54、暴動
白いタイルの床が、今は赤茶に染まっていた。
鳴り止まない警報音と、悲鳴と、割れるガラスの音。
病院のエントランスは、もはや避難所ではなく――戦場だった。
赤い非常灯が点滅し続け、警報のサイレンが病院全体を包み込んでいた。
ラファは額の汗をぬぐいながら、次々と襲いかかってくる覆面の男たちを迎え撃つ。
白衣の医師や患者を背に庇い、負傷者を安全な部屋へ誘導する。
「右の廊下は塞がってます! こっちの階段を使って!」
ラファは叫びながら、倒れた覆面を蹴り飛ばす。
相手はよろけても、痛みを感じていないのか、無表情のまま立ち上がってきた。
「やっぱりおかしい……」
ラファは息を切らしながら呟く。
「目が、まるで死んでるみたい……。洗脳か、薬物か……」
「ラファ!」
背後からシーの声が響いた。
彼女は負傷した看護師を支えながら、焦ったように辺りを見回している。
「アモン君……アモン君はどこにいるの? あの人、無事よね?」
その名前を聞いた瞬間、ミーシャが振り返り、軽く肩をすくめる。
「シー、落ち着きなって。アモンには“チェイサー”がついてる。
病院で一番ヤバい奴だよ、あの人。そう簡単にやられないって」
ラファは覆面の男の攻撃を紙一重で避け、膝で反撃を入れる。
敵のマスクがずれ、虚ろな目が見えた――何も映していない、ガラス玉のような瞳。
ラファの喉がひりつく。
「……人間、なんだよね……これでも」
倒れた男の腕を押さえつけ、テープで拘束する。
動きを封じるだけで精一杯。
殺すわけにはいかない――その線を、彼女は決して越えない。
「ラファ!」
ミーシャが呼びかけた。
「ここはもう大丈夫。私とシーで残りの避難はやる。
あんた……アンジェさんのこと、気になってるでしょ?」
ラファは息を詰める。
ミーシャの言葉が図星だった。
頭のどこかでずっと――母の名を呼ぶ声が響いている。
五階。あの病室に、母アンジェがいる。
「でも……!」
ラファは言葉を詰まらせる。
「まだ患者が――」
「大丈夫だって。シーもいるし、私も残る。
それに、あんたの顔見たらアンジェさんも安心するよ」
ミーシャは軽く笑いながら、ラファの肩を叩いた。
シーも頷く。
「アモン君のことは私が確認するわ。
だから、ラファは……行って」
ほんの一瞬、ラファの表情が揺れた。
焦り、恐怖、罪悪感――それでも。
「……わかった」
ラファは短く答え、再び前を向いた。
手にはまだ敵の血がついている。
それでも、走らなければならない。
「絶対、無事でいて……母さん」
ラファは駆け出した。
破壊された廊下の向こう、煙の中へと――
光を求めるように、ただ真っすぐに。
廊下の照明はところどころ破壊され、チカチカと断続的に点滅していた。
焦げた匂いと薬品の匂いが混ざり合い、空気は熱を帯びて重い。
ラファは拳を握り締め、崩れた天井の下をくぐり抜けながら階段を目指す。
「……ひどい……」
白い病院の壁はすすけ、床には破れたカルテや点滴の管が散乱している。
ベッドを押して逃げた跡、転倒した車椅子。
ほんの数十分前までここは、静かな療養の場だったはずなのに――
ラファの胸に痛みが走った。
(こんな場所で……母さん……)
その時、階段の踊り場で物音がした。
足音。重い靴音が、上の階からゆっくりと降りてくる。
ラファは咄嗟に壁際へ身を隠す。
階段を降りてきたのは、例の覆面の男たち――二人。
無表情で、まるで糸で吊られた操り人形のような動き。
ラファを見つけると、何のためらいもなく突進してきた。
「どけっ!」
ラファは反射的に一人の腕を掴み、壁に叩きつける。
もう一人の拳が飛んでくる。
腕で受け止めた瞬間、鈍い衝撃が骨を伝った。
「……っ、力、強すぎる……!」
洗脳だけではない、身体能力そのものが強化されている。
ラファは体勢を崩しながらも、膝蹴りで相手の腹を撃つ。
一瞬たじろいだ隙に、床に転がっていた消火器を掴み、
そのまま顔面に叩きつけた。
金属音とともに男が倒れる。
もう一人が無言で近づいてきたが――
「下がって!」
背後の非常口からシーの声が響いた。
ラファが振り返ると、通路の奥でシーが覆面の男たちの動きを止めるように指を構えていた。
小さな爆発音。閃光弾だ。
視界が白く染まり、ラファはその隙に階段へと駆け込む。
「ありがとう、シー!」
「行って! 上でまた通信する!」
ラファは息を切らしながら、五階への階段を駆け上がる。
足音が鉄製の階段に響き渡り、遠くでサイレンが鳴り続けていた。
五階に辿り着くと、廊下の一角が崩れ、煙が充満している。
病室の扉が歪み、看板に焦げ跡がついていた。
「……母さん……!」
ラファは駆け寄り、部屋のドアノブを力任せに引いた。
ギィ、と鈍い音を立てて扉が開く。
中は静かだった。
煙の向こうに、倒れたベッド、割れたガラス。
そして――
誰も、いない。
ラファの目が大きく見開かれた。
心臓が凍る。
点滴の跡、残されたブランケット。
そこには確かに、ついさっきまで人がいた形跡だけが残っていた。
「……うそ……やだ……母さん……どこなの……?」
震える声が、静まり返った病室に溶けていった。
次の瞬間、遠くで何かが爆ぜた。
下の階――暴動の気配が再び動き出している。
ラファは拳を握りしめた。
涙を拭う暇もなく、ただ母の名を胸に刻みながら、
再び戦場へと身を投じていくのだった。
病室の前の廊下に出た瞬間、
ラファは異様な気配を感じて立ち止まった。
照明が不安定に明滅し、影が壁に揺れる。
その奥から、ゆっくりと――ひとりの男が姿を現した。
「……まだこんなところにいたんだ?」
声がした。
低く、年季の入った男の声。
だが、その口調には――妙に弾むような軽さがあった。
廊下の真ん中、まるで待っていたかのように立っている大柄な男。
分厚い胸板、太い腕、あごにはバイキングのようなひげ。
だがその目は、不自然なほど明るく笑っていた。
弾むような高い声。
その声色は――男の見た目とはまるで噛み合っていない。
ラファは反射的に身構えた。
「……誰?」
男は首を傾げ、人差し指でこめかみをトントンと叩いた。
「えーっとねぇ……思い出す、思い出す……」
少しの間をおいて、ぱっと目を見開く。
「あー、たしか君は――ラファちゃん、だっけ? うわぁ、記憶が混同して気持ちわるう」
「……あなた、どうして私の名前を……?」
警戒するラファに、男はへらりと笑って肩をすくめる。
「誰でもいいでしょー? ちょっとだけ、遊ぼっかぁ?」
次の瞬間、床が爆ぜた。
巨体に似合わぬ速さで踏み込んだ男の拳が、空気を裂く。
ラファはギリギリで身をひねり、壁に手をついて跳ね返る。
男が歩み寄ってくる。
「ねぇ、ラファちゃん。あの人、知ってる?
“アモン先生”って、結構ひどい人だよ?
あの人の研究データがどんな犠牲で作られてるか――」
男は唇を尖らせて、指をパチンと鳴らす。
「この体、最悪! 筋肉のせいで動き重いし、能力の感度も最っ低! やっぱりハズレ個体だよぉ」
その調子に反して、男の動きは速かった。
ラファが警棒を構えた瞬間、拳がすぐ目の前に迫っていた。
火花が散る。衝撃波が空気を震わせる。
「はぁっ……!」
ラファは回し蹴りで距離を取る。
だが男は涼しい顔で首を回した。
「ふふっ。まぁでもねー、この体にも“能力”があるみたいなんだよねぇ。
せっかくだし、試してみよっか?」
その言葉と同時に、男の腕が――不自然に、音を立てて伸びた。
まるで筋肉が金属に変わるような音。
「っ――!」
ラファが反応するより早く、
伸びた腕が彼女の胸ぐらをがっしりと掴んだ。
「なっ……!?」
体が宙に浮く。喉を締めつける手の圧が増す。
近づいてくる顔。ごついひげ面なのに、目だけが無邪気に笑っている。
「ねぇ、ラファちゃん。
この体の記憶、ちょっと気持ち悪いね。
“あんたのことを可愛い子”とか、そんな思い出が……ぐちゃぐちゃに残ってる」
「はぁ!?」
ラファはバトンを構えて突進する。
が、その腕を軽く弾かれ、足を払われ、体勢を崩した瞬間――。
「ただね、この体にも面白い機能があってさぁ」
おっさんの腕が、音を立てて伸びた。
筋肉が金属のように変形し、まるでワイヤーのようにラファの胸ぐらを掴む。
「っ……!?」
ラファの体が宙に浮く。
足が床を離れる。
次の瞬間――拳が雨のように襲いかかる。
ドッ、バキ、ガン――!
頬、腹、肩、頬。
六発の拳がラファの体を叩き、床に叩きつけられた。
「うぐっ……っ!」
口から血がにじむ。
男――いや“ハク”はその上に覆いかぶさるように膝をつき、にやりと笑った。
「へぇー……男の子が女の子を組み伏せるって、こんな気持ちなんだぁ……」
ねっとりとした声。ラファの背筋に冷たいものが走る。
「や、やめっ――」
ハクはそれを楽しむように指を鳴らし、ラファの顔を覗き込む。
「ねぇねぇ、面白いこと教えてあげようか? アモンってさ――」
その言葉が終わるより早く。
――“シュン”という空気の切れる音。
視界が一瞬、白く弾けた。
ラファの目の前で、ハクの首が音もなく宙を舞った。
切断面から血が噴き上がる。
胴体が、ゆっくりと膝を折り、床に崩れ落ちる。
ラファは呆然と目を見開く。
そこに、無言で立っていたのはチェイサー。
彼のハンドアクスから、まだ赤い飛沫が滴っている。
その背後から、冷静な声が響いた。
アモンだった。
「ラファ、下がって。ここはもう大丈夫だ」
廊下の灯が再び明滅し、アモンの義手が微かに蒸気を上げる。
冷たい金属の音が響き渡る中、ラファは震える声で呟いた。
「……ありがとう、アモン先生……」
アモンは短く頷き、倒れた男の亡骸を見下ろした。
その表情には、怒りでも悲しみでもない――ただ、冷徹な医師の目があった。
血の匂いが立ちこめる中、アモンは淡々と歩み寄った。
彼の靴音が、ひとつ、ふたつ――床に響くたびに、金属のような冷たさが残る。
ラファは壁にもたれ、荒い息を吐いていた。
「……アモン、先生……」
アモンは答えず、倒れた“男”の遺体――いや、“量産型ハク”の首を拾い上げる。
その断面に指先を滑らせ、目を細めた。
「……やっぱりだ。人工神経の配置が不自然だ」
呟く声は、医師のそれではなく、研究者のそれだった。
チェイサーが無表情のまま言う。
「処理するか?」
アモンは首を横に振った。
「いや……まだ使える。
この個体、記憶保持率が高い。解析すれば“洗脳技術”の根幹が掴めるかもしれない」
チェイサーは短く「了解」と答えると、血に濡れたハンドアクスを拭った。
アモンはハクの首を床に戻し、ラファに視線を移す。
その目は、さっきまでとは違って穏やかで、しかし底の見えないものだった。
「ラファ、動けるか?」
ラファの目が潤む。
言葉にならずに唇が震えた。
チェイサーは一瞥だけ死体を見て、短く告げる。
「ここは片づけておく。アンジェさんは確保済みだ」
「……え?」
ラファが顔を上げる。
アモンが小さく微笑んで頷いた。
「君のお母さんなら、無事だ。五階の隔離室から避難させておいた。今、医療区画で休ませている」
その一言で、ラファの表情が一気に和らぐ。
膝から力が抜け、床に座り込むように涙がこぼれた。
「よかった……本当によかった……」
アモンはそっとラファの肩に手を置く。
「母君に会わせてあげよう。ただし――まずは手当てだ。出血がひどい」
「でも、わたし……」
「安心しなさい」
その声音には、不思議な説得力があった。
「君の母も、君も。僕が責任をもって守る。ここは、僕の“家”だからね」
アモンがそう言うと、チェイサーがラファの腕を支え、静かに立たせた。
ラファの体からはまだ血が流れているが、その目にはもう恐怖はなかった。
廊下を歩きながら、アモンはふと振り返る。
切り落とされた“量産型ハク”の首が転がっている。
一瞬、その視線に冷たいものが宿った。
「……解析用に、残しておけ」
低く囁いたその声は、ラファには届かない。
ただ、チェイサーが無言で頷いた。
アモンは何事もなかったように笑顔に戻り、ラファに向かって優しく言う。
「着いてきてくれ。――暴動を鎮圧しよう」
ラファは息をのむ。
その声は医師のものでも、命令でもなく、“仲間への信頼”そのもののように響いた。
「……はい!」
涙を拭い、ラファは立ち上がる。
傷だらけの体を奮い立たせながら、アモンとチェイサーの後を追った。
廊下の先、炎と煙の中へ――
三人の足音が、再び戦場へと向かっていった。