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35、コーヒーブレイク

「毎朝七時な」


ミーシャが放った一言が、ラファの耳に深く刻まれていた。あの迫力、あの威圧感――まるで逃げるなと言わんばかりの視線が、頭から離れない。


隣を歩くシーが軽くため息をつきながら口を開いた。

「断ればよかったのにーー」


ラファは思わず足を止め、ちらりとシーを見る。


「……でも、あの時、なんだか挑戦してみたくなったんです」


シーは少し驚いた表情でラファを見返す。「ミーシャの訓練を受けるとか、正気?」


ラファの頭には、ここに捕まる前の出来事が浮かんでいた。警備部の連中に殴られ、拘束され、引っ張り回され――その散々な扱い。


「正直、、もう逃げたくなくて……」ラファは苦笑しながら肩をすくめた。「それに、シーさんですら嫌がるミーシャの訓練、乗り越えたら少しは強くなれるかもしれない」


「物好きだねぇ、ラファちゃん」シーは呆れたように頭を掻きながらも、どこか感心したように笑った。「ま、後悔しないといいけど」


ラファはしっかりと拳を握りしめた。ミーシャの「毎朝七時」という言葉は挑戦状だ。そしてそれを受けることが、ここでの自分を変える一歩になる気がした。




「アモン君のオフィスに着いたら、今日の案内は終了だからね」シーは軽い調子でそう言った。


ラファはうなずきながら、彼女の後に続いて長い廊下を歩く。突き当たりには、大きな扉がどっしりと構えていた。シーが少し力を入れてその重厚なドアを開くと、広々とした部屋が現れた。


部屋の中央には、大きなデスクに向かっているアモンの姿があった。彼は何冊もの資料に目を通しながら、片手で何かメモを取っている。その様子はどこか集中力に満ち、部屋全体に静謐な空気を漂わせていた。


室内は必要最小限の家具と調度品だけで整えられており、無駄なものが一切ない。とはいえ、ひとりで使うには広すぎる空間で、ラファは思わず「一家族で住めそうだな」と感じた。


アモンが顔を上げ、二人に気づくと微笑みながら口を開いた。

「シー、忙しいのに案内までお願いして悪かったね」


「へいへい、大丈夫だよー」シーは肩をすくめて軽く返す。


アモンはデスクから立ち上がり、手でソファーを指し示しながら二人を促した。

「とりあえず、ソファーにでも座ってくれ。飲み物はコーヒーでいいかい?」


シーは即答する。「いつものやつでよろしくー」


ラファは少し戸惑いながらも、丁寧に答えた。

「コーヒーで大丈夫です。ありがとうございます」


アモンはうなずき、デスク横のコーヒーマシンに手を伸ばした。その仕草もどこか洗練されていて、ラファは改めて彼の落ち着いた雰囲気に感心しつつ、ソファーに腰掛けた。



コーヒーの湯気が静かに立ち上る中、アモンは手元の資料に目を落としながら口を開いた。

「仕事をしながらで悪いけど、ラファさん。何か気になるものは見つかったのかい?」


その問いかけに、ラファは少し戸惑った。シオンのラボで拾った写真――それをずっとポケットに隠し持っていた。彼女は恐る恐るそれを取り出し、アモンの前に差し出す。


「これ……。なんで父さんの写真があるんですか? しかも、シオンさんと一緒に写ってるなんて……。」


アモンは写真を受け取ると、それをじっくりと眺めた。やがて顎に手を当て、考え込むような仕草を見せた後、ふっと彼女に真摯な眼差しを向けた。


「……やっぱり、君は彼の娘さんなんだね。」


ラファは胸の奥がざわつくのを感じた。その言葉の重みが、何か大きな真実に触れたように思えたからだ。


「君のお父さん、アル・カナレスさんはね、この病院でシオンの護衛として働いていたんだ。彼はとても優秀で、シオンにも僕にも本当に良くしてくれた人だった。」


アモンの声には懐かしさと敬意が混じっていた。その言葉を聞くたびに、ラファの心に様々な感情が押し寄せる。


「父が……シオンさんの護衛?」


ラファの声は震えていた。自分が知らなかった父の姿。父がこの病院に関わっていたという事実。そしてシオンとの写真。


ラファは静かに息をつきながら、コーヒーカップを指でなぞっていた。

父がライトボーン病院で護衛をしていたこと、それを初めて知った驚きが胸に広がる。


「母さんがこの病院を選んだ理由も……その経緯があったのかな……」


小さな声で呟いたが、すぐに別の疑問が頭をもたげた。

「でも、父さんが亡くなったのは4年前だって聞いてる。その時点で彼はもう……」


ふと写真に目を向ける。そこには父と共に写るシオンの姿。だが――おかしい。今のシオンとまったく変わらない顔だった。ラファの視線が写真に釘付けになる。


アモンがその様子を見て、穏やかに口を開いた。

「写真のシオンが、今の彼と変わらないって思ったのかい?」


その一言に、ラファは驚いて顔を上げた。まるで心の内を見透かされたようだった。


「どうして……?」


問いかけるように目を見つめるラファに、アモンは微笑みを浮かべながら答えた。

「それには理由があるんだ。実は、それが僕の研究分野に関係している。」


アモンは椅子にもたれ、少し熱を帯びた声で語り始めた。


「僕の研究テーマは『人体再生』だよ。トカゲやタコみたいに、切断された四肢が再生する。それを人間でも実現できる技術だ。君も知ってるだろう、人間の体は一度欠損したら元に戻らないって。でも、それを変えられたらどうなると思う?」


ラファは驚きとともに彼の言葉を飲み込むように聞いていた。


「本当に……そんなことが?」


「まだ未完成だけどね」と、アモンは軽く肩をすくめた。

「それでも、この技術は命を救う可能性を持っているんだ。」


ラファの視線が再び写真に戻る。変わらないシオンの姿が、アモンの研究の話と重なり、不思議な違和感をより深めていく。


「でも……どうしてシオンは変わらないんですか?」


ラファの問いに、アモンは一瞬考えるようにしてから、静かに答えた。


「シオンは、数年前にテロに巻き込まれて大怪我を負った。命を取り留めたけれど、体が完全に回復するには至らなくてね。それで、僕が開発した医療ポッドにずっと入っていたんだ。」


「医療ポッド……?」


「そう。損傷を最小限に抑え、再生を促進する装置さ。だが、シオンの場合は、装置に長期間入っていたことで、身体機能の停止と維持が曖昧な状態になった可能性がある。……きっと、その影響だろうね。」


アモンの言葉は事実を語っているようで、同時に核心を隠しているようにも思えた。


アモンはコーヒーカップを片付けながら、穏やかな笑みを浮かべた。

「僕の研究も機密情報だからね、外部には漏らさないでくれよ。」


冗談めかした口調ではあったが、その背後にある何かをラファは感じ取れなかった。


その後、アモンがデスクの横にある時計を確認すると、急に立ち上がった。

「すまない、この後大事なオペが入ってるんだ。また今度ゆっくり話そう、ラファさん。」


立ち去る準備を始めるアモンに、ラファは立ち上がって一礼する。

「ありがとうございました。また……お時間をいただけると嬉しいです。」


そのやり取りを横で見ていたシーが、ラファに軽い調子で声をかけた。

「ラファちゃん、昨日と同じ部屋を今日も使っていいからねー。お部屋に戻ってゆっくりしてて!」


ラファはその言葉に素直に頷き、部屋を退出する。

廊下に響く足音が次第に遠のき、扉の閉まる音が静寂を戻した。


部屋に残ったのはシーとアモンの二人だけ。シーは少し心配そうにアモンの顔を覗き込む。


「ねえ、アモン君。ちゃんとラファちゃんに教えてあげないの? あの子、自分の父親のこととかシオンのこととか、気になって仕方ないみたいだったよ。」


シーの問いかけに、アモンは先ほどまでの紳士的な微笑みを消し去り、無表情で椅子に腰を下ろした。


「今のシオンの状態がはっきりわからないんだ。」


その声は低く、冷静で、どこか張り詰めたものがあった。


「もしシオンが戻ってきた時に余計なことにならないよう、彼女には少しの真実だけで我慢してもらおうと思う。」


アモンのその言葉には、冷たい理性と、隠された焦りが同居しているようだった。

シーは言い返そうと口を開きかけたが、アモンの表情に何かを察して言葉を飲み込んだ。


「……わかったよ。でも、あんまり隠しすぎると、後で余計に面倒なことになるかもだからね。」


軽い口調でそう言って、シーはそっと肩をすくめる。だが、その表情にはどこか複雑な感情が滲んでいた。


アモンは返事をしないまま資料に目を戻し、静寂が部屋を支配した。

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