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「それ、君が好きだって言ってたやつだよ」
夕飯の席で、入に勧められて買ったガガドという料理を口に含み、句朗は眉間に皺を寄せる。今まで口にしたことがないような味だ。いったいなんのソースだろうか。食べ物の味ではない。入の顔を見ると、注意深くこちらの様子をうかがっている。
「本当に僕、好きだって言ってた?」
「いや、まずいって言ってた」
入はそう言うとけらけらと笑った。句朗は憎いような嬉しいような、何とも言えない顔をする。
「ここしばらく、すごく頑張ったから。自分へのご褒美」
そう言いながら、後から来た傘音が席についた。
「そうか」と史紋がその隣に座る。
「何がご褒美」
入が口をもごもごさせながら聞く。
「新しい爪にしたの」
その言葉の意味が、句朗にはすぐには分からなかったが、傘音が両手の甲をこちらへ向けるのでやっと分かった。爪が鮮やかな緑と赤で装飾されている。どんな塗料を使っているのだろうか。
「頑張ったからね」
入が、うんうんと頷くのを見て、「何かあったの」と句朗が尋ねる。
「ここ最近、蒼羽隊全体が大忙しだったのよ。頑張ったのは私だけじゃないけど、こういうのは自分で自分をちゃんと褒めてあげないと」
水をごくごく飲むと、入は親父みたいな吐息をついた。
「岩足の件もあったしな」と史紋。
岩足とは、一年に一度油隠を横断する、だいだらぼっちの名前だ。油隠に現れるだいだらぼっちには、森足と岩足の二人がいる。その名を本人が名乗ったのかは分からない。油隠の人間は、彼らの顔も知らなかった。顔が雲の遥か上にあるからだ。みな、彼らの足しか見たことがなかった。
「岩足がどうかしたの?」
「ああそう、それも覚えていないのね。そりゃそうか」と傘音はひとり納得する。
「岩足が転んだの」
「岩足が……転んだ?」
「ええ。クロちゃんが記憶をなくしたのと、同じ日だったかしら」
はるか昔、だいだらぼっちは人間の居住地を踏み荒らし、大変な被害だったという。あまりに背が高いため意志の疎通ができず、踏まないようにお願いすることもできなかった。しかしある時、あらゆる生き物と話ができる、『透』と呼ばれる呪師が現れ、その人が間を取り持つことで、だいだらぼっちが歩く場所を決めたのだそうだ。今では、だいだらぼっちが足を下ろす場所は、人が入れないように封鎖されている。
「大変なことじゃないですか」
「ここもすごく揺れたわ」
あれだけ大きな生き物が転んだら、地震が起こるだろう。
「町や人への被害は」
「ザムザという町が潰れた。もともと憑き物の影響で住んでいる人は少なかったが、それでも人が多く死んだ。憑き物がうろうろしていて、町の復旧もほとんどできていない。なんとか住人の救助と受け入れまでは終わったが……」
「あと、岩足が立ち上がる時に手をついて、ザムザの北の山がつぶれたわね。人間以外の生き物の被害情報は、まだここまで届いていないわ」
「岩足の様子は」
「そのまま立ち去ったらしいが」と史紋。
その時、句朗の背後から声がした。
「あれは転んだんじゃなくて、わざと街を潰したんだ」
振り返ると、鼓童がいた。
「来年は森足と手をつないで煙羅国を行進するぜ」
句朗はどう反応すべきかと困り、みなの顔を見た。
史紋は涼しい顔をしたまま、「句朗は、白紙に返ったんだ」と、一見関係ないように思えることを言う。
「知っている」と鼓童はそっけなく返す。
入は何も気にしていない様子だが、傘音は明らかに不機嫌だ。句朗がもう一度振り返ると、すでに鼓童はいなかったが、傘音は鼓童の去った方向に向けて、手で下品な仕草をした。
それですっきりしたのか、「とにかく、そんな大忙しの時に、クロちゃんがぶっ倒れて記憶をなくして、大変だったんだから」と言った。
「すみません」
「冗談よ、謝らないで」
休暇三日目、朝食の席で入が現れるのを待っていた句朗を見て、入は少し嫌な顔をした。練習に付き合ってほしいと言うと、「真面目だねえ」と呆れるように言った後、断られた。
「買い物行かないといけないから」
「街へ行くの?ついていってもいい?」
「いや、練習したいなら、私に付き合わずに、史紋か誰かを誘えばいい」
一緒に買い物へ行くのが、そんなに嫌なのだろうか。句朗は少し落ち込み、素直に「分かった」と言った。
入はその様子を見てふっと笑うと「そんな顔するなよ」と言った。その顔を見ると、相手が女の子ではなく男友達のような距離感に思えて、句朗はほっとした。
とりあえず訓練場へ向かおうとすると、名前を呼び止められた。目が覚めた時に説明をしてくれた、事務員だった。
「名法師様、ヨア様、リア様の御三方が、あなたに会いたがっていらっしゃいます。今から一緒に来られますか?」
急なことに驚き、じわじわと緊張を感じる。
三人は、どうして自分に会いたいのだろうか。白紙に返ったためだろうか。
「はい」
「では、まず部屋へ戻って正装に着替えましょう。スカーフをして、上着を着て」
早足で句朗の部屋へ向かう事務員を追おうとすると、入に名前を呼ばれた。彼女が駆け寄ってきて、短く囁く。
「気をつけて」




