45、廃教会にて
夜の闇を切り裂くように、少年は全力で駆けていた。
足音が石畳に響き、高速移動の能力を最大限に発揮する。
昼間の追いかけっこで見せた、障害物を流れるように避ける動きとは違う。
今はただ、一直線に、トップスピードで前へ――。
人気のない路地裏を駆け抜け、曲がり角をいくつも飛び越える。
迷いも、ためらいもない。
頭の中には、あの場所しかなかった。
古びた教会。
子どもたちの居場所を脅かす、あの男たちの言葉。
ロンは息つく間もなく、教会の門をくぐった。
重たい鉄の扉が、鈍い音を立てて閉まる。
古びた中庭には、苔むした石像が立ち並び、雑草に覆われた花壇が広がっていた。
花は枯れ、手入れのされていない庭には、かつての美しさの面影はない。
風が吹き抜け、乾いた葉がカサリと音を立てる。
人の気配はない。
この場所がどれほど長く、忘れ去られていたのかがわかるほど、静寂に包まれていた。
ロンは鋭く息を吸い込み、拳を握りしめた。
「……来てやったぞ。」
低く、震える声が闇に溶けて消えた。
古びた教会の聖堂に続く、大きな木の扉。
ロンは息を整える間もなく、その扉を勢いよく押し開けた。
重たい音が静寂を破り、埃が舞い上がる。
中に広がっていたのは、薄暗い空間。
染みのついた石壁に沿って、覆面をつけた男たちがずらりと並んでいた。
無表情で、まるで人形のように棒立ちしている。
虚ろな瞳は焦点が定まらず、何を見ているのかもわからない。
まるで意思のないゾンビが、主の命令を待っているかのようだった。
「……おい!! 呼ばれたから来てやったぞ!」
ロンは怒りを押し殺しながら声を張り上げた。
しかし、男たちは微動だにしない。
まるで壁の一部であるかのように、無反応だった。
その沈黙を破ったのは、奥にある扉が軋む音だった。
重い扉がゆっくりと開き、そこから現れたのは、牧師の格好をした男。
オールバックに撫でつけた白髪と、整った顔立ち。
だが、その笑みには冷たさが滲んでいた。
「あー、ごめんごめん! ロン君だよね?」
男は親しげな声を装いながら、足音も軽く近づいてきた。
「部下が手荒なことをしてすまなかったなぁ。
出来の良い二人を送ったんだけどねぇ。」
「ふざけんな! 仲間はみんな怪我してんだぞ!」
ロンは怒鳴った。
拳を震わせ、鋭い目つきで男を睨みつける。
だが、男は笑顔を崩さなかった。
その目はまるで、目の前の少年を虫けらでも見るかのように冷たい。
「だから、悪かったって言ってるだろ。……クソガキ。」
その口調には、謝罪の色は微塵もなかった。
「早く、攫った子はどこだ!」
ロンは食い下がる。
「ああ、奥にいるよ。」
牧師姿の男は、あっさりと答えた。
「それはそうと、こっちも君に用があるんだよねぇ。」
「知るか!」
ロンは話を聞く気もなく、奥の扉へと駆け出した。
その後ろ姿を見送りながら、男は小さくため息をついた。
「はぁ……こっちだって、手荒な真似はしたくないのにさ。」
その声に呼応するように、壁際に立っていた覆面の男たちが、一斉に動き出した。
ギギギ、と錆びた歯車が回るような、不自然な動き。
その瞳には、いまだ意思の光は宿っていない。
「殺すなよ。」
牧師姿の男が、命令を短く告げると、覆面の男たちはロンに向かって迫り出した。
まるで、命令を受けた人形が動き出したかのように。
重たい空気が教会内に満ち、聖堂は静かに狂気を孕んでいく。
ロンは、その異様な気配に気づくことなく、奥へと走り続けていた。
ロンが奥へと進むと、目の前に吹き抜けの外廊下が広がった。
月明かりに照らされた中庭が視界に入る。
だが、今は景色を楽しんでいる場合ではない。
廊下にはいくつもの扉が並んでいた。
どれにジスがいるのか見当もつかない。
だが、ひとつひとつ確かめる時間はない。
「チッ……!」
焦燥を押し殺しながら、手当たり次第に扉を開けていく。
しかし、どれも空っぽの部屋ばかりだった。
その時——
廊下の向こうから、複数の足音が響いてきた。
規則的で無機質な音。
覆面の男たちがこちらへ向かってくるのがわかる。
「クソッ、もうすぐそこまで……!」
残る扉は二つ。
この吹き抜けの外廊下には、隠れる場所などどこにもない。
選択肢は、どちらかの扉に飛び込むしかなかった。
息を呑み、意を決して右の扉を押し開く。
「ジス……!」
そこにいたのは、攫われた子供——ジスだった。
薄暗い部屋の隅で、ぐったりと横たわっている。
「おい、ジス! しっかりしろ!」
ロンは駆け寄り、肩を揺さぶる。
だが、ジスはかすかに瞬きをするだけで、まともに反応しない。
扉の外から、足音が急速に近づいてくる。
時間がない。
「……くそ、仕方ねぇ!」
ロンは近くのカーテンを力任せに引き裂き、即席のロープを作ると、
それをジスの腰に巻きつけ、しっかりと固定した。
自分の肩にジスの身体を担ぎ上げ、強く結びつける。
——ドン!
扉の外で、何かが激しくぶつかる音がした。
「……クソが!!」
焦りと怒りに歯を食いしばりながら、扉の鍵をかける。
だが、こんな古びた教会の扉が長く持つとは思えない。
——ドン! ドン!
外の男たちが、無言のまま扉を叩き続ける。
その衝撃で、鍵がじわじわと軋みを上げている。
もう時間の問題だった。
「ジス、起きろ! 逃げるぞ!」
必死に声をかけるが、ジスはまだ意識がはっきりしない。
このままでは、支えなしでは走れそうにない。
「チッ、こっちが先にぶっ壊れるか……!」
その刹那——
——ドガンッ!!
扉が勢いよく蹴破られた。
破片が舞い、埃が舞い上がる。
その向こうには、無表情の覆面の男たち。
冷たい瞳をした異形の群れが、静かに部屋の中へと足を踏み入れてきた。
ロンは息を詰め、足に力を込めた。
——行くぞ!!
次の瞬間、全身が弾かれたように加速する。
空気が裂け、視界がブレる。
「——ッ!!」
津波のように押し寄せる覆面の男たち。
無機質な群れが一斉に動き、ロンを捕えようと手を伸ばしてくる。
一人目が真上から覆いかぶさる。
だが——
「遅ぇよ!」
一歩、下がる。
ギリギリの間合いでその手をかわす。
だが、すぐに二人目が横から腕を伸ばしてきた。
間髪入れずに軸をずらし、ロンは身体を滑らせる。
「——チッ、」
障害物を避けるように、滑らかに、鋭く。
人の波をかいくぐるように、ロンは走り抜けていく。
ロンは男たちの群れを軽やかにすり抜けながら、余裕の笑みを浮かべていた。
「おいおい、遅すぎだろ! これだったらパン屋のオヤジの方が、まだうまく追いかけてくるぜ!」
挑発するように言い放ち、走りざまに手を伸ばす。
「ダッセェ覆面、剥いでやるよ!」
ひとり、またひとり。
勢いのままに覆面を剥ぎ取りながら、ロンは笑った。
だが——
「……ッ!?」
見えた。
見知った顔がそこにあった。
「なんで……」
パン屋のオヤジだった。
いつも焦げたパンをくれた、あの親父。
飾り気のない笑顔が印象的だった男が、今は無表情に立ち尽くしていた。
その目に、意思はなかった。
ただ、一つの命令に従う機械のように。
「……嘘だろ」
軽口が止まった。
戸惑いが、足を鈍らせる。
その隙を見逃さず、奥から聞こえてきたのは、牧師姿の男の声だった。
「どしたん? お知り合いでもいたの?」
穏やかに微笑みながら、男はロンを見つめる。
「ロンくん?」
その声音は、まるで友人を気遣うように優しかった。
恐怖が背筋を駆け上がる。
ロンは無我夢中で走り出した。
脇腹が痛む。足がもつれる。
それでも、ここにいてはならない——本能がそう告げていた。
喉が焼けるように渇き、汗が吹き出す。
だが、背後の牧師姿の男は追ってこない。ただ静かに立っているだけだった。
それが余計に怖かった。
「……ッ!」
出口が見えた。
ロンは月明かりを見て、外へ出たことを悟る。
あとは門を越えれば、この忌々しい廃教会から抜け出せる——
そう、思った、その瞬間。
「……そろそろ、夢から醒めないとな!!」
牧師姿の男の声が、礼拝堂に響き渡る。
何を言っているのか、意味がわからない。
だが、嫌な予感が背中を撫でた。
次の瞬間。
ロンの首に細い腕が絡みついた。
「……っ!?」
息が詰まる。視界がぶれる。
体が重い。
まるで、意識が暗闇に引きずり込まれるように——
ロンのまぶたが閉じる直前、ぼやけた視界の先で、牧師姿の男が歩み寄ってくるのが見えた。
「ありがとう、ジスちゃん」
穏やかな笑みを浮かべながら、男がそう告げる。
そこで、ロンの意識は闇に落ちた。