、もう大丈夫?」

「あぁ、ありがとう。希望」

「えへへ、いいんだよ」


 希望の腕の中で泣いた時間は、ほんの数分だった。

 それでも、立ち上がる頃には、全身が鉛のように重かった。

 埃っぽい空気を吸い込みすぎたせいか、胸の奥がざらつく。

 背後から、規則正しい靴音が近づく。


「……美琴様」


 振り返ると、埃をまとったクロスボウを肩に掛けたリナが立っていた。

 髪は乱れ、制服の袖口は煤で黒く汚れている。それでも、その瞳はまっすぐこちらを射抜くように見ていた。


「……ずっと探しておりましたわ」

「探す必要なんてなかった。俺は、ただ……」


 続けかけた言葉が喉に引っかかる。

 本当は「ただ消えてしまえばよかった」とか、「ただ邪魔にならないようにしていたかった」とか、そんな後ろ向きなことを言いそうになった。

 でも、それを口にすれば、リナを傷つけるとわかっている。

 だから、言葉ごと飲み込む。

 リナは一瞬だけ眉を寄せたが、責めるような色はなかった。

 ただ俺の目をまっすぐに見て、静かに首を横に振る。


「少し、お顔の色が優れませんわね」

「……そう見えるか」

「ええ、とても」


 あっさりと言われ、苦笑すら出てこない。

 沈黙が落ちる。周囲では瓦礫を片付ける音、ガラスが袋に落ちる音が響いている。

 リナはしばらく俺を見つめてから、視線を逸らさずに言った。


「無理をなさらないでくださいまし。あなたが倒れれば――困る人が、わたくしを含めて何人もおります」


 その言葉は、静かに胸の奥へ沈んでいった。


「……困る人、か」

「ええ。困るというより……失いたくない人、ですわ」


 目を合わせるのが怖くて、わざとモップを手に取る。

 だが、リナは俺の横に立ち、同じ動作で床を拭き始めた。

 モップの先が赤黒い跡を薄く伸ばしていく。


「……本当は、何か言葉をかけるべきなのでしょうけれど」

「無理に言わなくていい。今は一緒にいてくれるだけで助かるよ」


 そう言うと、リナはふっと目を細めた。


「なら、今日はそれで」


 短いやり取りだったが、不思議と胸の奥に少しだけ空気が入った気がした。

 声を掛けず、ただ隣に立つ――それだけで、息がしやすくなることがあるのだと、この時知った。

 日が完全に落ちる頃、清掃はようやく一区切りついた。

 壊れた店舗は板で塞がれ、血の跡も目立たなくなったが、染みついた匂いまでは消せない。

 焦げと鉄と埃が混ざった空気が、夜の静けさの中にも重く漂っていた。

 モールの広場には、小さな焚き火がいくつも灯されていた。

 炎が壁や天井に揺らぐ影を映し、人々の顔を赤く染める。

 誰も大きな声を出さない。

 火が爆ぜる音と、遠くの金属のきしむ音、時折の咳だけが夜を満たしていた。

 焚き火のそばで、子どもを毛布にくるんであやす母親。

 ぼんやりと炎を見つめるだけの老人。

 瓦礫を避けて歩く影。

 その一つひとつに、今はもういない誰かの不在が滲んでいる。

 俺は焚き火の輪から外れ、暗い通路に足を運んだ。

 外へ続くガラス扉の向こうは、街灯もなく、闇が地平まで広がっている。

 ――ここに長く留まれば、また誰かを失う。

 その思いが、冷たい水のように胸の奥に沈んでいた。

 そんなとき、背後から足音が一つ。振り返れば、リナが立っていた。

 彼女は何も言わず、ただ俺と同じ方向を見て、隣に立った。

 言葉がないのに、少しだけ息がしやすくなる。

 そのまま、夜の闇に炎の赤がゆっくりと溶けていくのを眺め続けた。

 夜は深まり、焚き火の明かりが壁に揺れる影を伸ばしていた。

 その影をぼんやりと見つめながら、俺は隣に立つリナへ口を開く。


「俺がここにいると、またあいつがここに来るかもしれない。だから……俺は、この場所を離れるよ」


 短い沈黙のあと、リナは微笑み、そっと俺の肩に頭を預けた。


「わたくしは、どこまでもお供しますわ」

「本当にいいのか? 危ないぞ?」


 思わず問い返すと、リナは目を閉じたまま、あの日の夜を思い出すように口を開く。


「あの夜――お互いの存在を証明し合いますと、誓ったではございませんか」


 胸の奥に、温かいものが広がる。

 引き離すなんてできない。こんなにも、自分を信じてくれる人を。

 リナはふっと笑い、「それに……」と続けた。


「美琴様を信じている人は、あなたが思っている以上にたくさんいますわ」


 その言葉に合わせるように、仁や柊、希望、黒狼、ルイ、虎杖先生、鬼灯先生が近づいてきた。

 仁は無言でバットを肩に担ぎ俺を見て笑う。


「クハハ、テメェ一人じゃ退屈だろ。それにあの醜一って奴に一発ぶち込まないと気がすまないんでね。テメェと一緒にいる方が都合がいいってわけよォ」


 そう言ってバットを肩に担ぎ直す仁。

 だが、少し間を置いて視線を外し、小さく吐き捨てるように続けた。


「それに、テメェがどんな面してようが、オレ様はオレ様の目で見たテメェを信じてる」


 柊は仁の言葉に満足したように笑う。

 そして柊が続ける。


「私は戦えません。だから邪魔になってしまいます」

「でも、それでも一緒に行っていいと言ってくれるのなら。私は桜我咲さんの選択をこの目で最後まで見届けます」

「桜我咲さんと一緒に居れば、この世界の行く末を最後まで見届けられる気がします」


 希望は二人の間に割り込み、楽しげに笑いながら座り込んだ。


「希望もね。パパとママと一緒にいたいから一緒に行くよ」


 その温かさの中で、鬼灯先生が一歩前に出る。


「……僕は、ここに残ります」


 皆の視線が集まる。


「モール内で貴重な大人を多く失った今、この人たちは生きる希望を失いつつあります。だから、私が導きます。それに――生き残った生徒たちを、最後まで教師として守りたい」


 その言葉を聞いた虎杖先生が嬉しそうに鬼灯先生を見つめると、今度は俺に視線を移す。


「では私は美琴君たちについて行くよ」


 黒狼が腕を組む。


「僕は残りますぞ。復興には時間がかかりますからね」

「美琴さん――」

「どうした。黒狼?」

「きっと美琴さんは醜一さんといずれ決着をつけることになるでしょう……」

「必ず勝ってくださいね」

「あぁ、もちろんだ」


 短く言い、ルイも頷く。


「アタイも同じッス。武器や環境も作り直さなきゃですしね」


 その輪の中で、俺は改めて感じた。

 ここにあるのは喪失だけじゃない――守り合おうとする意志が、まだ生きている。

 皆との会話が一段落し、焚き火の温もりが夜気に溶けていく頃。

 背後から足音が二つ、ゆっくりと近づいてきた。

 振り返れば、佐藤夫妻が並んで立っていた。

 真紀さんが静かに口を開く。


「美琴くん。あなたには何度も助けられました。本当にありがとう」


 その声は優しく、それでいて別れを受け入れる覚悟を帯びている。

 直樹さんはポケットから小さな金属の塊を取り出し、俺の掌にそっと乗せた。


「これ、モールに残っているキャンピングカーの鍵だよ。良かったら使ってね」


 鍵は冷たく、ずしりとした重みがあった。

 直樹さんはそのまま俺の肩を軽く叩き、真っすぐな声をくれた。


「僕たちはいつでも君たちを歓迎する。辛いことがあったら、いつでも帰っておいで」


 胸の奥がじんと熱くなる。


「ありがとうございます、直樹さん」


 短くそう返し、鍵を見つめたあと、俺はそれを虎杖先生へ差し出す。


「先生、これの運転をお願いします」


 虎杖先生は鍵を受け取り、手の中で軽く回して笑った。


「お、これならバスよりも運転しやすいね」


 冗談めかした口調に、周囲から小さな笑い声がこぼれ、夜の空気が少しだけ和らいだ。

 やがて夜は深く、やがて焚き火も静かに小さくなっていった。

 それぞれが思いを胸にしまい、短い休息に身を委ねる。

 眠りに落ちる直前、遠くで聞こえたのは瓦礫の上を風が撫でる音だった。

 ――そして朝。

 薄明の光がモールの吹き抜けを満たし、冷えた空気が肺をくすぐる。

 昨夜の焚き火の跡からは、白い煙が細く立ち上っていた。

 人々はすでに動き出し、荷物を運び、修繕作業を始めている。

 俺たちは入口付近に集まり、それぞれの荷を背負う。

 虎杖先生は昨日受け取ったキャンピングカーの鍵をくるりと指で回し、笑う。


「さあ、出発するよ。エンジンも暖気済みだ」


 その声に促され、俺たちはゆっくりと歩き出した。

 モールの入口付近に立っていたのは、佐藤夫妻と鬼灯先生、黒狼、ルイだけだった。


「美琴くん、短い間だったけど本当にありがとう。これからの君の活躍を心から祈っているよ」

「直樹さん、ありがとうございます」

「いつでも帰ってきていいからね。美琴くんが戻ってくるときにはここも綺麗に整えておくわ」

「お二人とも、お元気で――」


 直樹さんは俺に近づき、短く肩を叩いた。真紀さんは手を胸の前で重ね、そっと微笑む。


「君の正義を信じています。きっと美琴さんはこれからも多くの命を救い、関わることになるでしょう。でも、君なら大丈夫だと僕は信じていますよ」


 鬼灯先生は穏やかな口調で俺に握手を求めてきた。


「はい、鬼灯先生もこれから大変でしょうけど、頑張ってください」

「美琴さん、これ良かったら使ってくださいッス」


 ルイはそう言いながら筒を手渡してくれる。


「化物の血を保管しつつ、この先端を腕に当ててこのボタンを押すと――」


 そう言いながら解説を始める。


「こうッス。ボタンを押すと小さい針が出てきて注入できるッス。耐久力も確認済みなので使い勝手悪くないはずッスよ!」


「ルイ、ありがとう。なんか近未来的でかっこいいな!」

「率直な感想で草」


 俺の反応に黒狼が笑う。


「ルイのお手製です。僕のお墨付きですから安心してください」

「あぁ、黒狼も頑張れよ」

「はい、もちろんです」


 皆の表情には別れの寂しさと、前を向こうとする決意が同居している。

 東の空から淡い金色の光が差し込み、冷たい空気が頬を刺した。

 足元の霜が小さくきしむ音が耳に残る。

 振り返れば、モールの建物が静かにそびえ、窓に反射した朝日が一瞬だけ眩しく輝いた。

 ――必ず、また帰ってくる。

 その時まで、どうか皆が無事でありますように。

 そう祈りつつ、キャンピングカーはモールから離れていくのだった。


 振り返ると、窓の外ではモールがすでに小さくなっていくのを確認できた。

 なんだか寂しい気持ちだ。だが不思議と心は晴れている。

 きっと、ここで過ごした時間は、胸の奥で消えることはないとそう確信しているからだろう。

 

 ――第三章『散華の朝』終幕


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