第二章『寄り添う花々』
――人は、ひとりでは咲けない。
崩壊した世界。
絶望と混乱の中、桜我咲 美琴は仲間たちとと出会い激しい戦闘を経て、わずかな安息を得た。
コンビニで交わされた真実と告白。
――自らの正体を知り、それでも誰かを信じたいと願った夜。
そして夜が明ける。
ここから始まるのは、希望という言葉を、もう一度信じるための物語。
新たな再会、新たな仲間、新たな戦いが、彼らを待ち受けている。
大きく伸びをしながら朝日を浴びる。
気分は上出来だが、目の前に広がる光景は地獄だ。悪い意味で目が覚める。
「……じゃあ、どうしようか? このままここにいても、いずれ囲まれるだろうしね」
俺がそう呟いたとき、すでに朝日はコンビニの窓を照らす。
移動手段がない。駐車場の車は、もう使い物にならない。
自転車では危険すぎるし、歩くには距離がある。
「……あれ、詰んだか?」
「――そうでもありませんわ」
そう言って、リナはスタスタと事務所の扉を開けていく。
「これくらいなら、運転できるかしら」
改めてリナが姿を現したとき、手に持っていたのはバイクの鍵だった。
軽やかにそれを指で回すと、コンビニ前に置かれていたオンボロの中型バイクに近づき、屈点検を始める。
「え……リナ、バイク乗れるのか?」
「高校3年生なら、持ってる子は持ってますわよ」
さらりと、あまりにも普通の顔で言ってのける。
「そ、そうかすごいな……」
そう言ったものの、意味は少し違っていた。
正直なところ、リナとバイクの取り合わせに違和感があったのだ。
けれどそれは口にせず、飲み込んでおく。
「美琴様こそ、戦闘に長けていて、しかもクローン。そちらの方が非現実ですわ」
リナは悪戯っぽく微笑んでそう言った。きっと、俺の内心を見抜いたのだろう。
「エンジン問題なし。ガソリンもまだ半分以上ありますわ」
リナがポン、とサドルを叩く。
まるでこの状況を予期していたかのような落ち着きだった。
「後ろ、乗ってくださいまし」
「に、二けつ?」
「はい。バイクの仕様上、定員二名ですから」
言い方が理屈っぽくて、妙に可愛い。
俺は無言でリナの背に手を添えると、静かにシートに跨った。
――風が、顔を打つ。
バイクが走り出せば、すべてが変わる。
景色、空気、温度、音――。
先ほどまでの重苦しい空気が、追い風に変わる。
「次の目的地、どこにする?」
「……物資の補給ができる場所。それから、皆が集まりそうなところかしら?」
「……仁たちと合流もしたいしね。そう考えれば、一番可能性が高いのは――」
「――ショッピングモール、ですわね」
二人の声が重なる。
視線を交わすことはない。
でも、その呼吸の重なりが、心地よかった。
「仁も、柊も……それに虎杖先生も。きっと同じことを考えてるだろう」
「なら、信じましょう。わたくしたちはわたくしたちの速度で、辿り着けばいいのです」
リナの言葉に、俺は小さく頷く。
いつしか、道路の周囲には崩れた家々と、放棄された車両の列。
けれど、その中を縫うように、二人のバイクは一直線に前を向いて走っていた。
「風が気持ちいいな」
「ええ。バイクって、自由の象徴みたいですわね」
そう言って、リナは少しだけアクセルを強めた。
エンジンの唸りが、二人の背中を押していく。
――誰もいなくなった花園を、風が通り抜けていった。
――走っている。
ただひたすらに、風を切って。
コンビニの駐車場を飛び出したバイクは、街の喧騒の名残を後にして、やがて静かな農道へと差し掛かった。
「……田んぼ、か」
俺は呟いた。
左右に広がるのは、見渡す限りの田園風景。
どこか懐かしくて、どこまでも静かな、緑の海。
しかし――。
「まるで、誰も生きていない世界みたいだな」
「ええ……でも、ちゃんとここには風がありますわ」
リナの声は穏やかで、どこか嬉しそうだった。
瓦礫の町を抜けた先に広がっていたのは、異様なまでに整然とした景色。
稲の青葉がゆれる。
カエルの声すら聞こえない。
けれど、人の手で整えられたはずの自然が、今は放置され、それでも生き続けている。
「こんなに空が広かったんだな……」
思わず漏れた俺の言葉に、リナが少しだけ笑った。
「ええ。世界って、思っていたよりもずっと広いんですのよ」
彼女の髪が、風に揺れている。
日差しを受けて、ほんの少しだけ金色がかったその髪が、まるで希望のように揺れていた。
――だが、その景色の中に人の姿は一つもない。電柱だけが立ち並び、風に吹かれてカラカラと看板が揺れる。放置された農具小屋。干からびた水路。
誰かがいたはずの暮らしの痕跡だけが、そこかしこに転がっていた。
「ここで暮らしてた人たち、みんなどこに行ったんだろうな……」
「どこか、静かに眠っていればいいんですけど」
ふたりの会話は途切れがちだった。
だが、言葉よりも確かに繋がっている同じ風があった。
やがて、舗装された道に合流すると、リナが何気なく呟いた。
「……この先のモール、行ったことあります?」
「いや。実は聞いたことあったけど、入ったことはないんだ」
「じゃあ、きっと驚きますわよ。あそこ、温泉もゲームセンターもありますの。日帰りで一日潰せるって評判でして」
「マジか……そんなのあったのか、こんな郊外に」
「元々は地方再開発の一環で建てられたみたいね」
「こんな田舎に……と言いたいけどおかげで助かるな」
リナの背にしがみつく腕に、力がこもる。
彼女は何も言わず、少しだけスピードを上げた。
バイクは農道を抜け、丘陵地へと差し掛かる。
その向こう――。
「……見えた。ショッピングモールですわ!」
小高い丘の先に、灰色の建物が姿を現した。
まるで世界の終わりに取り残された、巨大な墓標のように、そこだけが異様な存在感を放っている。
「スピード、あげますわよ」
「おう、みんながいるかもしれないしな」
ふたりの影が、光の中を滑っていった。
✿ ✿ ✿
一方そのころ。先にショッピングモールに到着していたバス組――。
ショッピングモールの駐車場では、仁と虎杖先生が、外にあふれ出した化物の群れと激しく交戦していた。
「クソがっ……! 何体湧いてくるんだよ、こいつらァッ!!」
仁の金属バットが、化物の腕を砕く。
おかしい、いつもの彼なら間違えなく一撃必殺で頭部を狙うはずだ。
一撃、一撃。重く、荒く、力任せなスイング。
彼の動きは、どこか――焦りと苛立ちを帯びていた。
「っらぁァ!! ……チクショウ……ンであれだけ人数がいてまともに戦えるのがこの人数なんだよッ!」
美琴。あいつさえいれば――。
仁のスイングに、冷静さはなかった。
怒りで精度を失い、体力だけが削られていく。
その隣で、虎杖先生が軽やかに動いていた。
真っ白な白衣は赤く染まり、彼女の動きに合わさりなびく、メスを握り化物に投擲。
一定の距離を取りながらメスに繋がる糸を引き、武器を手元に戻しさらに投擲、それを繰り返す。
「仁君、些か冷静さにかけているのではないのかね」
「うっせぇ、オレ様に指図するんじゃァねェ!」
虎杖先生は仁を心配そうな視線を向けるが、手は止めない。
化物を正確に切り裂き、肩で息をしながら戦線を維持していた。
「人数が足りない……」
虎杖の脳裏にも、その事実は突き刺さっていた。
――美琴とリナがいない。
たったそれだけで、これほどまでに戦力差があるとは――。
バスの中では、柊が必死に窓越しの戦況を見つめていた。
希望を胸に抱えながら、その小さな体を必死に守るように抱きしめている。
「仁君……虎杖先生……このままじゃ……」
隣で鬼灯先生も、歯を食いしばっていた。
「私が外に出れば……ダメ、それじゃ足を引っ張るだけ――」
「それに今は希望ちゃんも守らないと……」
選択肢が、限られている。
守るべきものが増えた。けれど、それに対して――届く手が足りない。
柊は目を伏せる。
その脳裏に、最悪の未来がよぎった。
「ダメだ、こままじゃあの二人の昨夜の彼らのように――」
鬼灯先生の頬を冷たい汗が伝う。
化物の数は減らない。むしろ、時間が経つほどに増えているようにすら感じられた。
仁がバットを振りぬいた勢いで身体を崩す。
膝が土に着く寸前、無理やり踏みとどまった。
「クソッ……足が、鈍ってきやがった……!」
視界の端に虎杖先生の白衣が揺れる。
真っ赤に染まったその布が、命を削って戦っている証だった。
「そんなに一気に投げたら、メスが……」
柊が思わず声を漏らす。バスの中でそれを見守ることしかできない自分が、悔しかった。
――外では仁が、荒い息を吐きながら再び立ち上がる。
「立て、オレ様はまだ。生きてるじゃねェか……」
心のどこかで、仁は分かっていた。
昨夜のこと――叫び、泣き、潰れていった誰かの最後。
その光景が、再生されるように脳裏をかすめる。
目の前の化物の姿と、かつての級友の影が重なった。
「アイツは、諦めなかった。最後まで――」
「クハハ、最後? ふざけるな。んなところで終われるか……」
「終われるかってんだ……ッざけんなァアアアアアアアア!!」
バットが地を裂く。
砂利が飛び、化物の脚を潰す。
けれど、それでも足りない。
バットの反動で手が痺れる。握力が抜ける。
吐き気のような疲労が、腹の奥に溜まっていく。
一方の虎杖先生も、すでにメスの数が尽きようとしていた。
糸付きメスを何度も回収しながら、背後の仁を庇うように立ち位置をずらす。
「仁君、退くんだ。もう少し体力を温存すべきだ」
「ふざけんな……下がったら誰が前張るんだよ!」
「君が倒れたら、次に倒れるのは誰かな? その先にいる子たちが――」
「うるせぇええええッ!!」
仁の叫びが、戦場に響く。
その声が、柊の胸を抉る。
「仁さん……もう、やめてください……このままではあなたも美琴さんのあとを――」
彼の焦りは、悲鳴にも似ていた。
「こんなはずじゃなかった……昨夜も私が……私がもっと冷静に判断していれば……」
柊がギュッと希望を抱きしめる。
希望は何も言わず、ただ震える指先を柊の服に絡ませた。
鬼灯先生の手が、いつのまにかバスの手すりを強く握っていた。
すぐにでも飛び出したい――けれど、飛び出たところで意味はなさない。
「もう、間に合わないのか……」
思わず、呟いてしまった。
昨日と同じ結末が、再び繰り返されるのか――そんな最悪の未来が、誰の頭にも浮かんでいた。
バスの屋根を、何かが叩く。
雨じゃない。風に飛ばされた瓦礫か、それとも――。
虎杖先生がついに膝をついた。
額に流れる汗は、もう血にしか見えなかった。
「これ以上は……さすがに厳しいか――」
仁が叫ぶ。
「クソが、クソがァ。クソが。生きてるなら来いよな。美琴ォ!!」
空気が――重い。
誰かの叫びも、涙も、祈りも、
すべてが音として消えていくようだった。
けれど、そのとき。
風が変わった。
微かに。けれど確かに――風を切る音が、戦場に届いた。
「……ッ!?」
柊が顔を上げる。
真っ直ぐに伸びる丘の上――。
太陽の光をを背にして、一台のバイクが、影のように駆けてきていた。
風を切る音。金属が唸る音。
それは救いの足音のように、駐車場全体に響いた。
「あれは!?」
鬼灯先生が呟く。押しつぶされそうな希望が、絶望を押し返すようにそこには二人姿があった。バイクには、見覚えのある姿が――。
「……美琴さん! リナ先輩!」
バスの中がざわつく。
その瞬間、外で金属バットを振り回していた仁の目にも、バイクが映った。
「遅ェよ、バカ野郎……」
言葉とは裏腹に、仁の目には喜びが宿る。
手にしたバットを一度肩に担ぎ、息を大きく吐く。
「ったく、ヒーロー気取りかよ!」
バイクが、風のように駐車場へと滑り込んできた――。
その先端には、リナが構えるクロスボウ。
放たれた矢が、化物の脳天を貫いた。
「遅れて、申し訳ありませんわ」
リナの声が、静かに響く。
直後、美琴がバイクから飛び降り、前傾姿勢で一気に距離を詰める。
「間に合ったようで、何よりだな――!」
その声と同時に、戦場の空気が変わった。
風が、味方した。
バイクが駐車場へと滑り込む。
太陽を背負い、土煙を撒きながら止まるその瞬間――。
視線が集中するのを、肌で感じた。
俺とリナ。
この状況で目立つのは、悪くない。
リナが先に降り、流れるようにクロスボウを構える。
「そこ、どいてくださいますこと?」
そう言った直後、矢が三本、化物たちの額に突き刺さる。
吹き飛んだ死体の隙間に、一本道が開く。
リナの凛とした姿が、風を斬る。
その後ろから、俺もバイクを降りた。
「なにその登場の仕方、かっけぇな……」
「それじゃ俺もかっこつけちゃおっと」
ポケットから取り出したのは――おもちゃの注射器。
中身は昨日のコンビニで回収しておいた、化物の血液。
バスの中の窓越しに視線を感じる。
――柊かな。
目を見開き、震えている。
たぶん、気づいてるのは彼女だけだ。
構わず、俺はそれを腹に突き刺した。
ブシュッ、と鈍く濁った音。
熱が、一気に身体中を駆け巡る。
「あはは……腹に穴を開けるって、めちゃくちゃ痛いな……!」
笑った。ほんの少し、顔が歪んだ気もするけど、それもいい。
「当たり前ですわ。普通に飲むなりでよかったんじゃないですの!?」
「いやー、なんかさ。こう、こっちの方がかっこいいかなって――」
「男って本当に馬鹿ですわね」
ばっさりと切られたけど、それもまた気持ちいい。
けれど――
その次の瞬間。
心臓が跳ねた。
バクン、という音が脳の奥で響いたような感覚。
眩暈とまではいかない。でも、時間が――飛んだ。
気づくと、俺の腰から――黒い尻尾が生えていた。
ゆっくりと、くねりながら揺れる。
まるで、自分の意志を持っているかのように。
「……へぇ」
自分の尻尾を見下ろしながら、笑ってしまう。
俺の視線が、化物たちに向けられる。
ギラリ――と。
たぶん、その瞬間だけ、俺の目は獣になっていたと思う。
世界が、妙にスローモーションに見えた。
「一晩、考えたんだよな」
俺は静かに呟く。
「一時的感染――こいつも喰うことを本能とする」
「……だから、名前をつけてやった」
尻尾の先端が、四つに裂ける。
その中に覗くのは、牙が並ぶ口内。
グロテスクなのに、どこか――愛嬌がある。
「――こいつの名前は、暴食単語グラだ!!」
その名を呼んだ瞬間、尻尾が嬉しそうにしなった。
まるで、名前をありがとうとでも言うように。
「おもしれェ……」
横から声が飛んできた。仁だ。
「おうおうおうおう、何か隠してやがったのかよ、テメェ!」
ニヤリと笑って、バットを肩に担ぐ。
「オレ様も混ぜろやァアアアアアアア!!」
仁が飛び込んでくる。
その姿に、俺も笑った。
「なら、暴れてやるか」
次の瞬間、尻尾が唸った。
地面を跳ね、化物の首元へと突き刺さり、丸ごと喰いちぎる。
血しぶき。咀嚼音。歯が砕く音。
けれど――戦場が静かになった気がした。
仲間が背を預けてくれている。
俺の力を、恐れなかった。
仁がバットで化物を薙ぎ倒す。
尻尾が次の敵の脇腹を貫く。
俺は普通じゃない力を、全力で振るうことができた。
「……ただいま、戻りましたわ」
少し離れたところで、リナが虎杖先生に微笑みながら合流しているのが見えた。
軽やかに、そして昨夜のことを簡潔に伝え、戦場の温度を整えていた。
そして俺は、暴食と共に――蹂躙を始めると、聞き慣れた足音が横に並ぶ。
バットが唸る。拳がうなる。
俺と仁の戦線が、確かに火を吹いていた。
「右だ仁!」
「おう、分かってらァ!」
仁のバットが回転しながら振り抜かれ、化物の頭蓋を打ち砕く。
その隙に俺が飛び込んで、低く構えた拳で腹部を抉る。
同時に、背後から忍び寄る別の個体へ――。
グチャッ!
尻尾が、風を切って化物の首を跳ね飛ばした。
「クハハ、大層な武器構えて帰ってきやがったなァ」
「なんだ、羨ましいのか?」
「馬鹿言えェ、オレ様にはこいつがあるぜ!」
二人の言葉は軽口そのものだったが、その足取りは正確無比。
背中合わせに動きながら、互いの死角を補い合う。
敵がどれだけ群れようと、気づけばそのすべてが地に伏していた。
「――終わったか?」
「おう。全員ぶっ倒したみてェだな」
仁がバットを肩に担ぎ直し、くっと顎を上げて俺を見た。
息は上がっていたが、その顔は清々しい。
俺は、同じように力を抜く。
そして、言葉を交わさず、ゆっくりと拳を突き出した。
「……ただいま、仁――」
「おうよ、待たせてくれたな」
二人の拳が、コツンと静かにぶつかり合う。
そこに余計な言葉はいらなかった。
目が合い、自然と笑いがこぼれる。
血まみれの戦場に、確かな再会の証があった。
そして戦闘が終わり、駐車場にようやく静寂が戻る。
化物の残骸を踏み越えながら、バスの扉がゆっくりと開いた。
最初に姿を見せたのは――柊だった。
駆け寄る足音。けれど、その表情は驚くほど落ち着いていて。
俺の目の前に立った彼女は、深く息をついてから優しく言った。
「……聞きたいことは山ほどありますが、おかえりなさい、桜我咲さん」
その言葉が、胸の奥に沁みた。
「あぁ。俺も、みんなに話しておきたいことがたくさんあるよ」
肩越しに視線をやれば、隣のリナがクロスボウを背負いながら微笑む。
「お土産話にしては、まぁ……色々ありますわね」
「クハハ、構いやしねェ」
仁がバットをぶんと肩に担ぎ直す。
「時間は腐るほどある。全部聞いてやるよ」
続いて鬼灯先生が、静かに歩み寄ってくる。
そして、俺とリナを交互に見つめ、穏やかに笑った。
「君たちが……無事で本当に良かった」
そのあとを追うように、虎杖先生がやって来て、同じように言葉をかける。
「顔を見られて安心したよ。……無事で何よりだ」
穏やかな空気が流れる。
その中心に、希望を抱いた柊が歩いてきた。
希望は柊の腕からふわりと降りると、俺とリナを見上げた。
その顔が、ぱあっと明るくなる。
太陽のような、まぶしい笑顔。
「パパ! ママ! おかえりなさいっ!!」
――時が、止まった。
その言葉が比喩ではないことは、希望の態度ですぐにわかった。
彼女は、信じていた。目の前にいる俺たちが、本当に両親だと。
虎杖先生が静かに呟いた。
「PTSDの類か……やはりショックが大きかったのだろう。精神異常のようなものか……」
周囲の空気が、一気に冷えた。
言葉を失う中で――。
リナが、すっと希望を抱き上げた。
「まぁ、少し予定が早まったと思えば構いませんわ」
優しく微笑みながら、リナはみんなに言った。
唖然とする一同。
その中で、俺以外の全員が小さく首をかしげる。
そして次の瞬間――リナはほんの少し誇らしげに、みんなに宣言した。
「わたくし、美琴様とお付き合いすることになりましたの」
「「ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」」
全員の絶叫が駐車場にこだましたその瞬間、虎杖先生が、一歩前に出て咳払いをひとつ。
「ははは、これはこれはおめでとうと祝すべきだね」
白衣を軽く整えながら、優しくも凛とした声で言った。
「リナ君、美琴君」
先生の視線が、リナの腕の中で満足げに笑っている少女へと向けられる。
しばし、観察するように目を細めたあと、彼女は俺とリナに静かに口を開いた。
「……希望君の言葉を、冗談や錯覚として片づけるのは簡単だ。でも、私の見立てでは、これは――PTSD、心的外傷後ストレス障害の兆候だ」
その言葉に、場の空気が再び静まり返る。
先生は表情を崩さず、淡々と続ける。
「強烈な喪失体験。極度の恐怖。そして突然の救済。おそらく、希望君の心は現実をうまく受け止めきれなかった。だから――自分を助けてくれた美琴君とリナ君を、心の中で両親に重ねることで、自己を守ろうとしたのだろう」
誰も言葉を返せなかった。
ただ、柊がそっと希望の頭に手を置き、肩を震わせていた。
先生は、柔らかな声で結んだ。
「今すぐに治療が必要、という段階ではない。でも――この子が本当に必要としているのは、否定ではなく肯定だ。今の彼女の世界にある光が、美琴君とリナ君なら……それを、どうか守ってあげてくれないか」
その言葉に、リナが静かに頷く。そして、希望をもう一度抱きしめ直した。
「もちろんですわ。わたくしたちが、彼女の光になります」
みんなが集まり、ようやく一息ついたころだった。
ショッピングモールの入り口から、二つの人影が現れる。
一人はやけに元気な声で叫びながら、真っ直ぐ仁に向かってくる。
「仁さーん、お久しぶりッスね!!」
緑色の短髪、赤いゴーグル、工場作業服みたいな格好の少女。
満面の笑みでハイタッチを求めてくるが――。
「クハハ、ルイ。お前も生きてたか。まぁ、それもそうだな」
仁はそれを軽くいなしつつも、言葉には喜びと納得がにじんでいた。
続いて姿を現したのは、少し離れて歩いてくる男。
高身長なのに猫背で、俺たちとほぼ視線が同じ。
濃い青のポニーテール、目の下には目立つクマ。
「やはり仁さんも生きておられましたか。さすがですな」
「相変わらずキメェ話し方だな、黒狼」
「辛辣で草」
二人のやりとりに、俺は言葉を失いそうになる。
仁が振り返り、みんなに向かって紹介を始めた。
「紹介しとくか。こいつら、中学時代のダチだ。このゴーグルが蘆薈あろえ ルイ。爆弾魔みてェな性格してっけど、根は真面目。で、こっちの目が死んでる方が、青米あおごめ 黒狼こくろう。口がキモいけど、戦闘能力は一級品だ」
「ちすちーす! 蘆薈ルイッス! よろしくお願いするッスよ~!」
ルイは元気に手を振ると、俺たち全員をぐるりと見渡した。
「ここのショッピングモールは、アタイたちのアジトみたいなもんッス。今はわりと落ち着いてるんで、安心してくださいッスよ」
「君たち以外にも、生存者がいるのかい!?」
虎杖先生が驚いたように尋ねる。
「もちッス! 昨日の一件からすぐに黒っちに頼んで、モール内の化物は一掃済みッス。生存者は……100……いや200人くらいはいたような?」
「337名ですな。だいぶズレてて草」
「そうだったッスね。てへへ」
ルイが舌を出して笑い、黒狼は無言でうなずく。
「今は大人の人たちが中を仕切ってるッス。でも偉そうとかじゃなくて、みんなを落ち着かせたり、協力呼びかけたりって感じッスね」
「ふふふ。まぁ、身構えなくても大丈夫ですよ。歓迎はされると思います」
黒狼がやや神妙に続ける。
「それは助かる。すぐにコンタクトを取れるかい?」
虎杖先生が問うと、ルイと黒狼は顔を見合わせてうなずいた。
「OKッス。ちょっと確認してくるんで、みんなはこっちへどうぞ!」
俺たちはルイたちに案内され、モール内部へ足を踏み入れた。
中は思ったよりも綺麗で、秩序が保たれている。
床にこびりついた血痕や、割れたショーウィンドウの痕跡が所々に残っているが、それもすべて昨日の混乱の残滓にすぎない。
「……これなら、落ち着いて暮らせそうだな」
俺がそう思った、その矢先だった。
「ち、な、み、に――ッ!」
俺の服の裾がルイにまくられた。
「さっきの! あの尻尾! どういう原理なんスか!?」
目をきらっきらに輝かせながら、ルイが食いついてくる。
今にもバラして調べようとしてきそうな勢いだ。
「あはは、まぁその説明はあとでみんなにるからそれまで待ってくれると嬉しいかな――」
俺が困っていると、ふと視線の先で――。
エスカレーターから、大人の男女がゆっくりと降りてくる。
ルイが気づいて手を振る。
「あ、来た来た! クロっちが呼んどいた、モールのまとめ役ッスよ!」
エスカレーターから、二人分の足音がゆっくりと降りてきた。
一人は、細身の男性。こちらに気づくと軽く頭を下げる。もう一人は、ふっくらとしたお腹を手で支えながらも、穏やかな笑みを絶やさない女性だった。
「ルイちゃん、黒狼くん……ありがとうね。こんなにたくさん連れてきてくれるなんて」
柔らかい声色が場に溶ける。
どこか遠慮がちな旦那が、後ろから付いてくる。
「はじめまして、佐藤 直樹です。今はここのモールの指揮をとらせていただいているグループの一人です」
丁寧な口調と軽やかな説明。どこか頼りなくも感じるが大人びていた。
「初めまして、私は佐藤 真紀です」
「ルイちゃんと黒狼くんは拠点を、少し整えるお手伝いをしているの。よかったら、まず中をご案内してあげてちょうだい」
「はーい、了解ッス!」
何というか、二人の普通さに、なぜか安心感があった。
そんな空気の中、虎杖先生が一歩前に出た。
「私は虎杖だ。今は生徒たちの引率をさせてもらっている。代表と偉そうな立場ではないが大人として代表しよう」
「僕は鬼灯です。虎杖先生と同じく教師を務めています。この度はよろしくお願いします」
先生たちははそう言うと、各々服装を整えながら振り返る。
「では私と鬼灯先生は、いったん大人の方々と連絡を取ってくる。みんなは無理をせず、しばらくこのモールで身体を休めるんだ」
鬼灯先生も頷く。
「安心して。ここからは僕たち大人に任せるんだ」
二人は、佐藤夫妻とともに奥へと歩いていく。
先生方の背中が見えなくなると、生徒たちがざわざわと散り始めた。
「ねぇ、あっちに飲み物とかあるっぽいよ」
「荷物運ぶの手伝おうか?」
「一旦、トイレ行ってくる!」
さっきまでひとつだった集団が、まるで水に溶けるように、自然とちりぢりになっていく。
緊張が解けた証拠なのかもしれない。
そして気づけば――残ったのは、俺と仁、柊にリナ、そして希望。続けてルイと黒狼。
嵐のあとに、ようやく訪れた静けさが、そこにはあった。
静けさに包まれたその空間で、ルイが手を叩く。
「それじゃ、せっかくなんでアタイらがモール内を案内するッスよ!」
元気な声が反響し、場の空気がふわりと軽くなる。
「このモール、全部で五階建てです。まずは――」
黒狼が指を一本立てる。
「五階は娯楽エリアですな。ゲーセンとか映画館とか。でも今は閉鎖中です。電力は食うし、化物の死体もまだ片付いてないんで、立ち入りは非推奨ですな」
「続いて四階! ここはファッション関係の店が並んでるエリアッス! けっこう可愛い服とかもまだ残ってるんで、見るだけでも楽しいッスよ!」
「三階は家電と――工具エリア! 工具エリアは今、アタイの作業ラボになってるッス!」
ルイが誇らしげに胸を張る。
「火薬も鉄板もある程度ストック済みッスから、ちょっとした爆弾も作れるッスよ!」
「……あー、ルイの持ち場はマジでカオスなんで、入るときは気をつけてください。下手に触ると爆散する可能性がありますので」
黒狼が付け足すと、ルイが「そんなに爆発してないッス!」と軽く抗議する。
「二階は食品売場。レトルト、缶詰、フリーズドライの山ッス。賞味期限切れでもいけそうなヤツは分けて保管してるッス」
「一階は温泉施設とかいろんな商業店舗が並んでる。温泉もギリお湯出るっぽいんで、入浴可ですね」
「……以上ッス! とりあえず、どこ行くッスか?」
ルイの言葉に、リナがすかさず手を挙げる。
「ファッションセンターに興味がありますわ」
真っ先に手を挙げたのはリナだった。
その横で、柊も少し迷ったようにしながら小さく頷く。
「……私も、少しだけ。服が汚れてしまっていて」
「いいッスね! じゃあレッツお着替えタイムッス!」
ルイが満面の笑みで張りきり、俺は思わずため息をついた。
「……荷物持ち、やらされる予感しかしないな」
俺の予感は、当たりすぎてて悲しくなるレベルだった。
四階に上がるや否や、リナに手を引かれてショップの一角へ引きずり込まれる。
やがてすぐに視界の正面には、押しつけられた服、服、服。バランスを取るのがやっとだ。
「これは……希望ちゃんに似合いそうですわね」
リナは鼻歌まじりに次々と服を重ねていく。
どれも楽しげに吟味していて、その姿は戦闘時とはまるで別人だ。
「ママ、これ――お姫様みたいで可愛いね」
希望が無邪気に差し出したのは、まるで童話から出てきたかのようなドレス。
「あら、ありがとう希望ちゃん。せっかくだから着てみようかしら」
こうなるともう、俺の荷物はさらに増える一方だった。
「……やっぱりこうなると思ったよ」
「まぁでも、楽しそうでいいな」
遠巻きに眺めていた仁が笑いながらぼやく。
「クハハ、それもそうだな」
平和な――いや、奇妙なまでに穏やかな時間が流れていた。
ふと横を見ると、柊がグレーのシンプルなワンピースを手に取っていた。
落ち着いた色味と、彼女の静かな雰囲気が妙に合っている気がする。
「……似合いそうじゃないか」
思わず声をかけると、柊は少し驚いたように目を丸くして、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも……リナさんの方が、きっと目立ちますよ」
そのリナはすでに別の試着室からひょっこりと顔を出していた。
「美琴様~、これなんてどうですか?」
真紅のワンピースに身を包んだリナは、艶やかな微笑みを浮かべていた。
裾がひらりと揺れて、彼女の気品と色気が絶妙に混ざり合っている。
「……似合いすぎてて、困るな」
「ふふっ、光栄ですわ。じゃあ、これも候補に♪」
また新たな服が俺の腕に加わる。何着目か、もう数えるのもやめた。
「さすがに重いな……」
「クハハ、モテる男は大変だなァ、美琴」
「からかわないでくれよ……」
そんな時、ルイが手を叩いた。
「そうだ! せっかくだから、ファッションショーでもやるッスか!」
「ファッションショー?」
「そッス! ここ通路広いし、ちょっとしたランウェイにできるッスよ! みんなに見せびらかすチャンスッス!」
ノリの良さが売りのリナが乗らないはずがない。
「素敵ですわ!」
ルイは音響スピーカーらしきものを抱えてきて、黒狼が素早く接続。簡易的なBGMが場を彩る。
……この手際の良さ、絶対前にもやったことあるだろ。
心の中でツッコみながらも、俺も準備に巻き込まれていった。
ランウェイ代わりの通路に、リナが姿を現す。
紫のリボンを結んだツインテールに、黒のゴシックドレス。まるで夜会の姫君のようだった。
「どうかしら、美琴様?」
「……リナ、ずいぶん気合い入ってないか?」
「当然ですわ。こういう時こそ、淑女の嗜みが試されますもの」
スカートをくるりと回すと、希望が拍手を送る。
「ママ可愛い!」
続いて、柊がそっと姿を現す。
淡いブルーのスカートに、白シャツ。ネイビーブルーのベレー帽が彼女の清楚な雰囲気を引き立てていた。
「……似合ってる。清楚系って感じだな、いつもと違って新鮮だよ」
俺がそう呟いた直後――仁が立ち上がり、無骨なバットを担いだまま、ぼそっと口を開く。
「……なんつーか、普通に可愛いじゃねぇか」
「っ……!」
柊が驚いたように仁を見上げ、頬を朱に染める。
「……ま、服がだ。服が似合ってんだよ。他意はねェからな」
「あ、はい……そうですよね。ありがとうございます」
慌てて帽子を整える柊の姿に、どこか柔らかい空気が生まれていた。
そして最後に、希望が元気よく飛び出してくる。
「じゃーん! どうかなパパ! ママが選んでくれたんだよ!」
ラベンダー色のパーカーに黒のジャンパースカート。動きやすくて可愛い装いが、彼女の笑顔によく似合っていた。
「あぁ、とても似合っていて可愛いよ」
希望はくるくると回りながら、満足そうに微笑んだ。
「……にしても、この雰囲気、文化祭でも始めそうなノリだな」
思わずこぼれた俺のぼやきに、仁が肩をすくめて笑う。
「クハハ……悪くねェじゃねェか、こういう時間も」
誰もいなくなった世界の片隅で、ほんの数人だけのファッションショー。
――この時間だけは、確かに生きていると、そう実感できた。
そして即席のショーが終わる頃には、ほんのりとした疲労と安堵が、空気の中に溶け込んでいた。
誰かが笑い、誰かが拍手し、そして――少しの静けさが戻ってくる。
ルイがパン、と手を叩いた。
「よしッ、それじゃあ……次はアタイのラボ、見てみるッスか?」
その声に応えるように、仁がバットを軽く担ぎ直す。
「悪くねェ。武器も調整したかったしな。……そろそろ、こいつにも引退してもらうか」
その横顔は、普段の軽さとは違う、ほんの少しだけ真剣な色を帯びていた。
「わたくしも同行いたしますわ。クロスボウの弦がやや甘くなっているのが気になってまして」
リナも優雅に言いながら、手にしたクロスボウを軽く振ってみせる。
その流れで、柊と希望にも自然と視線が集まる。
「しずねぇ、希望も何か作りたい!」
「なにか……といっても、何を作れば……」
少し困ったような柊の声に、ルイがぱっと指を立てる。
「そうッスね。武器や工具を使うとなると危ないッス」
「もし良かったら、希望ちゃんはみんなのお守りとか作ってあげたらどうッスか?」
「お守り……ですか?」
「はいッス。例えばミサンガとかであれば、編むだけで作れるし、小さな女の子でも安心ッスよ。雫さんも一緒に作ってあげてくれれば、楽しいこと間違いなしッス」
「希望、ミサンガ? ってやつ作りたい!」
ぱあっと表情を輝かせて、希望が手を挙げる。
小さな足取りが元気よく跳ねるのを、柊はやさしく見守りながら微笑んだ。
「そうですね。ルイさん、もしお手隙でしたら作り方を教えていただいてもいいですか?」
「はいッス。もちろんッスよ」
そんな和やかな雰囲気の中、全員がルイのラボへと足を向けていく。
――ただ、一人だけを除いて。
「おや? 美琴様はご一緒されないのですか?」
リナが立ち止まり、振り返って尋ねる。
俺は肩をすくめて答えた。
「悪い。ちょっと見回りでもしてくる」
「……パトロール、ですか?」
今度は柊が不安そうに聞く。
「ま、そういう感じかな」
「でしたら――」
そのとき、後ろから黒狼が静かに声をかけてきた。
「僕も同行しますよ。パトロールは僕の役目でもあります、それに案内もできますからね」
「頼りになるな」
「仕事ですから」
リナたちはそれを聞いて、どこか安心したようにうなずいた。
「では、お二人ともお気をつけて」
手を振る希望に背を押されるように、俺と黒狼はフロアを後にした。
静まり返ったモールの通路には、ほんの少しだけ戦場の空気が戻り始めていた。
気がつけば、そこに残っていたのは――俺と、黒狼だけだった。
どこか取り残されたような、けれど不思議と静かな安心感のある空気が流れていた。
「案内って言っても、僕の日課のパトロールついでになりますがね」
「構わないよ」
そう答えると、黒狼は「じゃあ」と軽く頷き、歩き出した。
彼の足取りには、無駄な迷いがない。きっとすでに、何十回も同じ道を巡ってきたのだろう。
「基本的に、このモール内では大きな争いは起きていません。佐藤夫妻が、うまく住民たちをまとめていますから」
「ふぅん……でもそれって、表向きの話だよな?」
「そうですね」
即答だった。否定する素振りすらない。
「実際のところ、みんなピリピリしてますよ。目つきが違う。特に――食料の話になると」
黒狼の声は、わずかに苦味を帯びていた。
俺たちは今、安全そうに見えるモールの中を歩いているけれど、その安全は仮初めのものでしかない。
物資が尽きれば、真っ先に壊れるのは理性だ。
「化物が現れてから、もう一日が経ちましたね」
「ああ」
外の世界が崩壊してから、もう何時間が経ったのかも分からない。
けれど、黒狼の口ぶりからすると、今は昼を過ぎたあたりのようだった。
「今朝、グループのリーダーたちが話し合って、朝昼晩の食事は主婦層の方々が当番制で作ることになりました」
そう話すうちに、俺たちは二階の食品フロアへと足を運ぶ。
そこにはすでに長い配膳の列ができていた。
「基本方針はこうです。まずは腐りやすい生鮮品から使っていく。砂糖菓子や嗜好品は原則禁止。食べるとしても、子供や女性が優先」
「悪くない判断だ。人数が多いなら、ルールを決めなきゃすぐに崩壊する」
「ええ、僕も賛成です」
俺たちは、ここで生きている。
そして生きていくためには、感情や欲望をほんの少しずつ我慢しなければならない。
だが、それを簡単に受け入れられない者たちもいる――黒狼の視線の先、配膳列の前方で話す男たちの声が、それを証明していた。
「あーあ、ポテチとか食いてぇ……」
「てか、あれだけ積んでんだろ。一袋くらい良くね?」
「パンケーキ食べたーい……卵だって牛乳だってあるじゃん」
「あるのに食べられねぇとか、マジで意味わかんねぇよな……」
黒狼が、小さく息を吐いた。
「――当たり前を失って、初めて人は喚き出す。そういうのが、一番厄介なんですよね」
どこか他人事のような口ぶり。
けれど、その言葉にはかつて信じていたものを失った人間にしか出せない響きがあった。
俺はふと口を開く。
「お前流に言えば……草生えるってやつか?」
「ええ、まさに」
ふたりで小さく笑った。
この笑いもまた、きっと生きている証だ。
「幸せとか日常って、誰かが準備してくれて、向こうから勝手に届くもんだと思ってる人たちは……この状況下では、正直邪魔ですね」
「……でも、それが普通だったんだよな。少し前までは」
黒狼の言葉に、俺は少しだけ考える。
でも、それは責めることではないのかもしれない。
今までそういう世界だったから――そう信じたくなる気持ちは、分からなくもなかった。
俺たちは、正しいかどうかを語っているわけじゃない。
ただ、今をどう生き延びるかを考えている。それだけだ。
俺たちはモールの二階を静かに歩き続ける。
「このフロアは食品売場です。パトロールの目的は、盗みや期限切れ商品の確認、それと……顔を出すこと、ですね」
「顔を出す?」
「ええ。パトロールの姿を見せるだけでも、抑止力になりますから。見られてるってだけで、人は少しだけマシになる」
「……盗人って、いるもんなのか?」
「いますよ。金銭や物々交換もまだ残ってますからね。ルールがあっても、食い物は命と直結しますから」
「そのへん、運営側も黙認してるってことか」
「はい。貴重品の使用には許可が必要という建前はありますが……実際には、多少の贅沢は黙認されています」
「ストライキ防止か」
「ええ。矛盾してますけどね。でも、それが現実的なら、人は案外納得するんです」
黒狼は小さく笑った。
その笑顔は、人の醜さも、強さも、全部知っている人間の笑いだった。
俺は、そんな彼の背を見ながら思う。
この男は、ただ武器を振るうだけじゃない。
人が生き残るための知恵を、誰よりも静かに見ている――そんな気がした。
「娯楽の完全停止がされていないなら、多少は耐えられるんだろうな」
棚の商品をなんとなく眺めながら歩いていると、視界の端にゆっくりと動く影が入った。
お腹を大きくした女性が、両手でカートを押しながらこちらに歩いてくる。
「あ、こんにちは」
黒狼が先に声をかけると、その女性――真紀さんは小さく微笑んだ。
「真紀さん。あなたは、ゆっくりしていてくださいとあれほど……」
「えぇ、でも……私だけが休んでいるのも、周りの目が気になってしまって」
「あなたは妊婦です。お腹の子を大事にしてくださいね。文句を言う方が間違ってるんですから。あなたは堂々と母になってください」
思わず口調を強める黒狼。
その様子に、俺は少し意外に感じた。
――彼にしては珍しい感情の出し方だった。
けれど、それはきっと彼なりの優しさなのだろう。
このモールに住む人々を、誰よりも近くで見守っている彼だからこそ――。
「黒狼くんに、確か美琴くんだったわよね」
「はい、美琴です。改めてよろしくお願いします」
桜我咲の姓を省き、名だけを名乗った。
それだけで何かが変わるわけでもないが……今の俺には、名乗りたくない理由がちゃんとあった。それは間違えなく醜一という存在だ。
「カートはあった方が歩きやすいですか?」
「はい。頼りにしています」
「だったら、中の荷物だけでも持っていいですか?」
「美琴さん、僕も手伝いますよ」
「そ、そんな。若いんですから気にしなくても……」
「若さを理由に、はいさようならなんて言えませんよ」
「激しく同意です」
「それに……少しは、頼ってください。こんな状況だからこそ、助け合うべきなんです」
俺たちの手が自然と荷物に伸びると、真紀さんは少し驚いたように目を見開いたあと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。なんだか……頼もしいですね」
その微笑みに、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
――母親って、こういうものなのかもしれない。
「美琴さん、リナさんに怒られますよ」
「そんなんじゃない。ただ……母親って、いいなって思っただけさ」
俺はクローンだ。母という存在は、頭の中の知識でしかない。
いや、違う。
本当は知っている気がする。
でも、それが仮初めの記憶だと理解している。
だからこそ今、目の前の優しさに胸を締め付けられていた。
「美琴君はもしかして……」
「あぁ、まぁ何というか……母親の存在を知らないと言いますか、会ったことがなくて……」
真紀さんに俺はクローンで――なんていきなり打ち明けられるわけもなく、言葉を濁した。
けれど、それでも彼女は優しく微笑んでくれた。
「でも、愛を注いでくれたのは事実です」
「別に気にしてませんよ」
自分で放った確証のない言葉は、まるで刃のように自分自身を抉っていた。
――言葉にすれば、少しは本当になると思ったのに。むしろその逆だった。
「きっと美琴君のご両親も優しい方だったと思いますよ」
「えぇ……そう言ってくれると、嬉しいですね」
真紀さんの言葉は、優しすぎた。
その優しさがかえって、どこか遠い場所に自分だけが取り残されているような気分にさせた。
そんなとき、背後から焦った男性の声が聞こえた。
先ほど少し自己紹介をした程度ではあったが、その声の主が直樹さんであることは直ぐに分かった。
呆れているのか、叱っているのか――。
どこかに優しさを滲ませた声色で、彼は駆け足でこちらへ近づいてくる。
「あなた、ごめんなさい」
「君が平気ならいいのだけどね。やっぱり、心配さ」
「あまり無理はしないでくれよ」
「えぇ、大丈夫よ。美琴くんや……黒狼くんが手伝ってくれたの」
「ありがとう、二人とも」
本気で感謝してくれているのだろう。
照れてしまうほど、まっすぐに頭を下げられてしまった。
「いや、俺たちは何も……」
黒狼がひと息おく。
その視線には、二人の時間を邪魔したくないという気遣いと、これ以上この場にいるのは気まずいという色が混じっていた。
「後は、直樹さんにお任せしても大丈夫ですか?」
「任せてくれ!」
そう言って、彼は誇らしげに腕を曲げて力こぶを見せる。
そして俺たちの持っていた荷物に、意気揚々と手を伸ばした――。
……が。
「って、重い!?」
「まったく、あなたも無理して」
「とほほ、不甲斐ない男ですまない……」
「とほほって……」
リアルで聞くにはあまりにも懐かしいその言葉に、俺と黒狼は思わず吹き出してしまう。
「運びましょうか」
「そうだな」
ふたたび荷物を受け取った俺たちに、真紀さんが小さく微笑む。
「あなた、そんなに落ち込まないでくださいな」
「でも……このままじゃ、もしもの時に……真紀やお腹の子を守れないじゃないか」
「ご安心を。今は僕や美琴さん、それに仁さんもいますから」
「リナや虎杖先生だっているしな」
「女性にも負けてるのか……」
「美琴さん、察してください」
「っと、すまない」
無意識に踏み抜いた地雷に気づき、俺は素直に謝った。
けれど、真紀さんも、黒狼も、――誰も嫌な顔などしていなかった。
笑い合うだけで、空気は少し軽くなっていた。
「さ、行きましょうか」
真紀さんが言ったその時だった。
彼は、ふと思い出したように手を打つ。
「そうだ、せっかくだから――この後、一緒に食事でもどうかな?」
その提案に、黒狼がわずかに目を見開いた。
だが俺は、冗談交じりの調子で返す。
「夫婦の時間も大事にしてくださいよ?」
からかうように言うと、佐藤夫妻は顔を見合わせ、まるで共犯者のような笑みを浮かべた。
「ふふふ、若いのね」
「僕たちからのお礼さ。少しだけど、受け取ってくれるかな?」
あまりにも自然な流れに、断る理由も見つからなかった。
それでも俺は、少しだけ気恥ずかしさを込めて返す。
「……まぁ、最初から断るつもりはありませんよ」
心からの感謝を込めた誘いに、気負わず応える。
そんな関係が、今は――心地よかった。
俺たちは荷物を抱えたまま、モール二階の個人エリアと呼ばれる仕切りスペースへ向かった。
「ふぅ……」
「美琴さん、このままフードコートへ向かいますよ」
「あいよ」
黒狼に手を振ってから、俺は急いで荷物を置きにいく。
ちなみに妊婦である真紀さんと旦那さんは、無理をさせぬよう二階で待機中だ。あまり歩かせるわけにもいかない。
「にしても広いな……」
「えぇ。さっきのファッションエリアからは、こちらはまったく見えませんからね」
「家具屋もあるし、住むには困らないんじゃないか」
「布団やベッドもありますから、今のところ寒さは感じません」
「肉体的な寒さ、だけはな」
「それでも現状がこれなら、大したものでしょう」
「……家に子どもを残した母親とか、その逆もいるんだろうな」
「……失言だったな」
取り繕うことなく、俺たちはそう言って、どちらからともなく歩を進める。
しばらくして階段を下りきると、遠くで手を振っている二人の姿が見えた。
「……いい大人が、可愛いことを」
俺と黒狼も、どこか照れくささを感じながら手を振り返す。
けれど、その無邪気な笑顔に、心が少しだけ温まった。
「期待させてすまないが、豪華なものではないよ」
「えぇ。でも、この状況で温かいものが食べられるなら、それだけで幸せです」
「美琴さんに同じく」
軽い会話を交わしながらフードコートへ入ると、奥の厨房スペースからおばちゃんが顔を出し、お盆を手に近づいてくる。
「あら、イケメン三人も連れてきて、いいわねぇ」
「そ、そんな、違いますって……」
真紀さんがからかわれて焦っていると、すかさず黒狼がスッと前に出てきて、軽やかに口を開いた。
「それなら、僕だってあなたのような美人さんに食事を運んでもらえて光栄です」
「……コクロウ、ニ、オナジク」
思わず同意したくなったが、どんな言い方をすればいいのか分からず、なぜか宇宙人のような口調になってしまった。
「もうもう、若いのにこんなおばさんをおだてたって、何も出ないわよ」
おばちゃんは「おほほ」と笑いながら去っていき、残された俺たちは、どこか和やかな空気に包まれる。
「黒狼……まさかお前」
「変な勘違いをしたなら、そのパンを没収しますよ」
「やめろ! っていうかお前、さっき小食って言ってたろ!」
「はてさて……忘れてしまいましたね」
テーブルに並んだのは、ベーコンエッグにパン、そしてぬるいけれど温もりの残る飲み物。
質素ではあるけれど、美味しそうな昼食がそこにはあった。
「美琴くんと黒狼くんは、前からの知り合いだったの?」
「いえ、今日が初対面です」
「あら、ふふふ……」
なぜか真紀さんと直樹さんが顔を見合わせて笑う。
「何か可笑しいことでも?」
「君たちのやりとりが、とても自然でね。もう、昔からの友達みたいだ」
「……やっぱり、若い子同士の方がいいのかしら?」
「いいえ。食事も、遊びも、笑い声も。多いに越したことはないですよ」
「それに、こうやって話をするのも、大事なことだからね」
俺と黒狼の素っ気ないようで馴染んだやりとりに、夫妻はまた微笑んだ。
「若いのに、すごいね」
「佐藤さんたちだって、まだまだ若いじゃありませんか」
「真紀さんも、お綺麗で羨ましいですよ」
「嬉しいけど、妻は渡さないぞ」
ふっと笑って、真紀さんが直樹さんの腕を軽く叩く。
肩を並べて笑い合う夫婦の姿は、どこか眩しかった。
この世界がどうなっても、こういう時間だけは――守りたい。そう思えた。
そんな穏やかな空気の中で、俺たちは目の前の食事に手を伸ばす。
「そういえば直樹さん。立体駐車場のアイツは、今どうなってますか?」
フォークを置きながら、俺は少し声を落として尋ねる。
「……あの化物なら、今のところ変わらずといったところかな」
直樹さんは重々しく言って、苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「現在も各班のリーダーたちと話し合いを続けているよ。けど……正直、どの班もお手上げ状態でね」
黒狼が黙って俯く。その表情は、悔しさを滲ませていた。
「……あの共食いの化物、僕にもっと力があれば……」
「黒狼くんが気に病むことじゃありませんよ」
真紀さんが優しく微笑みかける。
「そうだよ。あれは、僕らがどうこうできる相手じゃない。――少なくとも、今の時点ではね」
その会話の断片から、ようやく俺も話の内容を把握した。
「もしかして、その化物って……体が異様にデカくて、共食いして、やたらと力の強いやつのことか?」
「……美琴くんも知っているのかい?」
「ああ。昨日戦ったよ。俺らの間では喰異体しょくいたいって呼んでる」
「喰異体……」
「で、美琴さんはその戦いで勝ったんですか?」
「勝ったには勝ったよ――この顔面と引き換えにな」
軽口を叩きながらも、俺の指先は無意識に顔の傷へと触れていた。
すると黒狼が数秒、真剣な顔でうつむき、やがてゆっくりと顔を上げて俺を見据えた。
「美琴さん……お願いがあります」
「……この空気で断れって方が無理だろうな」
冗談めかして答えながらも、その声色からただ事じゃないと感じ取っていた。
「喰異体の討伐、手を貸していただけませんか。もちろん、僕も同行します」
空気が一変した。黒狼のその一言には、冗談も余白もなかった。
「黒狼……お前はその喰異体と戦ったことがあるのか?」
「はい。以前、立体駐車場で一度交戦しました。ただ……あそこは足場が悪すぎて、奴のパワーに対応できず、結果は逃亡でした」
黒狼は悔しげに言葉を絞り出す。
「じゃあ、今の喰異体の様子は、誰かが確認してるのか?」
今度は直樹さんに問いを向ける。
「ええ、監視カメラで……一応、映像は常時確認しているよ」
「運が良いのか悪いのか、その化物の大きさでは今のところ立体駐車場の構造を抜け出せないようでね」
「けど、それもいつまでかは分からない。喰異体が本気になって……こちらに向かってきたら――と考えると、恐ろしいよ」
少しだけ声色を変えて、俺は静かに聞いた。
「……まだ、あの立体駐車場に喰異体はいるのか?」
今までとは違う空気が流れる。
その一言に、直樹さんも真紀さんも、言葉を詰まらせるように目を伏せた。
俺の問いかけに、直樹さんはゆっくりと頷いた。
「最後に僕が映像を確認したのは、今朝方だった。その後、各班のリーダーから伝えられた情報によれば、奴に喰われていない個体が少しだけ残っているらしい」
「つまり……もうすぐ喰異体だけが、そこに残るってことか」
「……時間の問題だな」
「時間、ですか?」
「化物全般は、視覚と聴覚で動く。喰異体が吠えれば、それに反応してゾロゾロと集まってくる」
「そして喰われる。結果として――アイツは動かなくても、エサの方からやって来る」
「そんな思考力が……あの化物に?」
「違う。あれは本能だ。考えてなんかいないさ」
だからこそ、なおさら厄介だった。
理性を持たず、恐怖も感じない捕食者。想像を超える力を、そのままむき出しにしたまま、本能だけで動く存在――。
それは、人間にとっての悪夢だ。
「……かなり数は減っていてね。最後に僕が確認したのは今朝方。それから……さっきの話し合いで班のリーダーから聞いたところでは、多少は残ってるみたいだけど」
直樹さんの言葉は、どこか曖昧だった。思考を探りながら、言葉をつなげているような口調だった。
だが要するに――もうすぐ立体駐車場には、喰異体しか残らなくなるということだろう。
「……時間の問題か」
「時間、ですか?」
黒狼が小さく首を傾げる。
「さっきも言っただろう。あいつは動かなくてもエサに困らないんだ。喰異体が出す声に釣られて、周囲の化物が勝手に寄ってくる。つまり……」
「本能のまま動いてるだけでも、あいつにとっては十分だということですね」
「ああ。理屈も、理解もない。ただ喰らうだけだ」
考えていないからこそ、恐れもしない。
自分の限界も理解しない。だからこそ――暴走したときの災厄は、計り知れない。
俺は黒狼の提案を承諾することにした。
「……喰異体退治の件、協力するよ」
俺は、真っ直ぐ直樹さんを見据えて言った。
「ただ、ひとつだけ。こっちからも提案をしていいですか?」
「……どうしたんだい?」
直樹さんが不思議そうに尋ねる。
「戦いの間――監視カメラの映像を、切ってもらえませんか。もしくは、誰も見ないでいてほしいんです」
「え……?」
少し困惑した空気が場を包む。
真紀さんがわずかに眉を寄せて、俺たちを見つめた。
「理由は……詳しくは言えません。ただ、俺にとっては――必要なことなんです」
誤解されたくはなかった。でも、説明することもできなかった。
俺が喰異体を倒せば、戦力としての価値が一気に跳ね上がる。
だが同時に、正体不明の力を持つ存在としての疑念も、同じだけ増すことになる。
――それが、問題だった。
仮に直樹さんが、俺を信じてくれたとしても。
リーダーという立場で考えれば、選択肢はふたつしかない。
手元に置いて利用するか。
リスクと見なして排除するか。
たとえ直樹さんが俺の味方をしてくれたとしても――。
他の大人たちまで、同じように信じてくれるとは限らない。
この状況で、仲間同士の内戦なんて絶対に起こしたくなかった。
だから俺は、あえて――戦いの姿を隠すことを選んだ。
「……うん。分かった」
直樹さんが静かにうなずく。
その横で、真紀さんがやや不安げな声で口を開いた。
「あなた……でも、さすがに危険すぎるわ」
「危ないよ。でも――それは、二人が一番よく分かってるんじゃないかな?」
そう言った黒狼の声には、わずかに誇りのような響きがあった。
「もちろんです。僕もクロ自身も――命の危険を感じたら、すぐにでも逃げます」
「ええ。僕としても、美琴さんのお願いは尊重してもらいたいですね」
黒狼はいつになく真剣な表情で、静かにそう言った。
「黒狼くん……大丈夫さ。僕も真紀も、君たちを疑ってなんかいないよ」
直樹さんは、ふっと微笑む。
「それに……事情のある人なんて、誰にだってある。そうだろう?」
「はい。美琴くんも、黒狼くんも――いい子たちだって、私たちは分かってますから」
真紀さんが、どこか安心したように微笑んでくれた。
――この人たちなら、信じていい。
その優しさに触れて、俺の中にあった緊張の糸が――ゆっくりと解けていくのが分かった。
佐藤夫妻の気持ちはとてもありがたく、同時に、そんな優しさに嘘を重ねることが――胸の奥で静かに痛んでいた。
「佐藤です。各班のリーダー、それとルイさん。至急、二階の迷子センターに集まってください」
無線機を手にした直樹さんが、短く電波に呼びかけると――すぐにいくつかの返答が返ってきた。
「美琴くん、黒狼くん……ありがとう」
彼は、俺たちをまっすぐに見つめた。
その瞳に浮かぶのは、何の曇りもない信頼の色だった。
――信じてくれている。
それが分かるからこそ、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
この人たちの優しさに、全てを晒せない自分が、少しだけ情けなかった。
「監視カメラの件は、ルイさんに任せます。あの子なら、事情を汲んでくれるはずです」
「……こちらこそ。無理なお願いを聞いてくださって、ありがとうございます」
そう言うと、真紀さんがそっと手に何かを乗せてきた。
それは、予備の無線機だった。
「でも、一応これを。連絡手段がないと、いざって時に困るでしょう?」
その一言に――思わず胸が温かくなる。
疑うことも詮索することもせず、ただ必要だからと手渡してくれたその行動が、何よりもありがたかった。
「分かりました」
「了解です」
黒狼と俺は頷き、荷物を軽く整えながら立ち上がる。
戦いの準備をするはずなのに、肩に乗っていた重みが少しだけ和らいだ気がした。
✿ ✿ ✿
「――というわけです」
佐藤夫妻がひと通りの説明を終えると、迷子センターの空気がざわついた。
集まっていたリーダーたちは、互いに視線を交わし、不安と疑念を隠せない様子だった。
「はぁ……まぁ、佐藤さんが決めたのなら従いますけどね」
「でも、本当にこの子たちで大丈夫なんですか?」
「黒狼さんの力は認めますけど、あれには勝てなかったって……」
「それが、こんな怪我してる少年一人増えたくらいで、状況が変わるとは思えませんよ」
その声は、決して敵意から来るものではなかった。
むしろ、皆にも守りたいものがあるからこそ、慎重にならざるを得ないのだ。
だから――それが正論であることも、俺は理解していた。
俺は黙って、ただその場に立っていた。
どんな言葉を返しても、今はきっと届かない。ならば――結果で示すしかない。
そんな沈黙を破ったのは、直樹さんだった。
「――だからこそ、僕がこうして話しているんです」
穏やかな声の中に、確かな意思が宿っていた。
彼の声が響いた瞬間、場のざわめきは不思議と収まった。
今、彼は誰かの父親ではなく、全体を率いる者として、真正面から俺たちを支えてくれていた。
その姿は、まるで――盾のようだった。
俺のために。
そして、ここにいる全員のために。
「うっすッス!」
その緊張を切り裂くように、明るく弾ける声が響く。
現れたのは、ルイだった。
いつも通りの軽口、派手な身振り。
けれど、その裏にある空気を読む力は本物だ。
きっと、場を和ませようとしてくれているのだろう。
「あら、ルイちゃんも」
「どうもっス、真紀さん」
「クロっち、美琴さん、ファイトっスよ」
「ありがとう。……リナたちは平気か?」
「もちろんッス。お呼ばれされたときは、一瞬はてなが浮かんだッスけど、だいたい把握したっス。あれと戦うんスね」
その言葉には、いつも通りの冗談交じりの調子が乗っていた。
けれど――そこに、確かに覚悟の気配があった。
軽く拳を握って笑う彼女の姿に、俺はふと気づく。
この子もまた、誰かを守るために、笑っているのだと。
「監視カメラはアタイが切るッスからよろしくッス!」
ルイがピョコンと敬礼し、軽快な足取りで真紀さんの方へ向かっていく。
あっけらかんとしたその姿は、重たい空気をほんの少しだけ、和らげてくれた。
「元気ね、ルイちゃん」
真紀さんが小さく微笑む。
その笑みに、どこかホッとした空気が混じった。
「明るすぎて眩しいレベルですけどね」
俺がぼそっと返すと、周囲からわずかに笑いが漏れた。
それは、張りつめた空気の中にぽつりと落ちた――ほんの一滴の潤いだった。
「美琴さんのコメント、草生えますね」
「今のうちに弾幕の準備しておけよ」
「おやおや、美琴さんもそちらの知識があったんですね」
軽口が交わされるが、その奥にある緊張は――誰の目にも明らかだった。
特に、黒狼。
彼の表情は、冗談を笑えるものではなかった。
眉間にうっすらと皺を寄せ、口元は引き結ばれている。
笑おうとしても、笑えない。覚悟を背負った男の顔だった。
ふと、彼の手元に目が行く。
指先を何度も確かめるように動かしながら、グローブのような装具を調整していた。
その仕草に、俺は小さく声をかける。
「…………それ、お前の武器か?」
気まずさを紛らわせたいのと、緊張を和らげる意味もあるが――何より、仲間の力を知っておきたいというのが本音だった。
黒狼は一瞬、手を止めた。
「はい。これはルイが制作したかぎづめです」
言葉と同時に、黒狼は右の拳を小さく振る。
その瞬間、銀色の装具がスライドするように展開し――。
三本の鋭い刃が、カシャリと音を立てて飛び出した。
「――かっこいい……」
思わず、素直な感想が口からこぼれた。
金属が擦れ合う音。
仕掛けが作動するあの一瞬の静寂と、音と、緊張感。
こういうのにワクワクしない奴は、そう多くないと思う。
黒狼の拳に装着されたそれは、まさに『戦うための道具』だった。
でも、どこか美しさすらある。
「彼女は、こういうのを作るのが本当に得意でして」
黒狼は、どこか誇らしげに目を細めた。
「整備性、殺傷力、装着時のバランス……全て考慮して設計されているんです」
その声には、信頼だけでなく――赦しと、償いのような想いが滲んでいた。
ルイが作った武器。
それを振るう彼の姿には、ただの戦士以上の何かがあるように感じた。
「へぇ……そいつは頼もしいな」
俺はそう返しながら、もう一度刃を見た。
鋭さ。冷たさ。美しさ。
全部を内包したその武器は――今から始まる戦いの牙だった。
――いよいよだな。
そう実感した瞬間、心のどこかで覚悟が形を持ち始めた。
胸の内には、奇妙な静けさがあった。
怖くないわけじゃない。
でも、それ以上に――今はやるしかないという気持ちが、体の芯に根を張っていた。
目の前の現実。
そして、これから向き合うべき敵。
そんな俺の思考を読んだかのように、黒狼が一枚の写真を差し出してくる。
「美琴さん、これが喰異体の写真です。確認を」
俺は写真を受け取り、視線を落とす。
「…………キモい」
素直な感想が、思わず口から漏れた。
背筋に冷たいものが走る。
黒狼は小さく肩をすくめる。
「かなりグロテスクですよね」
そこに写っていたのは、背中を地面に向け、手足を逆関節のように折り曲げた喰異体。
四つん這いで這いまわる様は、まるで蜘蛛のようだが、明らかに人の形を踏み外していた。どこか、かすかに人間の面影が残っていることが、かえって不気味だった。
「でも……頭があるなら、狙いはここだな」
写真に映る頭部を指差しながら呟く。
どんな形であれ、脳さえ破壊すれば終わる。それが敵の共通点だった。
「ええ。ただ、これだけ大きいと、僕の武器では落とせるか……」
「何、ものは試し。それでダメなら――俺がどうにかするよ」
自信、というよりも覚悟だった。
自分が戦うことで誰かが生き延びるなら、それでいい。
ふと向こうから声がかかる。
「クロっち、美琴さん、お願いします」
ようやく結論が出たらしい。
佐藤夫妻が真っ直ぐにこちらを見て、深く頷いた。
「こっからは、これでお願いするっスよ」
ルイが無線機を掲げて見せる。
――これが、命を繋ぐ最後の手段になるかもしれない。
「分かった」
「了解」
俺と黒狼は同時に無線機を手に取り、それぞれ腰のホルスターに装着する。
指先が自然と強くなっているのを、自分でも感じた。
「美琴さん、立体駐車場に奴はいます」
「それじゃ、行こうか」
軽い調子で返しながらも、その声には鋭い緊張が滲んでいた。
今この瞬間から、命を懸ける時間が始まる。
黒狼と並んで立ち上がる。
――一緒に行ける仲間がいる。
それが、こんなにも心強いとは思わなかった。
無言のうちに頷き合い、俺と黒狼は迷子センターを後にする。
向かう先は――立体駐車場。
一方そのころ、ルイと佐藤夫妻たちは、それぞれ監視カメラの操作に取りかかっていた。
全ての準備は整った。
あとは、化物を――倒すだけだ。
✿ ✿ ✿
立体駐車場――その出入口に、俺たちはたどり着いた。
目の前には、まるで気休めとしか言えないような、頼りないバリケードがぽつんと立っている。
鉄骨とベニヤ板の即席の防壁は、時間を稼ぐどころか、むしろここに何かがいると教えているようだった。
沈黙が降りる中、俺はふと横に立つ黒狼に目を向ける。
「なぁ、黒狼」
声をかけると、彼はすぐに反応した。
「ちょっといいか?」
「構いませんが?」
わずかに首をかしげた黒狼は、意外そうな顔をしていた。
彼にしては珍しく、何の話? という表情を浮かべている。
俺は少し言葉を選びながら、問いかけた。
「……この件で急がなきゃいけないのは分かってる。モールの安全のためにもな」
前置きをしてから、少しだけ声のトーンを落とす。
「でもさ、お前自身が急ぐ理由って、別にないよな?」
あえて冷たく聞こえるように言ったのは、真意を引き出したかったからだ。
このまま聞き流すには、黒狼の動きはあまりにも焦りすぎていた。
ルイだけ連れて逃げることだってできた。
このモールにはまだ食料も水もある。彼女が工作して作った装備なら、しばらくはどこかで生き延びることだってできるはずだ。
「……ここには貴重な食料などが、腐るほどありますしね」
黒狼は視線を逸らしたまま、静かに言った。
言葉そのものは冷静だったが、その声の奥に――何かが揺れていた。
俺は、少しだけ踏み込む。
「でも、それだけじゃないんだろ?」
問い詰める意図はなかった。
ただ、聞きたかった。彼の中にある理由を、ちゃんと。
黒狼は短く息を吐き、それから静かに口を開いた。
「……ルイのためです」
その答えは意外ではなかったが、思ったよりも重かった。
「ルイの……ため?」
「はい。彼女は自信家に見えますが、実際は……そうじゃないんです」
黒狼の声が、少しだけ揺れる。
普段の彼ならあり得ないような、言葉を探すような話し方だった。
「何というか……彼女、自信がないんですよ」
思わず、俺はルイの笑顔を思い出す。
無敵のように明るくて、図太くて、どこまでも自分を貫いてるように見えたあの子が――そんなふうに思っていたなんて、少し想像しづらかった。
「彼女は昔から、工作が好きでした」
「……なんとなく、分かる気がする」
俺の返事に、黒狼は小さく頷く。
「でも、その好きが……少し変わってたんです」
彼は、自身の武器をそっと撫でながら続ける。
「小学校の図工で、好きなものを作るって課題がありました。そこで彼女は――圧倒的な完成度で、武器を作ったんです」
「武器……?」
「はい。それも、どうすれば一番効率よく人を傷つけられるかを、無意識に計算したような作り方でした」
俺は思わず黙り込む。
想像できないわけじゃない。でも、正直、少し怖かった。
「誰かに教えられたわけでもない。ただ、彼女の手から自然と……そういう形になっていったんです」
その話し方は、どこか現実味があった。
まるで昔話のように語られるからこそ、余計に怖い。
「他人を攻撃する道具を作ることに関しては、彼女は……突出していました」
「……でも、周囲はそれを許さなかった」
俺の言葉に、黒狼は少しだけ目を伏せて、静かに頷いた。
「幼い少女が血を見るおもちゃを作る――それだけで、異常だと判断されたんです。理解される前に、否定された」
それは、たぶん――大人としては正しい反応だったのだろう。
でも、彼女にとっては、取り返しのつかない否定だった。
「彼女、笑ってましたよ。まあ仕方ないッスって」
言葉にする黒狼の声に、どこか苦味が混じる。
「でも……本当に笑ってたかどうかなんて、目を見れば分かります」
黒狼は、それを見てきたのだ。
隣で、ずっと――ルイの孤独を見てきたんだ。
「だから、僕は思うんです」
彼がバリケードの先を見つめる。
「彼女が作ったものが、誰かを救うために使われたら……きっとそれが、彼女自身の居場所になるって」
その言葉には、言いようのない優しさが滲んでいた。
ルイという存在の肯定のために、ここに立っている。
……なるほどな。
俺は小さく息を吐き、黒い駐車場の内部へと視線を向けた。
誰かの好きが、否定されないように。
「それでも、彼女はやめませんでした。武器だって、時に誰かを救う。彼女は、そう信じていたから」
黒狼の声は、どこか遠くを見つめるようだった。
静かで――でも確かに、熱があった。
「陰で一人、ずっと作っていたんです。誰にも見つからないように、でも本当は……誰かに気づいてほしかったのかもしれない」
その時のルイの姿が、なぜか頭に浮かんだ。
背中を丸め、工具を握り、ひたすら何かを削っている彼女の姿――。
あれほど明るい彼女が見せる無音の時間は、やけに寒く、寂しげだった。
「そんな時、ある男の子がルイさんの作った工作に興味を持ちました」
黒狼の語調が、わずかに変わる。
その男の子が誰かなんて、もう聞かなくても分かる。
「……彼はあろうことか、それを戦いごっこに使ってしまったんです」
その言葉と同時に、黒狼の瞳が僅かに揺れた。
「相手は怪我をしました。大事には至らなかったものの、相手の親は激怒して……学校にも、警察にも、通報が入りました」
「……」
「呼び出されたのは、使った少年と、作った少女。もちろん、その両親も。教師もパニックで……」
語る黒狼の声が、少しずつ低くなっていく。
「謝って、頭を下げて、治療費を払って……そうやって終わったことにされたんです」
でも、終わってなどいなかった。
「僕は……その時の記憶を、ずっと頭の端に追いやって、中学まで進みました」
どこか、他人事のような口ぶりだった。
けれど、その奥に潜む罪悪感の色は、誤魔化しようがなかった。
俺は黙って耳を傾けていた。
きっと、何を言っても、彼の中ではもう答えが出てる話なのだ。
「そこで……再びルイと再会しました」
その瞬間、黒狼の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「驚きましたよ。彼女には、あの時のものづくりの意欲がまったくなかったんです」
「それどころか、技術の授業にも参加しない。まるで……あの手に触れるのを、恐れてるようでした」
黒狼の指が、ぎゅっと自分のかぎづめを握る。
「その時、僕は理解したんです。――あの日、僕は、彼女から一番大切なものを、奪ってしまったんだって」
言葉が、重かった。
自分を責める声にしては、あまりにも静かすぎて、逆に痛い。
「それから僕は、狂ったように謝りました。あの日のことを、僕の軽率さを、彼女の未来を壊した責任を――全部、何度も、繰り返し」
「…………」
「そしてようやく。彼女がまた、工作に手を伸ばすようになるまで……三年。かかりました」
三年――。
どれほどの時間だろうか。
過ぎていく年月の中で、彼女はどれだけ孤独だったのか。
そして、その隣にいた黒狼は、どれほど自分を責め続けたのか。
「その間には……色々ありました」
「そんな日々を経て――こんな世界になったんです」
一度、言葉が止まる。
それは沈黙ではなかった。
ほんの、深呼吸のような間。
「……僕は、クズですからね」
ぽつりと、黒狼が言った。
「この世界になったことで……彼女に償えると思ってしまったんです」
「彼女の作った武器を使って、誰かを守れる。そうすれば……彼女の好きは、間違いじゃなかったって証明できる」
その言葉には、深い信仰に近い想いがこもっていた。
「信じてるんだな」
俺は、小さく呟くように言った。
「はい。彼女の作った武器は……僕の誇りです」
「これで倒せない相手なんて、いませんよ」
黒狼の目はまっすぐだった。
そこには、守られるべき誰かのために戦う者の、静かな強さがあった。
その瞬間――。
『はーい! 聞こえるっスかー?』
無線から、いつものルイの明るい声が響いてきた。
「……聞こえるよ」
俺は答える。
いつも通りの調子で。
でも――胸の中には、ひとつだけ確かな想いがあった。
この戦いが、彼女の好きを守るためのものになるように。
そう――願わずにはいられなかった。
「……同じく、聞こえてます」
黒狼も応じたが、その声はどこかいつもより柔らかかった。
たぶん、さっきの会話――ルイの話が、まだ心のどこかに残っているのだろう。
『こっちは準備完了ッス。あとは、そッちッスよ』
無線越しに届くルイの明るい声が、この張り詰めた空気にほんの少しだけ、余裕を与えてくれる。
それだけで、救われる瞬間もある。
「了解。……じゃあ、バリケードをどかします」
俺は軽く指でサインを送る。
かっこつけ――というより、これからの緊張をごまかすための儀式みたいなものだ。
黒狼はその意図を察したのか、少し呆れたように肩をすくめながらも、素早く手を動かす。
バリケードの固定金具に指をかけ、一つひとつ、外していく。
『二人とも、気をつけてくださいね』
無線越しに響いた直樹さんの声が、不思議と胸に沁みた。
誰かに心配されるという、当たり前だったはずの感情――。
その温かさが、こんなにもありがたく感じる日が来るなんて。
「直樹さん、ご心配ありがとうございます」
素直にそう言葉が出たのは、自分でも意外だった。
――カチッ。
音と共に、冷たい感触が腹部を走る。注射器を腹に刺した。
化物の体液が体内へと流れ込み、血流に乗って全身へと拡がっていく。
黒狼は、その行動を見ても微動だにしない。
「美琴さん――」
彼が、静かに口を開く。
「その力について、聞きたいことは山ほどあります」
「ですが――今までのあなたを見てきて、もう判断はつきました」
彼はまっすぐ俺を見る。その視線には、迷いがなかった。
「あなたは紛れもない味方です。そのあなたが使う力なら……僕は信じます」
――信じる。
たったそれだけの言葉が、こんなにも重く、力強く響くとは思わなかった。
「ありがとう。……それじゃ、証明しに行こうかね」
この力が、ただの破壊じゃないことを。
――グラの存在が、誰かの未来を守るためにあると、俺も証明したい。
同時に、黒狼の信じたものが無駄じゃなかったと、彼自身に示したかった。
バリケードがゆっくりと、無音のうちに取り外されていく。
その先には、まるで深海のような闇――そして、闇の中に浮かび上がる不気味なシルエット。
「美琴さん、準備はいいですか?」
「ああ」
気持ちを整え、短く返す。
――ガタン。
最後の支えが外れ、扉のように開け放たれたその先には、確かに敵がいた。
「先に行くぞ」
「了解しました」
「グラ、バトルスタンバイ」
呼びかけに応じるように、腰元から黒く、太い尻尾が現れる。
その先端には口のようなものが開き、鋭い牙がこちらを見上げていた。
「準備はいいってか」
「グギャッ!」
鋭い声が返ってくる。
俺たちは、もう立ち止まらない。
「準備はいいってか」
「グギャッ!」
「……いい返事だ」
すでに、目の前の喰異体はこちらに向かっていた。
グギグギ……と嫌な軋み音を響かせながら、四つ這いのまま這い寄ってくる。
無言のまま、俺の心臓だけがやけに速くなる。
……でかいな。
視線が合った。
目がこちらを見て――いや、あった場所が俺を捉えたような気がした。
「四つ這いなら、パンチもキックもできないよな!」
そう叫びながら、グラを前方に伸ばす――その瞬間。
「グッギギギッ」
喰異体の顔面が――裂けた。
「っ――え、開く……?」
まるで花が咲くように、顔の皮膚が四方向にパカリと開いた。
そしてそのまま、蛇のように首が伸びてくる。
「美琴さん、回避です!」
黒狼の叫びに、体が遅れて反応する。
間に合わないか――そう思った刹那、
身体が後方に吹き飛ばされる。
『大丈夫かい!?』
「驚いたけど……なんとか、な」
無線の向こうから聞こえた声に息を吐きながら、体勢を立て直す。
その隙を突いて、黒狼が前へと跳び出す。
「腹の下――いいえ、背の下がガラ空きですよ」
そう言って、かぎづめを鋭く振り抜いた。
ギシャッ、と乾いた音。
喰異体の前脚が、ねじれるように崩れ落ちた。
「グギ?」
喰異体が呻くような声を漏らす。
伸ばした顔がこちらへ飛び戻るかと思いきや――不自然な動きで、首が曲がらぬ方向へねじれる。
その視線の先には――黒狼。
「黒狼ッ!」
警告する間もなく、喰異体の首が雑巾のようにねじれながら空中を舞った。
絞り上げた筋肉の圧力で、内側から噴き出した血が飛沫のように散る。
――ギチチ……ギリッ……。
耳障りな音が、骨の軋みを伴って空気を裂く。
殺意の塊が、旋回しながら黒狼に襲いかかる。
「グラ、黒狼を助けられるか!?」
「グギャ!」
即座に反応したグラが、太く黒い尾をうねらせて横から黒狼を強引に引き寄せる。
かぎづめの先が地面を滑る。寸前で、その身が危機から逃れた。
「ナイスだ、グラ!」
「黒狼、怪我は!?」
「問題ありません。……強いて言うなら、グラさんの涎が、ちょっと付着したくらいですね」
いつもの調子で冗談を返すが、額には汗。
さすがに危なかったと分かる。
「我慢してくれよ、命は守ったんだ」
「ですが――感謝します、グラさん」
「グギャッ!」
グラが誇らしげに口を開いた。
その音に少し安心したが、目の前の敵は――余裕すら見せていた。
喰異体は、首をねじれたまま元に戻すと、こちらをじっと見据えてくる。
その仕草にはまるであざ笑うような余裕があった。
『クロっちも、美琴さんも、平気っスか!?』
無線越しにルイの声が飛ぶ。
「思ってたより苦戦しててワロタって感じですね」
『危険なら逃げてください』
「……何、こんなの、準備運動さ」
そう返したが――完全なハッタリだった。
内臓がズンと重い……一発でここまでとは。
それでも、まだ動ける。
まだ、やれる。
「次、来ますよ」
「分かってる!」
再び、喰異体がこちらを見た瞬間、顔がパカリと開く。
――飛んできた。今度は真正面から、まっすぐに。
「ったく、これじゃ思ったように動けないっての!」
攻撃パターンは一度見た。動きは読める。
バックステップで避け、側面へ回り込もうとした――が。
狭い……!
天井が近すぎる。構造物が邪魔になる。
ここは戦う場所じゃない。明らかに不利だ。
「天井が視界にある状態の戦いは嫌だな……!」
グギギギギ!
その音で、背中に悪寒が走った。
「――――ッ!?」
「まだ終わってません!」
黒狼の警告と同時に、飛び出していた喰異体の首が横へ薙ぎ払うように振るわれた。
「くッ……!」
とっさに身を引こうとしたが、間に合わなかった。
ドンッ!
全身が弾き飛ばされ、背中をコンクリートの柱に強かに打ちつける。
痛みより先に、肺から空気が抜けた。
息が、できない。
喉からひゅうひゅうと情けない音が漏れ、肺が空気を求めて痙攣する。
だが、それでも――俺は立ち上がる。
目の前の喰異体が、ぐちゃりと音を立てて首を戻す。次の一撃をためるように、じりじりとこちらへ近づいていた。
……駄目だ、このままじゃ埒が明かない。
動きは見える。避けることも、攻撃することもできる。
でも――戦えない。
この場所は狭すぎる。
天井は低く、床の段差や柱が死角を生み、こちらの動きを奪っている。あいつのような異形には、むしろ有利な地形だ。
思考が回る。判断がつく。だからこそ、割り切った。
「黒狼、聞こえるか?」
「はい、聞こえています。無事ですか?」
「なんとかな。……だけど、もう限界だ」
「限界?」
喰異体を警戒しながら、黒狼がこちらに目線だけを寄越す。
「この場所じゃ、俺たちが不利すぎる」
「それは、同感です」
「だから……壊そう。この立体駐車場ごと、化物を潰す」
わずかに沈黙が走った。
「……え?」
「柱だよ。建物を支えてる柱を、俺たちで全部叩き壊す。上から建物が落ちてくるように」
「――正気ですか?」
「正気じゃなきゃ生き残れないだろ、この世界」
言いながら、俺はグラに意識を向ける。
重く、太く伸びる尻尾。その先端が、かすかに振動しながらこちらの思考に応える。
「グラ、まだ戦えるな」
「グギャッ」
即答だった。頼もしい。
「黒狼、できるか?」
「……馬鹿げてます。ですが――」
黒狼は喰異体を一瞥し、静かに笑った。
「それに、賭けてみる価値はありますね」
「グギィィイイイ――ッ!!」
喰異体が咆哮を上げた。怒りか、それとも理解か。どちらにせよ、この場に長く留まれば危険なのは確かだった。
だが、俺たちは逃げない。
「黒狼、俺が引きつける。お前は狙える柱を叩いてくれ」
「了解」
黒狼が軽く拳を構えた。指に沿う銀のかぎづめが、青白く光を反射する。
「グラ、行くぞ!」
腰から飛び出す黒い尻尾――グラが唸るようにうねり、一直線に喰異体へと突き出される。あいつが俺に反応するのを見計らい、俺はわざと大きく動いた。
「――おい、こっちだよ、化物!」
喰異体が首をうねらせながらこちらに飛びかかってきた。
来い……!
ギリギリで回避。直後、喰異体の首が背後の柱を粉砕。
「黒狼、今だ!」
「はい!」
すでに動いていた。
黒狼は音もなく回り込み、柱の裏手から飛び出す。
「うおおおおッ!!」
鋭く振り抜かれたかぎづめが、さっき喰異体が削った箇所に追撃を加える。コンクリートの芯が砕け、柱が悲鳴のような音を立てて歪んだ。
「ナイス。あと何本か……!」
俺はすぐさま次の柱へ向かう。
「グラ、あの柱だ!」
「グギャッ!!」
尻尾を振るい、柱の側面を打ち据える。骨のような突起を打ち込むように突き刺し、構造を破壊していく。
「グギィィィ!」
喰異体が怒りの声を上げ、再びこちらに向かって突進してくる。だが、もう俺たちの目標は戦うことではなかった。
壊すこと。そして、潰すこと。
「黒狼、次はそっちの中央支柱だ!」
「任せてください!」
黒狼は素早く横跳びしながら、喰異体の動きに合わせて接近する。
刹那、喰異体が首を飛ばして攻撃してきた――が、それすら利用する。
「ッ――今だ!」
黒狼がタイミングを合わせ、飛びかかってくる首を逆に避け、その勢いを背後の柱へ誘導した。
柱が砕ける。ぐしゃ、と嫌な音を立てて。
「計算通り……で草!」
着地と同時に回転し、さらに別の柱に追撃を加える。
そろそろ、だ。
天井がわずかに軋む音が聞こえる。気のせいじゃない。負荷が限界に近づいている。
「黒狼、あと一本ずつで……!」
「分かってます、美琴さん!」
それぞれ最後の柱へ向かって走る。
「グラ、渾身の一撃だ!」
「グギャアアッ!!」
尻尾を収束させ、ドリルのように回転。渾身の力で柱を貫いた。
同時に、黒狼のかぎづめがもう一方の柱を裂いた。
――その時。
ゴウ、と音が鳴った。音ではなく、空気の震えだった。
天井が、わずかに落ちる。
俺はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……黒狼」
「はい?」
「――飛べ」
間髪入れず、無線が鳴った。
『え、ちょっと!? 何してるんスか!?』
『美琴くん、それは危険だ、やめなさい!』
俺はグラに意識を集中させた。
翼を、広げる。
まるで影のように広がった黒翼が、俺の背後でふわりと浮力を生む。尻尾から変化したそれは、戦闘のためではない飛行のための形態だ。
そして、崩壊の兆しは加速する。
床が――沈んだ。
「グギ……・ギィ……」
喰異体が呻くような声を上げ、足元の異変に気づいたようにぐらりと体を揺らす。
天井が軋み、梁が悲鳴を上げ、照明がわずかに揺れた。
もう――限界だ。
この建物は、俺たちの作戦によって沈む準備を始めている。
「黒狼!!」
「はい!」
その声が合図だった。
黒狼は躊躇なく駆け出し、崩壊直前の床の縁を蹴って跳躍する。
「グラ、黒狼を助けるぞ」
「グギャッ!!」
即答だった。黒翼が風を裂き、俺は加速する。
黒狼が、落ちる――いや、飛ぶ。
すぐさまその背中を、俺の両腕が受け止めた。
「っとと……!」
全体重が一瞬だけ肩にのしかかる。
けれど、支えきれた。グラが羽ばたいて、俺たちは空へ浮かんだ。
その瞬間――
ズガァァァァァンッ!
立体駐車場が、音を立てて崩れた。
床が次々に沈み、柱が粉砕され、数秒前まで俺たちが立っていた場所が瓦礫の山へと変わっていく。
吹き上がる粉塵の中、黒狼と俺は空中に留まりながら、真下を見下ろした。
「……潰したか」
「確認を」
言われるまでもなく、俺は視線を凝らす。
煙の奥――瓦礫の中に、あの醜いシルエットが……あった。
「――グギ、ギ……ギィィ……」
「まだ、生きてる」
「さすがですね……あそこまで崩れても尚、動けるなんて」
「けど、限界は近い」
そう――次で、終わらせる。
「美琴さん、今度は僕の合図でお願いします」
黒狼が静かに言った。
俺は一瞬だけ彼の横顔を見た。その瞳は、決して冗談ではなかった。冷静で、鋭くて、それでいて――迷いがなかった。
「……任せたよ」
俺は言い、彼をそっと前に抱えるように持ち直す。
そして――黒狼の作戦が始まる。
「今です、美琴さん――!」
その言葉が合図だった。
「任せろッ!」
俺は黒狼の身体を抱え、風を切る勢いで――投げた。
眼下では、崩落した瓦礫の中から喰異体が再び身を起こそうとしていた。
砕けたアスファルトを踏みしめ、信じられない再生力で首を再び伸ばし始める。
――だが、遅い。
「グラ!」
グラの翼が、再び黒く変質する。二枚の羽は消え、腰元に戻った尻尾は長く、獰猛にしなる獣のような形に変わる。
俺の命令に従い、グラの尻尾が空中で伸び、喰異体の首を横合いからがっちりと拘束した。
顔をパカリと開いた喰異体は、上空から迫る黒狼の姿に気づき、反射的に首を振ろうとした――。
「させるかよ……!」
俺は全身に力を込め、グラの尻尾ごと喰異体の首を押さえ込む。
咆哮が響いた。鋭い歯が空中で空を噛み砕く。
だが、逃さない。
「あなたにはここで沈んでもらいますよ……」
風を切りながら、黒狼が降下する。
その姿はまさに――刃。
宙に投げられた勢いそのままに、拳を振り上げる。
刃が展開する。彼のかぎづめが、鋭く光を帯びた。
「これで……チェックメイト、ですッ!!」
一直線に伸びた喰異体の首の上、黒狼がそのまま――滑空するように斬り裂いた。
断末魔が響いた。
首の内部から赤黒い液体が噴き上がり、そのまま切断された巨体の頭部がゆっくりと倒れていく。
「ふぅ……終わりましたよ、ルイ」
着地の衝撃で軽くよろけながらも、黒狼は真っ直ぐ立っていた。
その目には、燃え尽きたような安堵と、誇りが宿っていた。
『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、よがっだッズ……』
無線越しに、ルイの声が聞こえた。
それは、泣き崩れそうな声だった。張っていた緊張の糸が切れたのだろう。
黒狼はその声を静かに聞いたまま、空を見上げる。
「……これで、やっと」
俺はゆっくりと着地すると、グラの尻尾が淡く光り、ふわりと霧のように消えていく。
「……お疲れ、グラ」
そう声をかけると、グラは尻尾の先端で軽くグギャと鳴いた。
まるで、誇らしげにやったねとでも言っているように。
その瞬間だった。
『美琴様!?』
無線の向こうから怒声が飛ぶ。
「うっ……」
耳がキーンとなるようなボリュームだった。リナの声だ。
『わたくしたちががいない間に、随分なことをしているようで――』
リナの声の重圧がすごい……。無線なのに彼女の怒りのオーラがこちらに迫る。
「ま、まぁ落ち着いてくれ。結果的にはうまくいっただろ?」
『そういう問題じゃないッスよ!!』
ルイの声にも怒気が混じる。
「戻るの、少し怖いな……」
「ですがこの戦いは、意味がありました。命を懸けるだけの価値が、ちゃんと」
その声には、確かな覚悟と、満足の響きがあった。
『……それはこっちが決めることッス!』
ルイの声に、黒狼がぴたりと口をつぐむ。
無線の向こうで静かに、鼻をすするような音がした。
「すみません、ルイ。心配かけてしまいましたね」
そんな彼女に黒狼が優しい声色で謝罪する。
『……バカ』
ようやく、ルイの声に怒気が消えた。
それを合図にしたように、無線がひときわ軽く鳴る。
『とりあえず、戻ってきてくださいませ。お説教は直接……ですわ』
「あ、はい――」
「…………それじゃあ、行きますか」
黒狼と視線を交わし、俺たちは崩れた立体駐車場を後にした。
戦いの跡には、まだ喰異体の体液が残り、空気は血の匂いで重苦しかったが――それでも、どこか、すっきりした気持ちがあった。
俺も、黒狼も、そしてグラも。
この世界で生きる意味を、ほんの少しだけ掴めた気がしたからだ。
✿ ✿ ✿
「……で、何か言い訳でも?」
迷子センターに戻るなり、俺を迎えたのは――鋭い声と、冷たい視線だった。
リナ、柊、虎杖先生。
揃いも揃って、腕を組んだまま俺を睨みつけてくる三人。
とてもつもない圧だ……正直戦場よりも怖い。
俺はぺたりと床に座らされ、希望が心配そうに膝の上にちょこんと座っている。
「パパ可哀そう……」
「ありがとう希望、お前だけが味方だよ……」
そう弱々しく呟くと、すぐ隣から助け舟。
「……僕も、味方しますよ」
黒狼が、少し申し訳なさそうに笑いながら言った。
ちなみに彼はというと、ルイに肩をつつかれながら、軽く小言を受けているだけだった。
「クロっち、無線くらい応答してほしいっスよ~、本当」
「はい……気をつけます」
――くそぅ、なんで俺だけフルボッコなんだよ。
「美琴様は強いです。でも、だからといって何の相談もなく、あんな無茶をしていいわけがありませんわ?」
「リナ君の言う通りだよ、美琴君。結果オーライじゃダメだ。今回はたまたまうまくいっただけかもしれないだろう」
「リナさんからお話は聞きました。ですがそれでも……たとえ傷が癒える身体であっても……桜我咲さんは人間です、仲間です」
三人の追撃が止まらない。
痛いところを突かれすぎて、心がどんどん小さくなっていく。
「はぁ~~~……」
隣から、めんどくさそうな長いため息が聞こえた。
見れば、仁が欠伸をしながら壁に寄りかかっている。
「……仁さん」
柊がぴくりと眉を動かしながら呼びかける。
「あなたからも何か、美琴さんに言ってあげてください」
そう言われて仁がめんどくさそうに目を開け、こちらを見る。
……いや、にらまれてる? これ、ガチで怒られるやつか?
場の空気も一気に緊張し、周囲のメンバーが固唾を呑む。
――が。
「あのなァ美琴ォ――」
「そんなおもしれェことするならオレ様も混ぜろよ!」
まさかの怒号で空気がぶっ壊された。
「「……は?」」
呆然としたのは全員だった。
「テメェだけ楽しそうなことやってんじゃねぇッつッてんだよ!」
「……仁さん!!」
柊がブチ切れた。
次の瞬間、仁は強引に背中を押され――俺の隣にどすんと座らされた。
「なんでオレ様までこっち側なんだよ!」
「あなたも、同罪です」
「何もしてねぇのに!」
「してないからこそ危険なんです、仁さん」
柊の静かな怒りが、逆に怖い。
リナと虎杖先生も同時に俺たちを見下ろしながら、呆れと怒りを混ぜた視線を投げてくる。
「……何この圧、地獄か?」
「俺も聞きたい」
かくして、俺と仁は仲良くお説教ポジションに並ばされることとなった。
その様子を見ていた希望だけが、くすくすと楽しそうに笑っている。
「パパと神にぃ、なかよしー」
「……いや、これは仲良しってわけじゃ、希望」
でも――なんとなく、このひとときが、少しだけ暖かく感じた。
「虎杖さん、鬼灯さん……今回は、本当に申し訳ございませんでした」
お説教タイムが終わった後、迷子センターの一角で直樹さんが深く、深く頭を下げる。
「……確かに今回は、まともな大人がいながら、私たち教師に報告がなかった。それについては――文句を言いたいですね」
虎杖先生が腕を組み、静かに口を開く。声音には怒りよりも、誠実な問いかけが込められていた。
「ええ。僕たちは教師ですからね。生徒たちが僕たちのもとにいる限り、安全を守るのが――使命です」
鬼灯先生もまた、苦笑を交えつつも真っすぐな眼差しで言葉を続けた。
「……重ねてお詫びします」
直樹さんは再度、頭を垂れる。そこには、明確な誠意があった。
すると虎杖先生が、少しだけ肩の力を抜きながら続ける。
「……まあ、過ぎてしまったことに、ああだこうだ言っても仕方ありません」
「これを機により一層、リーダーとしての責任を果たしていただければと思います」
「判断自体は、悪くなかったと思いますしね」
鬼灯先生が頷く。
「うむうむ。ただ……途中で抜け落ちていたものがあった。それが少しだけ――惜しかった」
「……以後、気をつけます」
直樹さんはほっと胸を撫でおろす。
その背中を見つめながら、虎杖先生がぽつりと呟いた。
「……でもね、大事なことは、見逃してはいけない」
「今回は運良く済んだ。でも――下手をすれば、すべてを失っていたかもしれない」
その声には、どこか哀しみがにじんでいた。
「……虎杖先生?」
鬼灯先生が気にかけるように視線を向ける。
その表情は、まるで過去の自分を懺悔しているかのようだった。
けれど、虎杖先生は静かに微笑み、首を振った。
「……いいや。こっちの話さ」
場に、静かな沈黙が落ちた。
鬼灯先生は虎杖先生の言葉の奥にある何かを察していたが、あえて踏み込もうとはしなかった。
それは、静かな共感であり、敬意でもあったのだと思う。
――そして。
その沈黙を破ったのは、まるで別世界から届いたような、明るい声だった。
「パパ、あのね、今日は皆でパーティーなんだって!」
膝の上にちょこんと座った希望が、俺を見上げながら無邪気に笑った。
その瞳は、あの地獄をくぐり抜けてきたとは思えないほど澄んでいて――温かかった。
「そりゃ楽しみだな」
頭を撫でてやると、希望はふにゃっと照れたように笑う。
こうして笑える時間が、ずっと続けばいいのに。心からそう思った。
「喰異体やその他の化物を倒したついでに、皆の活気を盛り上げようってことらしいっス」
ルイが、いつも通りの調子で続ける。
「そ、れ、に――パーティーが終われば、お待ちかねの温泉ッスよ!」
「クハハ、そりゃ楽しみだな」
仁が思わず笑う。
そう――疲れてるのは、俺たちだけじゃない。たった二日で、色んなことがありすぎた。
「確かに、たった二日だが……色々なことがあったからね。疲れたよ」
黒狼が言い、ルイと共に迷子センターから出て行こうと歩き出す。
「さてと、それでは僕たちはパーティーのお手伝いにでも向かいましょうかね」
「怪我とか平気なんスか?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
黒狼の声には疲れもあったが、同時にどこか明るさがにじんでいた。
そうか――。
あの二人にとっても、仲間と一緒に過ごすこのひとときが、何よりの回復薬なんだ。
「ほらほら、仁さんも行くッスよ!」
「あいよ――」
仁は俺を見ずにそのまま黒狼たちについて行く。
「仁さん、すっかり向こう側ですね」
仲間と過ごせることに、仁も安心しているんだろう。
それが分かるからこそ――なぜか、少しだけ寂しかった。
「うるさいのがいなくなると、ちょっと清々しますわ」
リナの冗談が、その感傷を吹き飛ばしてくれる。
思わず俺も笑ってしまった。
「さ、美琴様も行きますわよ」
「そうだな。希望も手伝うか?」
「うん! がんばるよ!」
小さな手がぎゅっと俺の指を握りしめる。その感触が、なんとも頼もしかった。
「楽しみだな」
「ええ、ですわね」
穏やかな時間が流れる。
戦いの中で勝ち取った、ほんのひとときの平和。
「虎杖先生、鬼灯先生。わたくしたちは先に行っておりますわ」
リナがそう告げると、俺たちはゆっくりと歩き出した。
笑い声、焚き火の匂い、料理の香りが漂う空間へ――
生きていることを、改めて実感する場所へと。
……たとえ、この時間が長く続かないとしても。
たとえ、また何かが俺たちを襲ってくるとしても。
今だけは――この温もりを信じていたかった。
「うむ、励みたまえ」
「僕たちもすぐに向かいます」
鬼灯先生と虎杖先生の背を見送り、俺たちは迷子センターを出た。
リナ、雫、希望。そして俺。
――外の空気は、もうさっきまでとはまるで違っていた。
吹き抜けの広場からは、たくさんの人の声が聞こえる。活気、熱気、ざわめき。
「鈴木さん、この本に載ってるレシピ、試してみてもいいですか?」
「いいわね、きっと若い子も喜ぶわ」
バンダナを巻いた主婦たちが、炊き出しスペースで料理の腕を振るっている。
笑顔と手際の良さが見事に混ざり合い、生活が戻ってきたような錯覚を覚える。
一方で、子供たちや若者たちは、モールのあちこちで飾りつけに励んでいた。
紙テープや風船、使い古されたぬいぐるみや布で作った即席のオブジェ。
どれも完璧なものじゃない。けれど、どれも本気で楽しもうとしていた。
「皆様が一丸となって頑張る姿は、素敵ですわね」
リナが、目を細めて言う。
「……あぁ。こんな世界にも、まだ残っていたんだな、こういうの」
俺もつぶやく。
生きるだけで精一杯だったはずなのに、誰かを楽しませようとしてる。
それが、妙に胸を打った。
「まだまだです。私たちは、まだ生きています」
柊の言葉には、優しさと、強さがあった。
「仁にぃ、見っけー!」
突然、希望が声を上げる。
吹き抜けのガラス越しに一階を見下ろせば、黒狼とルイと共に、仁が荷物を運んでいる姿があった。
額には汗、でも顔は笑ってる。
……あいつも、こういう顔をするんだな。
「俺らも行きますかね」
「そうですわね」
俺が歩き出そうとすると――。
リナが、自然に俺の腕に絡んだ。
温もりと、少しの重さ。
「ママずるい!」
希望がさらに俺の手を取る。
「……あらまぁ、若いのに大変ねぇ」
周囲の主婦たちの笑い声が耳に届く。赤面するしかない。
「美琴さん、注目の的ですね」
「……恥ずかしいんだが」
思わず視線を逸らすと、すぐ隣の柊が肩をすくめる。
「いいんじゃないですか?」
「……そう言いながら、お前は微妙に距離を取ってるじゃないか」
「バカップルは、ちょっと……」
振り向けば、柊は完全に目を逸らしていた。
――まるで、知らない他人を見ているかのように。
「もう、行きますわよ」
「れっつごー!」
希望にぐいぐいと手を引っ張られ、リナに腕を絡まれながら、俺は人混みの中へと進んでいく。
男連中の視線が妙に刺さるのは気のせいじゃない。
主婦さんたちのニヤニヤ顔も目に入る。
そして――ようやく仁たちの元へ到着すれば。
「バカップルのご登場だなァ」
仁から、第一声での口撃。
「酷い言われようだな」
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、この空気が――この茶番のような日常が、今の俺には何よりも心地よかった。
俺みことは……こんな体験、したことがなかったのかな。
ふと、断片的な記憶が脳裏をよぎる。
――殺風景な病室。外を飛ぶ鳥を、じっと見つめていた自分。
あの頃、俺は生きてる実感なんて持てなかった。
今はどうだ?
「だったら、楽しまなきゃッス」
その言葉が、現実に引き戻してくれた。
ルイの声だ。俺の呟きが聞こえていたらしい。
「……準備をさぼってはいけませんよ、美琴さん」
黒狼に肩を叩かれ、思わず苦笑する。
「はいはい、わかりましたって」
足元の希望が、くすくすと笑う。
「オイッ、テメェはそっちを持ちやがれ!」
仁の指示に従う。
「パパがんばれ!」
希望の声が飛ぶ。明るくて、眩しい。
「希望ちゃんはお姉ちゃんとママとこっちですよ」
柊が希望の手を引いて、リナと共に微笑む。
今の俺には、過去に憧れた自由よりも――この不自由で賑やかな毎日のほうが、ずっと尊い。
そんなことをぼんやり考えていた。
――ふと、記憶の中の病室で、扉が静かに開いた。
もやのかかった二人が近づいてくる。
顔はぼやけていてよく分からない。でも、温もりだけは確かに覚えている。
「はーい」
幼い自分が笑っていた。それだけで、部屋が明るくなるような気がした。
その笑顔に、大きな手がぽん、と乗った。
嬉しかった。理由もなく、ただ嬉しかった。
「美琴様、また後で」
父らしき人の声がした。優しく、でも男らしくて、俺を包んでくれるような声。
『元気か?』
「あぁ……」
短い返事をしながら、胸が締めつけられるのを感じた。
母らしき人の声が続いた。柔らかくて、包み込むような声。
『ママとパパ、またお仕事が忙しくなりそうなの』
その言葉を聞いた瞬間、なぜか――悲しくなった。
ようやく会えたのに。またどこかへ行ってしまうという予感。
「オイ、聞いてんのか美琴ッ!」
仁の怒鳴り声が、記憶を断ち切る。
――現実へと、引き戻された。
「あ、ごめん」
「ったく、使えねェな」
ぶっきらぼうにそう言いながらも、仁はちゃんと俺にやることを与えてくれる。
「そっち、持ちやがれ」
「はいはい」
命令された通りに荷物を持つ。
さっきまでの記憶が、遠くへと薄れていくのを感じた。
「テメェ、どっか悪いなら休んでてもいいんだぜ」
……あれ?
さっきと違って、声が優しかった。
仁の中では、俺がふらついているように見えたのかもしれない。
「いいや、なんでもないよ」
そう答えると、仁はふっと笑って――。
「だったら、死ぬまで労働させてやるさ」
「それは勘弁」
「草生えますね」
黒狼が小さく笑う。
「仁さんはマジでやり兼ねないんで、笑えないっスよ」
「オラァ! 黒狼、ルイ! うだうだ言ってんじゃねェ!!」
仁が叫ぶ。
「にゃはは……仁さんはこういう行事染みたこと、嫌いかと思ってたッス」
ルイが、作業の合間に笑いながら言う。
「こういうのは、やっときゃ楽しいんだ! 覚えとけッ!」
力強いその言葉に、皆が一瞬だけ黙る。
「正論で草」
「……こういうところでは、まともなんスよねぇ」
黒狼が苦笑混じりに言う。
俺は思った。
仁も、ルイも、黒狼も。
――みんな、こうして変わってきたんだ。
だからこそ、今のこの空気がある。
戦いと痛みの中で得た、かけがえのない時間。
たとえまたすぐに崩れるとしても――俺は、この今を忘れない。
「全くだな」
俺も思わず笑ってしまう。
口は悪いし態度もデカいけど、仁ってヤツは――本当に、まっすぐな男だ。
言葉にはいつも棘がある。
けれど、その芯にあるものは、いつだって信念だった。
ふざけてるように見えて、仲間のことはちゃんと見てる。
暴力的に見えて、肝心なところでは絶対に手を抜かない。
そんなところが、たまらなく――。
「……最高の友達だよな」
ぽつりと呟いたその言葉に、俺自身が一番驚いた。
「って、これも……恥ずかしいな」
思わず頬をかいてしまう。
「ンだ?」
すぐ隣から聞こえた声に、慌てて取り繕う。
「いや、こっちの話」
仁がじとっとした目でこちらを見ている。
まるで何かを察したように。
けど、気づかないふりをしてくれるあたり――やっぱり、そういうところがアイツの良さなんだ。
……ったく、自分で言っといてなんだけど、気恥ずかしいにもほどがある。
そんな感傷をひとつ、胸の奥にしまい込む。
そして、時は――静かに、確かに流れていった。
モールには笑い声が広がり、飾りが完成し、炊き出しの香ばしい匂いが漂い始める。
温かくて、騒がしくて、どこか懐かしい時間。
――まもなく、パーティーが始まる。
✿ ✿ ✿
ライトがともる広場には、人々の笑い声と料理の香りが満ちていた。
吹き抜けの天井から吊るされたランタンが、まるで星のようにきらきらと瞬いている。
そんな賑わいの中、美琴はふと気づいた。
――仲間たちの姿が見当たらない。
「……あれ?」
さっきまでそばにいたはずの柊もリナも、仁の姿もない。
ルイや黒狼も、きっと別の場所で準備をしているのだろう。
でも、妙に気まずいとか寂しいとは思わなかった。
きっとみんな、それぞれの今を楽しんでいるのだ。
焼きそばの香りを避けるように回り道し、甘いジュースを一口含んで歩く。
しばらくして、見覚えのある後ろ姿に声をかけられた。
「――美琴くん?」
振り向くと、エプロン姿の真紀さんがいた。
「こんばんは。真紀さん」
「こんばんは、今はひとり?」
「はい、ちょっとはぐれちゃって」
「だったら、少しだけ座っていかない?」
勧められるままにベンチに腰かけ、紙コップの飲み物を受け取る。
話題はたわいもないものだった。
炊き出しの準備の苦労や、希望が食べたがっていた焼きリンゴの話。
話しているうちに、美琴は肩の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
「――真紀、ここにいたのか」
やがて、直樹さんが姿を見せた。
「直樹さん……」
「美琴くん、よかった……会えて」
彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
「さっきは本当にありがとう。あの喰異体の件……美琴君や黒狼君がいなかったら、きっと今ここに僕たちはいなかった」
「そんな、大げさですよ」
「いや、本気で感謝してる。……それに、僕のせいで虎杖さんたちから怒られもしてしまっただろう。謝罪もしたくてね」
美琴が小さく首をかしげると、直樹は苦笑しながら言った。
「そんな……気にする必要、ないですよ」
美琴は、静かに紙コップを掲げた。
「こうして生きて、また話せた。それが一番、嬉しいです」
「ありがとう、美琴くん」
「乾杯、しましょうか」
「ええ、私も」
三人は紙コップを軽く合わせた。
再びひとりになった美琴は、広場を歩く。
ふと視界に映ったのは、何やら白い山のようなものだった。
「……って、パンケーキ……?」
リナと希望が並んで座っていた。
リナの皿には、生クリームがこんもりと盛られていて、パンケーキがまるで雪山のようになっていた。
「見てくださいませ、美琴様! これ、夢の山ですわ!」
「……夢が甘すぎるんじゃないか?」
「美琴さん、彼女、すでに二度おかわりしてます」
横から冷静な声が割って入った。
柊が腕を組み、じと目でリナを見つめている。
「な、なによ柊さん。女子力の補充ですわよ?」
「糖分の過剰摂取は女子力と関係ないと思います」
そんなやりとりに、美琴は苦笑しながらベンチに腰かけた。
そこへ、仁の声が響く。
「おーい、美琴ー! たこ焼き運搬部、参上だぜ!」
大量のたこ焼きを両手に抱えた仁が現れ、後ろにはルイと黒狼が続いていた。
「すっごい量だな……」
「いやー、食べ物は正義ッスから」
「ルイがいきなり戦場で生き残るのは栄養とか言い出して……」
「間違ってないッスよ」
たこ焼きを囲んで笑い合っていると、少し離れた場所からまた声がした。
「ふふ、楽しそうだね」
虎杖紬が、ほろ酔いの顔で近づいてきた。
「先生、飲みすぎでは……」
「これくらい、いいじゃないか。生徒の皆が元気で、私も嬉しいのさ」
「節度を持つべきです」
隣には鬼灯先生が立っていた。
彼は一切お酒に手をつけていないようだった。
仲間たちが自然と輪になり、俺のまわりを囲む。
たわいない冗談と笑い声。
たこ焼きの匂いにまぎれて、ほんのり甘い希望の香りがする。
みんなでたこ焼きを頬張り、笑い声が絶えない。
その中で、希望がそっと立ち上がった。
手には、小さな巾着袋を抱えている。
「……あのね、これ、今日しずねぇと作ったの」
少し恥ずかしそうに袋の口を開くと、中から色とりどりのミサンガが現れた。
一本一本、糸の色が違い、小さな手で丁寧に編まれているのがわかる。
「みんなが、一緒にいられるように……おまじない、だよ」
希望はまず、仁に一本手渡した。
仁は嬉しそうにそれを受け取り、すぐ腕に結ぶ。
「オレ様の色は赤か、いいじゃねェか!」
「仁にぃは、いつも前に出て、みんなを守ってくれるから。赤は、強くてあったかい色だと思うの」
次にリナの手に、明るい黄色のミサンガが渡される。
「ママは、笑うと周りが明るくなるから。黄色は、おひさまの色だから」
リナは少し驚いた顔をした後、柔らかく微笑んだ。
柊には、深みのある青色の一本。
「しずねぇは、落ち着いてて、空みたいに広い感じがするから。青は、静かで安心できる色だと思ったんだ」
「ありがとう、希望ちゃん」
最後に、俺へと渡されたのは、やわらかなピンク色のミサンガだった。
「パパは、やさしいときの声が、すごくあったかくて……見てると安心するから。ピンクは、やさしい色だよ」
俺は言葉もなく、それをそっと手首に巻いた。
結び目をきゅっと締めると、不思議と胸の奥まで温かさが広がっていく。
小さな笑顔と、色鮮やかな糸。
それは、束の間の安らぎを、より確かな形にしてくれた。
小さな笑顔と、色鮮やかな糸。
それは、束の間の安らぎを、より確かな形にしてくれた。
「さ、食べ物もまだまだあるぜ!」
仁が空気を切り替えるように声を上げ、再びたこ焼きを勧めてくる。
笑い声が広場に広がり、ランタンの光がその輪をやさしく包んだ。
甘い匂い、温かな声、手首に触れる細い糸――。
このひとときが、ずっと続けばいいと、美琴は心のどこかで思っていた。
やがて、広場を満たすざわめきが少しずつ落ち着き、音楽も静かな調べへと変わっていく。
「クハハ、そんじゃこの後はお待ちかねの温泉ってわけだな」
「あぁそうだね。なんだかこれだけ平和だと旅行にでも来た気分だよ」
✿ ✿ ✿
カポーン……。
静かな湯音が、薄く白んだ湯けむりの向こうに響いた。
まるでこの一日を締めくくる、安堵の音のようだった。
「温泉、貸し切りで使っていいなんて……夢みたいですわ!」
湯の縁につかまりながら、リナが嬉しそうに頬を染める。
体に巻いたバスタオルが、ぴったりと身体に張り付いているリナ。
「本当に温泉だ。ちゃんと硫黄っぽい匂いもするんですね」
柊が湯の温度を確かめながら、小さく感嘆する。
「生きてて良かったって思える瞬間だよな、なあ、美琴!」
仁が豪快に湯をかぶって、背中をこちらへ向けている。
その背中越しに、俺は微笑んだ。
「……ああ、本当に」
汗と血と、息を詰めた一日が、湯の中に溶けていく。
今だけは、何も考えず、ただ――癒されていたかった。
この空間に満ちるのは、安らぎだけだった。
しかし温泉の片隅。
そこに一人だけ、妙に緊張した背中があった。
――壁。
鬼灯先生は、肩まで湯に浸かりながらも、ひたすらに壁を見つめていた。
その姿勢は軍人のように直立で、背筋はピンと伸び、絶対に振り返らないという意志が全身からにじみ出ている。
「混浴……混浴……これは非常時……これは公共的な衛生措置」
額にじわりと汗がにじむ。湯気のせいではなかった。
「鬼灯先生、そんなに壁が好きなのかい?」
背後から、気の抜けた声がかかった。
振り向かずとも分かるだろう。虎杖先生だ。
「虎杖先生……僕に話しかけないでください。今、僕は精神を集中させて……」
「ふふっ、そんなに意識しなくていいじゃないか。ちゃんとバスタオル着けているだろう、皆」
「わかっています。ですが、僕はっ、教育者であり……!」
「でも、見てごらんよ? 皆楽しんでいるよ」
「む、無理です……! お風呂で、ましてや女子生徒が近くにいる状態でリラックスなど……っ」
「ふふ、じゃあもっと近づいてあげようか」
虎杖がぬるりと背後ににじり寄る。
「っ、や、やめてくださいっ!」
鬼灯はばしゃっと音を立てて一歩分遠ざかり、さらに壁にぴたりと張りついた。
「くっ……公務員倫理……教員倫理……処分規定……っ」
「なんか念仏みたいに唱え始めましたね、あの人……」
柊が静かに呟き、リナと希望がくすくすと笑う。
「……先生、がんばって……」
希望がそっと手を合わせた。
その様子を、美琴は湯に浸かりながら静かに見守っていた。
今日という一日が、こんな風に終わっていく――。
それが、どこか信じられないようで、でも確かに心地よかった。
――びしゃっ!
「うおっ!? 何すんだよ仁!」
仁が手のひらで湯をすくい、水鉄砲を作りぱしゅっと俺に向かって飛ばす。
俺も負けじと反撃し、二人の間で小さな水しぶきが上がった。
「よしっ、当たった! 仁、今いい音したぞ」
「くっそ、やりやがったなァ! この野郎、顔洗って出直してこいってかァ!?」
「もう洗ってんだろ!」
二人の笑い声と、ばしゃばしゃという水音が響く。
「――ちょっと!」
鋭い声が響いた。
柊が湯の中からきゅっと眉をひそめている。
「ここ、お風呂ですから。静かにしてください」
一方その頃――
「ほーら、できましたわ。これがタオルクラゲちゃんですわよ」
「わあっ、ふわふわしてる……!」
湯の端では、リナがタオルを器用に丸めて水面にクラゲを作り希望と遊んでいる。
「ママ、これ生きてるみたい!」
ほんのりと湯気に包まれた空間に、笑い声がゆっくりと広がっていく。
俺と仁はすでに戦意を失い、肩を並べて湯の縁にもたれていた。
「……なァ、美琴」
「ん?」
「オレ様たちは明日も生きていくんだよな――」
「――うん。そうだね」
俺は目を閉じる。
誰もが同じ空を見て、同じ湯に浸かっている。
✿ ✿ ✿
――一日の終わり、今日の夜は、静かだった。
月明かりがモールの外壁を淡く照らし、夜風がひやりと頬をなでていく。
遠くから虫の声だけが、かすかに届いていた。
その外壁の上、仁が柵にもたれながら外を見張っていた。
湯上がりの髪がまだ少し湿っていて、夜風に揺れている。
「……ひとりで退屈じゃないか?」
背後から声をかけると、仁はちらりと振り向き、口角を上げた。
「美琴か……ンだ。オレ様の夜勤に付き合ってくれるってか」
「せっかくの貸し切り温泉だったのに、上がったらすぐに仕事かい?」
「性分だよ。こういうときこそ気を抜くとヤベぇからな」
俺は仁のは隣に立ち、外の闇を見つめた。
街灯もない世界は、こんなにも暗い。
「お二人とも……あったかい飲み物を持ってきました」
背後から柔らかな声。
振り返ると、柊が湯気の立つカップを三つ、盆に乗せてやってきた。
「クハハ、気が利くな、雫」
「仁さんの見回りは、どうせ桜我咲さんも付き合うと思ってましたから」
三人で肩を並べ、柊が差し出したカップを手に取る。
甘い香りと温もりが、冷えた指先にじんわりと染み込んだ。
「リナと希望は?」
「佐藤さんたちの用意してくれた個室で休んでます。……もうぐっすりですよ」
「虎杖先生と鬼灯先生も寝ています。あのお二人もこの二日間、気を張っていましたからね」
「そうか。今日も色々あったしそうなるよね」
仁が熱い飲み物をすすり、ほっと息をつく。
その横で、俺は少しだけ表情を引き締めた。
「……二人に、話しておきたいことがある」
月明かりの下、仁と柊がこちらを見る。
「二人もきっと醜一の動画をみただろう?」
「あぁ、あれかァ」
「はい、見ました」
しばしの沈黙。
「彼がいった新人類。端的にいえば俺もその一人なんだ」
「俺には、美琴っていう元の人間がいて……そのベースを元に創られたのがクローンである俺なんだ」
夜風が、髪を揺らす。
「……そうか」
仁が低く呟いた。
そしてゆっくりと、美琴の肩を片手で叩く。
「じゃあ何だ? テメェが、オレ様と必死で戦ってきたのも、全部が偽物だって言いてェのか?」
「オレ様は、そんなもん信じねェ。お前が笑ったのも、怒ったのも、必死で守ろうとしたのも……全部本物だ」
「クローンだろうが何だろうが、そんなの関係ねェ。オレ様は今の美琴テメェを信じる」
仁の言葉は、熱を帯びていた。
柊もまた、静かに口を開く。
「私も、同じです。でも理由は仁さんとは少し違います」
「過去や作られた経緯は、あなたの一部かもしれません。でも、それは今ここにいる桜我咲 美琴を減らす理由にはならない」
「私たちが見ているのは、あなたの選択と行動です。それがすべてです」
言葉が、胸の奥に染みていく。
湯気の温かさと、夜風の冷たさ、そのどちらもが今は心地よかった。
「……ありがとう、二人とも」
三人はしばらく黙って、月明かりに照らされた闇を見つめた。
それは言葉を必要としない沈黙だった。
互いの存在をただ感じ合うだけで、十分だった。
やがて夜風が少しだけ強まり、遠くの虫の声が途切れる。
静けさが、まるで一日の終わりを告げる鐘のように広がっていった。
こうして、長かった一日が静かに幕を下ろした。
✿ ✿ ✿
――翌朝。
モールの天井越しに差し込む光が、静かに一日の始まりを告げていた。
前夜の温泉と温かい食事のせいか、誰もが深く眠れたようだった。
佐藤夫妻が用意してくれた朝食を囲み、笑い声がこぼれる。
希望はリナと一緒に、テーブルの上でパンケーキの絵を描きながら遊んでいた。
虎杖先生はコーヒーを片手に、まだ眠そうな目をこすっている。
鬼灯先生は既に起きて見回りをしており、相変わらず規律正しい。
日中は久しぶりに穏やかだった。
柊は書籍コーナーで本をめくり、仁は黒狼やルイと談笑しながら武器の手入れをしている。
俺とリナ、そして希望は、その何気ない時間を眺めながら、胸の奥に温かいものを感じていた。
――こんな日々が、少しでも長く続けばいい。
夕方、吹き抜けの広場には柔らかなオレンジ色の光が満ちていた。
希望の笑い声、どこかで流れる音楽、そして人々の話し声。
外の世界の惨状を、ほんのひととき忘れさせてくれる。
だが――。
日が沈み、夜が訪れた頃。
モールの外壁をかすかに揺らす低い振動があった。
耳を澄ませても、もう何も聞こえない。
気のせいだと笑い飛ばす者もいたが、その場にいた者たちは、互いに目を合わせて黙った。
そして、そのまま何事もなく夜は更けていく。
――この静けさが、崩れ去るまで、あとわずかだったことを――。
そのときの俺たちは、まだ知らなかった。
俺はただ、手首に残る細い糸の感触を、心地よく感じていた。
――第二章『寄り添う花々』終幕