74、追いつく大鉈
地下に広がる空気は、もう“戦闘”ではなく“解体作業”のそれだった。
ロジャーは荒い息を吐きながら獣の脚で踏ん張る。
だが、呼吸はもはやリズムを保てず、肩で荒く揺れている。
視界も揺れて、ルビーの姿が二重にぶれ始めていた。
それでも、必死に身を翻していた。
避ける。
避ける。
避ける。
――だが、それはもう、避け“切れてはいなかった”。
獣化した筋肉が悲鳴をあげるたび、回避の軌道がワンテンポ遅れる。
大鉈の軌跡が、だんだんロジャーの動きに“追いついて”くる。
(……持たない……!)
ロジャーは奥歯を噛みしめ、爪を立てて踏ん張る。
しかし――足元が、濡れた血溜まりで一瞬、わずかに滑った。
その瞬間だった。
「逃げるなよ、オオカミ♡」
ルビーの甘ったるい声が、獲物を嬲る前の獣のように響く。
振り抜かれた大鉈は、空気ごと引き裂いてロジャーの腕へ――
バシュッ!!
異様に乾いた音とともに、
左肘から先が、まるで羽根のように軽く弧を描いて宙を舞った。
飛んだ腕は床に落ち、
ガラン……と虚ろな音とともに転がり、
その跡には濃い血の線が引かれていく。
ロジャーはその場に膝を落とし、
口からは獣の咆哮が――いや、痛みに絞り出された呻きが漏れた。
断ち切られた腕の断面から、
獣化した肉が熱を帯びて蒸気を上げながら血を噴き出す。
視界が白く揺れる。
身体のバランスを維持するのも難しい。
片腕を失えば、攻撃も回避も大幅に削がれる――それは本能で理解していた。
だが。
その“悲惨な光景”を前に、ルビーは――
うっとりと、恍惚とした顔で見惚れていた。
頬は桃色に染まり、指先は興奮で震えていた。
“娘”ではなく、“飢えた怪物”がそこにいた。
地下に転がるロジャーの腕から、
ぽたり、ぽたりと血が滴るたび、
その音は不気味なほど一定のリズムを刻んでいた。
まるで――包丁を洗う水音。
まるで――煮立つ鍋から落ちる水滴。
戦場ではなく、台所の音。
ルビーはその“台所のリズム”を楽しむように大鉈をすっと下ろし、
微笑むというより、とろけるような声で囁いた。
「つまみ食いも、調理の醍醐味ですよねぇ……♪」
その柔らかい声は、いましがた四肢を落とした怪物のものとは思えなかった。
彼女は床を転がるロジャーの左腕を拾い上げると、
まるで新鮮な食材の状態を確認する料理人のように高く掲げた。
滴る血が天井の薄明かりに照らされ、
空中で細い糸を引いて揺れる。
ルビーはその一滴を――舌先で受け取った。
ちろ。
舌が赤を吸い込み、
口元にはうっとりとした笑み。
それはまるで、上等なソースの味見だった。
緊張も、殺意も、戦意すら感じられない。
ただ“料理への没頭”だけがそこにあった。
「ん……だめだめ、我慢……
“お肉”の方は、あとでちゃんといただきますから……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、
腕をまるで壊れ物の宝石のように丁寧に床へ置いた。
ロジャーの荒い呼吸も、
断面から噴き上がる蒸気も、
彼女の世界の外へ追いやられていく。
ルビーはいまや完全に――戦闘より調理に集中していた。
「さて……この部位なら焼きより低温調理?
でも血の香りがいいからレアもいいし……
付け合わせは……根菜か柑橘か……どっちにしよ……」
呟く声は穏やかで、
この場の残酷さとあまりにも釣り合っていない。
そして――ふいに、彼女の顔に“ひらめき”が走った。
「あ、いいこと思いついちゃった♡」
瞬時に表情が変わる。
瞳の奥に宿る光がすっと細く冷え、
仕草が妙に整い、慎重になる。
人格の切り替え――
現れたのは、ルビーではなく “スカーレット”。
だがそのスカーレットが状況を理解するより早く、
ルビーの右腕は、自分の意志とは無関係に――
大鉈を自分自身へ向けて動いた。
ザシュッ。
「――っっっああああああああああッ!!」
凄絶な悲鳴が地下に響き渡った。
それはルビーの無痛の声ではない。
痛みを感じる“スカーレット”の、生きた悲鳴。
彼女の左腕が切り落とされ、
床に転がっていく。
鮮血が扇状に広がり、
ルビーの右手は血濡れた大鉈を構えたままで――
また、にたりと笑った。
スカーレットの叫びはまだ空気に震えている。
その叫びを、
ロジャーに聞かせるためだけに。
絶望を深く刻み込むためだけに。
自分の“料理”をより楽しむためだけに、
人格を切り替え、残酷で無意味な自傷を実行したのだった。
悲鳴が薄れていくとともに、
ルビーは甘ったるい声に戻り、
壊れた玩具のように微笑んだ。
「ねぇお父さん……。
父と娘の合挽きハンバーグなんて、
ちょっと美味しそうでしょ?」
その声音には、悪意ですらない。
純粋な興味と食欲だけ。
ロジャーは震える膝で立ち上がれずにいた。
失われた左腕の痛みより――
娘が人の痛みを“楽しむ”人格破綻者であるという現実の方が、
よほど重くのしかかってきていた。
大鉈の重さが指先に残っているはずなのに、
ルビーは自分の左腕が失われたことに、
まるで他人事のような表情しか浮かべていなかった。
そして――ふっと眉を寄せた。
「あ……これじゃ食べにくいですねぇ」
自分の右腕一本だけで食事をする不便さに気づいた、
ただそれだけの反応だった。
ルビーは血に濡れた大鉈を、まるで邪魔な鍋の蓋でも扱うように
床へトン、と無造作に置く。
金属音が地下に反響し、
戦場に似つかわしくないほど乾いた音を残した。
次の瞬間には、彼女の右手はすでに近くに転がっている隊員の四肢を掴み取っていた。
躊躇も、迷いも、罪悪感もない。
そこにあるのは――ただの“食材”。
ルビーは骨の露出した腕を、
まるで温かいパンをかじるような気軽さで口元へ運び、
そのまま勢いよく頬張る。
ガリッ。
骨が砕ける音。
ぐしゃっ。
軟骨と肉が混ざりあう咀嚼音。
彼女は美味しそうに、幸せそうに、
失われた左腕のことなど忘れたように咀嚼し続けた。
そして――それはすぐに起こった。
ズズ……ッ。
裂け目から新しい皮膚が伸び、
白い骨が形成され、
筋肉が蠢くように盛り上がり、
皮膜がかぶさり、
指が伸び、爪が生まれていく。
ちぎれた左腕が、まるで早送りの映像のように、
彼女の体に“戻っていく”。
ルビーは食事を止めず、
ただ淡々と咀嚼し続けた。
やがて左腕は完全に再生し、
そこにあったはずの欠損は影も形もなくなる。
ルビーはようやく咀嚼を止め、
新しい左手をゆっくりと持ち上げ、
ぐーぱー、ぐーぱーと指の動きを確かめた。
「……うん、ばっちりです♡」
満足げに微笑み、
そのままラファとロジャーの方へ顔を向ける。
血に染まった唇で、
まるで親しげな挨拶でもするかのように――
にっこりと笑った。
その笑顔は、無垢で、幼い。
だが同時に、深い悪夢の底から浮かび上がるようだった。
地下に満ちる血の匂い。その中で、たったひとり――
戦場を“客席”のように眺めていた男がいた。
壁に寄りかかり、ぼやけた非常灯の明かりに照らされながら、
指先でタバコに火をつける。
ゆっくりと紫煙を吐き出すその姿は、ここが地獄であろうとまるで関係ないという態度だった。
黒い牧師服。
どこか薄汚れた白いカラー。
だが体格だけは僧侶らしさとは無縁の、岩のような大男。
――“石剣”のレック。
病院襲撃の首謀。
隊員ガトーの失踪に深く関わっているとされた危険人物。
そのレックが、静かに、だが確実にこの惨劇を見ていた。
ロジャーは、片腕を失った痛みと出血を右手で押さえつけながら、
その姿を認識すると同時に、喉がひりつくほどの声で名を呼んだ。
「……レック……」
ラファは反射的に振り向き、その名を聞いた瞬間、顔色を失った。
ただでさえルビー一人を相手にするので精一杯なのに、
そこに“もう一人の化け物”が増えたのだ。
絶望が胸をえぐる。
だが――
レックの口から飛び出した言葉は、誰も予想していなかった。
「お前らなんざ興味ねぇよ」
低い声。
タバコの煙を吐き捨てながら、目だけが鋭く光る。
そして、ゆっくりと顔を向ける先は――
ロジャーでもラファでもない。
「用があるのはテメェだ、クソガキ」
壁へ手を触れる。
その瞬間、岩肌がうねり、石が剣の形へと変形する。
レックが“石剣”と呼ばれる所以。
ごうん、と空気が揺れた。
レックはその石剣の切先を、ためらいなくルビーへ向けた。
ルビーはモグモグと頬張っていた隊員の四肢を飲み込み、
再生したばかりの左腕を軽くぐーぱーと動かしながら、
心底うんざりしたようにため息を吐いた。
「はぁー……レック先生……」
まるで退屈な授業の続きに付き合わされる生徒のような声音。
だが、その瞳の奥には――明らかな殺意が沈んでいた。
地下の空気は、先ほどまでとは別の意味で張り詰めた。
ルビーは肩をすくめ、ため息をひとつ吐いた。
血の匂いが満ちた地下に似つかわしくない、どこか“日常の倦怠”に似た響きだった。
「先生は、スカーレットに言われて来たんでしょ。
あの子が頼るのなんて、先生くらいだもの」
レックはタバコの火を指で弾き、細く煙を吐いた。
その仕草は牧師服とはまるで噛み合わないが、妙に板についている。
「……ルビー。妹をいじめるなって、何度も教えたよな」
低く、苛立ちを押し殺した声。
だがその奥には、どうしようもない“諦め”の色があった。
「ったく……スカーレットもよ」
レックは舌打ちし、天井を一度仰ぐ。
「こんな古巣に呼び出しやがって」
ルビーはにこりと笑った。
血に濡れた頬に浮かぶその笑みは、まるで無邪気な子供のそれだった。
「スカーレットに何を言われたか知らないけど――邪魔しないでよ、ね?」
甘く緩んだ声。
だがその裏では、獣より冷たい警戒が光っている。
レックはタバコを靴で踏み消し、吐き捨てるように言った。
「うるせぇよ、ルビー。
……黙ってスカーレットに変われ」
言い終えた瞬間、レックの全身に“石”が走った。
脚から胸へ、背中から腕へと硬質な鱗のように盛り上がり、瞬く間に彼の身体を覆っていく。
音がした。
きしむような、岩が擦れ合うような重い音だ。
数秒後――
そこに立っていたのは、もう“人間の牧師”ではなかった。
重厚な岩の鎧を纏い、古代の戦士を思わせるような威圧感をまとった、巨大な“石の騎士”。
地下の空気が震えた。
ルビーは一瞬だけ眉をひそめ、次の瞬間にはまたいつものように笑った。
「はぁ……本当に、何も変わらないんだから、
レック先生って」
ルビーの大鉈が風を裂き、鉄と血の匂いをまとってレックへと迫った。
だが、石の鎧を纏った大男は、まるでそこに斬撃など存在しないかのように、重たげに石剣を振るうだけだった。
「戯れてんじゃねぇぞ、クソガキが」
金属同士が激突したかのような鋭い破音。
ルビーの一撃は石剣の一振りで受け流され、弾かれた衝撃だけが火花のように散った。
それでも、ルビーは嗜虐的な笑みを崩さない。
しなやかな身体をしならせ、猫科の獣めいた踏み込みで、再び間合いを詰める。
――大鉈が、しなる。
風切り音は悲鳴のように鋭かった。
だがレックは、ただうんざりしたように息を吐く。
「……しつけぇんだよ」
石剣がわずかに動き、その一撃の軌道を外へと弾く。
バランスを崩したわずかな瞬間――。
「そこだ」
レックの左腕が伸びる。
石の篭手を纏った巨大な掌が、ルビーの左腕をがっちりと掴んだ。
「……っ!」
次の瞬間、世界が揺れた。
ドガァッ!!!
床が陥没し、破砕した石片が四方へ散る。
ルビーの華奢な身体が地面に叩きつけられ、その衝撃は地下全体に響き渡った。
レックは押しつけたままの手を離さず、冷めた声音で告げる。
「調子に乗るな。相手してやってんだ――まずは一本だ」
石剣がひるがえり、無慈悲な弧を描く。
そして――。
バシュッ。
軽い音とともに、ルビーの左腕が宙を舞った。
血の花が散り、空気がぬるりと鉄臭く染まる。




