76、白煙の追跡者
催涙ガスがまだ薄白く漂う室内で、壁に叩きつけられたルビーは、床を転がりながら目を瞬かせた。
驚いていたのは衝撃そのものより――ここへの“侵入経路”を見つけ当てたことへの驚愕だった。
「え、ちょっと……よくここに入る場所わかったねー」
声は呆れとも感心ともつかない響きで、ルビーは天井を仰ぎながら笑う。
だが返ってくる言葉はなかった。
チェイサーは、無言のまま煙の中に立っていた。
飾りも威圧もない。ただそこに“敵を屠るための存在”として立っているだけ。
もちろん、彼が迷宮のような地下構造を把握していたわけではない。
実際は――ティアンが能力の限界まで広げていた“視覚遮断”の網が、偶然ひとつだけ見逃した視界を捉えた。
野ウサギが見ていた光景。
それがレックの入った排水ルートを映し出し、チェイサーをここへ導いたのだ。
ラファはインカムからティアンの息を切らした声を聞き、胸を撫で下ろす。
ロジャーもまた、苦しげな呼吸の中で小さく息を吐く。
チェイサーが来た――その事実だけで、わずかに空気が変わった。
だが同時に不安もよぎる。
(この催涙ガスの中で……チェイサーは戦えるのか?)
(自分たちはもう、見ることすらできない……)
ラファもロジャーも、視界を奪われたまま、研ぎ澄ました耳だけで状況を把握するしかなかった。
そんな二人の心配をよそに、チェイサーは肩を軽く回し――何ひとつ言葉を発しないまま、静かに前へ踏み出した。
その歩みに、揺らぎも迷いもない。
ただ“狩りの続き”を始めるように。
地下を満たす白煙が――
いよいよ、新たな殺気で震え始めた。
チェイサーには催涙ガスなど通用しない。
死体である彼には、生きた肉体を蝕む刺激という概念がそもそも存在しなかった。
呼吸も循環も、視覚も聴覚も——そのすべてはアモンが仕込んだ機械が代替している。
ヘルメットの奥には、かつて人間だった骸と、無骨な機械部品が寄せ集められてはめ込まれ、
目はカメラ、耳はマイク、声はスピーカーによって発せられるものだった。
そんなチェイサーが、いつも愛用していたハンドアックスではなく、
新たな武器を静かに取り出す。
それは形こそ剣だが、刃の縁に刻まれた歯車の列が、
チェーンソーのように低く唸りながら回転を始める。
「いい玩具ですね! チェイサー隊長!」
ルビーが嬉しそうに叫ぶが、チェイサーは彼女を一瞥すらしない。
代わりに、催涙ガスの中で必死に呼吸を整えるラファとロジャーへ、
短く、だが確かな声を送った。
「待ってろ。すぐ地上に出してやる。」
その言葉に、二人はわずかながら戦場のど真ん中で息をつく。
一方、無視されたことに気づいたルビーは、
むっと頬を膨らませながらも、軽口だけは止まらない。
「ねぇ隊長、さっきの言葉わたしにも——」
言い終える前に、
“バシュッ”
と、空気を裂く乾いた音が響いた。
チェイサーの義手が、凄まじい速度でルビーの顔面めがけて射出されていた。
ルビーの喋っていた口元に、金属音を鋭く切り裂いて義手の指先が掛かった。チェイサーの義手は、まるで獲物の顎をひとつで仕留める猛禽の爪のように、ルビーの下顎を鷲掴みにした。
そして次の瞬間には、チェイサーの全身が音もなく距離を詰めていた。死体ゆえに息遣いもない。気配すらなく迫るその動きは、ただ機械仕掛けの殺意だけで成り立っている。
ティアンの見立ては間違っていなかった。
ルビーは有機物ならいくらでも取り込めるが、石や鉄のような硬質物は飲み込めない。
だからこそ、レックがあれほど重いフルプレートを着込みながら戦ってきた理由も理解できる。過去に何度も死闘を繰り返し、導き出した知恵——そう思うには十分だった。
「……離れないねぇ。ちょっと、痛いんだけど」
ルビーは左手で必死に義手を引き剥がそうとする。しかし金属の指はびくともしない。まるでルビーという存在そのものを地獄へ引きずり込もうとするかのように、確固として食い込んでいた。
舌打ちの代わりに、ルビーは床に転がっていた刃物へと手を伸ばした。
「仕方ないなぁ、もう」
そう言うと、迷いなど一欠片も見せずに、自らの喉元へその刃を当てた。
肉が裂け、骨がきしみ、そして——。
自分の喉から下顎を、丸ごと切り落とした。
床に落ちた顎がコトリと鳴る。
その異様な光景の中でも、チェイサーは一切揺らがず、ただ次の動きのために義手を引き戻すだけだった。
ルビーは手元にあったナイフを勢いよく放った。金属の閃光が催涙ガスの中を裂く。しかしチェイサーは、半歩だけ身をひねり、その刃を風のように躱す。
ルビーはすでに次の動きに移っていた。床に転がっていた大鉈を拾い上げ、獣のような呼吸でチェイサーへ切りかかる。
ギィン、と金属が擦れる音が狭い室内に炸裂した。
チェイサーは左手の義手でその大鉈を受け止め、微動だにしない。そして空いた右手のチェーンソー剣をわずかに払うように振るだけで十分だった。
――ザシュ。
ルビーの右腕が、肘から先ごと床に落ちた。
「……っ!」
声にならない声がルビーの喉から漏れる。下顎のない口は「あ」と「お」の形をただ開閉するだけだった。
形成不利。
ルビーは即座に悟り、踵を返した。
逃げる――という選択は、チェイサーの前では最悪の愚行だ。
ルビーが背を向けた瞬間、チェイサーの能力《追跡》が発動した。
視界の中の“対象”を逃がさない、ただそれだけの異様な能力。
距離は意味を失い、一歩で詰められる。
チェイサーの剣が閃き、ルビーの左腕が空中に跳ねた。
それでもルビーは走る。残った両脚で、血を撒き散らしながら闇雲に前へ。
チェイサーは追う。淡々と、容赦なく。
次の一撃。
右足が切断され、バランスを失ったルビーは床を転がり、そのまま仰向けになった。
なおも逃げようと、残った左足だけで必死に身体を引きずる。その姿は、まるで転げ回る幼虫のようだった。
チェイサーはもう能力すら使わない。歩くだけで追いつけた。
そして、無言で最後の足を切り落とした。
残ったのは四肢のない肉塊。
下顎を失い言葉も発せず、食事すらできない。
ルビーという怪物は、ただの無力な物体へと変わり果てた。
チェイサーは顔色ひとつ変えず、その残骸の髪を無造作につかむと、引きずるようにして仲間のいる方へと運び始めた。
ティアンに短く合図を送ると、チェイサーは無機質な声で命じた。
「救急医療班を呼べ。ここはもう終わりだ」
それだけ告げると、戦場を振り返ることもなく歩き出す。
石と鉄と血の匂いが混じる空間を、重い足音だけが離れていった。
ほどなくして駆けつけた救急医療班は、瓦礫の影に転がされた“それ”を見て、思わず息を呑む。
「……四肢が、全部……」
声が震える。
肉塊と成り果てたルビーは、ただ呼吸の音だけをかすかに漏らし、もはや人の形を保ってさえいない。
生きているのが奇跡なのか、それとも悪夢なのか判断もつかない惨状だった。
「こ、こんな状態で……どうやって……?」
救急隊員のひとりが呟くが、答えられる者は誰もいない。
ただチェイサーが無言で髪を掴んで運んできたという事実だけが、この場の異様さを際立たせていた。
別の隊員が、近くに倒れ込んでいる三人へ駆け寄る。
「生存者三名! 重傷、至急搬送します!」
ラファも、ロジャーも、そして石鎧を砕かれたレックさえも動けずにいた。
視界を奪った催涙ガスはすでに薄れつつあったが、呼吸は荒く、全員が限界だった。
「ライトボーン病院へ! 急げ!」
担架が次々と運ばれていく。
血の跡が長く引きずられ、破れた装甲と肉片がそこかしこに散らばる戦場は、静寂だけを残した。
帰還用トラックの荷台は、戦場の熱がまだ微かに残っていた。
ガタリ、と揺れた車内で、レックが重い石鎧を軋ませながら口を開く。
「……で、俺を殺さないのか?」
問いというより、確認に近い声音だった。
チェイサーは無骨なヘルメット越しにレックを一瞥し、平板な声で答える。
「アモン坊ちゃんがお前と話したいらしい。暴れるなよ、面倒だから」
レックは舌打ちしながらも、何も言わなかった。拘束具が食い込み、石鎧ごと抑えつけられているのだから、反抗のしようもない。
一方、反対側では――。
「あとちょっとでフルコースを味わえたのに!!」
四肢をすべて欠損したルビーが、治療で再生されたばかりの口を忙しなく動かし、ベッドに括りつけられたまま喚いていた。
その姿は、まだ殺気を孕んだままの“獣”そのものだったが、暴れる術がない。
「お前も少し黙ってろ」
チェイサーが雑に言い捨てると、ルビーはギロリと睨む。
だが彼女にできるのは、布団をわずかに揺らす程度の苛立ちだけだった。
荷台の奥で、ラファとロジャーが目を細める。
二人の視界はまだ霞んでいたが、ようやく人影の輪郭が見分けられる程度には回復していた。
そして、彼らの目に真っ先に映ったのは――ティアンだった。
ティアンは無言で目元を押さえていた。
その指の隙間から、ぽたり、ぽたりと赤い雫が落ちる。
能力の酷使によるものだ。
視覚を奪う異能の代償は、彼女の眼球そのものに負担をかける。
「ティアン……自分たちのために、ごめん」
ラファが震える声で言うと、ティアンは驚いたように顔を上げた。
そして、普段ほとんど見せない柔らかな表情を浮かべる。
「気にしないで。……友達でしょ?」
その笑顔は、痛みに滲む涙と血でぐしゃぐしゃだったが、
ラファに気を遣わせないよう、彼女なりの全力だった。
ロジャーも黙って頷く。
今ここに生きている全員が、互いの存在を確かめるように、短い沈黙を共有した。
こうして、
レック、ルビー、ロジャー、ラファ、そしてティアン。
それぞれ傷だらけのまま――ライトボーン病院へと搬送されていく。




