50、ロジャーの娘
ロジャーは崩れた壁の縁に立ち尽くしていた。
眼下、病院の駐車スペースは瓦礫とガラスの破片で散乱し、その中央に二人の巨影が対峙している。
「……」
額から血を流しながら立ち上がるレックの姿がそこにあった。いつもの軽薄さも飄々とした余裕もない。
その表情は、むしろ――剥き出しの殺意と憎悪が渦巻く、それは人間というより、獣が牙を剥いた時の顔に近い。
対するガトーは、爆裂の鎖を背に重たく垂らしながら一歩ずつ進む。
言葉もなく、ただその拳を振るうためだけに前へ。
二人の歩みは鏡合わせのようだった。
倒れては立ち上がり、血を流しながらも一歩も退かない。
まるで、互いに過去の業を刻み込んだ鎖に引かれるように。
ロジャーは唇を噛み、崩れた壁に拳を叩きつける。
――これはただの戦闘じゃない。
俺には見える。あれは、積年の恨みと呪いがぶつかり合う“私闘”だ。
血の匂いと夜風が病院に吹き込み、眼下の二人を照らす月明かりが妙に白く見えた。
ロジャーの耳に届くのは、崩れた病院の外壁を軋ませる風音と――レックとガトーの足音だけだった。
レックが石剣を逆手に構え、額から垂れた血を乱暴に袖で拭う。
その瞳に宿っているのは、軽口や虚勢では覆い隠せない――剥き出しの闇そのものだった。
「……チッ」
レックが血で濡れた歯を剥き出しに笑う。
「お前……昔より強くなりましたーってか」
その言葉に応えるように、ガトーの拳が振り下ろされる。
壁を砕き、床を抉るほどの一撃。
だがレックは半歩退き、石剣を滑らせて衝撃を逸らす。
それでも衝撃波だけで壁の装飾が落ち、粉塵が宙に舞った。
――止まらない。
ロジャーの目には、それがよく見えた。
ガトーは言葉を持たず、ただ無言で拳を振るう。
レックは挑発を口にしながらも、額から流れる血と共に顔に走る歪みを隠せない。
二人の姿は、殺し合いというより“呪縛の鎖”に絡め取られた亡霊のようだった。
レックの剣が横に薙がれる。
ガトーの胸を切り裂くはずが――火花を散らすだけ。
硬化した肉体は刃を拒み、歩みを止めぬまま拳を突き出す。
その拳が石剣にぶつかり、金属の悲鳴のような音が病院前に響いた。
空気が震え、ロジャーの頬にまで衝撃が伝わる。
「……クソッ」
ロジャーは歯を食いしばった。
どちらかが倒れるまで、この地獄のような時間は終わらない――そう悟った。
レックが石剣を押し返し、距離をとろうとしたその時――
「……っ!」
ロジャーの目が大きく見開かれた。
ガトーの背中で鈍い金属音が鳴る。
黒い鎖に連なるのは、まるで手榴弾のような小型爆薬。
それが鞭のようにしなり、空気を裂いた。
――振り下ろされる。
「やばい……!」
ロジャーが声をあげるよりも早く、レックの表情が初めて強張った。
余裕も挑発も捨て、石剣を盾のように構える。
次の瞬間、轟音。
閃光と爆風が廊下を呑み込み、壁や床がめくれ上がる。
レックの体が衝撃に弾かれ、窓際の壁ごと吹き飛ばされた。
粉々に砕けたガラス片が外の夜空に散り、赤黒い火花が舞う。
「ガトーーーーー!」
思わずロジャーの口から名がこぼれる。
だがガトーは構わず――
血の気のない顔のまま、無言で崩れた壁に足をかけ、外へと歩を進めた。
その瞳にはただ、仇を討つための業火だけが燃えている。
ロジャーの目に映るその姿は、もはや人ではなく“復讐に取り憑かれた怪物”そのものだった。
ロジャーは、吹き飛ばされたレックの行方を追おうと、崩れた壁の向こうへ視線を投げた。
夜風が吹き込み、破片がきらめきながら落ちていく。
――その時だ。
背筋を冷やすような気配が背後から突き刺さった。
「……っ!」
訓練で鍛えられた本能が先に反応し、振り向く。
そこにいたのは――。
大鎌を振り上げ、今まさに振り下ろそうとする少女。
闇に映える紅の瞳と、あまりにも見覚えのある顔。
ロジャーの心臓が、嫌な音を立てた。
その姿は、かつて自分のもとから出て行った娘――。
「……」
名前を呼びかけることは、できなかった。
声が喉の奥で絡まり、代わりに鋭い視線だけを向ける。
その瞳に込めたのは問い。
「お前は……どっちだ。」
吐き出すように呟いた瞬間、静寂が訪れる。
廊下に響くのは、遠くで鳴り続ける警報音と、砕け落ちた瓦礫の音だけ。
長い、長い沈黙が、二人を隔てた。
ロジャーの問いに、少女は答えなかった。
ただ無言で、大鎌を構えたまま立ち尽くしている。
その顔には怒りも悲しみもなく、淡々とした仮面のような無表情だけが貼りついていた。
「……スカーレット、か。」
ロジャーは奥歯を噛みしめる。
刹那、胸の奥で小さな声がささやいた。
――違う。そこにいるのはルビーだ、と。
かつて笑って父に抱きついてきた娘。
だが、その面影は冷たい瞳の奥に押し込められ、二度と外に出てこないかのように沈黙している。
「……」
ロジャーの手が震えた。
目の前の存在が刃を振るえば、自分は応じなければならない。
だが、たとえ相手が「スカーレット」でも――その器の中には確かにルビーがいる。
敵意は感じない。
だが、情もない。
まるで父を前にしても、何の価値も認めていないかのように。
ロジャーの背後に立つ少女は、大鎌を構えたまましばらく動かなかった。
だがやがて、その刃を下げると、乾いた声を落とした。
「……ここを離れて。あなたがいる場所じゃない。
前に住んでいたガンショップに戻って……静かに暮らして。」
その声には、温もりも迷いもなかった。命令とも懇願ともつかない、ただの促し。
ロジャーは俯いたまま動かない。
肩に落ちる影は小さく震えていたが、言葉は出ない。
やがて、長い沈黙を裂くように低くつぶやいた。
「……なぜだ。」
スカーレットの瞳がわずかに揺れる。
ロジャーは俯いたまま、絞り出すように問いを口にした。
「……なぜ……殺したんだ、母さんを……スカーレット……」
声は震え、怒りと悲しみが絡みついた。
目の前の少女の唇が、確かに何かを動かす。
しかしその瞬間、廊下を揺るがす轟音が響いた。
レックとガトーの衝突が壁を震わせ、床を鳴らし、鉄を裂くような音がすべてをかき消す。
ロジャーには、その答えは一言たりとも届かなかった。
ただ、スカーレットの瞳がかすかに揺れたように見えた。
その表情が意味するものは、肯定か、否定か。
ロジャーには分からない。
――そして少女は踵を返し、音の闇に紛れるように背を向けた。
ロジャーは一歩踏み出していた。
スカーレットが背を向けるその瞬間、胸の奥に絡みついた葛藤が一気に弾けたのだ。
「……待て! ルビー……!」
喉が裂けるほどの声が自然と漏れる。
最愛の娘の名を呼びながらも、目の前の存在は妻を殺した仇でもある。
――だが、彼の中でその矛盾は整理のつくものではなかった。
怒りか。愛情か。赦しか。憎悪か。
答えは出ない。出せない。
ただ足が勝手に動く。
ただ声が彼女に届くことを願う。
「スカーレット! 逃げるな、返事をしろ!」
娘を求める叫びなのか、仇を追う叫びなのか。
自分でもわからぬまま、ロジャーはスカーレットの後を追った。
廊下には、なおレックとガトーの衝突が生む轟音が木霊していた。
その爆音はロジャーの胸に渦巻く感情をさらにかき乱し、追いすがる足音をかき消していった。
ロジャーは声を張り上げながらスカーレットを追い続けていた。
だが娘――いや、スカーレットは振り返ることなく、軽やかな足取りで薄暗い廊下を駆け抜けていく。
「ルビーッ! 逃げるなッ!」
呼ぶ声は爆音にかき消され、ただ廊下に虚しく響いた。
そのときだった。
――ビリッ、と空気が裂けるような音が走った。
鋭い電光が一瞬、廊下を白く照らす。
スカーレットが足を止める。
次の瞬間、彼女の前方の暗がりから、一人の女が姿を現した。
銀色の髪を揺らし、掌からはまだ青白い火花が散っている。
警備部の増援――電撃使いのエウだった。
「やっと追いついた……!」
エウの声は低く、だが決意に満ちていた。
振り返ればロジャー。
正面にはエウ。
スカーレットは冷ややかな無表情のまま、挟み撃ちの形に置かれていた。
廊下を埋める静寂。
遠くで鳴り響く爆音が、かえってこの場の緊張を浮き彫りにする。
ロジャーは呼吸を荒くしながらも、娘の名を絞り出すように呼んだ。
「ルビー……!」
だがその声に応じるかどうか、スカーレットの瞳からは何一つ読み取れなかった。