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69、嗅覚と視覚

 トラックのエンジンが一定のリズムで唸り、舗装の剥がれた道を震わせていた。

 窓の外には乾いた草原が続き、時折、朽ちた軍用施設の影が遠くに見える。


 ラファは座席に身を預け、隣に座るティアンの話に耳を傾けていた。

 アモンと交わした“約束”の内容――それは、検査と観察に関するものだった。


「チェイサーが破壊した“他のハク”たち」

 ティアンは窓の外を見ながら、淡々と話す。

「私はその中でも、人格データが“安定しなかった”個体。

 でもね、アモンは言ったの。失敗じゃない、って。」


 その横顔に、わずかに複雑な陰が落ちていた。

 ティアンは自分の胸のあたりを軽く叩きながら続ける。

「今、調べてるのは私の“能力”。名前は『盗用とうよう』。

 他人の“視覚”を一時的に盗み見ることができるでしょ。

 距離は概ね300メートルくらい。

 ただし、同時に三人以上は無理みたい。」


 ラファは静かに頷いた。

 その能力の危険性をすぐに理解したからだ。

 ――視覚を盗む。つまり、誰の目からでも世界を覗けるということ。


 ティアンは気づいているのかいないのか、楽しそうに話を続ける。

「でね、ハクの“直感”も少し使えるんだって。

 感度は低いけど、危ないものが飛んでくると、なんとなくわかる。」

 そう言って笑う。

「オリジナルのハクは銃弾すら避けたらしいけど、私は……うーん、ボールくらい?

 ドッジボールなら活かせそうでしょ?」


 ラファは思わず息を漏らした。


「それより見て見て。」

 ティアンは腕を伸ばし、袖の下から小型の装置を操作した。

 わずかな電子音。

 次の瞬間、金属の羽音が車内に響く。


 ラファの目の前に、鷹型のドローンが舞い降りた。

 艶のある黒いボディに、細かな刻印。

 羽ばたくたびに青白い光が軌跡を描く。


「研究棟の技術で作ってもらったの。

 名前は“エイト”。索敵と通信補助ができるの。かわいいでしょ?」


 ティアンは無邪気に笑いながら、腕に止まったドローンの頭を撫でる。

 金属のくちばしが小さく鳴いた。


 ラファはその光景を見つめながら、

 胸の奥に、言葉にできない不安と温もりが同時に芽生えているのを感じていた。

 ――彼女は確かに“生きている”。

 けれど、それはもう、かつてのティアンではないのかもしれない。


 そんな考えが浮かんだ時、トラックが急に減速した。

 前方の無線から、チェイサーの低い声が響く。


『全員、準備。目的地は目前だ。』


 ラファは息を整え、銃を確認した。

 ティアンはドローンを静かに収納し、真顔に戻る。

 軽やかな雑談の余韻が、車内にわずかに残っていた。


目的地の街は、霧が低く垂れ込め、どこか沈んだ匂いが漂っていた。

 舗装の割れた道路、閉じたままの商店、割れた窓ガラス。

 風が吹くたび、看板がきしんで軋む。


 トラックが止まり、ラファたちは降り立った。

 その先に、疲弊しきったロジャーの姿があった。


 長身の男の背中が、いつになく小さく見える。

 その肩は荒く上下し、額には汗が滲んでいた。

 “獣化”――彼の能力を酷使したのだろう。

 その代償として、筋肉の下に潜む神経が軋むように震えていた。


 彼の中の“獣”――オオカミ人間の形態は、驚異的な嗅覚を持ち、獲物の匂いを決して逃さない。

 そして今も、その鼻は確かに、ルビーの痕跡を捉えている。


「……この街からは、まだ出ていない。」

 ロジャーの低い声が、乾いた風に溶けていった。


 ラファはゆっくりと歩み寄り、彼の顔を覗き込む。

 その瞳の奥には、疲労と焦燥と――それでも父としての決意が混ざっていた。


「大丈夫? 疲れてない?」


 問いかける声は、静かで優しい。

 ロジャーは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。


「いや、大丈夫だ。……むしろ、ルビーのために、こんなところまで悪かったな。」


 その言葉に、ラファは首を振って微笑んだ。

「何言ってるんですか。大好きな後輩ですから。」


 ロジャーの顔に、ほんの一瞬だけ安堵の影が差した。

 父と娘を繋ぐ希望の糸――それを手放さないように、ラファは強く銃を握りしめた。


 街の奥、風が運ぶ微かな甘い香りがした。

 クラシックショコラの残り香。

 ルビーが確かにここを通った証だった。


 曇天の下、街は息を潜めていた。

 風のない空気の中で、ティアンはゆっくりと腕を上げる。

 指先で短く命令を送ると、金属の羽ばたきが響いた。


 ――エイト。


 鷹型のドローンが一声鳴き、空へと舞い上がった。

 薄い雲を割り、上空から街を旋回する。

 ラファが見上げた視界の中で、その軌跡がわずかに光を引いていた。


「上空から索敵を始めるね。」

 ティアンの声は静かだったが、確信がこもっていた。


 同時に、彼女はゆっくりと目を閉じた。

 額に一瞬、微かな光が走る。

 ――『盗用』。

 周囲の生命の視界を重ね合わせる能力。

 ネズミ、カラス、野良犬。

 この街に生きる無数の“目”たちが、次々と彼女の中に流れ込む。


 ティアンの呼吸が浅くなる。

 視界が幾重にも重なり、世界がゆっくりと形を変えていった。


「……すごいな。」

 隣で見守っていたロジャーが低く呟いた。

 「視覚を乗っ取る能力か。まるで神の目だ。」

 その声音には、驚きよりも素直な称賛が混じっていた。


 ティアンは小さく笑い返す。

「そんな大層なものじゃないよ。ちょっと覗いてるだけ。」


 ロジャーは頷くと、自らも地面に手をついた。

 爪が石を削り、空気が震える。

 獣化が始まる。

 背筋の筋肉が隆起し、嗅覚が一気に鋭くなる。


 だが――

 鼻腔をくすぐるはずのルビーの匂いが、途切れていた。


「……おかしいな。匂いが、ここで消えてる。」


 ティアンが眉を寄せる。

 複数の視界の中を渡り歩きながら、ふと、ひとつの像を捉えた。

 ――暗いトンネル。濁った水面。

 そこで、小さな人影が歩いていた。


「見つけた。」

 ティアンの瞳が細く光る。

「ルビー……下水道を歩いてる。」


 その言葉に、ロジャーは地面を拳で叩いた。

 鈍い衝撃がアスファルトを伝う。

「そうか……だから匂いが消えたのか。」


 チェイサーが前に出る。

 ヘルメット越しの声が、短く鋭く響いた。


「この下水道は旧第七施設に繋がっている。……全員、急ぐぞ。」


 その号令と同時に、空のエイトが再び旋回し、

 わずかな風が地上の埃を巻き上げた。


 ルビーは確かに、すぐそこにいる。

 ただし、その先に待つものが――誰にも、まだ見えてはいなかった。


チェイサーは携行端末を開き、指先でマップを素早く拡大した。

 無数の配管と路地が絡み合う立体図が、淡い光で浮かび上がる。

 彼のヘルメット越しに反射する光が、隊員たちの緊張を照らしていた。


「別れて捜索していたメンバーのうち……」

 低く抑えた声が無線に響く。

「ルビーに最も近いのは――モンドだな。」


 画面をタップし、現在位置を示す点を指でなぞる。

「モンド、その近くにあるマンホールから地下に潜れるか?

 今、ルビーのいると思われる位置データを送る。」


 間を置かず、通信にざらついた声が返ってきた。

『チェイサーさん、了解ですぜ。おっ、マンホール発見。

 ……ん? うわ、暗ぇな、ここ。マジで入んのかよ。』


 通信の向こうで、金属の蓋が開く音がした。

 モンドがブーツを鳴らしながら下へ降りていく気配が伝わってくる。


『しかしルビーのやつ、こんなとこ進むなんて……相当傷心なんだなー。

 ま、モンドおじさんが見つけたら、心の一つも温めてやるぜー。』


 チェイサーは深い溜息をつき、無言で肩をすくめた。

 ヘルメット越しに、やれやれといった仕草をティアンに向ける。

 彼の周囲には、張り詰めた空気の中にわずかな苦笑が生まれた。


「……ティアン、ルビーはまだ見えているか?」


 問いに、ティアンは一瞬だけ目を閉じてから答えた。

「ううん。もう視界の外。私は“見えるだけ”で、操れないから。」


 その声は落ち着いていたが、どこか悔しさがにじんでいた。

 額の下で光がかすかに明滅し、彼女の中で無数の視界が流れ去っていく。


 チェイサーは短くうなずき、端末の画面を閉じた。

「いい。モンドの進行を追う。……ティアン、引き続き周囲を監視。」


 命令が飛ぶ。

 トラックの中の空気が、再び張り詰めていく。

 その裏で、無線の奥からモンドの軽い鼻歌が微かに流れていた。


モンドはマンホールを降りると、鼻をつく湿った臭気に顔をしかめた。

 足元には黒い水が流れ、かすかな流音が洞窟のように反響している。

 通信のノイズが耳の中でチリチリと鳴り、上の世界が遠のいていくようだった。


『……暗ぇ。ランプ点けるぜ。』

 肩のライトが点灯し、灰色の壁と水面が浮かび上がる。

 古びた下水道は思っていた以上に広く、天井のパイプから水滴がぽたぽたと落ちてくる。


 その一歩目で、ぐしゃり、と嫌な音がした。

「……うお、なんだ?」

 足元を見ると、つぶれたネズミの死骸が靴底に張りついていた。

 茶色い毛並みが水と泥に混じって、形を失っている。


『ったく……ルビーちゃん、こんなとこ歩いてんのかよ。足下悪すぎだろ……』

 ブツブツ言いながら、モンドは先へと進む。

 何歩か歩くたびに、また、ぐしゃり。

 足を引くと、ぞるりと何か柔らかいものがずれる。


「おいおい、勘弁してくれよ……」

 ライトを向けると、そこにもネズミ。

 そしてもう一匹、さらに先にも――。

 やけに多い。まるで、この通路で何かが“掃除”をした後のようだった。


 無線に向かって言う。

『チェイサーさんよ、下水の中、死骸だらけだ。気味悪いぞ。

 この数、ただのネズミの病気とかじゃねえ。何か通った後みてぇだ。』


 通信の向こうで、一瞬の沈黙。

『了解。慎重に進め。ルビーの信号は、君の進行方向だ。』


「慎重に、ねぇ……」

 モンドは苦笑した。

 踏みつけた死骸を避けようとして、結局また別の死骸を踏む。

 ぐしゃり。ぐしゃり。ぐしゃり。

 踏むたび、靴底に何かがまとわりつく感覚がした。


 ――音が奇妙に反響する。

 自分の足音なのか、別の何かの音なのか、もう区別がつかない。


『……おい、誰か、下りてきたか?』

 返事はない。

 ライトの光が、壁をかすめ、奥の闇を照らす。

 そこに、一瞬だけ、何かの影が動いた気がした。


 モンドは息をのむ。

 通路の先、黒い水面に波紋が広がる。

 その波紋の中心で、わずかに何かが光った。


 足下では、ぐしゃり。

 また、ぐしゃり。


 もう慣れたはずの音が、今度はやけに遠くから聞こえてくる気がした。

 まるで、自分の後ろから――。


モンドは壁をつたいながら、ゆっくりと奥へ進んだ。

 足下の水がひたひたと音を立て、空気が肌にまとわりつく。

 ライトの明かりが照らす範囲は狭く、わずかに浮かぶ埃のような水滴が光を反射している。


 ――波紋は、まだ残っていた。

 あの暗がりの奥に、何かがいる。


『……こちら、モンド。

 先行地点で影を確認。……ルビー、か?』

 無線にそう囁くが、応答はノイズ混じりで届かない。


 モンドは息をひとつ吐き、ライトを構え直した。

 手の汗がハンドルをすべり、光がわずかに揺れる。

 そして、見てしまった。


 ――何かが、そこにしゃがみ込んでいた。

 小さな手のような影が、床の上で蠢くものを掴み取る。

 黒い水に沈んでいたネズミを、そのまま、口元へと運んだ。


 くちゃり、と湿った音が響く。

 ライトを向ける勇気はなかった。

 それでも、動きの輪郭でわかる。

 “食べている”。


 モンドは息を呑み、ほんの一歩、後ずさった。

 足下で、またぐしゃりと死骸を踏む。

 その瞬間、影がこちらを向いた気がした。

 空気が変わる。水の匂いが、鉄の味に変わる。


『……チェ、チェイサーさん。』

 通信のボタンを押す指が震える。

『た……いや、これは――』


 ライトが一瞬、ちらつく。

 視界の端で、何かが動いた。

 速い。近い。


 モンドは息を飲み込み、かすかに呟いた。


「――だからか……」


 その直後、耳を劈くような金属音と、

 何かが引き裂かれる音が通信を満たした。


 そして、

 短い悲鳴を最後に、無線は途切れた。


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