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ひとりになると、句朗は部屋をもう一度見回し、まず引き戸を開けた。
そこは洗面所だった。鏡がある。
鏡の前に立とうとして、句朗はわずかに躊躇した。なんとなく怖気付いてしまったが、自分の姿を見るのに怖気付いたこと自体が恐ろしく思え、勢いに任せて飛び出した。
知らない人間がそこにいた。顔に覚えがないという事実にまず動揺したが、気持ちを強く持って、その人物を観察する。
彼は平凡な顔つきをした少年だった。髪は黒で、背は低く、怯えきった表情をしている。冷静になるよう自分に言い聞かせると、やがて視線がしっかりしてきた。今度は不思議そうな表情を浮かべて、眉間にしわを寄せながらゆっくり首をかしげた。鏡に写っているのは、間違いなく自分のようだ。試しに笑いかけてみたら、なかなか可愛らしかった。思ったより冷静な自分を心強く思う。医務室の服を着たままなので、あとで着替えることにした。
洗面所の隣には手洗いがあった。風呂はないようだ。
部屋に戻ると、窓を確かめた。ガラスは開くようだが、その外側に、枠がはめ込まれている。枠は円形の模様を中心に美しい模様を形成し、装飾品として価値がつきそうな出来栄えだ。非常時であれば、蹴り破って外に出られそうだ。
外は林になっているようだが、左手の方に瓦屋根と白い壁が見える。この建物の外観だろうか。くすんだ黄色の葉っぱの木は、句朗には何の木か分からなかった。林の向こうに何か見えるような気もしたが、何か分からなかった。
句朗は部屋の中に注意を戻し、武器になるものを探した。事務員の話は信用して良いようだが、どうしても武器を手元に置いておきたかった。棚には本が数冊入っており、日用品が数個並んでいた。
箪笥の上に、鞄や工具入れのようなものを見つけた。鞄は、腰や腿に装着する形状に見える。道具を手にとって観察してみると、鞘に収まったナイフやライター、用途がわからない折れ曲がった金属の道具が入っていた。句朗はナイフを抜き取った。
箪笥の横には、ひときわ大きな鞄が立てかけてある。背中に背負う形状の鞄だが、鏡で見た自分の姿を思い起こすと、自分が背負うには大きすぎるような気がした。中を見ると、太い縄がとぐろを巻いている。その重さから、縄が非常に長いことが分かった。
ベッドの下を覗くと靴が二足あった。一方は白くて軽いもの。金色の装飾が施されており、手触りも滑らかだが、靴底はしっかりしている。もう一方は革製の硬くて重い靴だった。足首まで覆う形をしていて、遊型車に乗る時に履くような靴に似ていると思った。
句朗は立ったまま左足を上げ、足の裏の様子を手で確かめる。足の皮は柔らかいため、素足で走るのは難しいかもしれない。万が一の時は、白い方の靴を手で持って、窓から逃げよう。少し迷ったが、医務室から履いたままだったサンダルを、そのまま履いておくことにした。
ベッドに腰掛けると、すぐ手が届くように、ナイフは机の一番上の引き出しに入れた。
緊急時の算段がついたので、やっと青い手記を手に取る。表紙は厚紙で、淵には金色の装飾が施されている。題は『久離録』。その少し下に『句朗』とある。
中を開くと、手書きの文字が並んでいた。汚い字で、我ながら恥ずかしくなった。一頁目を見る。『僕の名前は句朗で、蒼羽隊の一員だ。』そのような書き出しだった。
まずは句朗という人物を取り巻く、環境の概要が書かれていた。自分のこと、仕事のこと、油隠や煙羅国のことなどだ。当然蒼羽隊になってから書いたものなので、自分の身元に関する情報はなかったが、興味深い情報が二つあった。
一つは、自分は蒼羽隊の中でも、トアリスという役割を担っているということだ。トアリスとは、憑き物を退治する際に、呪術でその活動を停止させる役割を持つ。やり方を思い出せないので、その任務を果たせるのかと、不安になった。
もう一つは青い手記である『久離録』の他に、白い手記と呼ばれる『悠離録』というものがあるということだ。蒼羽隊が記憶を失ったときに備えて書いておくのが青い手記で、蒼羽隊に入る前に書いておくのが白い手記らしい。そのため白い手記の方には自分の本名や生まれや家族のことが書いてあるらしい。いつか平和が訪れた時や、脱隊をする時に返却されるものらしい。
句朗は、白い手記についての記述を読み、自分が何者であるか書かれているその手記について燃える様な渇望を感じた。それは今日目を覚ました時に感じた、悔しさや怒りと同じ熱量だった。しかし、蒼羽隊へ入隊した自分の意思を裏切る感情だと気づき、青い手記を読み進めていくうちに、白い手記への憧れは消えてなくなった。
概要が終わると、その次に人間関係について書かれていた。まずは蒼羽隊の総督である名法師と、副総督であるヨアとリアという人物について書かれていた。記憶を失う前の自分は、この三人を母のように思っていたようだ。彼女たちは、悪を挫き弱気を守る蒼羽隊を束ねるにふさわしい、広い心の持ち主のようだ。
次のページには同じ班の人間の名前が並んでいた。鼓童、傘音、入という名の三人が書いてある。
鼓童。
さっきすれ違った男のことを、事務員がそう呼んでいた気がする。句朗は別人であることを祈った。鼓童という人物の説明文には『根拠のないでたらめばかり言う』と書いてある。
そしてさらに、入という人物の紹介文には『馴れ馴れしいが信用ならない』と書いてある。先が思いやられ、句朗は暗い気持ちになった。
その先もぱらぱらと読み進めたが、身の回りの人間について簡単に特徴と、その人をどう思うかが書かれていた。かいつまんで読んだところによると、基本的にみな誉め言葉が書いてあった。蒼羽隊の名前の後には、数名の翠羽隊の名前があった。
煙羅国の軍隊は、九頭龍国と戦争をしていた時の名残として残っている朱羽隊と、元々外部の組織だった蒼羽隊と、その二つの軍を補助する翠羽隊という三つの部隊で成り立っている。翠羽隊には医療班、技術班、管理班などがあるそうだ。概要部分に書いてあった知識だった。先ほどの事務員が緑色のスカーフをしていたのを思い出す。
今のところ信じられるのは、記憶を失う前の自分だけだった。この組織の頂点である名法師、ヨア、リアの三人は信用して良いということ、入と鼓童という人物のことは信用しすぎてはいけないことを、頭に叩き込んだ。人物の紹介文に否定的なことが書かれているのは、その二人だけだった。
手記の中盤以降は、ここへ来てから起こったことが日付入りで、日記のような形式で書かれているようだった。毎日書かれていたわけではなく、何か印象に残ることが起こるたびに書かれていたようだ。読みづらかった汚い字も、慣れてくると癖を捉えて読めるようになってきた。すべてを読む時間はないと判断し、最後のページにだけ目を通すと、食堂の麺料理に、味付き卵が二つ乗っていたという、なんとも平和な内容だった。
句朗は青い手記をいったん閉じ、着替えることにした。跪いて箪笥を開けると、一番上の引き出しには白いシャツが数着入っていた。襟元に複雑な編み込みが施されており、涼しそうだ。二段目には灰色のズボンが、三段目には下着類が入っていた。
句朗は白いシャツとズボンと靴下を身につけ、箪笥の上に置いてあったサスペンダーもつけてみた。壁に、丈の短い上着と、青いスカーフがかけてあったが、そちらには触れないでおいた。上着の内側には鮮やかで美しい紋様が描かれていて、高価なものであるということが分かった。元から着ていた淡い青の服は、ベッドの上に畳んでおいた。
さらに細かい部分まで読むため、再び青い手記を開いたが、すぐに、廊下を歩く複数の足音を耳が捉えた。廊下の床は木製なので、こつこつという音がよく聞こえる。足音は扉の前までやって来て止まった。




