65、仮面の欲望
地下の研究所は、外の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。
冷却装置の低い唸りと、モニターの微かな点滅だけが、ここがまだ生きている空間だと主張している。
その一角で、ひとりの男が無言のまま机に向かっていた。
無骨な金属の仮面が、彼の顔を覆っている。
だが次の瞬間、カチリと微かな音を立ててロックが外れ、仮面がゆっくりと外された。
仮面の下から現れたのは、冷徹でありながらどこか人間味を残す男の顔――シオン。
彼は深く息をつき、仮面をデスクの上にそっと置いた。
そのまま首を軽く回し、凝りを解すように音を鳴らす。
「ここにいたのですか?」
背後からかけられた声は、静かで柔らかかった。
研究服を身にまとった女性――レンが、シオンのもとに歩み寄ってくる。
「……ああ、少し確認したいこともいくつかあってね。」
シオンは振り向かずに答えた。
「レンも、暴動の隙にライトボーンを抜け出してきたってことは……グラル叔父さんからの頼み事は終わったのかい?」
レンは一歩近づき、肩にかかる髪を耳にかけた。
「私はもともと、あなたのアシストをするためにライトボーン病院に潜り込んでいただけですから。」
その言葉に、シオンはようやく振り返り、薄く笑った。
「……ああ。いろいろと助かったよ。」
「シオンさんこそ、欲しいものは手に入ったのですか?」
その問いに、シオンは無言でコートの内ポケットに手を差し込み、金属音を立てて何かを取り出した。
彼がデスクの上に放り投げたのは、仮面と酷似した形状のデバイス。
「――あぁ、これだ。」
その一言にレンの眉がわずかに動く。
「そのデバイス……まさか、オリジナルのシオンの人格データが入っているんですか?」
シオンは小さく吹き出した。
その笑みは、冷ややかで、どこか愉快そうでもあった。
「ははは……僕を前に、その言い方は面白いね。」
レンは息をのむ。
目の前の男が、笑っているのか、それとも挑発しているのか――判断がつかなかった。
シオンは机の上のデバイスを指先で転がしながら、どこか遠くを見つめるように言った。
「人格なんてものは、意識の断片にすぎない。
オリジナルが死んでも、それを模倣した“誰か”が動けば、人は“本人”だと信じる。
――まったく、都合のいい話だよな。」
その瞳には、人間らしい温度がまるでなかった。
そして、デスクの上の仮面が静かに彼を見返していた。
まるで“もう一人の自分”が、そこにいるかのように。
研究所の蛍光灯が、冷たい白光を放ちながらふたりの間を照らしていた。
沈黙の中、シオンは資料に視線を落とし、そして再びレンのほうへとゆっくり顔を向ける。
「自己とは、過去の経験を現在の自分が覚えているという――意識の連続にある。」
彼はぼんやりと宙を見つめながら、独り言のように呟いた。
「誰の言葉かは忘れたけどね。……実際、これが僕の開発したデバイスの根本になっている。」
レンはその言葉に、少しだけ唇を歪めて笑った。
挑発するような、試すような笑み。
「あなたじゃなくて――“オリジナル”でしょ?」
シオンは一瞬だけ目を細め、そして吹き出した。
「ははは……そうだった、そうだった。」
軽い調子で言いながらも、どこか痛みを含んだ声だった。
彼は仮面型デバイスを手のひらで転がしながら、冷めた目で言葉を続ける。
「まぁ、アモンはこれを使って――僕を“アモンの考えるスワンプマン”にしようとしたってところかな。」
その言葉には、乾いた皮肉と、拭いきれない諦めが滲んでいた。
「実際には、同一にはなりようもない。」
シオンは立ち上がり、デスクの上に片手を置く。
「体は双子であるアモンのクローン。
記憶は……事故の前にコピーされた、ただの模造品だ。」
彼は自嘲気味に笑い、わざと軽い調子で続けた。
「――まぁ、“出来損ないのスワンプマン”ってところさ。」
それは冗談のように聞こえたが、その目の奥には深い陰があった。
笑っていなければ、崩れてしまいそうなほどの虚無。
レンは少しだけ視線を落とし、ため息をつく。
「……あなたは、天才には違いないでしょ。」
その声は優しくも、どこか痛々しかった。
だがシオンは首を振り、冷たい笑みを浮かべるだけだった。
「天才、ね。オリジナルもそう呼ばれてたよ。
でも――“複製品”にその称号を与えるのは、ずいぶんと安っぽい慰めだと思わないか?」
蛍光灯が一瞬、チカリと瞬いた。
その光の中で、机の上の仮面が無言で彼を映していた。
本物と偽物の境界をあざ笑うかのように。
シオンはレンの言葉を聞きながら、ゆっくりと視線を落とした。
デスクの上に置かれた仮面が、淡い蛍光灯の光を鈍く反射している。
その光を見つめながら、彼の心の奥で静かな声が響いた。
二度目の――偽物の人生でも、失ったままではいられない。
誰にも言っていない。グラル叔父さんにも、レンにも。
僕には、僕だけの目的がある。
アモンの期待に応えるためでも、
“天才で自慢の兄”として存在するためでもない。
ましてや、アモンが作ろうとした“スワンプマン”になってやる気もない。
僕は――僕の手で、“ティナ”を取り戻す。
幼いころ、確かに存在したあの想いをもう一度この手に。
たとえこの僕が、“悪”だと言われようと。
その思考と同時に、シオンの指先が微かに震えた。
冷たい金属の仮面を再び手に取ると、彼の表情には迷いがなかった。
その瞳の奥には、決意の光だけが、静かに灯っていた。
シオンはデスクの上に散らばる書類の中から、一枚のメモを指先でつまみ上げた。
それをレンのほうへ放るように差し出す。
「――頼まれごとしてくれないか。」
レンは眉をひとつ上げ、受け取ったメモを目で追う。
「わかりました。私はあなたをアシストするように言われてますので。」
淡々とした返事のあと、リストに並ぶ項目を確認した彼女は小さく息を呑んだ。
「……これは、モルモットにしてはずいぶん大きいですね。」
シオンの動きが一瞬止まり、視線だけがレンを射抜く。
「余分な詮索はするな。」
その声音は、冷たいがどこかに疲れを孕んでいた。
レンは軽く肩をすくめ、「了解」とだけ答える。
シオンは立ち上がり、机の端に置かれた仮面を手に取った。
その表面を指でなぞり、しばし無言のまま見つめる。
やがて静かに仮面を顔に当て、固定具を締める音が部屋に響いた。
「少し出る。」
短くそう言い残すと、
黒いコートの裾を翻し、
研究室の自動ドアが無機質な音を立てて閉じた。
残されたレンは、シオンの背中が消えた扉を見つめながら、
リストの紙をもう一度見下ろした。
「……まだ私に気づいてくれないの。」
小さくつぶやくその声は、誰にも聞かれることなく、静かな研究室の空気に溶けていった。
夜の帳が落ちた街の外れ、人気のない石畳の上に、仮面の男――シオンの足音だけが乾いたリズムを刻んでいた。
ふと、闇の奥から柔らかな声が響く。
「お待ちしておりました、シオンさま。」
声の主はネビア。
月明かりに照らされるその姿は、まるで絵画から抜け出したように上品で、
腰まで流れる金髪と、深紅のリボンが夜風に揺れている。
しかしその瞳の奥には、研ぎ澄まされた闘志が潜んでいた。
彼女は幻影を自在に操る格闘家。
かつてチェイサーを相手に、時間を稼ぐほどの実力者でもある。
「シオンさま、グラル叔父様がお呼びです。」
「……ああ、わかっている。襲撃の件だろう。」
シオンの低い声が夜気に溶ける。
ネビアは軽く頷き、彼の横に並ぶ。
ふたりの足取りは迷いなく、丘の上に建つひときわ大きな洋館へと向かっていった。
グラルの館――
外壁は黒曜石のように輝き、周囲を囲む森の闇を拒むように立っている。
巨大な鉄門の両脇には、傭兵たちが並び、
鋭い視線をふたりに向けていた。
重厚な門が軋む音を立ててゆっくりと開く。
その向こうには、淡い灯に照らされた長い回廊と、
静かに待ち構えるグラルの影が――。
重厚な扉が閉じられると、グラルの館の一室は静寂に包まれた。
わずかに響くのは、暖炉の薪がはぜる音と、琥珀色の液体がグラスの中で揺れる音だけ。
バーカウンターに凭れたグラルは、ブランデーのグラスを指先で転がしながら、
その艶やかな光の中に過去の影を見ているようだった。
やがて背後の扉が軋み、仮面を外したシオンが静かに現れた。
「グラル叔父さん、何か御用ですか?」
「……シオン。」
グラルは目を細め、わずかに笑みを浮かべる。
「うちの手勢を動かしたんだ。それなりの成果が報告できないということはあるまい?
なぜ早く報告しないんだ。」
「申し訳ございません。
回収した資料に、問題がないか確認しておりました。」
その口調は冷静だったが、言葉の奥に緊張が見え隠れしていた。
「ふん。」
グラルは短く鼻を鳴らし、グラスを一気に飲み干すと、
シオンが差し出した分厚い資料を受け取り、ゆっくりとページをめくる。
「……姉さん――いや、お前の母とは違い、
私は学がない。だが、商才はあったつもりだ。
実際のところ、アモンの研究データとお前自身の研究データ、
この二つがあれば――お前が話していた“あの計画”に、一歩近づくのか?」
シオンは沈黙のまま、グラルの瞳をまっすぐ見つめた。
そして静かに一言。
「……グラル叔父さん。お人払いを。」
その声に、部屋の空気が一変する。
グラルはしばらく黙っていたが、
やがてグラスをカウンターに置き、ため息をついた。
「悪かった。――ネビア、下がっていろ。」
部屋の隅に控えていたネビアが、恭しく一礼し、
音も立てずに部屋を後にした。
扉が閉じる音が響く。
その瞬間、グラルの瞳が獣のように鋭くなり、
シオンの持つ資料と――その奥に潜む「真実」へと視線を向けた。




