2-6
「で、本当に全部忘れてる?」
入は、会話の続きのようにいきなり問いかけてくる。
「うん、ごめん」
入はじっと句朗の顔を見つめると、短いため息をついた。
「君のことも、覚えてなくてごめん」と、そのため息に対して形式的に謝る。
「いや、いい」
謝罪を鬱陶しく感じたのか、入はあっさりとした態度を返す。
「古井のことは?」
「古井?」
初めて聞く名だった。人の名前だろうか。青い手記に書いてあっただろうか。
「覚えてない」
「あれ、青い手記は読んだんだよね?」
「うん」
「いまある?」
「あるけど」と言って引き出しから青い手記を取り出すと、入が手を伸ばしてきた。
句朗は思わず、それを避ける様に、青い手記を遠ざけた。
入は一瞬傷ついた顔をしたが、すぐにそれを隠した。
「ごめん」と短く言って「そうか」と独り言のようにつぶやいた。句朗もそれに被せる様に、思わず「ごめん」と言った。
なんだか、入の調子に乗せられている気がする。記憶を失ったのをいいことに、あたかも身近な人間だったような振る舞いをして、何か悪いことを考えているのだろうか。句朗は動揺を鎮めて、冷静に振る舞えるように自分の心を律した。
「説明しないといけないことが山ほどあるんだ。みんながいる時には話せないし」
入は早口でそう言うと、眉間にしわを寄せて何かを考え始めた。句朗が入の言葉の意味を考えているうちに、また入が言った。
「ひとつだけ、約束してほしい。それが無理なら、無理だと言ってほしい」
あまりに真剣な様子に、句朗は背筋を正して「わかった」と返事した。
「私を信用しなくてもいいし、君が知っていることを私に伝えなくてもいい。だけど、私と話したことは、絶対に口外しないでほしい」
入が何かを急いでいることは分かったが、句朗は十分に時間をかけて考えた。入を傷つけるのは本意ではないのだが、あまりにも情報が少ない。『信用ならない』という自分の言葉と、目の前の彼女の様子を照らし合わせ、どちらを信用できるだろうか。句朗は、自分の言葉を選んだ。
「それは、約束できない」
予想外の答えだったらしく、入は目を見開き、それから深い悲しみを浮かべた視線をゆっくり伏せた。
二人の間に沈黙が降りる。句朗は心の乱れを悟られないように気をつけた。約束は信頼の上に成り立つものだ。口先でだけ約束することは可能だが、句朗はそうしたくなかった。
長い沈黙は、句朗が破った。
「古井って、誰?」
入が顔を上げ、まるで泣いているように見えてどきりとしたが、涙を流してはいないようだった。
「古井は……」
入は言葉を止め、耳をすませた。廊下を足音が近づいてくる。
「この話はまた後で」
小さな声で入は言った。
ノックの後、史紋が入ってきた。
「いたか」
部屋の中の空気に気付いているのか、いないのか、史紋は気にしていない様子で手を差し出した。
「この部屋の鍵を預かってきたんだ。下で、事務員と鍵屋に会ったから」
史紋は句朗に鍵を渡すと、そのまま入の隣に腰を下ろしたので、少し意外に思った。
「鍵屋が珍しがって、きょろきょろしてたよ」
鍵屋がきょろきょろしていた理由について、「外部の人は、滅多にここへ入れないからね」と入が説明してくれた。
史紋は句朗の顔をちらりと見ると、「大丈夫か」と言った。
「はい」
「お節介だと思ってくれて構わんが……」
史紋は迷いながら口を開く。
「俺はお前たちとは別の班だったが、お前たちがよく一緒にいたのは覚えているよ。古井さんに、くっついていたな」
また、古井という名前が出た。句朗はしっかりとその名前を覚えた。青い手記を読み直す必要がありそうだ。史紋がそう言うのであれば、本当に入と自分は、周りから見て近い関係性だったのだろう。ただ、内心では入のことを信用していなかったのだ。拒絶されて悲しんだ入の様子は、演技ではなかったのかもしれない。
史紋は立ち上がり、二人に言った。
「仲良くな」
入は「うん」と素直に頷いた。
夕飯の後、自室に戻った句朗は、青い手記を開いた。人物に関するページを読み、もう一度丁寧になぞっていったが、古井の名は一度も出てこなかった。その意味を考え、句朗はその晩なかなか寝付けなかった。
次の日、句朗は風呂に入り、ひとりで朝食を食べに向かった。本部への連絡用と、班内の連絡用の二種類の浮文紙を折りたたんで、ポケットに入れておいた。浮文紙には、既にいくつかの連絡が来ていたが、句朗に関するものではなかった。
机の引き出しの奥に、現金の入った財布があるのを、昨日の晩見つけたので、朝食代はそれで支払った。翠羽隊だと木偶を持たない人の方が多いらしく、そういう人は普段現金を使用するようだ。もちろん、蒼羽隊であっても、本部から外へ出ると現金を使う。給料を引き出すのには、街の銀行へ行く必要があるらしいが、ある程度はまとめて引き落としていたのだろう。財布にはまとまった額のお札が入っていた。
広場の様子を眺めながら時間をかけて食べていると、蒼羽隊の人間数人に声をかけられた。みんな句朗が白紙に返ったことを知っている様子だった。同情の言葉をかけられ、ここでの生活が、そこまでひどいものではないということが分かった。
食事を終え、部屋に戻る途中で入に会った。訓練場へ案内するため、句朗を探していたらしい。ポケットの中を確認すると、班内用の浮文紙に、『句朗どこにいる?』と文字が浮かんでいた。
「なんでそんなに早起きなの」と入は驚く。
昨日の気まずさはなく、あっさりした態度だ。彼女は大きな鞄を背負っている。入が朝食を食べている間、彼女の指示で部屋へ戻り、仕事のための道具を持って、広場へ戻ってきた。腰につける鞄と、背中に背負う鞄を伴うと、体重が二倍になった気がした。




