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第一章『燃え落ちた花園に、恋は芽吹く』

 世界が終焉を迎えた朝、俺は家族に「行ってきます」と言えただろうか。

 最後に感謝の言葉を口にしたのは、いつだったか。朝食を食べて、「美味しかった」とちゃんと伝えたか? 玄関を出るときに、何か言っただろうか……。

 ――ほんの数時間前のことだ。にもかかわらず、それは今、走馬灯として脳裏をよぎっていた。


「はは……こいつは、酷いな」


 授業中にテロリストが突入してくる――なんて妄想は、妄想だからこそ面白い。決して現実になってほしいわけじゃない。だが。目の前の()()は、笑いながら俺の妄想を踏み潰してきた。

 ずるり、と濡れた靴音。

 口から糸を引く黒い液体。

 ありえない方向に折れ曲がった腕で、教卓を引きずってくる。


 ――人間じゃない。それは化物だった。それを理解した瞬間、俺の喉から出たのは、悲鳴じゃなくて――乾いた笑いだった。


美琴(みこと)ォ!!」


 怒号のような叫び声が、意識を現実へと引き戻した。目の前で、化物の頭部が金属バットのフルスイングで弾け飛ぶ。赤黒い液体が、教室の壁に花のように散った。


「クハハ、狂ってンぜ。こいつら、やべーっつーの……!」


 不敵に笑う黒髪の男――黒薔薇(くろばら) (じん)

 この学校が誇る最凶の不良。喧嘩上等のバトルジャンキー。


桜我咲(さくらがさき)さん、大丈夫ですか!?」


 駆け寄ってくるのは、眼鏡と長い水色の髪が印象的な女子生徒――(ひいらぎ) (しずく)

 我らが2年C組の学級委員にして、まじめ優等生の鏡。


「ああ、ごめん……ちょっと走馬灯を見てただけさ」

「えっと……それは大丈夫ではないと思います」


 俺は頭を抱えながら、柊の前へと立った。

 武道の心得なんてない。でも――。


「……それでも、今は立たなきゃいけない」

「はい――」

「クハハ、そうだろォ!」

「――俺たちはまだ、生きている」


 三人の声が、奇妙に重なった。

 その瞬間、化物がギャアと吠えた。唾液と血を混ぜたような飛沫が床に散る。


「……ごめんね。体育でかじった程度の投げ技だから、雑だよ」

「クハハ、教えたのはオレ様だけどなァ!」

「そうだったね。習ってもいない技で一緒に怒られたっけ」


 化物の突撃。それをいなして――

 ガッ!

 背負い投げが、決まった。鈍い音を立てて、化物が床に叩きつけられる。白目を剥き、足をジタバタと動かす()()()


「桜我咲さん、弱点は頭部です!」

「頭を潰せ、美琴ォ!」

「――あのな、もうちょっと優しく言ってくれよ……!」


 俺は倒れた化物の頭に足をかけた。目を逸らし、無言で思いきり踏み抜く。

 グシャッ。

 頭蓋が潰れる音。熱い液体が、靴の中に染みてくる。


「……あぁ、やっぱり、慣れないな。この感覚には……」


 でも慣れたくなんかない。俺は、まだ人間でいたいから。

 教室内での乱闘が終わり、俺たちは一呼吸ついた。みんな肩が大きく上下に動いている。

 目の前には死体の山。外では轟々と燃えている飛行機の残骸。


「なぁ、美琴」

「なんだ?」


 教室の椅子に腰を下ろしながら、仁がふと思い出したように言った。


「あの時、テメェも屋上にいたよな。飛行機、見ただろ」


 俺は頷いた。


「忘れるわけ、ないだろ。昼休みだった」


 今日の昼休み、その時間――俺たちは屋上にいた。

 春の風が吹いていて、空は抜けるように青かった。

 仁はタバコでも吸うみたいな顔で空を見上げて、俺は柵に寄りかかって、何も考えずにいた。

 その時だった。空の奥から、ゴォォォという異音が響いた。

 見上げると、あり得ない高度で旅客機が校舎の真上をかすめて飛んでいた。

 機体の後部は焼け爛れて、黒煙を引いている。翼は左に傾き、明らかに制御を失っていた。


「……落ちるぞ」


 仁が呟いた。同時にスマホを取り出して、素早くニュースアプリを開く。

 俺は見た。その巨大な影が、校庭の奥に墜ちていくのを。

 轟音と共に地面が揺れ、黒煙が噴き上がった。ガラスが割れ、警報が鳴り響いた。


「……クハハ、こいつはただの事故じゃァねェな」


 仁が低く呟き、画面を見せてくる。そこには速報の文字が次々と更新されていた。

【速報】国際便ハイジャック発生。各国空港で通信遮断

【駅構内映像】謎のガスをばら撒く集団による無差別事件

【WHO緊急会見】“異常な症状”を示す患者が多数確認


「ハイジャック……? テロか?」

「いや、ただのテロじゃねェ。同時多発、しかも各国で、だ」


 俺たちは黙った。校庭で、動かなくなったはずの乗客の一人が――

 ぐしゃぐしゃの姿のまま、立ち上がったのが見えた。

 よろよろと歩き出し、教師に抱きかかえられた瞬間――首に噛みついた。


「おい……」

「人を襲ってる……いや、あれ、もう人間じゃねェ」


 仁がスマホを再び見ると、今度はSNSで『咬まれた人間も襲いかかってくる』という情報が流れていた。

 すると校内全体で『体育館に避難してください』――と、校内放送が流れ始める。

 けれど、俺たちは顔を見合わせ、首を振った。


「ダメだ。集団行動はこいつらにとっちゃ餌場にしかならない」

「クハハ、分かってるじゃねェか。そういうことだァ……動くぞ美琴」


 ✿  ✿  ✿


 一方――。そこは図書室の片隅。

 柊 雫は、静かに震える手でノートPCの画面を見つめていた。

 世界地図に表示される無数の赤い点。各都市で同時に起きている《《異常》》。

 別の端末には、さっき墜落した飛行機とそっくりな映像が映っていた。


「これは……ただの事故じゃない。情報遮断されてる。意図的に」


 彼女のメガネの奥の瞳が、鋭く光る。

 人を襲うそれが、感染で広がっていることに気づいたとき、校内放送が聞こえた。


「全校生徒は体育館に集合してください――」

「……ダメ。そこは危ない。絶対に行っちゃいけない」


 ノートPCを閉じると、柊は図書室を飛び出した。

 やがて目的もなく走ったその廊下の角――。


「おい! 下がれ!」


 飛び出してきたのは、金属バットを構えた黒髪の男。


「クハハ、そっちも生き残りかよ。いい判断してんじゃねェか」

「柊さん! こっち!」


 その後ろに、美琴の声があった。

 思いがけず、彼らは――同じ判断で、偶然、合流していた。

 しんと静まり返った教室に、焼け焦げた金属の匂いと血の気配が漂っている。


「……とりあえず、ここに長居するのはナシだな」


 仁が椅子の背を蹴り飛ばしながら、バットを肩に担いだ。


「囲まれたら一発アウトだしな。逃げ道が一つってェのは、罠と変わらねェ」

「同感です。ここに留まるメリットは、すでにありません」


 柊が頷きながら答える。

 俺も大きく息を吐いた。心臓の鼓動が、まだ落ち着かない。

 でも、立ち止まる余裕はない。


「だったら、外に出る?」

「……ただ外に出ても、逃げ場がなきゃ意味ないよな」


 その時――柊が、はっと顔を上げた。


「……職員室です」

「ん?」

「職員室に行けば、先生方の車の鍵があるはずです!」

「……なるほどな。教師の車をパクろうなんてなかなかいいセンスしてるぜ」


 仁がニヤリと笑った。


「き、緊急事態ですからッ!!」

「だったら、ついでに食いもんと水も探しとこうぜ。持ち出せるだけな」

「食料と水……?」


 柊が意外そうに眉を上げた。


「よく考えてみな。人間が水なしで生活できるのは、せいぜい三日。それに比べて、食事は七日程度なら我慢できる。けどな……」


 仁の目が鋭くなる。


「逃げ回る生活、まして戦う生活なら、カロリーの消費は倍以上だ。腹が減ってりゃ、判断も鈍るし、腕も上がらねェ」

「……なるほど。そこまで考えてるなんて……」


 柊は素直に驚いたように目を見開いた。

 そんな彼女の反応に、俺もつい口を挟む。


「だったら、保健室にも寄った方がいい。薬とか包帯とか、あと、冷却シートとか……使えるかもしれない」


 言ってから、少しだけ息が詰まる。さっき自分が潰した化物の生暖かさが、まだ足の裏に残っていた。


「保健室と職員室、ルート的には途中で分かれてるけど……」

「同じ階にあるなら、どっちも回収してから脱出が最善ですね」


 柊は静かに頷いた。

 それから、少しだけ遠慮がちに俺と仁の方を見た。


「……本当に、お二人とも落ち着いていますね。非常事態なのに、まるでずっとこういう状況を想定していたみたいです」

「「……そうか?」」


 俺と仁は、ほぼ同時に首をかしげた。

 柊は小さく微笑んで、こう呟いた。


「……今はお二人と一緒にいるのが合理的みたいですね」


 その合理的な選択を証明するように、教室のドアが軋んだ。

 ギギギ……。

 再びそれが来た。

 咄嗟にバットを構える仁。

 同時に拳を構える美琴。

 柊は壁際に身を寄せる。


「二階から降りるには、階段を突破するしかない」

「数が多くなきゃいいが……」

「多かったら、多かったで、ぶっ飛ばすだけだろ?」


 仁の口角が、野生的に吊り上がった。

 俺たちの呼吸が無意識に重なるのを合図に足を踏み入れる。

 それを合図に、俺は教室の扉を蹴り開けた。


「――死ねェェェ!!」


 仁のバットがうなりを上げ、目の前の化物の頭部を卵のように砕く。

 脳漿と血飛沫が床に散り、その隙を縫って俺は廊下へと飛び出した。

 瞬間、化物どもがこちらを向いた。

 どす黒い目が、俺を射抜く。


「ごめんね。君たちに恨みはないけど……さ」


 壁を蹴って飛び上がり、その勢いのまま化物の頭を蹴りつけて着地と同時に踏みつける。

 ぐしゃりという音が足の裏を通じて伝わり、次の一体が襲いかかってきた。

 その腕をいなして顎の下に拳を叩き込み、逆手で肩を掴んで――。

 地面に叩きつける。


「強い……」


 教室の片隅で、柊が小さく呟いた。


「オイ、雫! 道はオレ様たちが切り開く。お前は後ろからついてこい!」

「もたもたしてると置いてくぞォ」

「は、はい――!」


 仁はバットを担ぎながら俺に叫ぶ。


「美琴、テメェは前だけ見てろ。背中はオレ様に任せな!」

「あぁ、頼りにしてるよ」


 俺たちは、互いの呼吸に合わせて突き進む。

 一歩、一体、一撃ずつ――着実に化物を倒していく。

 そして、死の気配の中で、なぜか心の奥に生が灯るのを感じていたころ、俺たちはようやく二階から一階へ続く階段を降り始めた……。


「突き落とすには絶好のロケーションだなァ」


 仁がバットを掲げる。

 俺も構えを取りながら言った。


「でも、腕に引っ張られて一緒に落ちたらシャレにならないけどね」


 掛け合いの最中にも、俺は化物を蹴り落とし、 仁は豪快にバットで吹き飛ばした。


「…………」


 柊は後ろで、なぜか無言で化物の動きを見つめていた。


「んだァ、今さらビビってチビったか?」


 仁の軽口に、柊は少し肩を震わせて――それでも、真っすぐに前を見た。


「……怖くて当然です。私だって、できれば叫び出したいくらいです」


 彼女の声はかすかに震えていた。けれど、その瞳は逃げていなかった。


「だけど……今は、考えることが、生きるために必要なんです」


 彼女は階段下の徘徊する化物たちを指さした。


「気づきませんか? あれだけ近くにいるのに、私たちの存在にまるで反応していない」

「言われてみりゃ……変だな」

「――おそらく、視覚を失っているのではないかと推測します」


 柊は顎に指を添えて考え込みながら、階段脇のロッカーを開けた。中から取り出した雑巾を水で濡らし、それを化物へ投げる。

 ぐちゃっ。

 命中。だが化物は唸っただけで動かない。続けて、バケツを投げる。

 ガッシャァン!

 ――その瞬間、化物たちが一斉にそちらを向いた。


「なるほどな……」


 仁が唸る。


「あの連中、音にしか反応しねェってワケか」

「はい……目ではなく、音……。あと――」


 柊は、震える指先を胸元にぎゅっと押し当てた。


「さっきから観察していましたが、桜我咲さんや仁さんの攻撃に対して、化物は一切痛みを感じていないようでした。痛みで怯むでも、逃げるでもなく、ただ押し負けているだけつまり――」


 彼女は小さく息を吸って、言葉を振り絞るように言った。


「あれは()()を持っていない。本能と音、それだけで動いているんです」


 その分析を口にした直後――柊は小さく震え、汗ばんだ手を制服のスカートでぬぐった。

 けれど、その表情には確かな覚悟が宿っていた。


「人間だった彼らを、まだ人として見ていたい。でも……生き延びるには、利用しなくてはならないんです。私たちは、まだ生きているから」


 静かに、俺と仁は頷いた。

 俺たちは、階段を抜け、一階のフロアに降り立った。


「さてどうする? 先に職員室かな」

「どちらも甲乙つけ難い優先順位ですが、私としては職員室で良いかと」

「あァそうだな。だがまぁ二手に分かれるってのもいいだろう」

「職員室は車の鍵をパクるだけだ。対して保健室は荷物がかさばる」


 仁の提案に柊が否定する。


「危険だと思います」


 化物が音で反応する以上、大きな声は禁物だ。だからこそ彼女は緊張感のある声色で仁の提案を否定する。


「オレ様と雫は保健室。職員室はテメェに任せるぜ」

「俺は構わない。時間も有限だ、仁の戦闘能力なら柊さんを守りながらでも問題ないと思う」

「桜我咲さんまで!?」


 柊は困り果てたように俺と仁の表情を交互に確認する。


「桜我咲さん一人では危険じゃありませんか?」

「お前が心配する必要はねェよ。美琴はオレ様よりも強いぜ」

「ていうか現にこいつは武器使わないでここまで来てるしな」

「た、確かに――――」


 俺は彼の褒め言葉に照れ隠しをするように笑うしかなかった。


「分かりました。こればかりはお二人の信頼関係を信じる他ありません」

「ありがとう、柊さん。仁も彼女を頼むよ」

「クハハ、黙って付いてくりゃそれでいい」


 こうして、俺たちは一度二手に分かれることになった。


 ✿  ✿  ✿


 俺は柊の見立てどおり、音にしか反応しない化物の習性を利用しながら、静かに廊下を進んでいく。武器はない。だからこそ、気配も足音も極限まで抑えて――ただ歩く。

 道を塞ぐ邪魔な一体。俺はそっと胸元の生徒バッチを反対側の廊下に投げる。

 カンッ……。

 音が鳴った瞬間、化物がそちらにゆっくりと向きを変える。


「……戦わずに済むなら、それに越したことはない」


 連鎖的に集まってこられたら、終わりだ。

 無駄な戦闘は、極力避ける。


「一度でも戦闘を起こせば音に連鎖して寄ってくるし、効率を優先するならこれが一番だ」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 静かな廊下。

 だが次の瞬間――視線の先で、カチャリという金属音が鳴った。

 誰かいる……。

 身を伏せそっと覗き込むと、廊下の向こうに一人の人影がいた。

 長い金髪のツーサイドアップ。制服の上から工具ベルトのようなものを巻き、手には自作のクロスボウ。

 その目は疲れていた。けれど――どこか、まっすぐだった。

 女子生徒だった。

 俺と目が合うと、彼女は一瞬だけ身構えた。


「……誰ですの?」


 俺はすぐに答える。


「2年生の桜我咲 美琴。君は?」

「――3年生の姫金(ひめがね) リナ」


 短い会話の後、沈黙が落ちた。

 リナの視線は、俺の足元、そして背後の化物の姿に向いていた。


「……あなた、戦いを避けているの?」

「音を立てると寄ってくる。できれば避けたくてね」

「……すごい判断力と冷静さですわね」


 リナはクロスボウを構えたまま、そっと俺の隣まで歩み寄る。

 その動きも、驚くほど静かだった。


「――わたくしも、あなたと同じ。逃げて、作って、探してた」

「誰かを?」

「えぇ……正直、誰でもいいと思っていましたわ。誰でも、誰かが、生きていればって」


 リナの声はかすかに震えていた。

 でも、目だけは逸らさなかった。


「あなたが最初の()()だったから。わたくし……安心しましたわ」


 俺は彼女を見た。

 どこか傷ついていて、それでも前を見ている目だった。


「だったら、一緒に行こう」

「え?」

「ここから先は、一人より、二人のほうが生存率は高い。戦力的にも……先輩強そうだし」


 俺の言葉に、リナは少しだけ笑った。


「それでは、よろしくお願いしますわ」

「あぁよろしく、リナ」


 廊下の先に、職員室のドアが見えてきた。

 これが――終末の世界での、俺たちの最初の出会いだった。


 ✿  ✿  ✿


 一方――仁と柊は無事に保健室に到着していた。

 保健室の扉は、半ば開け放たれていた。

 中は静かで、昼の明かりが優しく室内を照らし、カーテンが風に揺れている。仁がバットを肩に担いだまま中を覗き込み、静かに呟いた。


「……いねェな。ここには化物、来てねェみてェだ」

「でも油断は禁物です。こういう静かな場所ほど、何かが潜んでいることもありますから……」


 柊の声は冷静を保っていた。だが、彼女の指先は明らかに震えていた。

 ――恐怖は、抑え込めても消えない。

 理性と本能が、心の中でせめぎ合っているのが見て取れた。

 仁はその震えに気づきながらも、何も言わずにバットを握り直す。

 二人は手分けして、保健室の中を調べ始めた。

 仁はキャビネットを開け、無造作に包帯、アルコールスプレー、止血帯をバッグに突っ込む。柊は薬品棚の前で、一つ一つラベルを確認しながら丁寧に抗生物質や風邪薬をピックアップする。


「リュックでもあればもっと持ち運べるんですけど……」

「だったら、こっちだ」


 仁がベッドの下を覗き込み、くたびれた救急リュックを引っ張り出した。


「こういう時に役立つのは、ガサツな視点なんだよ。手あたり次第に探って見てみるのが一番だ」

「……否定できませんね」


 柊は微笑んだが、すぐにその表情を引き締めた。

 薬品棚に手を伸ばそうとしたとき、彼女の指が震え、瓶がガタンと音を立てて倒れる。

 その瞬間、柊の顔が蒼白に染まった。


「……しまった……」

「――どうやら気づかれなかったみてェだな」


 仁が片膝をつき、瓶を拾って柊に渡す。柊は唇を噛みながら、わずかに俯いた。


「……怖いんです。私、自分がこんなにも普通の人間だったことに気づいて……怖いんです」

「怖くても止まらず動いてる時点で、立派だろ」


 仁の声は、妙に優しかった。柊は驚いたように彼を見つめ、やがて、小さく頷いた。


「ありがとうございます……仁さん」


 その時だった。


「おやおや、君たちは生徒かな?」


 保健室のカーテンの向こうから、落ち着いた声が響いた。

 二人は同時に構える。


「誰だ!」


 仁がバットを持ち上げた瞬間、カーテンを静かに開けたのは――まるで災厄の只中に迷い込んだ聖母のような白衣の女性だった。

 腰までの伸びる長い白髪と、どこか幻想的なほど整った佇まい。そして、笑みさえ浮かべているその表情が、逆にこの異常な空間に現実味を与えていた。

 ――虎杖(いたどり) 紬。松ノ丘高校、保健教諭。


「……なんだ、生存者かよ。驚かせやがって」

「仁君に、雫君だね。君たち、無事か?」


 虎杖はそう言いながら、彼らのバッグに詰められた物資に目を落とす。


「その判断力、立派だ。よく保健室まで辿り着いた」

「……先生、他に生き残りは?」

「正直、分からない。校内放送で体育館に集合させたはずだが、外はもうこの有様だ……」


 虎杖の目が、ほんの少しだけ暗くなる。


「君たちは、どこに向かうつもりだ?」

「美琴が職員室だ。車の鍵を取って、ここを出る」


 仁が即答すると、虎杖は静かに頷いた。


「……なら、私も一緒に行こう。今の私に何ができるかは分からないが、生徒を見捨てるわけにはいかない」


 柊が少し戸惑った表情で、虎杖を見上げた。


「……先生、武器は?」

「これでも医者志望だったんだ。メスぐらいは扱える」


 そう言って、白衣のポケットから、針金で改造されたメスと糸が巻かれた束を取り出した。


「保管していた医療道具で作った、投げナイフさ。何度でも拾えて戦える」

「オレ様よりヤベェ武器使ってやがるな……」

「虎杖先生、学校にメスって必要ですか? そうじゃない場合、法律的にまずいんじゃ……」

「今は細かいことはいいじゃないか。法律云々よりも生き残る方が大事。そうだろう?」

「虎杖先生……」


 彼女の考え方に呆れつつも、柊は一呼吸。

 緊張感がわずかにほぐれたところで、生存戦争を続行する。


 ✿  ✿  ✿


 視点は戻り――桜我咲 美琴。

 リナと合流した俺は、目的を説明し、彼女の同意を得て行動を共にしている。

 職員室のドア前まで来た俺たちは、互いに目配せを交わした。

 化物の姿はない。だが、それはあくまで――()()という条件付きの静寂だ。


「鍵は、かかっていないようですわね」


 リナが扉にそっと手をかける。軋む音を立てながら、ドアがゆっくり開いた。

 中は、昼間だというのに薄暗い。カーテンが閉め切られ、妙な湿気と血と鉄の匂いが微かに漂っていた。


「……行こう」


 俺が先に足を踏み入れる。すぐ後ろを、クロスボウを構えたリナが慎重に続く。

 職員室は荒れていた。書類が散乱し、椅子は倒れ、机の上には開きっぱなしの成績簿と、乾いた紅茶の染みが残っていた。


「職員のロッカーは……あそこだな」

「鍵、見つけられるかしら」

「教師の名前が貼ってある。運が良ければ、すぐ分かるはずだ」


 俺たちは静かに手分けして、ロッカーを探り始めた。が――。


「ああ、まぁ……そうだよな」


 ロッカーには、当然ながら防犯用の鍵がかかっていた。4ケタのダイヤル式。個人情報が詰まった私物を守るための常識。それが今、命取りになる。


「どういたしますか?」

「誰がどんな車を持ってるか、さすがに把握はしてない。下手に音を立てて、ハズレくじを引くリスクを考えると……正直、得策じゃない」

「美琴様、どうなさいますの?」

「……リナ先輩?」

「何か問題でも?」

「いえ……なんで《《様付け》》なんですか?」

「なんとなく、ですわ」

「いや、リナ先輩の方が年上ですよね。上下関係、逆な気がするんですが」

「理由が必要というのであれば――ここまで生き延びた敬意ということで、いかがかしら?」

「……まぁ、深く考えないことにします」


 こんな緊張感のない会話ができることが、逆にありがたかった。

 俺はロッカーの列を見渡す。右から左へ、順に視線を送っていく。

 そして――ある一つのロッカーで、足が止まった。


「……これだ。公用車用のロッカー!」


 名札には()()()()()()と書かれている。

 俺は即座に手を伸ばした――その瞬間だった。

 ……ピ――。

 放送用スピーカーの通電音。内容は流れない。

 だが、代わりに校内全体へ響き渡ったのは――誰かの、絶叫だった。


「……まずいぞこれ」


 短い静寂。そして――その次に起きる地獄を、俺たちは理解していた。


「リナ、化物が一斉に動き始めるぞ!」


 この規模の音だ。全校の化物がここへ集中するとは限らないが、近くのものは確実に反応する。ましてや、放送が外にまで漏れていれば――最悪、外の化物まで引き寄せてしまう可能性もある。


「……あら。覚悟なら、できていましてよ」


 その言葉と同時に――。

 ガンッ――!

 重さに耐えきれなくなった職員室の扉が、轟音と共に吹き飛ぶ。

 怒声のような唸り声を上げて、化物たちが雪崩れ込んでくる。


「リナ、援護頼むッ!」

「承りました――美琴様!」


 クロスボウが唸りを上げ、鋭い音を立てて矢が空気を裂く。

 一矢――化物の眉間を貫通し、ドスンと崩れ落ちる。


「……まさか、手作りなのか」

「ええ。ツーバイ材にエンピ、弦は糸。矢はボールペンやシャープペンシル……勝手ながらみなさんの筆箱から拝借しましたの」

「発射装置にはフォークも使っていますのよ。最悪、これで直接戦いますわ」


 リナは戦闘の中でも余裕を見せながら、俺に解説を返す。


「肉弾戦もいけるのか?」

「美琴様ほどではありませんわ。――それより、右に避けてください」


 リナの声と同時に、文房具の矢が俺の頬を掠めて飛び――背後の化物の眉間を撃ち抜いた。


「……助かった」

「ふふ。お礼は後で聞きますわ」


 俺も反撃に転じる。肘打ち、前蹴り、かかと落とし――。

 リナと連携が取れている。それでも、数が多い。


「くそ、キリがない……」

「弱音ですの?」

「まさか。ただ……俺には、待ってる奴らがいる。それだけさ」

「ふふ。――では、わたくしも信じておりますわよ。あなた様を」

「そっち、弾は大丈夫か?」

「前衛が優秀ですから、余裕はありますわ」


 お互いに背中を預け、冗談を交えながらも、ぎりぎりの戦いが続く。


「リナ、少し時間稼げるか?」

「…………あら、人使いが荒いのね」


 そう言いながらも、リナは後退しつつも確実に矢を放ち続ける。

 その間に――俺はロッカーを抱え上げる。


「重い……けど、いけるッ!」


 体のすべてを使い、職員室の出入口へロッカーを投げ飛ばす。

 さらにそこに重ねるようにロッカーを置き、即席の壁を構築する。


「仁には悪いけど……ここからじゃ入れないね。合流は……別の手段だ」


 最後の化物がリナへ迫った瞬間――俺は並んだ職員室の机を踏み越えて飛び蹴りを叩き込む。


「邪魔だって言ってんだろッ!」


 頭部を潰し、リナがリロードに入る隙を作る。

 もう一体――机を蹴り上げて視界を遮り、そのまま顎へ拳を叩き込む。

 しかし――遅れた。

 肩に焼けるような痛み。

 服が裂け、血が滲む。


「美琴様ッ!」

「……かすり傷だ!」


 叫ぶように返し、化物の腕を掴んで背負い投げ――机へ叩きつける。

 砕ける音。沈黙。


「……終わった、か」


 重苦しい空気の中、リナが俺の袖を引く。


「服を脱いでくださいませ、美琴様」

「……え、今ここで?」

「ええ。出血していますし、感染が怖いですわ」


 彼女は迷いなく救急スプレーと包帯を取り出していた。


「……ちょっと沁みますわよ」

「わっ、待――ッ」


 シュッ。

 思わず声が漏れる。リナは微笑みながら包帯を巻いていく。


「見事な手つきだな」

「道具の扱いには慣れていますから」


 その手が――わずかに震えていた。

 俺はそれに気づいたけれど、何も言わなかった。


「……ありがとうございます、リナ先輩」

「当然のことをしたまでですわ。それに――」


 一拍の沈黙。


「……誰かのために動いていないと、わたくし……きっと壊れてしまいますから」


 脆くて、危うくて――それでも生きようとしている声だった。


「じゃあ、もう少しだけ付き合ってくれますか?」

「ええ。あなた様が歩く限り、わたくしはその背中を見失いませんわ」


 俺は静かに頷いた。

 倒れたロッカーの中――鍵が転がっている。

 車のタグがついているのを見て、俺たちは目を合わせた。


「……参りましょう」


 そして、再び歩き出す。

 ――終わりの世界で、わずかな希望を拾うために。


 ✿  ✿  ✿


 そして午後の陽が傾き始めるころ。すでに日は傾きかけ、校舎の影が長く伸びていた。

 誰もいない廊下を、美琴とリナは無言のまま歩いていく。さっきまでの戦いの緊張が、少しずつ現実に戻りつつあった。

 手の中にある、小さな鍵の重み。

 それが、この先の命をつなぐ扉を開くものかは、まだわからない。


「……行こう。みんなが待ってる」


 美琴の言葉に、リナは静かに頷いた。

 次に向かうのは、校庭――。

 あの状況で職員室に入るのは困難だ。

 外から回って、もう一度屋内に戻るくらいなら――。

 きっと仁は、俺を信じて、安全な場所で待っていてくれるはずだ。


「クハハ、意外と遅かったな」

「想像通りだ、仁。……安心したよ」

「……あぁ、オレ様もだ。テメェを信じて、正解だった」


 俺も仁も、すでにボロボロだ。

 強がってはいるが、制服にはべっとりと血が染みついている。

 それは、戦って、生き延びた者だけに許される――勲章みたいなものだった。

 俺たちは、無言のまま拳を握り、こつんとぶつけた。

 そして同時に、自然と笑顔がこぼれる。

 校庭には、あの朝とはまるで違う空気が流れていた。

 化物たちをかいくぐり、それぞれの場所から生還した俺たちは、校庭に集まっていた。

 柊は冷静な表情の中にかすかな疲れを滲ませながら、仁の隣に立っていた。

 虎杖先生は、白衣の裾を翻しながら俺のほうへと歩み寄ってくる。

 そして、リナ。あの職員室での地獄を共にくぐり抜けた彼女は、変わらずクロスボウを背に携えていた。

 ――これで、全員。


「……じゃあ、改めて自己紹介をしようか」


 俺がそう言うと、全員が順に名乗り始めた。


「俺は桜我咲 美琴です。2年C組」

「黒薔薇 仁だ。同じく2年C組。武器はバットだ! オレ様最強ッ!」

「柊 雫です。同じく2年C組。学級委員を務めていました。戦闘はその……ごめんなさい。でもここまでの道のりで水と食料などを確保しました」

「姫金 リナ。3年生ですわ。自作のクロスボウで戦えますわ」

「虎杖 紬。保健教諭だね。みんな、よく生きてくれたね。戦えはするけど期待はしないでおくれ」


 少しだけ、場の空気が和らいだ気がした。


「そういえば、美琴君」


 虎杖先生が俺に声をかけてくる。


「職員室で見つけた鍵、君が持っているんだよね?」

「はい。これです」


 俺はポケットから、公用車のキーを取り出して虎杖先生に差し出す。

 それを受け取った虎杖先生は、鍵を軽く弾き、「また面白いものを選んだね」と、ふっと笑った。


「少し待っていてくれ。用意してくる」


 そう言い残すと、彼女は軽やかに歩き去っていった。

 残された俺たちは、しばしの間、校庭の真ん中でぽつんと立ち尽くす。


「……さて。これから、どうする?」


 俺がそう口を開くと、仁が肩をすくめた。


「さァな。けど、このままここで座ってても終わりが来るだけだ」

「スマホも使い物にならない。連絡しようにも、誰にも繋がらねェ。……まぁ、みんなが一斉に家族に連絡しようとしたんだろうな。通信がパンクしてる」

「はい、残念ながら復旧のめどはありません」

「とりあえず……家族の安否の優先かな――」

「美琴、テメェがそこは一番心配だろう。オレ様は別におふくろも親父も心配してねェから構わねェでいいぜ」

「いや、もちろん優先度はある。何も俺のことを優先しなくてもいいよ」


 俺は孤児院で育った。

 孤児院は山奥にあり、女性の大人のシスターさんや幼い子供たちが多い。

 肉体的に頼れる大人と呼べるのは、正直いない。だから不安ではある。


「そうか、まぁテメェがいうならそれでいい」

「情報収集、避難所、物資の調達……やることは山積みですね」

「えぇ、そうね。恐怖は混乱を生み、混乱は秩序の崩壊を招きますわ」

「秩序の崩壊した世界……その先は地獄――――」


 その言葉に、先ほどまで暖かいと感じていた夕陽が、やけに冷たく感じた。

 その時だった。

 ――ブロロロロロロロ……。

 駐車場のから何かが近づいてくる音が響いてきた。

 そして――。

 俺たちの前に現れたのは、見慣れたあれだった。


「……え、スクールバス?」


 俺の口から、間の抜けた声が漏れた。

 俺が選んだのは、まさかの大型スクールバスの鍵だった。

 たったこれだけの人数にしては、あまりにもデカすぎる……。

 ドアが開く。

 そこには虎杖先生だけではなく――。


「……鬼灯(ほおずき)先生!?」

「やあ、生きてたか。よかった」


 眼鏡をかけた短い紫色の髪、見るからに真面目そうな教師が手を振っている。

 鬼灯 (けん)、松ノ丘高校の数学教師だ。

 そして、彼の背後には――十数人の生徒たち。

 思わず、俺は声を詰まらせた。


「まさか、生き残りが……」


 生徒たちは不安そうに、けれど俺たちに希望を見出すような目で見つめてくる。

 鬼灯先生はバスを降りると、ゆっくりと口を開いた。


「……先ほど命からがら生徒たちと外に出ました。そしたら偶然虎杖先生を見つけ、話を聞きました。状況は最悪ですが、今は君たちの力が必要だ」


 そして、仁や雫たちが持ち寄った食料や水を見て、こう言った。


「……これを、皆で分け合おう。命を繋ぐためには、それしかない。今は協力が第一だ」


 その言葉に、仁が眉をひそめる。


「……はァ?」


 彼は一歩前に出て、バットを軽く地面に打ち付けた。


「何寝ぼけたこと言ってんだ、鬼灯。この人数でその物資を分けたら、雀の涙も残らねェよ」


 周囲が静まり返る。


「オレ様たちが化物の大半をぶっ倒して、命がけで物資を調達した。そいつを雑魚の寄生虫共にくれてやる義理はねェ」

「仁さん……!」


 柊が一歩前に出て、鬼灯に向き直る。


「仁さんの言っていることは、理屈として正しいです。私たちがリスクを負って手に入れた物資は、貴重な資源です」


 生徒たちの間にざわつきが起きる。


「なんだよ……!」

「自分たちだけで助かろうってのかよ!」

「ふざけんなよ、こっちは怖くて動けなかったんだぞ!」

「うるせェよ」


 仁が静かに、しかし冷酷に吐き捨てる。

 バスの中で、誰かが息を呑んだ音がした。

 虎杖先生が言葉を挟もうとするが――その前に、不穏な空気を乗せてバスは動き出す。

 重い沈黙が、バスの中を支配していた。

 仁の言葉を受けて誰もが黙り込み、座席のシートが擦れる音すら神経に障る。

 そんな中、鬼灯先生が静かに口を開いた。


「……黒薔薇さんや柊さんは理解してくれなかったみたいだけど」

「桜我咲さんはどうかな?」


 俺は目を細めて、鬼灯のほうを見る。


「僕らが守りたいのは()()だ。協力し合わなければ、生き残れる確率は下がっていく。君のような冷静な子に、ぜひ協力してもらいたいんだ」


 まっすぐな目。教師の真剣そのものの表情。

 ――それでも俺は、迷わず首を振った。


「……ごめんなさい。今は、他人の心配はできません」

「……ほう?」

「仁と柊さん、二人が命懸けで獲得した物資です。なら、それをどう使うかも、二人が決めるべきだと考えます。それに……友達を助けるならともかく、名前も知らない人の命を背負うのは、ちょっと荷が重いです……かね?」


 静寂が、再び降りた。

 だがその直後、座席の奥から聞こえたのは――小さな、しかし刺すような声だった。


「……これだから孤児院育ちは」


 心臓が、ぴたりと止まった気がした。


「あいつ、孤児院なんだろ? あれだろ、税金とか寄付で生きてんだろ? 結局こっち側じゃん。支えられてた側が、急に偉そうに――」


 バン、と椅子が跳ね上がる音が響く。


「テメェ、もういっぺん言ってみろオラァッ!」


 仁が跳ねるような勢いで、座席を乗り越えて声の主に詰め寄る。

 目は怒りに染まり、まさに――殺す勢いだった。


「やめろ仁! いいんだ!」


 俺はすぐに飛び出そうとした――その瞬間。

 ――キィイイイィィィッ!!

 バスが、急ブレーキをかけた。

 重力が斜めに傾き、全員が前に投げ出される。

 仁も、よろけながら手すりに激突する。

 そして、ハンドルを握っていた虎杖先生の声が静かに、しかし鋭く響いた。


「……それはいけない」


 虎杖先生の声には、怒気ではなく――重みがあった。

「生きている人間を、殺すな」


 誰も言葉を返せないまま、仁は肩で息をしながら、ゆっくりと座席に戻っていく。

 沈黙。

 その空気を破ったのは、虎杖の別の意味で恐ろしい一言だった。


「ちなみに……言っておくとね」


 運転席から、ぼそりと声が漏れる。


「普通車の免許こそ持っているけど、こんな大きな車を動かす資格はないんだ」

「……は?」

「このまま気を散らすようなことが続けば、事故るよ。たぶん、普通に横転するね」


 一同が凍りつく。誰かの喉が、ごくりと鳴った。


「だからさ、お願いだから静かにしてくれないかな?」

「先生のほうがこえぇよ……!」


 誰かが震え声で呟いた。

 その瞬間、バスの中に妙な緊張と脱力が混じり合った別の空気が流れ出す。

 やがて、バスの窓から見える空が夜の帳に包まれていく。

 街は変わり果てていた。

 信号はチカチカと赤の点滅を繰り返し、放置された車が道を塞いでいる。

 道端のガードレールには、誰かが落としたカバン。壊れたスマホ。血痕。

 そして――。


「いた……!」


 柊が小声で呟いたその先には、街灯の明かりの下、ゆらゆらと揺れる人影。

 いいや――人じゃない。

 肌が溶け落ち、脚は引きずられ、口からはうめき声のような呻きが漏れていた。


「化物……っ」


 前方には、警察車両による簡易検問。

 だが誰もいない。残されたのは、サイレンの名残と、荒く開けられたバリケードの影だけ。

 この先にはコンビニがる虎杖先生は物資の調達のため、かつ運転休憩のためだろう。


「ここを越えたら、あの交差点の先……」


 仁が小声で言う。どうやら虎杖先生の意図に気づいているらしい。

 やがて、車が詰まりかけた交差点をゆっくりと迂回し、閉ざされたシャッターを一部こじ開けたような、小さなコンビニが見えてくる。

 バスのヘッドライトが、ぼんやりと外壁を照らしていた。

 夜の帳が街を包み込み、息を潜めるような静けさが漂っている。

 そんな中――俺たちの耳に、異質な音が響いた。


「……クラクション?」


 仁が眉をひそめて呟く。

 駐車場の隅に停まった一台の車から、断続的に鳴り響くクラクションの音。

 それは、まるで誰かの悲鳴のようであり、叫びのようでもあった。


「仁、悪いが辺りを確認してくれ」

「任せとけ。……で、バスはこのまま突っ込むのか?」

「無茶を言ってくれるね仁君。無理だよ。音に釣られた化物の数が多すぎる」

「この数、正直に申し上げますと――物資の調達は絶望的ですわね」


 クラクションの音に反応して、周囲にうごめく影が集まり始めている。

 このままバスで侵入すれば、こちらが袋のネズミになるだけだ。


「美琴さん……」


 柊の声が響いた。


「あれ……あれは……」

「え?」

「美琴。コンビニの中に、母親と娘らしき人影がいるみてェだな」


 仁も、柊と同じものを見て、それを報告する。


「……これって、もしかして」

「ああ。クラクションは――たぶん父親だ。中の二人を守るために、騒音で気を引いてんだろう。ずっと一人でなァ……」


 想像するだけで、背筋が凍った。

 家族を守るために、化物に囲まれながら、一人車内で鳴らし続けるクラクション。

 その恐怖と覚悟。

 もし俺たちが来なかったら――。


「……これ以上、バスに人を増やしたくはない」


 それが本音だった。

 だけど、そのすぐ後に、心から出た言葉があった。


「……仕方ないよな」

「美琴様……どうしますか?」


 問いかけに、ほんのわずかに視線を伏せた。

 だが、その答えは最初から決まっていた気がする。


「鬼灯先生……少しだけど、先生の気持ちが分かった気がします」

「え? どういう意味だい?」

「……でも、全部を理解したわけじゃありません。だから――」


 拳を握る。震えていた。


「目の前の人間だけ、信じます」


 静かだったバスの中で、その言葉だけがはっきりと響いた。

 鬼灯の目が大きく見開かれ――すぐに、どこか決意のような光が宿る。


「目の前にいたら……なんだかんだで、助けるしかないですよね」


 それが、俺の答えだった。


「美琴君……」


 虎杖が倒れた現場の方向を見ながら、唇を噛む鬼灯。

 そして。


「ふざけるなッ! そんなことしたら、俺らが巻き込まれるだろ!」

「お前の勝手で死んでたまるかッ!!」


 他の生徒たちが騒ぎ出す。怒号と不安がバスの中で混ざり合い、空気が膨張していく。

 怯える声、罵声、泣き出す音。誰もが、自分の命を守りたい。

 そんな中――鬼灯先生が、立ち上がった。


「君たち!」


 その声は震えていた。けれど、その震えの奥にある熱が、空気を貫いた。


「我々は、協力しなければならない! 僕は――彼を信じる!」


 彼は一歩、前へ出た。


「僕は教師として、いや一人の人間として……ここで、逃げたくはない!」


 誰かが息を呑んだ。

 そして――美琴もまた、静かに立ち上がった。

 仁がニヤリと笑った。


「チッ、キメてくれるぜ……」

「虎杖先生、お願いします」

「鬼灯先生、君も――いい男だね」


 虎杖先生が笑いながら、ハンドル横のクラクションボタンを軽く叩いた。

 ――――ッ!!

 その音が、夜の街に響き渡る。

 その瞬間、騒いでいた生徒たちも全員が黙った。

 その音が、何を誘い出すのか――理解したからだ。

 車の中の男――父親が、何かに気づいたように顔を上げる。

 フロントガラス越しにこちらを見て、両手を合わせた。

 まるで、目の前に神様が現れたかのように。


「虎杖先生。もし俺たちがやられた時は……後を頼みます」

「なに言ってるんだね。私も君たちに加勢するよ」

「鬼灯先生、緊急事態はバスを頼みます」


 虎杖先生はそう言って、運転でこわばった肩を軽く回しながら、 ポケットからおもむろに医療用のメスを取り出した。それは、非常時に備えて常に持ち歩いている彼女の――戦う覚悟の証だった。


「仁、行けるか?」

「あったりめーだろ。オレ様はテメェについていくぜ」

「あら、わたくしも援護しましてよ」

「皆さん……お気をつけてください」


 柊が、深々と頭を下げた。


「美琴君……」


 鬼灯先生が、申し訳なさそうに、けれど真剣な目でこちらを見る。


「僕は君に、謝らなければならない。きっとここにいる誰よりも、君は――正義感にあふれている」


 鬼灯の目には、どこか迷いが残っていた。

 本当にそれが正しいのか、自分の正義とは何なのか。

 彼自身、答えを探しているようだった。


「いや、そんな大層なもんじゃないですって」


 緊張が一瞬だけほどけて、微笑みが漏れた。

 それでも、夜は深く、闇は濃く。

 コンビニの前にいる化物の数は不明。

 いつ、どこから襲ってくるかもわからない。

 この最悪のコンディションで、体は震えていた。

 ――けど、それ以上に、心が動いていた。


「助けたい」

「……えぇ、もちろんですわ」

「よっしゃァ、行くぜェッ!!」


 仁とリナに背中を叩かれ、俺たちはバスを降りた。

 恐怖を押し殺し、笑顔で――戦うために。


 ✿  ✿  ✿


 バスの中は静まり返っていた。

 遠くで響く打撃音。微かに揺れる車体。

 その度に、生徒たちの不安げな視線が車窓の外に向けられる。

 そんな中、運転席に座ったまま、鬼灯がぽつりと呟いた。


「……柊さん。彼らは、すごいですね」


 フロントガラス越しに、戦う美琴たちの姿を見つめながら。


「ええ。桜我咲さんも、仁さんも、虎杖先生も……本当に立派です」


 柊は静かに頷いた。言葉に熱はないが、その眼差しには確かな敬意が宿っていた。


「……ですが、それで良かったんですか?」

「何が、ですか?」

「鬼灯先生を信じてバスに乗ってくれた生徒たちの信頼、きっと今ので完全に失くしましたよ。いきなり()()()()に寝返るような真似をしてしまったわけですから」


 柊は淡々とした口調のまま、再び外の戦場を見つめ直す。

 鬼灯は少し黙った後、どこか遠くを見つめながら語り始めた。


「……僕はね、幼い頃から、正しくあることを教えられて育ちました」

「いきなり語り始めましたね。正直、ついていける気がしませんけど」

「ただの独り言ですよ」

「……あら、そうですか」


 苦笑混じりに返しながらも、柊は耳を傾け続けた。


「親がどうこうという歳でもありませんが……やっぱり、刷り込まれてるんですよね。勉強しなさい、ポイ捨てはダメ——当たり前のことを当たり前にやるのが、正しいと」


 鬼灯の声は、どこか諦めを含んでいた。


「でもね、柊さん。世の中って、そういう人間を浮いてるって言うんですよ。ポイ捨てした人を注意すれば、注意した側が悪者扱いされる――本当に、そんな世界だった」


 彼の眼鏡が、車内の微かな光を反射して鈍く光る。


「そうですね。悲しい話ですけど、よく分かります」


 柊は同意の言葉を口にするが、その目はなおも窓の外に注がれていた。


「だから……こうなってしまった世界を見たとき、ふと考えてしまったんです。今度は自分がルールを作れるんじゃないかって」


 鬼灯は両手でハンドルを握りしめ、ぽつりぽつりと言葉を繋いだ。


「けど、僕には化物と戦う力もないし、仁さんや柊さんのように冷静な判断もできない。ただ、生徒に頼まれて先導して、虎杖先生がバスに乗ると聞いて、必死に追いかけただけ」


 彼は小さく、眼鏡をくいと押し上げた。


「そして虎杖先生の口から、美琴君たちの名前を聞いたとき……全部、崩れてしまった。僕の正しさが、何の役にも立たないことが、証明されたような気がして」


 しばらく沈黙が流れる。


「――結局、世界を変えるのは、力と才能のある者なんですね。僕のような人間の正しさでは、誰一人守れない」


 その言葉に、柊は少し眉をひそめた。


「……まるで、私たちが悪みたいな言い方ですね」

「違います。ただ――嫉妬していたんです」


 鬼灯は視線を落とし、吐き出すように言った。


「無理にみんなの正しさに合わせようとせず、自分の正しさを貫けるあなたたちに。僕は、指導者失格かもしれない」


 柊はしばらく黙っていたが、やがてそっと口を開いた。


「どうでしょう。少なくとも、私はそうは思いませんよ」

「頼られたから、それに応えた。それだけで十分立派です。それができる人、なかなかいませんから」

「少なくとも、あなたからは逃げている印象は感じませんでした」

「できることしかやらない――それもまた、一つの立派な選択です。皆が皆、空を飛べると思い込んでビルから飛び降りたら……世界は終わってしまいますからね」

「できることを極める人間も、美しいと思います」


 柊はフロントガラスの向こう、コンビニへと向かう美琴たちの背中を見つめる。


「美琴さんや仁さんのように、躊躇なく前に出られる人も必要です。彼らがいなければ、世界はきっと動かなくなる」

「でもそれを支える人、流れを読む人、言葉を与える人。回す者、回される者、極める者――そのすべてが揃って初めて、世界は成立するんだと思います」


 鬼灯は、小さく笑った。


「……僕はダメですね。教える立場の人間が、生徒に教えられている」

「そうやって決めつけるから、あなたの正しさが固まってしまうんですよ」

「たまには、その壁を壊してみるのも、悪くないと思います」


 柊の横顔は静かだった。

 でもその言葉には、不思議とあたたかさがあった。


 ✿  ✿  ✿


 そんな会話が繰り広げられていることなど知らず、外では文字通りの死闘が繰り広げられていた。


「オラァオラァッ、テメェらの相手はオレ様だァ!」


 もはや何も言わずとも、俺と仁は息を合わせて道を切り拓いていく。無数の化物を叩き伏せながら、コンビニの入り口までの導線を作った。


「リナ君、こちらは問題ない。中を頼む」

「了解ですわ」


 クロスボウを構えたリナが、俺たちの作った道を駆け抜けていく。


「もう大丈夫だ、さぁ、掴まってくれ!」

「……あぁ、何とお礼を言えばいいか……」


 助けが来たという安堵からか、男は情けなくも虎杖先生の肩を借りながら、何度も感謝の言葉を繰り返していた。


「仁、体力の限界なら戻ってもいいぜ」

「クハハ、そりゃこっちのセリフだ」


 背中合わせになり、お互いの呼吸の荒さが伝わってくる。


「テメェが化物になったら、オレ様が殺してやるから安心しな」

「お前になら、殺されてもいいかもな……」

「くっせぇセリフだな」

「こんな世界だからこそ言えるんだよ」

「全くだッ!」


 同時に足を踏み出し、化物の群れに拳とバットを叩き込む。


「「死ねェェェェェェ!!」」


 俺の拳と仁のバットが、化物の頭を粉砕する。吐き気のするような光景に、もう慣れてしまった。今となっては、拳に伝わる生温かさすら、嫌悪しきれない。


「皆さん、救助完了ですわ!」


 コンビニの中から、幼い子供とその母親がリナに連れられて出てきた。


「仁、俺はリナたちの援護に回る。お前は戻れ」

「クハハ、だったらオレ様は向こうの援護に決まってらァ」


 俺と仁の口調がどこか明るかったのは、地獄の中で初めて人を救えたからだろう。ほんの少しでも、命をつなげた事実が、胸の奥を温めてくれる。

 ――俺たちは、まだ生きている。


「鬼灯先生、ドアを開けてください」

「もちろんそのつもりだよ」


 鬼灯先生は、いつでも出発できるように運転席で準備していた。


「さあ、乗ってください!」


 柊が叫んだ、その直後――。


「美琴ォォォッ!」


 柊の声をかき消すような、誰かの叫び声が響いた。

 ……体が自然に動いていた。

 最後に見えたのは、母親が足を滑らせて転倒し、それに引きずられるようにリナと少女も倒れ込む姿。そこへ、父親が最後の力を振り絞って走り出す。


「待ちなさい!」


 虎杖先生が咄嗟に手を伸ばしたが、届かない。


「グオォォォォォッ!」


 それを待っていたかのように、化物たちが一斉に群がってくる。


「リナ、せめてこの子を!」


 俺は必死に少女の手を掴み、リナを引き上げる、そして押し出す。


「美琴様!?」


 まるで「そんなことより」と言いたげに俺を見つめるリナ。


「あぁ……俺はもう、いいんだ」


 すでに、噛まれていた。母親たちを引き離した瞬間――俺は油断していた。


「美琴!」

「仁君、ダメだ! 乗るんだ!」

「リナ君も!」


 俺が肩を押さえながらふらつくなか、さらなる脅威が現れた。


「鬼灯先生、虎杖先生、何かいます! 巨大な……化物です!」


 暗がりの向こうから、腹に口を持ち、四本の腕を振り回す巨大な化物が姿を現す。


「リナ君!」


 仁を無理やりバスに乗せた虎杖先生は、リナの手を引こうとしたが、リナはそれに応じず――代わりに少女を託される形となった。


「鬼灯先生、今すぐ発車だ!」

「でも、リナさんが!」

「彼女と美琴君はもう――ダメだ。今は逃げるしかない!」

「……くっ、すまない」


 鬼灯先生が苦悶の表情を浮かべながらアクセルを踏み込むと、バスは激しく揺れて発進した。


「ギャァァァ!」

「……なんだあのデカい奴は!」


 巨大な化物は、周囲の化物をそのまま喰らいながら、こちらへと迫ってきた。

 剛腕が四本、頭部はなく、俺たちの腹部に当たる部分に口がある。


「ダメだ、追いつかれる!」

「それでも、やるしかない!」


 ――この状況で、俺はまだ、生きていた。


「させるかってんだ!」

「美琴君!?」

「頭がねぇなら、脊髄ぶっこ抜いてやるよ!」


 熱、痛み、めまい――すべてを押し殺して、俺は立ち上がる。


「リナ、手伝え!」

「もちろんですわ!」


 手作りのクロスボウから飛び出したシャーペンがかすり傷を与える。


「くそ、仁にも柊にも、教師たちにも手を出させるかよ……!」


 ――俺は、変わってしまうのかもしれない。

 俺は化物の腕にしがみつき、必死で時間を稼ごうとした。が、その巨躯はあっさりと俺を掴み地面に叩きつける。


「今だ、鬼灯先生!」


 虎杖先生の叫びと同時に、バスが轟音を立てて走り出す。


「おい、美琴とリナは……!?」

「いいかい仁君、美琴君は噛まれた」

「今ここで降りれば、それは無駄死にだ」


 虎杖の声が、容赦なく現実を突きつける。

 柊は声を押し殺しながら涙を流し、他の生徒たちも言葉を失っていた。

 ほんの数分前まで笑っていた人間が、こうも簡単に切り捨てられる。

 ――そんな理不尽な世界に、誰もが息を呑んでいた。

 バスが遠ざかる音を背に、地面に叩きつけられた俺は、背中に焼けつくような痛みを感じながら、ゆっくりと起き上がる。


「美琴様!」


 リナの声が駆け寄ってくる。

 地面に叩きつけられた俺は割れたコンクリートの隙間にいる。


「……俺はもう、いい。お前は自分の身を守れ」

「そんなこと、できませんっ」

「一目惚れした相手を、こんな地獄で一人にできるはずがありませんわ!」


 その言葉に、俺は一瞬だけ意識が覚醒する。


「……今、俺は、人生で初めて告白されたのか……?」

「わたくしの初恋の相手を、いじめるなァァ!」


 声を張り上げ、リナがクロスボウを連射する。

 その瞬間、化物の注意が俺から彼女へと移った。


「オウ、オウオウ」


 気味の悪い唸り声をあげる。

 それはまるで俺たちの足掻きを笑うような、そんな鳴き声にも聞こえた。


「く、ダメですわ。あの化物……皮膚が硬すぎてこっちの攻撃を全て弾いてしまいますわ」


 リナの放った矢は、どれも無意味に弾かれていた。

 まるで金属の板に竹串を投げつけているかのような、冷たく不気味な音。

 化物は笑っているようだった。顔はない、しかし腹部にある口元の裂け方が、明らかに笑みの形を作っていた。

 それはまるで、人間というおもちゃを前にした、捕食者の嗜虐の笑み――。

 ドス、と地面が揺れる。

 片足を踏み出しただけで、モルタルに亀裂が走った。

 化物はその剛腕で、コンクリートの地面をまるで泥のように掴み取り――次の瞬間、拳の中でそれを潰した。


「リナ、伏せろ……」


 その剛腕を振り上げると、拳の中で粉々になったコンクリート片が弾丸のように迫る。

 それは人間を殺すのに、十分すぎる破壊力だった。


「――――ッ!?」


 リナの表情が絶望に染まる中、俺の身体は無意識に動いた。

 先ほどまで地面に倒れ、指の一本動かせなかった状況が一変し、俺は彼女の前へと飛び出す。そしてそのまま弾丸のようなコンクリート片を全身に浴びる。

 右目の眼球と頬の肉が抉れる。

 あまりの勢いにガードは剥がされ、自らの中身が辺りに散ったのを感じた……。


「美琴様!?」


 やがて攻撃が止んだ時、そこにいたのは、人間だった肉の塊だった。

 地面に伏し、動かない。血と肉と骨が、皮膚の下から溢れ出していた。

 ………………途絶えた意識の中、体温が低くなるのを感じた。

 今度こそ、死ぬ。

 意識の奥で、誰かが泣いているような気がした。

 必死に肉塊を抱きしめるリナの声が、最後まで耳に残っていた気がした。


「う゛っ……!」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 視界が歪み、指先が痙攣し、全身の血が沸騰するような熱に包まれる。

 ――熱い。息が、荒い。身体が……燃えるみたいだ。

 ドクン――心臓が一つ、大きく跳ねた。

 意識は黒い霧に包まれる。

 そこから先は、現実とも夢ともつかない世界だった。


「……美琴、自由に、翼を広げなさい」

「お前は、父さんたちの――自慢の子だ」


  深い水の底にいるような静けさの中、男の声が響いた。

 見たことのない実験室、白衣の男女、青白い蛍光灯。

 そこにいる少年の顔は見えない。

 でも、わかる。あれは――俺だ。


「……でもこれは、俺の記憶じゃない」


 けれど、確かに知っている。

 その声の主が、俺を守ろうとしていたことも。

 その手が、震えていたことも。

 まるで長い夢を見ているようだった。

 でもこれは夢なんかじゃない。


「俺は、お前らを殺す」

「――俺は、完成したお前らだ!」


 今度は別の声。怒りに満ちた、誰かの叫び。


 黒い霧が吹き荒れ、男の身体が変形する。

 その姿は、どこか醜くて、どこか懐かしい。

 あれもまた、俺だった。

 目を開ける。

 どこか遠くから、リナの声が聞こえた気がする。


「――美琴様……?」


 重い身体を持ち上げると、背中に違和感が走った。

 ばさり、と風を切る音。

 見下ろすと、瓦礫の影に黒い羽根が一枚、落ちていた。

 ――夢じゃなかった。

 肉塊になった身体が再生していた。ただ右目と頬の肉は傷跡を残したままだ。

 だがそんなことはどうでもいい。それ以上に感じる違和感……。

 俺の背中から、黒く禍々しい翼が、確かに生えていた。

 全身の血が騒いでいる。

 誰かの記憶、誰かの憎しみ、誰かの願い――。

 すべてが俺の中で溶け合っている。


「……俺は、何なんだよ……」


 答えはない。

 ただ、俺はまだここに生きている。

 それが、今はすべてだった。

 俺はそのまま化物に飛びかかりると、翼が消え、尻尾が生える、そしてその尻尾は伸び続けるとそのまま敵の動きを封じる。


「くそ、暴れるなッ!」

「頼むから……ちゃんと死んでくれ!」


 咆哮とともに、俺は化物の背中からその脊髄を、むしり取った。


「……これで終わり、だ」


 巨体が崩れ落ち、俺の尻尾が勝手に動き出す。


「って……!? おい、やめ――」


 尻尾の先端が四つに割れ、化物の死体に喰らいついた。

 ずぶずぶと、まるで意志を持つ別の生き物みたいに、死肉を貪っている。


「美琴様……?」


 遠くから、リナの震えた声が聞こえた。

「あ、あぁ……なんとかな」


 尻尾がようやく引っ込んだその瞬間、俺はいつものように笑ってみせた。

 自分でも笑顔になってるのが分かる。きっと、ぎこちない笑顔だ。


「今のは……?」

「さてな。……それより、どうする?」


 自分でも怖くなるくらい、声が平然としていた。

 無理やり話を逸らそうとした、そのとき――。


「よかったですっ!」


 リナが勢いよく抱きついてきた。


「……それでいいのか?」

「はい、今はこれで。美琴様が生きていてくれたことが、何より嬉しいですもの」

「そりゃ……どうも」


 子供をあやすように、頭をぽんぽんと撫でる。

 リナは俺の腹に顔をうずめて、くすぐったそうに笑った。


「それ、地味に痛いんだけど……」

「あら、ごめんなさい」


 そのとき、彼女の瞳が、涙で滲んでいるのが見えた。

 その笑顔は――今まででいちばん、眩しかった。


 ✿  ✿  ✿


 一方そのころ、バスの中は静寂に包まれていた。

 エンジンの振動も止まり、ただ冷たい夜気だけが、乗客たちを優しく撫でていく。


「……仁さん」

「何も言うな。言ったら殺す」


 ――黒薔薇 仁は、床にうつむいたまま、ただじっと拳を握りしめていた。

 誰とも目を合わせず、感情を押し殺したその声音は、あまりにも低く、重かった。


「鬼灯先生。今日はここらでいいだろう」


 虎杖の声に、鬼灯は静かに頷いた。

 バスは路肩に停車し、今夜はその中で眠ることが決まった。


「雫君。彼女の様子は?」

「……泣き疲れて、眠ってしまいました」


 柊の隣では、小さな白髪の少女が寄り添うように身を預けていた。

 その名は――四葉(よつば) 希望(のぞみ)

 ご両親が最後に遺した希望という名の少女だったのかもしれない。


「せっかくだ。辺りの監視に付き合ってくれないかい?」

「はい、分かりました」

「鬼灯先生は先に休んでくたまえ」

「ありがとうございます、虎杖先生」


 こうして、静かな夜が始まった。


「……さて、雫君」

「はい。なんでしょうか?」

「……すまなかった」


 たったその一言だけで、柊の目から再び涙がこぼれた。

 もう枯れ果てたと思っていたはずなのに、不意に滲んでいた。


「私も、可能なら――美琴君を助けたかった」

「……分かっています」

「……いい歳をして、感情的になってしまったな」

「いいえ。先生の判断は、正しかったと思います」

「そう言ってくれると……少しだけ、肩の荷が下りる気がするよ」


 虎杖先生はそう言って、懐からタバコを一本取り出した。


「……先生、それ、やめたんじゃ?」

「私も、弱い人間なんだよ」


 白い煙がふわりと吐き出され、夜空へとすっと溶けていった。

 その様子は、まるで今日の現実をなぞるようだった。


「……まだ、一日目だというのに」

「もう、失ったものが……あまりに多すぎる」

「特に、仁君や君にとっては」

「……仁さん、かなりのショックを受けています」

「だろうな。校内での問題児だった彼と、対等の友人として向き合えたのは、美琴君くらいだったろうからね」

「虎杖先生は……どう思いますか?」


 虎杖は少し黙ってから、ぽつりと口を開いた。


「彼を失ったことで、我々の置かれた立場は、確かに変わってしまった」

「そうではなくて……」


 柊はゆっくりと虎杖先生の方を見やり、問うた。


「この世界は――もう、終わってしまったのでしょうか?」

「……ふぅ、世界、か」


 夜空に浮かぶ白煙が、風に流されて消えていく。


「昼間とは違い、今は化物の方が多い。人の気配がしない」

「これが……現実、なんですね」

「もしかしたら、もう私たち以外に生き残っている人間はいないのかもしれない」

「政府が機能していればいいが……それも希望的観測にすぎないな」

「仮にこの現象が日本だけで起きているとしたら?」


 虎杖先生の声が、わずかに低く、硬くなった。


「他国は動く。国家機能が麻痺した日本に対して、何らかの処理を行う可能性もある」

「……侵略、ですか」

「あるいは駆除だ。今の日本は、もはや守るべき対象ではなく、恐れる対象に見えるだろう」


 柊は黙って空を仰ぎ見た。


「敵が……多いですね」

「それでも、生きなければならない」


 虎杖先生の声には、決意と静かな怒りがにじんでいた。


「この先に大きなショッピングモールがある。今はそこを目指そう。水と食料、使える武器があれば確保する」

「最悪、火と水さえあれば、山に引きこもって生き延びるのも一つの手だ」

「原始的ですが……悪くはありません」

「仁君なんて、案外すぐに適応しそうだ」

「……本当に、開花しそうですね」


 ぽつりと交わされた冗談に、ふたりの間に微かな笑みが生まれた。

 それはほんの一瞬だけ芽生えた、希望という名の余白だった。

 たとえこの世界が終わっていたとしても――。

 まだ、人として生きることだけは、終わらせてはならない。


 ✿  ✿  ✿


 音が死んだような静寂に包まれるコンビニ内で、俺とリナはお互いに背を壁に預け並んで座っていた。

 散り散りになった現実を、少しずつ拾い集めるように――。


「……なぁ、リナ。少し……話してもいいか?」

「もちろんですわ。美琴様の話なら、何時間でも」


 穏やかな笑顔と、静かな空間に背中を押されるようにして、俺は胸の奥でずっと引っかかっていたことを口にした。

 音が死んだような静寂の中で、俺は口を開いた。

 リナは、何も言わず、ただ静かに耳を傾けてくれていた。


「……俺は――物心ついた時から、記憶がなかったんだ」


 言葉が、ぽつりと落ちる。


「名前だけ与えられて、孤児院に預けられてた。職員には事故か病気で記憶を失ったんだろうって言われたけど……」


 そこで、ふっと缶コーヒーを見下ろす。


「――違うんだよ。まるで最初からなかったように感じてたんだ」


 リナが静かに頷く。彼女の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。


「他の子が、幼い頃の思い出を楽しそうに語る中で、俺には……一枚も、浮かばなかった」

「好きだったおもちゃも、親の顔も、住んでた家も――何も、何一つ、思い出せなかった」


 少し、喉が詰まる。


「それが……怖かった」

「自分が、本当に人間なのかすら、わからなくなって」


 一拍、静寂が流れる。


「でも、さっきの戦いで――あの化物と向き合った時。黒い翼が生えて、尻尾が伸びて、体が勝手に動いて……」

「その瞬間――何かが、蘇ったんだ」


 俺は手の中の缶を転がしながら、記憶の奥を探る。


「真っ白な部屋。無機質な光に包まれた、広い空間。そこに立っていた白衣の研究員たち」


 そして、誰かが言ったんだ。


「力で動物に劣り、繁殖力で虫に劣る人間を完璧にするクローン技術」

「その成功例が、我々の息子、美琴だ」


 空気が変わった。

 俺は、その言葉を――まるで自分の一部だったかのように、はっきりと思い出していた。


「……俺は、死んでいたんだ」

「桜我咲 美琴って名前の子供が、病で亡くなった。その子の細胞を使って、研究所で新人類計画の実験体として俺が作られた。つまり――俺はクローンだったんだよ」

「……」

「しかも、完成体。ウイルスに感染しても、取り込んで自分のものにする。だから翼も生えたし、尻尾も出た。異物を拒絶するどころか、融合して適応する。でもそれって、もはや人間とは違うだろ……?」


 俺は、自嘲気味に笑った。


「俺が息子の代用品として作られたって思うとさ、俺って本当に俺なのかって……分からなくなるんだよ」

「なぁ、俺が怖くないのか?」


 すがるように漏れたそれは実に弱く、聞かせた相手すらも不安にさせてしまう、そんな言葉だった。


「怖い? 妙なことを聞きますのね?」


 俺の問いにリナは少しだけ笑いながら答える。


「全く、怖くありませんわ」


 リナの返事は、あまりにも自然で、即答だった。

「わたくしが知っているのは、美琴様――あなた、ただひとりです」

「元になった美琴さんのことは、何も知りませんし、知る必要もありませんわ」

「少なくとも今ここにいるあなたは、わたくしにとって、唯一の美琴様です」


 俺は、言葉を飲み込む。


「たとえ、美琴様が化物のような姿になっていたとしても……もし、わたくしがあなたに噛まれ、同じようになってしまったとしても――」


 リナは、穏やかに微笑んだ。


「それを悔やむことは、きっとありませんわ」

「……何で、そこまで俺のことを?」


 思わず、問いが漏れる。


「分かりません。ただ……惹かれてしまったんですの」

「化物と戦うあなたの姿に、たぶん、わたくしは光を見たんですわ」


 俺は苦笑する。


「……実に、不明確だな」

「ふふ、恋や愛なんて、もともと証明のしようがない、心の病のようなものですもの」

「それって、俺が感じてる自分と同じかもな……」


 言葉を噛みしめながら、俺はうつむく。


「俺は、美琴って名前を元に作られたクローンだ。だけど、それが本当に両親の望んだ存在だったのかは、分からない」

「もしかしたら、両親はもっと別の美琴を望んでいたのかもしれない。そう思うと……なんだか、申し訳なくなるんだ」

「俺という美琴が、求められていない存在だったとしたら――俺は一体、何者なんだ?」

「もしそれを何者でもないと言うのなら、俺は……ただの化物と、何が違うんだろうな……」


 口から漏れだす不安の数々は行く宛ても知らず、ただこの空間に響く。


「ふふ――」

「おかしいか?」

「これは失礼しました」

「おかしくなんてありませんわ、ただテセウスの船という言葉が今のあなたにぴったりだと、ふとそんなことを考えてしまいまして」

「ある物体の全ての構成要素が置き替えられた時、基本的に同じであるのかという問題だよな」

「はい、美琴様は知らない自分という船になろうとしているのですか?」

「それは……」


 リナの質問の奥深さ、そして彼女なりの優しさを感じると心が温かくなる気がした。


「同じ記憶を持った他人と縁を切ってしまえばそれまでですわ」

「記憶も歴史も、活字と映像でしか残らない曖昧なものです」

「美琴様は一分前の自分の存在を証明できますか?」

「実に哲学的で悲しい質問だな」

「わたくしは少なくとも一分前の美琴様と一緒にいました、こうして肩を借り、あなたの体温を感じていましたよ」

「だから証明できます、ですから美琴様」

「あなたには一分前のわたくしを証明していただきたい、これを今後も続け、この絶望の世界でお互いを証明していくことはできませんか?」


 リナは俺の手を握り、片手で俺の顔を自身に向ける。


「恋も愛も、自分も己も一人では証明はできません」

「あぁ、言いくるめられた気がするが実に正しく、いい言葉だ」

「美琴様、わたくしと付き合ってください」

「この世界で、わたくしがあなたという存在を、証明していきますわ」

「あぁ、喜んでその告白を受けさせてもらうよ」


 俺は、誰かの代用品としてでなく、誰かに選ばれた自分として、彼女を見つめ返した。

 ――絶望の始まりの夜に、俺とリナはお互い証明し合うように唇を重ねた。


 ✿  ✿  ✿


 夜が明けた。

 誰もが眠るバスの中で、空が青く染まり始める。

 窓の外を流れる景色はまだ静かだが、すでに世界は日常を裏切っていた。

 人類が背を向けてきた現実――その只中で、彼らは今日も生き延びようとしている。

 そして、そんな空気を裂くように、虎杖先生のの明るい声が響いた。


「さぁ諸君、朝だぞ、起きたまえ」


 虎杖先生の明るい声が、バスの車内に響いた。

 誰よりも早く目覚めた柊が、目元をこすりながら振り向く。


「虎杖先生、もしかして……一晩中起きていたんですか?」

「そうさ、君たちの安全のためにもね。若い頃を思い出していたよ」


 虎杖先生は、どこか楽しげに笑ったが、その目の奥には疲労が滲んでいた。


「申し訳ない……同じ教師でありながら、私が寝てしまっては……」

「ははは、気にすることはないさ。休養はとても大事なことだからね」


 それまで嫌味の多かった鬼灯先生の態度からは、すっかり棘が抜けていた。


「雫、鬼灯のやつに……何かあったのか?」


 仁がぼそりと呟く。


「さて。どうでしょうかね」


 柊がさらりと言い放つと、仁は大きな欠伸をみせるとそのまま眠りにつく。


「さてさて仁君、二度寝とはいい度胸だね」

「やめ、ろッ!」


 仁のまぶたを無理やりこじ開けるように、虎杖先生は彼の肩を揺すった。


「ははは、寝起きにしては元気じゃないか。もう二度寝の必要もなさそうだね」

「この野郎が……」

「ところで虎杖先生、今日の目的地はやはり変わりませんよね?」

「もちろん。目的はショッピングモールだ。ただ……さすがに寝てないから、運転は鬼先生に任せるけどね」

「……僕も無免許であることは黙っておきましょう」


 その小声を誰も拾わなかったのは、きっと寝起きだったからだろう。


「虎杖先生は、お休みくださいね」

「雫君、すまないが、お言葉に甘えるよ」

「あいつが寝るなら、オレ様も……」

「仁さんはダメです」


 柊が耳を引っ張って仁を引き戻す。


「……うむ。これなら安心して任せられそうだ」


 虎杖先生が満足げに頷いた、ちょうどそのとき。


「クソ、テメェもさっきから黙ってねェで何とか言えよ、美っ――」


 その言葉は、届かなかった。呼ぼうとした名を口にする前に、仁は気づいてしまう。

 そこにいるはずの美琴が、今はもう、いないことに。

 一瞬、空気が凍った。


「……チッ、すまなェ」


 仁が静かに呟き、窓の外へ目を逸らす。


「その……私の方こそ……」

「テメェが謝る必要はねェだろ……雫」

「……はい、すみません」


 そのやりとりの最中、挟まれていた小さな身体がもぞもぞと動いた。


「あれ……ここは?」

「おはようございます、希望ちゃん」


 雫が笑いかけると、白髪の少女はぱっと顔を輝かせた。

「しずねぇ、おはようっ!」


 その無垢な笑顔が、重たい空気を一瞬で溶かしていく。


「おい鬼灯、とっとと動かせよ」

「え、えぇ、分かりましたとも」


 鬼灯先生は仁の言葉にが慌ててハンドルに手をかけた、そのとき。


「仁にぃ、怒ってるの?」

「怒っちゃいねェよ」

「だったら、笑顔、だよ」


 希望がにこりと笑いながら、仁の頬を両手で引き伸ばす。


「あ、怖い……」


 無理やり作られた仁の笑顔を怖がる希望は手を放す。


「うるせェな」


 どうやら、仁の作った笑顔はまだ練習が必要らしい。

 希望は慌てて雫の後ろに隠れた。


「泣かれなかっただけマシじゃないですか」

「雫、お前はオレ様を何だと思っていやがる」

「仁にぃ、ケンカはめっ、だよ!」

「いちいち痒くなる言い方しやがって」


 その様子を、バスの前方から虎杖が静かに見つめていた。


「これが、生きているってことなのかな」


 その声は、誰にも聞こえなかった。

 バスは静かにエンジンを唸らせ、朝焼けに染まる街を走り出す。

 まだ遠く、ショッピングモールは霞んだ光の向こうにあった。

 それでも確かに、彼らは前へ向かっていた。


 ✿  ✿  ✿


 一方こちらも同じ朝日を浴びている。


「くぅぅ――はぁ……」


 心地よい太陽の光、目の前には化物の死体。悪夢のような現実を目の当たりにしつつ、それが現実だと脳がすんなりと受け入れる。

 一晩ぶりの深呼吸は、ほんの少しだけ希望の匂いがした。


「そうだ、確か……あったよな」


 ふと昨夜倒した化物の死体に目をやり、思いついたことがある。


「ん、どうかしたの?」


 急ぎ足でコンビニ内に戻ると、歯を磨いていたリナが、お菓子コーナーを探る俺の背中に手を乗せてきた。


「確かここ辺に……。あった、注射器みたいな形したお菓子。中にジュレとか入ってるやつ」

「……あぁ、あったわね」


 眠いのか、リナのお嬢様口調がうっすら剥がれていた。


「それ、どうするの?」

「中身を抜いて……化物の血液でも貰っておこうかなって」

「体内に入ったウイルス、利用できるかもしれないし」

「なるほどね」


 歯ブラシを加えたまま商品棚を眺めるリナ。


「持っていけるもんは持って行こうな」

「べ、別に何も言ってないじゃない」


 頬を赤く染めたリナが髪を揺らしそっぽを向く。


「キャラ崩壊してるぞ」

「いいのよ、あなたの前なら……素でいたって」

「彼女と結婚したら性格変わるタイプか?」

「違うわよ、そういうんじゃなくて……」


 なんてくだらない会話を交わしながら、俺も新品の歯ブラシを開ける。

 割り切ってはいても、レジを通さず商品を開封することに、妙な罪悪感が残った。


「金払わずに店の物開けると、やっぱ気まずいな……」

「今さらね。昨日、何本も缶コーヒー飲んでたあなたが言うこと?」

「確かにそうだけど、、ていうかリナ……朝だと本当に別人だな」


 お嬢様のような立ち振る舞いかと思えば、その実、少しだけだらしない素顔を持つ女の子。


「お嬢様を演じていれば、みんな私から距離を取るのよ。……それが目的だったの」

「どういうこった?」


 シャカシャカと歯を磨きながら、リナはぽつりと話し始めた。


「わたしの両親、ある宗教団体の信者だったの。小さい頃からあれはダメ、これはダメって、がっちがちに育てられてたわ」

「最初はそれが普通だと思ってた。でも……」


 リナは一度口をすすぎ、続ける。


「近所の人たちも、学校の友達も、みんな私を避けるようになったの。休日に母と一緒に、他の家庭を勧誘して回ってたんだもの。今思えば、迷惑極まりないわよね」

「けど、その時のわたしは信じていた。何も疑ってなかった」

「サンタを信じるのは普通なのに、おかしな話だな……」


 その言葉に、リナがふっと笑った。


「子供なんて、そんなものよ。でもね――」

「あんたとは遊びたくないって、ぽつりと放たれた一言。それだけで、世界が終わったように感じたの」

「だから……否定されてもいいように、最初から嫌われ役を演じるようになったのよ」

「盾みたいなもんか」

「そう。傷つかないための、ね」

「……今もそのまま?」


 俺は少し迷ってから、聞いた。

 それは彼女の過去の話であると同時に、今にも繋がる話だったから。


「……残念だけど、今のわたくしは、あなたが思ってるほど弱くないわよ」

「悔しさは、ある。でもそれも含めて、もうそういうものとして整理をつけたの」

「でも癖って簡単に抜けないの。きっとどこかでは、まだ止まったままなのかもしれないわね」


 そう言って、リナはもう一度、さっぱりとした笑顔を見せた。


「朝から変なこと聞いて悪かったな」

「ううん。わたくしも夜にあなたのこと、たくさん聞いたし」

「それに……恋人なら、相手の隅々まで知りたいって思うのが自然でしょ?」

「聞いてくれて、嬉しかったわ」

「……俺は、どんなリナでも気にしないから。楽な方でいてくれよ」


 ありのままの姿でいてほしいなんて、都合のいいことは言わない。

 でも、俺の中では――どんな彼女でも、紛れもなくリナだった。


「……優しいのね」


 改めてそう言われると、なんだか照れくさい。

 思わず背を向けた瞬間、背中にぴたりと抱きつかれた。


「ありがとう……やっぱり、わたしはあなたのことが、どうしようもなく好きなのね」

「…………」


 甘くて、まっすぐで、照れくさい。

 だがそんな空気を揺らす轟音が外から聞こえた。


「この音は……!?」

「……ヘリコプター、ですわね」


 リナと顔を見合わせる。

 コンビニの外に飛び出すと、黒い機影が三機、低空飛行で真上を通り過ぎていった。


「軍の……ヘリ?」

「ブラックホーク、かしら……? でもおかしいわね……」

「アメリカ軍じゃない。自衛隊……? いや、近くに駐屯地なんてありませんわよ――」


 違和感が喉元に詰まる。

 この状況で、軍用ヘリがこの街に――。

 それが偶然であるはずがなかった。


「リナ、確かコンビニにラジオがあったよな」

「はい、すぐに付けますわ」


 俺たちの間の空気が、一気に張り詰めた。

 少し前まで笑っていたその空間は、もう戦場の空気に戻っていた。


 ✿  ✿  ✿


 そして、それは――バスにいる皆も、同じだった。

 事の異常さに気づいたバス組は、スマホに映し出されたニュース動画に言葉を失っていた。


『やぁ旧人類の諸君、ボクの名前は(さくら)()(さき) 醜一(しゅういち)


 画面の中の人物は、美琴に瓜二つの顔をしていた。

 いや、もはや見間違いようがない。顔も声も、完全に一致していた。

『現在この世界に蔓延している化物の完成形、それが新人類』

『彼らは、生きた人間をそのまま兵器へと変える、合理的な生命体だ』

『そうですね、旧人類の皆さんに分かりやすく伝えるならば——()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とでも言えばいいでしょうか』


 そして、映像の中の彼は、ゆっくりと黒革の聖書のようなものを取り出し、カメラに向けて掲げる。


『我々組織、カルネージは、この世界を奪い、選ばれし新人類による新たな秩序を創り出す』


 その言葉を最後に、動画は静かに幕を閉じた。


「……美琴、なのか?」


 ぽつりと呟いた仁の声は、あまりにも静かだった。


「そんなはず、ありませんよね……?」


 柊も、混乱を押し殺すように言葉を探す。


「兄弟……か何か、それにしてもあまりにも似すぎだ」

「カルネージ……いやな名前ですね」


 ハンドルを握ったまま、鬼灯先生がぽつりと呟いた。


()()()()()()()。つまり大虐殺……文字通りの名だ」


 張り詰めた空気が車内を支配する中、希望は不安そうに雫に身を寄せる。


「……なんだか怖いよ」


 希望は柊に張り付き顔を隠す。


「オイ、ちょっと待て。どういうこった、これは」


 仁がスマホを操作し、別のニュース動画を再生する。

 その映像に映るテロップが、怒りの火種に変わる。


『全国各地に広がる暴動事件――神奈川県ではすでに三万名以上の被害者が確認され、知事は非常事態宣言の準備を……』


 画面には、拘束され救急車に運び込まれる患者たちと、それを取り囲む警官隊の姿。

 そして、次の瞬間。


『な、なんということでしょうか!? 救急搬送を拒否した暴動者に対し、警察が発砲を行いました――――』


 カメラが揺れ、次に映ったのは血の海。

 叫び声と共に、画面は真っ暗になる。


「暴動者だと…………!?」


 仁が怒りに任せてスマホを振り上げた、その時。


「仁君、それは重要なアイテムだ」


 虎杖先生の落ち着いた声に、仁は苦悶の表情で動きを止めた。


「……くッ……」


 何かに負けたような顔をしながら、静かにスマホを膝に置く。


「君の気持ちは分かる。だが今は、冷静になるべきだ」

「……チクショウ、訳のわかんねェ連中まで湧いてきやがって……!」

「さっきの自衛隊のヘリといい……これからは、行動が制限されるだろうね」


 虎杖先生の言葉に、柊が疑問を向ける。


「どういうことでしょう?」


 虎杖先生は静かに語り出した。


「仮に、まだ感染者が出ていない街がどこかに存在していたとする」

「その街の人々は、外から来た人間を歓迎するだろうか?」

「……確かに。受け入れ拒否が進むのは当然かもしれませんね」

「そういうことだ。これから先の検問は、もはや建前にすぎない。実質、通行禁止令と同じ意味を持つ」


 柊が唇を引き結ぶ。


「であれば……早く、動かなければ」


 鬼灯が頷き、エンジンを始動する。


「うむ。運転は任せますよ、鬼灯先生」


 朝日が昇る。

 希望の名を持つ少女が笑い、愛を囁き合う恋人たちがいた。

 だが空に響いたローター音が、それを静かに切り裂いていく。

 世界はもう、優しさだけでは生き残れない場所になっていた。

 これは、人類が選ばなかった花園の、物語。


 ――第一章『燃え落ちた花園に、恋は芽吹く』終幕

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