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その晩、眠りにつくと、そこは紫色の世界だった。
慌てて飛び起きるが、周りには誰もいない。誰もいないどころか、ベッドも机も、壁すらもない。上も下も横も、すべて透き通った紫色の空間だ。
右手には、入に持たされたゴムの管を握っている。その手をそっと伸ばすが、何にも触れない。足を踏み出そうとして、引っ込める。ゆっくりしゃがんで床に触れようとするが、何にも触れられない。しかし、足の裏はしっかり何かにくっついている。指で靴の底を触ることができたので、ぞっとする。
恐る恐る足を差し伸べてみると、空中で、やわらかい何かが押し返してきた。二本の足でしっかりと立つと、近くに大きな椅子が置いてあるのに気づく。
はじめからここにあっただろうか。その椅子は上等な布で作られており、見ているだけで眠気がくるほど、ふかふかした見た目をしている。きっとあの椅子で眠ったら心地良いだろう。
この空間を作る紫色は、じっと目を凝らしてみると、白や青や緑やピンクなど、さまざまな色に見える。しかし不思議なことに、何度か目を瞬くと、やはり紫色に見える。その紫色は、透明な水に絵の具を垂らした時のようにも見えるし、透き通った布がはためいているようにも見える。いつまででも見ていられる気がする。僕は変な呪術をかけられたのだろうか。
句朗は木偶を探して、首の周りや服の中に手を突っ込んだが、どこにもいないようだった。急に心許なくなってくる。自分は、門前市の宿で眠った時の恰好をしているようだ。
再び椅子に視線を戻すと、巨大な生き物が座っていたので、度肝を抜かれた。
「句朗か?」
その生き物が口をきいた。
「え、ええ。そうですけど、ここはどこです?」
「ここはお前の夢の中だ。私は獏の竜胆」
「獏……?あなたはいったい誰なんです?」
「それはもう言った」
獏の竜胆が、こちらに手を伸ばす。思わず後ずさりすると、手に持っていたゴムの管をぶんどられた。竜胆はそれを服の隙間に隠すと、椅子に深く身を沈める。
その生き物は淡い紫色の皮膚を持ち、眠たそうな眼をしていた。口元が隠れるほど鼻が長い。幾重にも布が重ねられた、上等な服を身にまとっている。身体は椅子の上で斜めに横たわっており、片手で頭を支え、片足を立てている。とてもだらしのない体勢だが、この生き物がやると、なんとも優雅に見えた。
「私は入に頼まれてここへ来たんだ。迷わなくて良かったよ」
「入の知り合いですか」
「そりゃ、まあ、いい取引相手だ」
竜胆はするすると、袖から黒いゴム管を引き出すと、意味ありげにこちらへ見せ、それを口元に運んだ。よく分からないが、おそらく入は何かの対価として、この生き物にゴム管を渡しているらしい。竜胆は、味わうように、時間をかけてゴム管を舐めている。
「さて、何から説明するか。お前、獏のことは知っているか」
「いいえ」
「私たち獏は、夢の中に住んでいるんだ。気ままに好きな夢を渡り歩いているのさ。でも入と会ったのは、偶然じゃなかったな。あの子は、ちゃんと私たちの好物を知っていて、自分の力で私を呼んだんだ。獏は、記憶を食うことができる。入は、私のところへ記憶を持ってきて、この美味いもんを納めてくれる代わりに、私にそれを食わせるんだ」
信じられないような話だったが、世の中にはきっと自分の知らないことはたくさんあるのだろう。いったん、この生き物の言うことを信じて、話を聞くことにした。
「入は、何の記憶を食べてもらうんです」
「お前も蒼羽隊だな?」
「ええ、そうです」
「蒼羽隊は、その出自の秘密を知ると、記憶を消されるということは知っているか?」
「僕の友人だった人は、そう考えていたみたいです」
古井がそう考えていると、入が言っていたのを思い出す。
「それは事実なんだが、実は正確ではない。消されるんじゃなくて、勝手に消えるようになっているんだ。もちろん、そういう呪術が、蒼羽隊全員に既にかけられているからだ。入は、それを知っていて、核心に迫る情報を知ると、小分けして私のところへ持ってくるんだ。そうしないと白紙に返ってしまうからね。ここに来れば、私の食べた記憶を取り出せるから、最近あの子はよくここへ来る」
入が、蒼羽隊の出自に関わる話や、古井が捕まった時の話をすると、急に調子が悪くなるのは、そのせいだったのだ。白紙に返るのを恐れて、避けていたということか。
「言ってくれたらよかったのに」
思わずそうこぼす。
「中途半端に話すと、お前、根掘り葉掘り聞きだすだろう。事故が起こるかもしれない。説明するより私と会わせる方が早いしね。夢の世界ほど面白いものはないと思っていたが、入の話を聞いていると、お前たちの世界も面白そうだと思ってな。ここまであの子に付き合ってきたのは、ただの暇つぶしさ」
この紫色の世界について、気になることはたくさんあったが、句朗は取り急ぎ一番気になることを聞いた。
「古井さんが捕まった時のこと、何か聞いていますか」
「ああ、それも伝えるように言われている。あの子は、まだ蒼羽隊の正体にはたどり着いていないが、お前は、それに気づいたらしい。古井が捕まった日、あの子がお前の元に駆け付けた時に、ちょうどお前はそれを悟って、あの子の目の前で記憶が無くなったんだ。幸い、蒼羽隊の……誰だったか。名前は忘れたが……。入がいれば記憶を取り出して確認できるだろう。とにかく、蒼羽隊の誰かに助け出されて、入はその件と無関係という扱いになったらしい。しかし、その時の光景が忘れられないらしくてな、入は白紙に返るのが怖くてたまらないのさ。あと、一番重要な点だが、お前と古井がその真実を知ったのは、名法師の屋敷の地下だ」
句朗は、屋敷の地下に忍び込んだ時に見つけた黒い扉を思い出した。あの扉の奥に、秘密が隠されているのだろうか。
「ただ、秘密を暴く前に、解呪しないといけないだろう。まずは自分たちにかかった、白紙に返る呪術を解かないと。だから入は、解呪の呪師を探しているようだ。もちろん、名法師の耳に入らないように、こっそりとね」
やっと入の考えが理解できたのと、はっきりした目的が見えたことで、句朗はやる気が湧いてきた。
「今日はこれくらいにしておこうか」
「あれ、僕どうやって帰れば……」
今更心配になってくる。
「夢から覚めれば、帰れるさ」
竜胆が穏やかに言った。
「ここは、夢の中なんですね……」
竜胆はふんと鼻を鳴らした。それは初めに言ったとでも言いたいのだろう。
句朗は名残惜しく、その空間を観察する。考えてみれば、もしこの獏という生き物がいなかったら、入や自分が蒼羽隊の正体を突き止めたとしても、白紙に返ってしまうところだったのだ。協力してくれる竜胆に、深い感謝の気持ちが芽生えた。その視線に気づいたのか、竜胆は言った。
「言っておくが、お前たちの常識の中にある良心や義理なんてもんは、私たちには通用しない。他の生き物も同じだろうがな。お前はお人よしだと聞いているから、しっかり覚えておくといい」
句朗は、どきどきしながら、心に留めるように頷いた。
「そうだ、今日の記憶を食べてやろうか。それとも、持ち帰るか?」
少し迷ったが、何も食べてもらわないことにした。
「いいだろう」




