72、答え合わせは血の匂い
地下の湿気が、まるで空気そのものが息をひそめているように重く淀んだ。
その中心で、ルビーは血の滴る口元をぬぐい、ゆっくりとロジャーの前に歩み寄った。
「……お父さんは、ほんと何もわかってないね」
その声音は、軽やかで、楽しげで。
目の奥だけが、深い闇を湛えていた。
ロジャーの表情が固まる。
理解できないのではない。
ただ、理解したくなかった。
「……ルビー……?」
言葉が震えた。
ルビーはくい、と首を傾ける。
「あの時も――ねえ、覚えてる?
それからその前の“あの時”も……」
舌を噛み切るような冷たさが、その笑みに混じっていた。
ロジャーはかすれ声で問う。
「……何を……言っている……」
ルビーは一歩近づく。
影がロジャーの胸元に落ちる。
そのまま覗き込むように顔を寄せ、にやりと口角を吊り上げた。
「じゃあ――どこから“答え合わせ”しよっか?」
濁った瞳が、嬉しそうに揺れていた。
まるで、大事にしまっていた秘密をやっと開けられるときの子どものように。
ロジャーの背筋が強張る。
ラファは即座に動いた。
銃口がルビーの眉間へ吸い寄せられるように向けられる。
照準がぶれないのは、訓練の賜物か、それとも恐怖のおかげか。
「ルビー……動かないで」
ラファが低く警告する。
その声音には、仲間への情と、化け物への恐れが綯いまぜになっていた。
しかしルビーは、まるで気にも留めていない。
「やだなぁ、ラファ先輩。今は“いいところ”なんだから口出ししないでよ」
柔らかな声。
その裏に潜む残酷さが、暗闇の温度をさらに下げた。
ルビーはぽつり、と独り言のように笑った。
血の匂いがまだ濃く漂う地下で、その声だけがやけに澄んで聞こえる。
「ねぇ――昔話しよっか、お父さん」
ロジャーの喉がわずかに動く。
答えようとしているのか、それとも声を失ったのか、自分でもわかっていないようだった。
ルビーは勝手に続ける。
語りかけというより、思い出を一つひとつ撫でるように。
「ほら……あったじゃん。あの頃の“暖かい家庭”。」
「森の中の家。朝になると陽が入ってきて、木の床がきれいに光ってさ」
「お父さんと歩いた森の道。センボンヤリの白い花、いつも摘んで怒られたよね」
地下の冷たい闇とは無関係に、ルビーの声だけがあの日の色をまとっていた。
「それに――お父さんが始めたガンショップ。
古い看板を直すの、わたしも手伝った。釘で指刺して泣いたら、お父さん、すごく困ってたよね」
ロジャーが小さく息を呑む。
その記憶は、確かに二人の間にあった“本物の思い出”だった。
だからこそ――ルビーの笑みが不気味に見えた。
「あと……忘れてないよ。初めての“新しい家族”。」
ルビーの目が細くなる。
「黒い耳の子犬。あの子、すっごく可愛かった。
わたしが名前をつけたんだよ。覚えてる?」
ロジャーは息を詰めたまま、何も言えない。
ルビーはゆっくりと近づき、囁くように――しかし確実に心臓へ刃を落とすように言った。
「……いろんなことが、あったよねぇ。お父さん」
その語り口は、懐かしさよりも、
なにか“別の意味”を含んでいるようで。
ロジャーの顔から血の気が引いていくのを、ラファは横で見ていた。
この話がただの回想では終わらないと、本能で悟って。
ルビーは、小首をかしげる仕草のまま、まるで“懐かしい思い出”でも探るようにロジャーへ問いを投げた。
「――ねぇ、お父さん。子犬の名前、覚えてる?」
その声色は柔らかかった。
けれど、その裏に隠れているものは、ロジャーの胸をざわつかせるには十分すぎた。
「……モカだろ。
ルビー、お前が可愛がってた。毎日えさやって、散歩も――」
ロジャーの言葉が途切れる。
理由は簡単だった。
ルビーが、心底楽しそうに、しかし地の底から響くような笑いを浮かべたからだ。
「そういうとこだよ、お父さん」
笑みは歪み、瞳はどこにも焦点が合っていない。
それなのにロジャーだけをしっかり射抜いてくる。
「可愛がってたのは“スカーレット”。
美味しくいただいたのは“わたし”。」
ロジャーの背中を冷たいものが一気に走った。
それは恐怖に形を持たせたような感覚だった。
「お母さんの料理以外でね、初めて食べた“お肉”だったからさ。
あれは衝撃だったなぁ。噛んだときのあの弾力。あの温度。忘れられないよ」
ルビーは滑るように距離を詰め、ロジャーの顔を覗き込む。
その目は笑っているのに、どこにも生の気配がない。
「で、そのあと泣いてたスカーレットに――
“泣くなルビー、大丈夫かルビー”って声かけてくれたよね?」
ぷぷぷ、と喉の奥で笑う。
「スカーレットもわたしの真似して、泣き方そっくりだった。
――あれ、好きだったなぁ」
ロジャーの視界が揺らぎ、足元が崩れるような感覚に襲われる。
知っていた“娘”が、音を立てて壊れていく。
いや――もしかすると、最初から知らなかっただけなのか。
ラファは一歩も動かない。
銃を構えた腕は震えながらも、視線だけはルビーから逸らさない。
その表情が語っている――
目の前の存在は、すでに“人”の領域にはいない。
ルビーは、散らばる死体の中から、まるでコンビニの棚でも眺めるような気軽さで一本の足をつまみ上げた。
指先にぶら下がるそれは、ついさっきまで“誰か”の一部だった。
「んー……」
軽く息を弾ませるような声とともに――ひとかじり。
その仕草はあまりに日常的で、だからこそ異様だった。
ひとかじり。
いや、“人嚙り”という方が正しい。
肉が裂け、骨がきしみ、砕ける鈍い音が洞窟の奥へと吸い込まれていく。
湿った空気の中で、その音だけが妙にはっきりと響いた。
「隊員さんの中じゃね、最初に食べたモンドさんが一番美味しかったなぁ。
お肉に甘味があってさぁ。こんなところじゃなければ、ちゃんと調理して食べてあげたかったのに」
声色だけは軽やかだった。
ただ、その言葉の刃は鋭く、聞く者の心臓を容赦なく切りつける。
聞いてもいないのに、ルビーはさらに続ける。
「実際ね、味は豚肉に近いんだけど……私はこっちの方が好みかなぁ」
足をぶらぶらさせながら語る姿に、ラファの喉がひくりと震えた。
こみ上げるものを必死に押し込み、銃口だけは揺らさない。
それでも胸の奥では、止まらない警報が鳴り続けている。
「……どうして、モンドさんを殺したの?」
吐き出すような問いだった。
このまま呑み込んでしまえば、自分の中の何かが壊れてしまいそうで。
ルビーはくるりと振り返り、ぶら下げた足をそのままに、年下がふざけるような甘い声で返す。
「わたしだってぇ、殺したくて殺したんじゃないんですよー? ラファせんぱーい」
「じゃあ……なんで……!」
怒りとも恐怖ともつかない感情が、ラファの声を震わせる。
だがルビーはただ肩をすくめ、口元を手で隠すようにして笑った。
「だってぇ――ネズミを丸齧りしてるとこ、見られちゃったんですもん。
かわいいルビーちゃんのイメージ崩れちゃうでしょ?
もう警備部にも戻れないしー……いっかぁ、やっちゃえーって⭐︎」
指についた血を舌でなぞり、破顔する。
その笑顔は、どんな悲鳴よりも冷たかった。
ルビーは血で滑る足をぶら下げたまま、くるりとラファに向き直った。
その瞳には、さっきまでの嗜虐性とは別の――ひどく歪んだ“期待”がきらりと灯っている。
「そんなことより、ラファ先輩ぃー」
わざとらしく頬を染め、指先を胸元で組み、囁くように甘い声を落とす。
「私、味の探求にはね……余念がないんですよ」
ラファの背に、冷たい汗が一筋落ちていく。
「私のね、いっちばんの目的……」
ルビーはゆっくりと指を一本立て、まるで新しいお菓子を紹介するかのような調子で言う。
「お父さんが能力で“獣化”したところを、食べてみたいんです」
その異様な願望に、ラファは息を呑んだ。
が、ルビーはまるで待ってましたと言わんばかりにさらに身を乗り出す。
「犬っぽい味なのかー?
人間より脂がのってるのかー?
ほら、気になりません??」
「――バカ言わないで!」
ラファの声は震えた。怒気よりも“拒絶”の方が強い。
だがルビーは、その反応すらご褒美のように受け取り、くすくすと笑った。
「いーっつもスカーレットが邪魔してきてね。
お父さんに近づくと、横から“だめよ”って割り込んできちゃうの。
まーったく、全然目的に近づけないんですよ」
足先で床を軽く蹴り、リズムを取るように揺れる。
その無邪気さは、罪悪感の欠片すら感じさせない。
「でも――もう大丈夫」
ふっと声の温度が落ちる。
地下の冷気よりも冷たい響きだった。
「だって、スカーレットが大好きなお父さんが……
そのスカーレットを殺そうとして……実際に、ボタンを押しちゃった」
ロジャーの肩がびくりと震え、息が詰まる音が聞こえた。
ルビーはゆっくりと振り返り、ロジャーへ歩み寄る。
その笑顔は甘い。けれど、その甘さは毒の味しかしない。
「その“事実”だけでね。
あの子がお父さんに寄りかかってた心なんて……たぶん全部、砕けちゃったんですよ」
声は囁くように静かで、残酷さを感じさせないほど柔らかい。
だが――その言葉が示しているものは、スカーレットの心がもう立ち上がれないほど深く傷ついたという、救いようのない“現実”だった。
ルビーは、ふと何かを思い出した子どものように、ロジャーに声をかける。
貼りついた笑みはそのままなのに――どこか泣く寸前の幼子にも見える。
だが、その“涙の気配”すら演技なのか本心なのか判断できないほど、彼女の感情は歪みきっていた。
「バカなお父さん」
囁くような声音は甘くやわらかい。
けれど、その甘さは心臓の奥に細い針を刺すみたいに痛い。
「お父さんってさぁ……ずっとスカーレットに助けられてたくせに。
なのに“わたし”のほうを甘やかすから……」
そこでルビーは、ひそりと笑った。
優しさにも憎しみにも見える、不気味な笑みだ。
「――育ててくれて、ありがとうね」
ぽたり。
その言葉と同時に、左目からだけ一粒の涙が落ちた。
右目は、冷たいまま。
泣いているのか、笑っているのか、それとも別の何かなのか――まるで判断できない。
ロジャーの胸が締めつけられる。
痛みの理由はわからない。ただ、体の奥から息が漏れる。
「さてと――」
ルビーは涙を拭わないまま、ひょいと肩に担いでいた血まみれの足を持ち直し、まるでこれからゲームを始めるかのように明るい声を出した。
「お父さんにはね、選択肢がふたつあるよ!」
ぱんっと小さく手を叩き、指を二本立ててひらひらと振る。
「ひとつめ。
ラファさんを置いていって、その情けな〜い姿のまま地上に帰ること」
ラファの動揺が、乾いた息とともに漏れた。
銃口は向けたままだが、腕がわずかに震えている。
「そしてふたつめ」
ルビーはもう一本の指を、ねっとりとした仕草で折り曲げる。
「“獣化”して、わたしと戦って――
そのまんま、わたしのお皿の上に乗ること」
その口調は、まるで新作のおすすめメニューを紹介している店員のようだった。
「さぁ、どっちがいい? ねぇ、お父さん」
ルビーは首をかしげ、微笑む。
左目は涙に濡れ続け、右目は冷たく細められている。
背後の暗闇が、まるで彼女の影をさらに歪ませるようだった。
「わたし的にはねぇ……後者のほうが好みなんだけど」
その一言は、刃よりも鋭くロジャーの胸を刺した。
ラファは息を呑み、ロジャーは胸の奥で広がっていく裂傷のような痛みから、目を逸らすことができなかった。




