09 もう一度あなたに会えたら【元王女アンジェリカ視点】
※ここらへんは書籍の書き下ろし部分の続きになるのですが、アンジェリカは、クルトと結婚しベイリー公爵家に嫁いだものの公爵一家から冷遇されています。
バルゴア領にいるテオドールに助けてほしくて『テオドール、私の元に戻ってきなさい。今なら許してあげてもいいわよ』と手紙を送ったけど、テオドールに相手にしてもらえませんでした。
テオドールは返事を書く気がなかったのですが、シンシアに「お返事しないんですか?」と聞かれ、シンシアの期待を裏切りたくないために、昔の家庭教師にもらった言葉を書いて、今後は手紙を送っても読まないし返事もしないことをアンジェリカに伝えている状態です。
窓の外が騒がしい。
私は読んでいた本のページをめくる手を止めた。
窓の外に視線を向けると、ベイリー公爵家の馬車から夫であるクルトが降りて来たところだった。
王宮で開かれているロザリンドの誕生日パーティーから戻ったのね。
クルトが私の部屋に来たら面倒なので、私は本をテーブルに置くと内カギを閉めた。
クルトは結婚直後から今まで、私に見向きもしなかったのに、王室行事に私を連れていかないとまずいとでも思ったのか、最近になって私をパーティーに誘ってきた。
あのときのことを思い出すと、今でも気分が悪くなる。
*
久しぶりに顔を合わせたクルトは、結婚前と変わらず美しかった。銀色の髪がキラキラと輝いている。そんな彼と結婚したら、自由で幸せな未来が待っていると以前の私は信じていた。
でも、そんな未来はどこにもなかった。
クルトの瞳が私を捕らえたと思ったら、汚い物を見たかのように歪む。
「アンジェリカ、もう少し身だしなみを気にしなよ」
「……」
身だしなみを整えるためのメイドはつけてもらえず、私が自由に使えるお金もないのに。
クルトの父であるベイリー公爵も、今さら私への対応がまずいと気がついたようで、回数を減らされていた質素な食事が元に戻った。
それでも専属のメイドはつけてもらえない。掃除が行き届いていない部屋の隅には、ホコリが溜まっている。
ベイリー公爵はもちろんのこと、使用人ですら、私の扱いはこの程度でいいと思っているのがよく分かる。
毎日、日替わりで態度の悪いメイドが部屋に入ってきては、適当に私の髪をとかして、みすぼらしい服を着せ去っていく。
夫のクルトは、私に見向きもしない。それどころか、なかなか公爵家に帰ってこない。
付き合っていた有名女優とは別れたようだけど、どうせまた別の女の元に通っているのね。
クルトの不倫を知ったときは、あれほどショックを受けたのに、数か月たった今ではもうどうでもいい。
どうして、私はこんな男と結婚してしまったの?
深い後悔が私を苦しめ続ける。
そんなとき、私はテオドールからの手紙を読み返す。それは彼が一度だけ返事をしてくれた手紙。
そこには、最初は理解できない言葉が綴られていた。
――本は誰にでも平等です。読書は体験であり対話です。あなたは決して一人ではありません。
あのときはテオドールにバカにされたと思い、ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた手紙。でも、今ではそれは私の心の支えになっていて、もう数え切れなくらいこの手紙を読み返している。
初めは、どうして自分がこんな目に遭っているのか分からないまま、私は公爵家の図書館で本を読み始めた。
読み終わった本が増えていくにつれ、今まで分からなかったことが少しずつ分かるようになっていった。
ベイリー公爵家の図書館は不思議で、左棚から右棚にかけて本の難しさが上がっていっていた。それはまるで、読書が嫌いな私のために誰かがそう並べておいてくれたかのように思える。
王宮での勉強の日々はつらくて仕方なかったのに、数か月たった今では静かに本を読んでいる間だけ私は苦しさや後悔を忘れることができた。
*
私の思考を遮るように、部屋の扉が叩かれた。
「アンジェリカ!」
扉の向こうからクルトの声がする。カギをかけておいたので勝手に入ってこれない。
私が扉越しに「何?」と返すと、クルトはやけに甘ったるい声を出した。
「ねぇ、アンジェリカ。カギなんてかけてどうしたの? 早く開けてよ」
この男の甘えた声に、優しい微笑みに私は騙された。
普段は私のことを無視しているのに、自分の用があるときだけ訪ねてくるなんてうんざりだわ。
私が黙っているとクルトは勝手に話し出した。
「王宮で兄さんに会ったんだ」
自分でも驚くくらい、私の心臓が飛び跳ねた。
「アンジェリカはどうしているかって、心配していたよ。兄さんのクセに着飾っちゃってさ。着飾ればアンジェリカが振り向いてくれるとでも思っているのかな?」
着飾る? あのテオドールが?
私の記憶の中のテオドールは、いつも陰鬱な空気を背負っていて、愛想笑いの一つもしない。口を開けば小言ばかりの男だった。
……でも、私が分からないことを何度でも説明してくれたのは、テオドールだけだった。
王宮の教師たちは、ため息ばかりついていたのに。
今のつらい状況も、テオドールの手紙で本を読むようになったから耐えられている。
どんなにつらくても、今さら父である国王陛下に『助けて』なんて言えない。
それに例え、私が言ったとしてもお父様は私を助けてくれないわ。
なぜなら、私とクルトの結婚は、王命で結ばれていた婚約を私情で潰した罰なのだから。もし、お父様が娘だからと私を助けたら、それこそ、今度はお父様の地位が危なくなってしまう。
妹のロザリンドとは、仲が悪かったわけではないけど、いいわけでもなかった。
女王になる予定だった私とは違い、ロザリンドは成人したら他国に嫁ぐことになるだろうと言われていた。
そのためか、ほとんど顔を合わすこともなく、姉妹という感覚は薄い。
王宮行事で気弱そうなロザリンドと顔を合わす度に、私はイライラして「あなたは気楽でいいわね」と、ため息をついていたことを思い出す。
誕生日パーティー、私も行けばよかったかしら?
そんな考えを私はすぐに否定した。だって、こんな姿で行けるわけがない。
窓ガラスに映る私は、王女だった頃のような輝きを失っている。それに、もし誕生日パーティーに行っていたとしても、ロザリンドも私を助けてくれないだろう。
もしかしたら、私がいなくなったことで女王になれることを大喜びしているかもしれない。どちらにしろ、私が再び王女になり、女王になるという未来はもうない。
今の私はそういうことが分かるくらいにはなっていた。
だから、お父様もロザリンドも私を助けてくれない。でも、テオドールなら……?
テオドールは、私から公務を全て奪うくらい仕事が大好きだし、ベイリー公爵家の長男でもある。
それに役人としてものすごく優秀だと皆が言っていたから、テオドールなら私を助けられるのでは?
私は扉に駆け寄ると、扉越しにクルトに尋ねた。
「……本当にテオドールが、私の心配をしていたの?」
「そうだよ。アンジェリカも、兄さんに会いたい?」
クルトの言葉は信用できない。信用できないけど、全てがウソだとは限らない。
「会いたいわ」
「だったら会わせてあげるよ。だから、ここを開けて?」
ためらいながら扉のカギを開けると、そこには優しい笑みを浮かべたクルトがいた。
クルトの存在に癒されていた王女時代の頃を思い出し、グッと胸がつまる。
愚かな私は騙されているとも知らず、彼のこの笑顔を心の底から愛していた。
「本当にテオドールに会わせてくれるの?」
「もちろん!」
「でも、私……こんな姿じゃ会えないわ」
「大丈夫だよ」
クルトは優しく私の手を取った。
「君はとても美しいから」
そう言ったクルトの瞳には、王女だった私に向けられていたような熱はない。
だから、この言葉がウソだとすぐに分かった。胸が痛い。クルトは、また私を騙そうとしているのね。
でも、ウソでもいい。
クルトの目的は分からないけど、私はテオドールに会えればそれでいいのだから。
私を上から下まで見たクルトは「とりあえず、図書館に出入りするのはやめようか」と言った。
私が不思議に思っていると、クルトは呆れたように笑う。
「使用人から聞いたんだよ。君が父さんの仕事を手伝わず、ずっと図書館にいるってね。兄さんも、今の君みたいに、子どもの頃からずっと図書館にいたんだ。誰とも話さず本ばっか読んでてさ。そんなことしてたら、君も兄さんみたいになっちゃうよ?」
クルトの言葉に、私はハッとなった。
左棚から本を難易度順に並べていたのは、テオドールだったのかもしれない。『子どもの頃から』と言っているから、子どもが読むような難しくない本もテオドールが大切に管理していたのかも?
もしかしたら、テオドールも公爵家で、今の私のような扱いを受けていたの?
その日から、図書館は今まで以上に私にとって大切な場所になった。
でも、クルトの指示で図書館に行くことができず、代わりに私はベイリー公爵家のメイドたちに、最高級のもてなしを受けた。王女だった頃のように、髪や肌、爪の先まで磨かれ手入れされる。
すぐに元通りとまではいかないかもしれないけど、見られる格好になったら、テオドールに会える。
そう考えると、苦しいだけだった日々に希望の光が差し込んだ。
テオドール。もう一度あなたに会えたら、伝えたいことがあるの……。
今までのことを謝りたい。
それから――。
私はテオドールからの手紙をそっと胸に抱きかかえた。