36、甲板の上で
何度目だろう、ハクの同じ鼻歌を聞くのは。
ヘリコプターのエンジン音の中で、鼻歌だけが妙に耳障りに響く。シオンは座席に深く体を預けたまま、眉間にしわを寄せた。
この空の旅、逃げ場がないのは音からも同じらしい。
ハクはそんなシオンの苛立ちを気にするどころか、鼻歌をやめる気配もない。窓の外に目をやりながら、調子良さそうにお気に入りのメロディを口ずさむ。その様子にさらに苛立ちを募らせながら、シオンはため息をついた。
パイロットが気を利かせたのか、不意に声をかけてきた。
「通常の運航高度は、だいたい300メートルから600メートルですね。この機体なら、追尾ミサイルでも飛んでこない限り、映画みたいに墜落することはありませんよ。」
乾いたユーモアを交えたつもりのその声も、今のシオンには不快でしかなかった。シオンは無言のまま、ヘリコプターの窓越しに広がる空を睨むように見つめ続けた。
そんな中、ハクがシオンに向き直り、軽い調子で話しかけてきた。
「今後のプランだけどさ、燃料補給が必要なんだ。味方の船がこの近くの港に停泊してるから、そこで物資も補充していく予定だ。安心しろよ、このままスムーズに進めば、グラル様のところまで無事に送り届けてやるからさ。」
ハクの言葉には、妙な自信と気楽さが混ざっている。だが、それがかえってシオンの表情を硬くした。
「弟……」
シオンが短く呟いたその言葉に、ハクが眉をひそめる。
「アモンを甘く見るな。」
シオンの言葉は低く静かだったが、その響きには冷たい鋭さが含まれていた。
ハクは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの調子で笑みを浮かべた。
「おいおい、あのアモン君がどんな手を打ってきたって、俺たちには届かないさ。」
シオンはそれには答えず、再び窓の外に目を向ける。広がる青空の下、どこか遠くに港があるはずだ。だがシオンの目には、その先に立ち塞がる無数の困難が見えているようだった。
ヘリコプターは大きな揺れもなく、味方の船舶が構えるヘリポートに無事着地した。プロペラが停止する音が徐々に消えていく中、ハクはシートベルトを外すなり立ち上がり、大きな声で言い放った。
「便所いってくるわー!」
その勢いに、ヘリのパイロットや船のクルーが一瞬ぎょっとする。ハクはそんな周囲の反応を気にする様子もなく、デッキをパタパタと駆け抜けていった。その姿はどこか軽快で、けれど同時に品性の欠片もない。シオンは呆れたように目を細めた。
「……女の子なのに、あの態度はどうかと思うけどな。」
小さく呟き、ヘリから降りたシオンは、すぐそばに立っていた船のクルーに声をかけた。
「すまない、着いたばかりで悪いが、着替えたいんだ。どこか一部屋借りてもいいか?」
クルーはシオンを一目見て、少し戸惑ったような表情を浮かべた。何かを言いかけたが、結局「わかりました」とだけ答え、船内の一室を案内してくれた。
シオンが部屋に入ると、まずドアをきっちり閉め、深いため息をついた。鏡に映る自分の姿に目をやり、顔をしかめる。今の服装――女児用のワンピース――に嫌気が差していた。逃亡中の混乱で仕方なく手に取ったものだったが、どうにも落ち着かない。
近くに置いていた荷物を開け、自分が持ってきた服を取り出す。簡素なシャツと、ずっと愛用してきた白衣。これに袖を通すと、ようやく自分らしさが戻ってくる気がした。
「やっぱり、男は男らしくメンズの服に限るな。」
小さく呟きながらシャツのボタンを留め、白衣を羽織った。鏡に映る姿に少しだけ満足し、気持ちを切り替える。外で待っている船のクルーたちに、また頼まなくてはいけないことが山ほどある。それに――ハクの方も目を離してはいられない。
シオンは襟を正し、深呼吸すると、静かに部屋を出た。
シオンが部屋を出ると、ちょうどハクが軽快な足取りでやってきた。彼女は手をポケットに突っ込みながら、ニヤリと笑って声をかけてくる。
「お、着替え終わったか。こっちもちょうど話があるとこだったんだよ。」
ハクは顎でデッキの方を指しながら続けた。
「燃料の補充と物資の積み込みに3時間くらいかかるってさ。その間、自由にしてろって言われた。まあ、暇だろ?」
シオンは肩をすくめるだけで特に応じない。それでもハクは気にせず、さらに話を続けた。
「あ、そうそう。紹介するの忘れてたわ。この船から合流するやつがいるんだよ。」
そう言って、ハクは手招きするように後ろを振り返った。すると、静かに姿を現したのは、ハクとはまるで対照的な女性だった。すっと背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで歩いてくるその姿からは、洗練された雰囲気が漂っている。
「ご機嫌よう。」
その女性はにこやかな微笑みを浮かべながら、丁寧に挨拶をした。
「私はネビア。これからハクとともに、護衛の任を受けました。よろしくお願いいたします。」
その口調も物腰も、どこか上品で柔らかい。ハクの無遠慮な態度とは正反対で、その仕草ひとつひとつから育ちの良さが感じられた。
「同じ護衛でも、ここまで違うものか……」
シオンは思わず心の中でつぶやきながら、ネビアの姿を観察する。見た目だけなら、ハクとほとんど変わらない。年齢も似たようなものだろうし、どちらも同じような体型だ。だが、その立ち居振る舞いはまるで別世界の人間のようだった。
ハクが片手をひらひら振りながら、不満そうに言葉をこぼす。
「ったく、見た目は似てても、中身が違いすぎて困るんだよな~。お嬢様育ちは扱いが難しいっつーの。」
ネビアはハクの言葉を軽く受け流し、シオンに優雅に一礼して言った。
「どうぞ、私の力が必要なときは何なりとおっしゃってください。シオン様。」
「様?」とシオンが少し戸惑いを覚える間に、ハクは肩をすくめて言い放った。
「まあ、こんな感じだからよ。暇なら二人で勝手に過ごしといてくれ。あたしはデッキで一服してるわ。」
そう言うと、ハクはそそくさと立ち去っていく。残されたシオンは、上品な微笑みを浮かべ続けるネビアを前に、どう話を切り出すべきか迷っていた。