52、仮面
混乱の余韻がまだ廊下に残っていた。砕け散った壁の隙間からは、外で繰り広げられる激しい戦いの断片が見える。石剣のレックと、無言で迫る警備部の男――そのぶつかり合いの衝撃が、鈍い振動として床に伝わってきていた。
「うわぁ、レック頑張れー! もっと派手にやっちゃえ!」
ハクはまるで見物人のように両手を叩きながら、戦況を楽しむように声を張り上げる。頬に浮かぶ笑みは、ただの陽気さではなく、相手の苦境すら娯楽に変える歪んだ輝きだった。
一方、その傍らに立つ仮面の男は一瞥すらしない。視線は正面の扉――アモンの書斎に据えられていた。無骨な鉄製の扉に埋め込まれた最新鋭のセキュリティ端末。表示ランプは赤く光り、静かに警告音を響かせている。
「……生体認証、網膜スキャンか。」
仮面越しに低く呟くと、彼は装置に歩み寄った。その背後で、まだハクの声が弾んでいる。
「ねぇねぇ、どうやって開けるの? まさか今からアモン探す?」
返答はなかった。ただ、仮面の奥の瞳が、端末の光学センサーにまっすぐ向けられる。赤い光が彼の眼球を走査する。
――ピピッ。
低く重い音が響いた。
電子ロックが解除されると同時に、扉の縁に淡い青のラインが走り、
「――アクセス認証完了」の無機質な音声が部屋の外にこだました。
仮面の男はためらうことなく一歩踏み出す。
金属の扉がゆっくりと開くにつれ、ひんやりとした空気が外へと流れ出す。
そこには、静寂すら計算されたような空間――アモンの書斎があった。
「へぇ、開いちゃった。……ウケる」
ハクの声は、驚きよりもむしろ退屈そうだった。
その瞳に映る仮面の男の横顔には、予想通りの冷静さしかない。
部屋の中央には大きなデスク。
その上には、一冊の閉じられたファイルと端末がひとつ。
他に置かれた家具といえば、背の高い書架が壁際に並ぶだけだった。
調度品も最小限で、余計な装飾は一切ない。
だが、それでも部屋は広すぎた。
まるでこの空間自体が「一人でいるため」に設計されたような孤独を湛えている。
アモンの姿はない。
モニターの片隅に映る病院の監視映像が、暴動への対応で動き回る職員たちを映し出していた。
どうやら、主はそちらに出ているようだった。
「……ふぅん。こりゃ“天才の部屋”ってより“完璧主義者の巣”だね」
ハクは両手を腰に当てて、くるりとその場で一回転してみせた。
退屈そうにため息をつきながら、机に肘をついて覗き込む。
「つまんなーい。あのアモンって人、もっと変な趣味してると思ったのになぁ。怪しい薬とかないの?」
仮面の男は答えなかった。
無言で机の引き出しを開け、視線を走らせる。
何枚かの古びた資料、そして数枚の電子データディスク。
だが――どれも“当たり障りのない”研究記録ばかり。
「ふん……“表向きの棚”か」
低く漏れた声に、ハクは片眉を上げた。
「じゃ、裏があるってこと? いいね、そういうの。……でもさぁ」
廊下の方をちらりと振り返りながら、彼女は唇を歪めて笑う。
「外、レックがまだ暴れてるっぽいんだよねぇ。ちょっと観戦してこようかな? 応援ぐらいしてあげないとかわいそうでしょ?」
「好きにしろ。」
仮面の男は短く返す。
「はーい、じゃ、あんたにお宝発掘は任せた!」
そう言い残してハクは軽い足取りで部屋を出ていった。
廊下の向こうから、どこか楽しげな鼻歌が遠ざかっていく。
部屋に残ったのは、静寂と冷たい光だけ。
仮面の男はデスクの前に腰を下ろし、黒い手袋越しに端末の電源を入れる。
「……さて、アモン。何を隠した?」
モニターの淡い光が、仮面の奥に潜む瞳を青く照らした。
――彼にとって、今この空間を一人で探れることほど都合の良い状況はなかった。
机の下、何かが微かに光を返した。
仮面の男はしゃがみ込み、無駄のない動作で机の裏面を探る。
そこには指先ほどの隙間があり、その奥に薄い金属製のケースが押し込まれていた。
引き出してみると、それは掌に収まるほどの小さなデバイスだった。
形状は――顔全体を覆うような仮面の形。
表面は鈍く黒光りしており、縁には微細なケーブルの接合跡がいくつも走っている。
仮面の男は、それを静かに見つめた。
「……」
小さく呟く声には、確信とわずかな動揺が入り混じっていた。
――それは、シオンのラボで回収したものと酷似していた。
同じ構造、同じ素材、同じ歪んだ意図。
だが、こちらのほうがより完成に近い。
仮面の男はゆっくりとそれをコートの内ポケットへと収めた。
その動作には、まるでそれが自分の欠けた一部を取り戻すかのような慎重さがあった。
彼の視線が本棚へと移る。
整然と並ぶ背表紙の中に、一冊だけ異様に新しいものがあった。
『ライトボーン病院 記録アルバム』
他の書籍よりも浮いて見えるその一冊を、彼は迷いなく引き抜いた。
表紙を開くと、中ほどのページに厚紙が貼られており――そこに薄いカードキーが隠され、
カードキーをデスク脇の端末に差し込むと、部屋の照明が一瞬明滅した。
次の瞬間、本棚の一角が低い機械音とともにゆっくりと上にスライドしていく。
床下から吹き上がる冷気。
闇の中から現れたのは、縦に伸びる昇降式のエレベーターだった。
仮面の男はためらうことなく、その中へと足を踏み入れた。
扉が閉まり、下降が始まる。
重たい機械の唸りだけが、彼の呼吸と混ざり合う。
――到着した先は、アモンの“隠しラボ”。
足を踏み入れた瞬間、鼻腔を刺すような匂いが漂った。
機械油と薬品の混じり合った、独特の臭気。
冷たい蛍光灯の下、壁一面に無数の試験管と機器が整然と並ぶ。
そこにあるのは、義手ギアモードの設計資料、
分解された義肢の試作パーツ、
そして――アモン個人の研究テーマ、“再生医療”のファイル群だった。
仮面の男はその中のひとつを手に取る。
カルテの表紙には、走り書きのような文字で「試験体-07」とだけ記されていた。
ページをめくる指が、震えている。
目に見えるはずのない涙が、仮面の内側を静かに濡らしていく。
「……あぁ、やはり……お前は、愚かで、そして……優しかったな、アモン。」
掠れた笑い声が、空虚な実験室に反響する。
それは感謝のようであり、懺悔のようでもあった。
「俺を……」
仮面の男はファイルを閉じ、震える手で再び胸元に押し当てた。
機械音だけが鳴り続けるラボの奥で、彼の嗚咽にも似た呼吸が静かに混ざっていった。
エレベーターが再び上昇を始めた。
無機質な駆動音とともに、仮面の男の視界にゆっくりと明るさが戻っていく。
地上階――アモンの書斎。
扉が開くと、そこにはハクの姿があった。
壁にもたれ、腕を組みながら退屈そうに口笛を吹いている。
「おそーい。まさかひとりで楽しい事してたんじゃないでしょうね?」
軽口を叩くハクに、仮面の男は何も答えない。
コートの内側には、回収した仮面型デバイスとカルテ。
それらの存在が、彼の足取りを重くしていた。
「……終わった。引き上げるぞ。」
「えー、もう? レックの試合、いいとこなのに~。」
ハクは窓の外を指差す。
外ではまだ、レックとガトーの戦闘が続いていた。
爆音と閃光が交錯し、病院の敷地全体が赤と白の光で照らし出されている。
まるで戦場そのものだ。
「……あいつは、生きて帰ってくる。」
仮面の男の声には確信があった。
ハクは小さく肩をすくめると、軽く笑ってみせた。
「ま、信じてるならいいけどねー。あ、そうだ、ポップコーンまだ残ってるけど食べる?」
「いらん。」
淡々とした返しに、ハクは小さく舌を出す。
廊下に出ると、警備部の兵士たちがあわただしく動き回っていた。
暴動鎮圧の指示が飛び交い、担架が何台も運ばれていく。
その中には――獣化が解け、静かに眠るロジャーと、意識を失ったスカーレットの姿もあった。
一瞬だけ、仮面の男の足が止まる。
だが、何も言わず通り過ぎた。
ハクも何も聞かない。彼女はただ、男の横顔を一瞥しただけだった。
非常階段を降り、病院裏の搬入口から外に出る。
夜の空気が冷たく頬を撫でた。
遠くでサイレンが鳴り続け、街の灯りがちらついている。
「ねえ、仮面さん。今日の収穫、どうだった?」
ハクの問いに、仮面の男は短く答える。
「――アモンの“答え”は、手に入った。」
「ふうん。じゃ、次は“問い”を見つけなきゃね。」
ハクはひらひらと手を振りながら、歩き出す。
仮面の男はその背を見つめ、ほんの少しだけ顔を上げた。
夜風が吹き抜ける。
仮面の奥で、わずかに口角が歪んだ。
笑みか、それとも哀しみか――それは誰にもわからなかった。