73、命を優先して
ティアンの声が割れた空気を震わせて無線に走った。
息を潜めるような必死の声。それだけで、状況が限界に近いことがわかった。
「……ふたりとも、静かに聞いて。
チェイサー隊長がそっちに向かってる。
だから――時間を稼いで」
ラファは震える息を押し殺しながら小さく頷き、ロジャーはルビーから視線を動かせないまま、返事もできずに立ち尽くしている。
ティアンは、焦燥で言葉を押し出すように続けた。
「ルビーの視界はバッチリ見えてる!
だから今わたしが見えてるのは“敵の視界そのもの”!」
無線越しに聞こえる、その震えた声が、状況の異常さを突きつける。
「いい? とにかく命を優先して!
ロジャーは変身しなければ……たぶん攻撃対象にはならない。
だから――二人ともばらばらに逃げて!」
その瞬間――ルビーがぴくりと首を傾けた。
まるで、無線越しの声まで聞いているかのように。
湿った静寂がじわりと二人を包む。
底冷えするほど不吉な静けさだった。
ラファは銃を握り直し、ロジャーは汗が背中を伝うのを感じながら後ずさる。
空気が――変わる。
ルビーが笑った。
喉の奥で獣が鳴くような、低い笑い。
その笑みが合図だった。
ふたりが反射的に駆け出すより速く、ルビーの体が闇の中を弾丸のように爆ぜた。
「――っ!!」
ラファの脇を、冷たい風が裂く。
ルビーの大鉈が横一閃に振るわれた。
狙いは、ラファの首。
金属が空気を裂く甲高い音が、耳の奥まで刺さる。
一瞬でも遅れていれば――頭が胴から離れていた。
かろうじて後方へ跳んだラファの頬を、風圧だけが鋭く切り裂いた。
血の匂いが、闇の中に静かに漂った。
ルビーは一歩も追撃を止めず、まるで“遊びが始まった”とでも言いたげに獰猛な笑みを浮かべていた。
ラファは必死に銃口を向け、震える指でトリガーを探りながら、真正面からルビーと対峙していた。
その背後で――ロジャーは足音も息遣いも消し、ゆっくりと大きな弧を描いて回り込む。
暗がりを舐めるように進み、ルビーの死角へと滑り込む。
張り詰めた沈黙を断ち切るように、ロジャーが叫んだ。
「目的は俺だろ!! ルビー!!」
祈るような声だった。
振り向け。狙いは自分でいい。――そう願って。
だが、ルビーはぴくりとも動かない。
視線はラファに固定されたまま。
ロジャーの存在など“砂粒ほどの価値もない”と切り捨てるように完全に無視している。
「お父さ……いやいや、もう メンディッシュ はそこで待っててよ、ね? ⭐︎」
その声音は軽やかで、歌うようですらあった。
けれど無邪気さが、むしろ冷たさを際立たせていた。
子どもが遊ぶ相手を選ぶときの、悪意すらない残酷さ。
ルビーの唇が、ゆっくりと愉しげに持ち上がる。
「まずは――前菜として、ラファせんぱいからいきますね」
囁きは甘いのに、刃こぼれ一つない鋼のように冷たかった。
「先輩のいれるコーヒー、わたし大好きなんですよ。
毎日先輩に近づくたびに、ふわっと“いい匂い”がして……」
ルビーはわざと鼻をすん、と鳴らした。
ラファの喉が小さく上下し、頬を汗が伝う。
そのとき――ルビーの腹から、ぐぅ……と場違いな音が鳴った。
ルビーはきょとんと目を丸くし、頬をほんのり赤らめた。
「あ、やだ……ラファせんぱいを見てるとお腹すいちゃぅ」
その羞恥の色はほんの一瞬。
次の呼吸には、にこり、と弧を描く笑みに変わっていた。
その微笑みは、人の形をした“飢え”そのものだった。
ティアンの声が無線越しに鋭く突き刺さった。
「ロジャー! ――撃って! いまのルビーは止まらない、少しでも隙を作って!」
その声音は、命令というより悲鳴に近かった。
ロジャーは歯を食いしばり、震える手で銃を構える。
狙うのは、娘の急所――。
躊躇は、一秒も許されなかった。
乾いた連射音が、地下に反響する。
銃弾は正確にルビーの胸、腹、喉を貫き、彼女の体にぽっかりと穴を穿った。
鮮血が霧のように散る。
だが。
ルビーはその場から1ミリも動かなかった。
むしろ、撃たれている間中ずっと――手にぶら下げていた隊員の足を、もぐもぐと咀嚼している。
服には穴が空き、血が流れた痕跡がある。
しかし、その下の肉は――完全に塞がっていた。
まるで最初から傷など存在しなかったかのように。
数発目の銃声が止んだところで、ルビーはようやく咀嚼を止めた。
口元についた血をぺろりと舐め、のんびりとロジャーに目を向ける。
「メインディッシュはねぇ……大人しくしてて、って言ったのに」
その声は叱るようで、しかし嬉しそうでもあった。
ロジャーの背筋を氷柱のような悪寒が走る。
「走れ、ラファ!!」
叫んだ瞬間、ラファは反射的に地面を蹴った。
全身の全てを振り絞り、ただひたすら前へ――。
生き延びるために。
背後で、ルビーがゆっくりと咀嚼を再開する気配が、ぞっとするほど静かに満ちていった。
ラファは全力で駆けながら、胸の奥が凍りつくような声を背後に聞いた。
「ラファせんぱーい、待ってくださーいよー」
その無邪気な呼びかけが、地底のコンクリ壁に反響して何重にも響く。
まるでどこから声が来ているのか分からなくなる。
暗闇。湿った空気。
同じような曲がり角が延々と続き、方向感覚が削られていく。
息を殺して走っても走っても――
距離が離れている気がしない。
むしろ、背後に感じる気配はじわじわと近づいているようですらあった。
そのときだった。
耳のインカムが突然、ざり……とノイズを立て、あの声を拾った。
それは死んだ隊員が持っていたインカムから乗り移った、食欲を帯びた声。
「えっとねぇ……“雌兎の冷製テリーヌ”!」
ラファの心臓がひゅっと縮む。
続く声は楽しげな調理番組のようだった。
「豚肉の脂肪分を少なめにして〜、代わりに“兎肉”の香りを活かして、パセリとチャイブをたっぷり入れて軽めに仕上げるのー!」
息が詰まる。
走る足がもつれそうになる。
「ドレッシングはねぇ……バルサミコ酢を煮詰めて、濃いエスプレッソをちょっと混ぜて伸ばして〜♪」
ルビー〈調理人〉の声は、地下のどこからでも聞こえてくる。
遠いのに近い。
逃げ道をふさぐ呪いの囁き。
「コーヒーはね、“ラファ先輩の香り”に合うように、フルーティで酸味のある浅煎りがベストだと思うんですよー!」
笑いながら、まるで本気で料理を考えている。
「さっぱりした仕上がりに、軽やかなロースト香……どう思う? “兎肉”先輩?」
ラファは返事などできない。
ただ、乱れる呼吸を押し殺し、走る。
だがインカムからは容赦なく続いた。
「さらにオリーブオイルと塩胡椒で味を整えて〜、とろみをつけて〜」
声は少し弾んで、
「薄くスライスした“ラファのテリーヌ”に、このドレッシングをかけて……」
そして最後は無邪気な歓声のようになった。
「軽くローストしたオレンジやイチジクを添えたら、“ルビー特製! ラファ先輩の冷製テリーヌ”の完成なのー!!」
ぞわり、と背骨を冷気が駆け上がる。
自分の“調理工程”を、耳元で料理番組のように流される――
それは、殺されるよりも残酷な悪夢だった。
ラファの足は止まらない。
止まれなかった。
背後では、反響する足音もないのに――
ルビーの声だけが、ずっと追ってきた。
ラファは走り続けながら、肺が焼けるような痛みに顔を歪めた。
背後――そこから伸びてくる“冷たい気配”は、距離が離れているはずなのに、皮膚の真裏に張りついているかのように感じる。
恐怖は確かにある。
だが、その中心で――思考だけは妙に澄んでいた。
ルビーは撃たれても倒れない。
胸を撃ち抜かれても、腹に穴が開いても、瞬く間に塞がった。
しかも、血を流しながら足を咀嚼し続けていた。
(あれは……能力だ)
銃は意味をなさない。
傷を与えても無駄。
ならばどうすれば?
脳裏に焼き付いている光景――
戦いながら、血まみれのまま“食べていた”姿。
(“食べてる時”は止まらない……
逆に言えば、食事こそが再生の源……?)
喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど平静だった。
「……食べるのを……やめさせれば……再生も止まる……!」
理屈は単純。
だが、あの怪物から“食事を奪う”など、正気では到底考えられない。
しかし、それ以外に突破口はなかった。
曲がり角を飛び込んだ瞬間――
――ガツンッ。
硬い壁にぶつかったような衝撃が走り、ラファは勢いのまま後ろへ倒れ込んだ。
視界が揺れ、息が止まる。
(な……何……?)
痛む後頭部を押さえながら顔を上げた。
そこには――
さっきまで“背後”にいたはずのルビーが、なぜか目の前に立っていた。
血の滴る足をぶら下げたまま、まるでかくれんぼに勝った子供のような笑顔で。
「少女漫画だったら、ここで恋に落ちちゃうシーンですよねぇ?
この奥、袋小路なんですよラファ先輩」
軽やかで、楽しげで――
死刑宣告のように冷たかった。
その細い腕はもう頭上まで上がっている。
握られた大鉈が、ゆっくりと軌道を描き始めた。
――来る。
ラファの体が硬直する。
避けられない。間に合わない。
大鉈が視界いっぱいに迫り――
「――ッ!」
横から獣じみた影が飛び込んだ。
壁が割れるような衝撃音。
獣の野太い咆哮。
ロジャーだった。
だがその姿はもはや“人”ではない。
背中には逆立った毛並み。
指は鋭い鉤爪に変わり、脚の筋肉は獣のように膨れあがる。
牙が覗き、息が白い霧のように吹き出す。
完全な――獣化。
二人の影が闇に激突し、金属音と爪の擦れる音が入り混じる。
ラファは尻もちのまま、ただ呆然とそれを見つめた。
父を食らおうとする怪物と、
獣化し獣になった怪物が、
同じ空気を切り裂きながらぶつかり合っている。
ルビーは押し倒されながらも、うっとりと笑った。
「お父さん……」
振り返った瞳が、ラファではなくロジャーを射抜く。
「後で食べてあげるって言ったのに〜。
鮮度は落ちちゃうけど……先に締めたほうがいいのかなぁ?」
その声音は甘く、
言葉は残酷で、
笑みは――心底嬉しそうだった。
地下の空気が裂けるたび、血と鉄の匂いが混ざり合う。
ロジャーは獣の脚で床を蹴り、迫る大鉈の軌道を紙一重で避けた。
だが――
ルビーはまるで疲れという概念が存在しないかのようだった。
ロジャーの爪が何度も彼女の腕や腹を引き裂き、肉が削げ落ちる。
裂け目から鮮血が噴き出し、床へ滴るたび、普通の人間なら即座に倒れる傷だった。
それでもルビーは眉ひとつ動かさず、
ただ大鉈を無造作に、
まるでキッチンで野菜でも捌いているかのような手つきで振り続けた。
「わぁ……お父さんのお肉、やっぱり繊維がしっかりしてる……♡」
その声は戦闘中のものではない。
完全に“調理工程の確認”のそれだった。
ロジャーはその言葉に歯を剥き、牙を剥き出しながら再び飛びかかる。
だが、獣化してもスタミナは有限だ。
体から立ち上る蒸気のような息遣いが、疲労を隠しきれなくなっていく。
(持たない……このままじゃ……)
ルビーの動きは落ちない。
むしろ先ほどより軽やかで、嬉々としている。
「ねぇ、お父さん……もうちょっと深く切らせてよ。
このままだと、火を通す時にムラができちゃう……」
笑いながら、大鉈が横薙ぎに弧を描いた。
ロジャーは反射的に身をひねり――
だが、かわしきれなかった。
大鉈の刃が、獣化した肩の毛皮を裂き、
その奥にある肉を薄く――だが確実に――えぐり取った。
血が霧のように散り、ロジャーの体がぐらりと傾く。
その赤い飛沫の中で、ルビーはうっとりと目を細めた。
「……やっと“一口目”って感じですね、お父さん♡」




