18、山の恵み
ラファはバイクのハンドルを握りながら、山間の曲がりくねった道を進んでいた。風が髪を揺らし、エンジン音が静かな山の空気に溶け込む中でも、彼女の心は落ち着かなかった。
「ロジャーさん、大丈夫かなあ……」
運転に集中しながらも、ぽつりと呟くラファ。その声には、明らかな不安が滲んでいた。
シオンはサイドカーに腰を下ろしながら、その言葉に応えるように静かに口を開く。
「彼も元軍人だ。僕らに心配されるほど弱い人じゃないよ。」
その声は冷静で、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
それでもラファは胸の中に湧き上がる不安を拭えず、今度は少し未来のことに思いを巡らせた。
「このあと、どうするの?」
バイクを操作しながらそう問いかけると、シオンは短く「ああ」とだけ返事をした。その素っ気ない返答に、ラファは一瞬だけ視線を横に向けたが、シオンの表情を覗き見ることはできなかった。
シオンはサイドカーの中で少し体を預けながら、ここ数日の出来事を思い返していた。ロジャーの手際の良い整備の指導、裏庭で響いたラファの銃声、そして何よりも久しぶりに味わった温かい料理の記憶が胸に浮かぶ。
「……楽しかったな。」
小さな声で漏らしたその言葉は、エンジンの音にかき消され、ラファの耳には届かなかった。
バイクは、シオンが整備した滑らかな走行音を響かせながら、さらに山道を進んでいった。
「ねぇ、シオン! 見て!」
バイクを運転していたラファが突然声を弾ませた。
「川があるよ! 綺麗な水!」
シオンはサイドカーから身を乗り出し、ラファの指差す方向をちらりと見た。川面がキラキラと反射しているのが見える。それでも彼は、すぐに視線を前方に戻してそっけなく答えた。
「寄らずに先を急ごう。追手が来るかもしれない。」
その冷静な言葉に、ラファは不満そうに顔をしかめた。
「……でもさ、その服、まだそのままなんでしょ?」
シオンはきょとんとして、自分の服を見下ろした。確かに、あの催涙手榴弾を使った一件以来、玉ねぎとガソリンの臭いが染み付いている。自分ではあまり気にしていなかったが、ラファの鼻には耐えがたいらしい。
「お願いだから洗おうよ!」
ラファは運転しながらもしっかり抗議の目をシオンに向けた。
シオンは一瞬だけ考え込むように眉を寄せたが、結局ため息をついて折れることにした。
「……少しだけなら。」
ラファの顔にぱっと笑顔が広がる。
「やった! 水に入るついでに私もリフレッシュしよっと!」
バイクのエンジン音がやがて小さくなり、二人は静かな川辺へと向かった。
川辺に着くと、シオンはさっそく川の水で服や体を洗い始めた。冷たい水が肌に染みるが、玉ねぎとガソリンの嫌な臭いを落とすにはこれしかない。衣服を揉みながら、ふと川の音と静かな風に耳を澄ませた。わずかな時間でも、追手の気配を忘れられる瞬間だった。
一方、ラファは焚き火の準備を進めていた。乾いた薪を拾い集め、素早く火を起こす。やがて暖かい炎が揺らめき始め、川辺に小さな光の輪が広がる。
焚き火に当たりながら、ラファは川上をじっと見つめた。やがて声を上げる。
「ねえ、あそこ! 川の中に魚が泳いでるよ!」
シオンは濡れた髪を払いながら川を見たが、何も見つけられない。
「どこだ?」
「ほら、あそこ!」
ラファは指を差すが、シオンにはただの水の流れにしか見えない。
「……本当に見えてるのか? 俺には全然わからない。」
「ふふっ、シオン、目悪いんじゃない?」
ラファは笑いながら立ち上がり、「取ってくる!」と勢いよく川に飛び込んだ。
シオンは彼女の後ろ姿を見送りながら首をかしげた。
「本当に見えてるのか……?」
だが、彼女がすごいのはその後だった。10分もしないうちに、ラファは手に6匹もの魚をぶら下げて戻ってきた。彼女の顔には誇らしげな笑みが浮かんでいる。
「見て! こんなに取れた!」
シオンは驚いた表情で魚を見つめた。
「……やっぱりお前、父親譲りの視力と動体視力があるんだな。」
ビンを狙撃した時のことを思い出しながら、シオンは感心したように呟いた。その言葉に、ラファは得意げに鼻を鳴らす。焚き火の炎が、二人の間に和やかな時間を灯していた。