47、牧師服の男
牧師の服をまとった男は、教会の壁を背にして静かに立っていた。
口元からは紫煙が揺らめき、手には分厚い本。ページをめくる指先は、ラファたちが近づいてきても一切の迷いを見せない。
敵を前にしてなお本を読む――それは油断ではなく、ただひとりで十分だと言い切る自信の表れに見えた。
「……チッ、なめてやがる」
苛立ちを隠せないミーシャが、獣のように肩を揺らして歩み寄っていく。足音は荒く、挑発するかのように響いた。
その瞬間――
パタン。
男は静かに本を閉じた。
その音が、まるで戦いの始まりを告げるゴングのように空気を震わせる。
ミーシャは間合いを詰め、拳を振り下ろした。
だが。
ガシッ。
「なっ……!」
その一撃は、男の片手にあっさりと掴み止められていた。
力を込めても拳はびくともせず、鉄壁に封じられたかのようだ。
「……あん? なんだテメェ」
ミーシャの額に青筋が浮かぶ。怒りでさらに獰猛さを増すが、男は煙草を咥え直しただけで微動だにしない。
次の瞬間、ミーシャは振り返り、片手をラファへと差し向けた。
「こいつは――ひとりでやる」
もう片方の手は親指を立てて、奥へ進めと示す。
その野性的な笑みは、戦場に身を投じる者の誇りそのものだった。
ラファは一瞬、迷いの色を宿しながらも、ミーシャの決意を悟り、頷いた。
ミーシャは腕を引き抜くと、唸る獣のように喉を鳴らした。
「離せよッ!」
怒声とともに左腕を振り上げ、拳を連打する。
ゴッ、ガッ、バンッ!
その猛撃は風を裂き、床を震わせるほどの力強さ。しかし――男は煙草を咥えたまま、すべての拳を片手で弾き返していた。
まるで子供の遊びを受け止めているかのような、怠そうな仕草で。
「チッ……」
ミーシャの目が血走る。全身に力を込め、獣じみた動きで飛びかかった。
低く沈み込み、地を蹴ったかと思えば、肩でタックルのようにぶつかり、膝で突き上げ、肘で叩きつける。
筋肉の爆発力で繰り出されるその連撃は、まるで野生動物の捕食のようだった。
しかし――。
バシッ。
牧師服の男は軽く身をずらし、ミーシャの肘を受け止める。
「ガキがよ……元気なのは結構だが、雑なんだよ」
くぐもった声とともに、逆にそのまま腕をひねり上げる。
「ぐっ……!」
ミーシャの表情が歪んだが、すぐに体をよじって腕を振り解く。
血管が浮き出る腕で、再び拳を握る。
「テメェこそ……遊んでんじゃねえぞ!」
ミーシャの怒声とともに、鉄槌のような拳がうなりを上げた。
振り下ろされる度に床が砕け、破片が飛び散る。
その猛攻に、さしもの男も煙草を口から外し、灰を払った。
「へぇ……まだ潰れねえか」
初めて、興味を持ったように口角がわずかに上がる。
ミーシャは息を荒げながらも、不敵に笑った。
「上等だ……テメェ、ぶっ壊してやる」
獣の闘志と男の余裕――
二人の間に、火花のような緊張が弾け飛ぶ。
ミーシャの拳が唸りを上げ、空気を震わせる。だがその刹那――。
「――少し本気を見せてやるか」
牧師服の男が足先で床を軽く叩いた。ゴウン、と鈍い音が鳴り、礼拝堂の床下から石の棘が突き出す。まるで地獄から伸びる杭のように鋭い岩塊が、ミーシャの胴を横薙ぎに打ち飛ばした。
「がはッ……!」
背中から壁に叩きつけられ、石壁にヒビが走る。それでもミーシャは、血を吐きながら口元を歪めた。
「はは……やっと少し面白くなってきやがったな」
男は肩をすくめ、煙草を咥え直す。
「笑ってる場合か?」
ミーシャはよろめきながら立ち上がり、裂けた肩口から血を垂らしつつ、拳を握った。
「上等だ……!」
その目は、痛みを越えてさらに爛々と輝いていた。
男が手元で作った石の槍を振り下ろす。
ズドンッ!
石の刃が床を粉砕し、粉塵が舞い上がる。だが、ミーシャの姿はそこにはない。
「ここだッ!」
声と同時に、瓦礫の影から飛び出す。腕は血に濡れ、骨が軋んでいるはずなのに、その拳は先ほどよりも速く、重い。
石槍を叩き折り、逆に砕けた破片を蹴り飛ばして男に浴びせた。
「ちっ……!」
男がとっさに石の壁を作り、破片を防ぐ。その壁をミーシャは獣のように叩き割った。
血まみれの拳が砕け散った石を押し退け、じわじわと迫ってくる。
「……なるほど。」
牧師服の男は初めてわずかに眉をひそめた。
「めんどくせえ相手だな」
ミーシャは血を滴らせたまま、笑った。
「テメェこそ、今さら怖気づいたんじゃねぇだろうな」
再び、拳と石がぶつかり合う轟音が、教会に鳴り響いた。
教会の床石が轟音を立てて割れ、そこから隆起するように一本の巨大な十字架がせり上がった。
牧師服の男は煙草を口の端にくわえたまま、その十字架に手をかざす。石が軋み、金属のような硬質感を帯びて変形していく。やがてそれは刃を備えた、禍々しい巨剣へと姿を変えた。
教会の床石を裂いて顕現した巨大な十字架剣が、月光を浴びて鈍く光った。
レックと呼ばれる牧師服の男は、煙草を咥えたままその柄を握りしめ、肩に軽々と担ぎ上げる。
「さあ、もう少し遊ぼうか」
血走った瞳が、猛獣のように吠えるミーシャを射抜く。
ミーシャは傷だらけの体にさらに力を込めた。血が流れるたび、拳が熱を増していく。
「上等だ……そのデカブツごとぶっ壊してやる」
次の一歩で確実にぶつかり合う――教会の壁も床も崩れるであろう一撃の直前。
――ザザッ、ジジ……。
突如、レックの懐の通信機から声がした。
「こちら…。レック…、…遊んでる場合じゃない。計画は…段階に入った。……に合流しろ」
教会の空気が凍りつく。
ノイズが激しいがミーシャも、同時に聞き取ってしまった。――名前だ。
「……レック……」ラファが小さく呟く。
レックは一瞬だけ不機嫌そうに眉をひそめたが、すぐに肩を竦め、十字架剣を地面に突き立てた。
「タイミングの悪い連中だな。せっかく面白くなってきたのに」
ミーシャは肩で荒く息をしながら、睨みつける。
「逃げんのかよ、レック……!」
「逃げる? 違うさ。作戦が優先ってだけだ」
レックは煙草を深く吸い込み、紫煙を吐き出した。
「でも――名前を覚えたならいい。」
それだけ言い残し、
レックは手にした巨大な十字架の剣を見下ろし、ため息混じりに肩をすくめた。
「…まあ、ここまでで十分だな。」
その刹那、彼はゆっくりと振りかぶる。
石を操って生まれたその剣は、まるで鋼鉄を凌駕する切れ味を帯びていた。
一閃――
鈍い音と共に、教会の厚い壁に深い亀裂が走る。
二閃――
さらに直線が交差し、石の壁は悲鳴を上げるように粉塵を舞わせる。
三閃――
最後の一撃で、壁は巨大な三角形を描いて崩れ落ちた。外の夜空と月光が、礼拝堂の闇を切り裂くように差し込む。
レックは十字架の剣を振り払うように地面へ突き立て、そのまま残していった。まるで「自分の痕跡」を刻むかのように。
「次は、もっと楽しませてくれよ。」
振り返ることなく、切り開かれた三角の穴を抜け、レックは静かに夜の闇へ消えていった。