26、シーという女
シーの車に乗り込むと、ふたりは目の前の光景に少し言葉を失った。
中は「汚い」というより、ただ私物が溢れていた。
飲みかけのカフェラテのカップ、大きなぬいぐるみ風のクッション、散らばるファッション雑誌や少女マンガ──車内は、まるで女の子の部屋そのものだった。
あと何故かサバ缶が大量にストックされていた。
「これ…どこに座ればいいの?」とラファが戸惑いながらぬいぐるみを見つめる。
シーは気にする様子もなく、「あ、それどけなくていいよ!そこ適当に座って」と気軽に返してくる。
仕方なく、ふたりはその大きなぬいぐるみの隣にぎゅうぎゅうと体を寄せ合って座った。
クッションの柔らかさにラファは少しホッとしたが、隣で不機嫌そうなシオンの様子に、つい笑いをこらえてしまった。
シーは運転席に座ると、ラファに軽く振り返りながら尋ねた。
「で、アルちゃん?どこ向かえばいいー?」
ラファは肩をすくめて、「じゃあ、ナビで近くの大型複合施設MLBってやつ、登録してもらえます?」と軽い調子で返す。
「ナビねー。了解!」とシーは言いながら、手際よくカーナビを操作し始めた。
画面に施設の名前が表示されると、満足そうに「ここでいい?」と確認を取る。
「それで大丈夫です」とラファが答えると、シーはエンジンをかけ、軽快に車を走らせ始めた。
助手席で大きなぬいぐるみに体を押されながら座っているシオンは、無言のまま少し深いため息をついた。
シオンは、車内の少女趣味の空間に目をやりつつ考えていた。
(こいつ、もしかして経費って言い訳して遊ぶ気じゃないのか…?)
その疑念を確かめるべく、シオンは探りを入れることにした。
「シーさんって、普段はどんなお仕事されてるんですか?」
シーはハンドルを軽く操作しながら、気軽な声で答えた。
「んー?それなりに大きい病院の警備部で働いてるよー。さっきのふたりも、ほら、別の部署の人ね。」
その答えに少し間を置き、シオンは慎重に相槌を返した。
「もしかして…ライトボーン病院、ですか?」
シーは「おっ、知ってるんだ!」という様子で振り返り、ニヤリと笑う。
「そうそう、ライトボーン!結構有名でしょ?まぁ、色々あるけどねー。なんで知ってるの?」
「まぁ、聞いたことがあるだけです。」とシオンはさらりと返したが、心の中では警戒心をさらに強めていた。
シーは軽い口調で話を続けた。
「実はね、今日もお仕事でこっちに来てるんだー。
シオンっていう男の子を探してるんだけどさー。」
ラファはその名前を聞いた瞬間、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに平静を装い話を聞き続けた。
「ライトボーンのお坊ちゃまなんだけど、
なんか急にいなくなっちゃってさー。」
シーは窓の外を見ながらのんびりと話している。
シオンはその言葉を受け流すように、
落ち着いた声で返した。
「シーさんもお仕事で大変なんですね。」
「そうなのー。でもねー、こうやって途中で美味しいご飯食べたり、楽しい子たちと話したりすると、まぁいいかなって思えるんだよね!」
シーはラフな笑顔を浮かべながら、シオンとラファに視線を向ける。
ラファは心の中で焦りを感じながらも、表情には出さずに話を合わせた。
「シーさん、すごく前向きなんですね。」
「まーね!仕事は大変だけど、
楽しむのも大事だと思うの!」
そんな話をしながら、車は目的地に着いた。
目的地に着いた三人は、だらだらとウインドウショッピングを楽しむように歩いていた。
特に目的もなくゲームセンターで遊んでみたり、カフェでお茶をしたり、ペットショップで子犬を抱いてはしゃいだりするシーの姿に、ラファはますます困惑していた。
(この人、本当にただ経費で遊びに来てるだけじゃないか?)
シーの軽いノリに、ラファはどこか釈然としないものを感じながらも付き合っていた。
その間、シーの端末には何度か電話が入る。
「はい、こちら警備部ー。……ただ今捜索中で手が離せませんーー!」
電話を切ると、再び何事もなかったかのように笑顔で三人の輪に戻るシー。
「ねー、あのカフェ次行ってみない?ケーキが美味しいらしいよー!」
楽しそうに提案する彼女の姿に、ラファもシオンも何も言えないまま、歩調を合わせるしかなかった。
ある程度遊び回ったあと、シーが満足そうに伸びをしながら言った。
「よーし、そろそろ帰ろっか!車持ってくるから、家まで送るよー?」
ラファはそれとなく言葉を選びながら答える。
「いえ、さっきのお店の前まで送ってもらえれば十分です。そこからは自分たちで帰りますから。」
シオンも小さく頷き、
「そうですね。それで大丈夫です。」
と続けた。
シーは一瞬だけ考えるような仕草を見せたが、すぐに笑顔で返事をした。
「そっかー、わかった!じゃあ車回してくるから、ちょっと待っててねー。」
帰りの車の中では、3人で今日の出来事を思い出しながら話に花が咲いていた。
「ラファ、あのシューティングゲーム、初めてだったんでしょ?」とシーが楽しそうに振り返る。
「うん、でも結構楽しかった!ラスボスの一歩手前まで行けたのはびっくりだったなー。」
ラファは誇らしげに言いながらも、
「あれ、シーちゃんは全然ダメだったよね?」と冗談を飛ばした。
「うるさいなー!私だってあれが初めてだったんだから!パンチングマシーンならーーーー」とシーがふくれっ面をして笑いを誘う。
さらに話題はカフェでの出来事に移る。
「それにしても、ツナパフェなんて頼む人初めて見たよ。」ラファが苦笑いで振り返ると、シーは満足そうにうなずく。
「あれ美味しかったよ!ちょっとクセになる味だよねー。アルちゃんも次は挑戦してみたら?」
「いや、私は遠慮しておきます……」とラファが小さく答えると、シオンも「正しい判断」と頷いていた。
そして話題はペットショップでの出来事に。
「シーちゃん、犬触ったことなかったの?」とラファが思わず聞くと、シオンは少し照れたように視線をそらす。
「……初めてじゃないけど、こんなに間近で触るのは久しぶりだっただけだ。」
「いやいや、完全に初めて見る子供みたいな反応だったよ。犬が近づいただけで目キラッキラしてたし!」とシーが笑う。
そんなふうに振り返っているうちに、シオンもラファも思った。
――楽しい時間だった。ほんの少しのつもりが、すっかり遊び倒してしまったな、と。
お店の前に車が停まると、シーが突然思い出したように声を上げた。
「あっ、忘れてた!ここでツナチーズサンド買って帰るつもりだったんだよね! シーちゃん、ちょっと頼んできてくれる?」
シオンは一瞬迷ったが、仕方なく車を降りてお店に向かった。
その隙に、シーは助手席のラファにぐっと身を寄せ、声を潜めて話しかけた。
「ねえ、アルちゃん。妹ちゃんの名前、シオンって名前じゃない?」
ラファは一瞬動揺したが、それを隠すために笑いでごまかそうとした。
「えー、どうしてそう思うの?」
シーは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら答えた。
「だってさ、靴が男の子の靴のままだったんだもん。あんな可愛いワンピース着てても、足元が全然合ってない。普通の女の子なら、あれだけ服を変えたら靴も変えるでしょ?」
ラファは内心冷や汗をかきながらも、表情は崩さないよう努めた。
「それだけでそんなこと言っちゃうの? 違うと思うけどなー。」
シーはさらに身を寄せ、真剣な表情になった。
「ふたりには無理やり連れて行きたくないんだよね。でも、ライトボーンに戻ってもらわなきゃいけないのは確かだし……。できれば自分の意志で着いてきてほしいんだ。」
その言葉にラファは息を呑んだ。シオンを守るためにはどう対応するべきか、頭の中で必死に考えを巡らせていた。
シオンが紙袋を片手に車へ戻り、「買ってきたよー」と無邪気に声をかける。
シーは運転席から降りると、シオンに笑顔で「ありがとう」とお礼を言いながら近づこうとした。その瞬間——。
バン!
銃声が鳴り響いた。
シーは一瞬で音の方向に目を向ける。
「え?」
ラファが腰のハンドガンを素早く抜き、シーとシオンに弾が当たらないよう威嚇射撃を放つ。その弾丸を追うように、ラファは能力を発動させ、加速。次の瞬間にはシオンとシーの間に体を割り込ませていた。
「アルちゃん、拳銃なんて……どういうつもり?」シーが冷たい視線を向けながら問いかける。
しかしラファは無視して、シオンに短く命じた。「バレた。行くよ。」
「え、何が……?」シオンが戸惑いながらも、事態の緊迫感を察する。
「行かせないよ。」
シーが立ち塞がる。その表情は普段の眠そうなものとは打って変わり、鋭い眼光が宿っていた。
さらに、銃を警戒して頭部を右手で守りながら、左手には持っていたセカンドバッグを盾のように使い、心臓や腹部を防ぐ体勢でゆっくりとタックルを仕掛けるように近づいてくる。
「悪いけど、君たちをここで逃がすわけにはいかない。」
シオンとラファの間に、一触即発の空気が漂う中、周囲の音が遠ざかっていくような緊張感が場を支配していた。
ラファはシーを真正面から見据えながら、銃口を地面に向け、「寄らないで!」と警告するように威嚇射撃をした。しかし、シーはその場に怯むことなく、ジリジリと間合いを詰めてくる。
「撃つ気がないの、バレバレだよ、アルちゃん。」
シーの言葉通り、ラファはシーを傷つけるつもりはなかった。だが、逃げるためには時間を稼ぐ必要がある。
「くっ……!」
ラファはシオンの腕を掴むと、掴みかかろうとするシーに向けて左肩を狙い撃ちした。しかし、銃弾はシーの肩をかすめただけで、彼女の動きを止めるには至らなかった。
「逃がさないよ!」
シーは一気に距離を詰め、ラファに迫る。
「……なら!」
ラファは能力を発動させ、加速。シオンの腕を掴んだまま、一気にその場から離脱した。
高速移動の勢いで、シオンは肩が抜けそうになるほどの衝撃を感じ、顔をしかめる。
「痛っ……ラファ、ちょっと強すぎる!」
だが、次の瞬間。
ドンッ!
まるで見えない壁にぶつかったように、ラファが急に動きを止めた。衝撃の反動で、シオンの体は投げ出され、地面に転がる。
「ラファ!?」
シオンが顔を上げると、そこにはシーの姿はなかった。だが、ラファが何かに引きずられるようにズルズルと動き、きた方向に戻されていくのが見えた。
「逃げて……!」
ラファが大きな声で叫ぶ。
「いいから、早く逃げて!走れ!」
「……ごめん、ラファ!」
シオンは迷う暇もなく、その場から走り出した。どこに向かうのか分からない。ただ、ラファの言葉を信じて、とにかくその場を離れるしかなかった。