08 クルトの目的【テオドール視点】
目の前に現れた弟を見て驚きはしたものの、特になんの感情も湧かなかった。
「やぁ、兄さん」と声をかけられたので、「久しいな、クルト」と返す。
その声は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
幼い頃は、両親からの愛情を一身に受けるクルトが羨ましいと思っていた。
成人してからは、誰とでもすぐに打ち解けられるクルトと、人とうまく関わることができない自分を比べて虚しさを感じたこともある。
その当時、私の婚約者だったアンジェリカ様と共謀して、婚約破棄を突きつけたときは人生に絶望すらした。
クルトは私と違い、母と同じ銀髪に、母譲りの華やかな顔立ちをしている。
そんなクルトは、いつでも人々の中心にいて自信に溢れていた。
今思うと、私はクルトに劣等感のようなものを持っていたのかもしれない。しかし、目の前のクルトを見て、今の私が思ったことは『弱そう』だった。
日ごろから屈強なバルゴアの騎士たちを見ているせいか、クルトの線の細さが気になる。白い顔には薄く化粧をしていて、肌荒れや顔色の悪さを誤魔化しているようだ。
煌びやかな装いは、バルゴア領では派手過ぎて、人々を笑わせることを職務とする道化のように見える。
「兄さんたちを、会場でいくら探しても見つからないんだもの。仕方がないから、ここで待っていたんだよ」
私に話しかけているようだが、クルトの視線はシンシア様に向けられていた。
シンシア様の美しい瞳に、クルトが映っていることが不快だ。
チラッとシンシア様を見ると、苦手な虫が部屋に入ってしまったときと同じような『うわぁ……』という顔をしていた。
シンシア様は相変わらずクルトのことを良く思っていないようだ。そのことに安心したのと同時に、愛らしい表情に、つい口元が緩んでしまう。
クルトが「王都に戻って来たのに、連絡もくれないなんてひどいじゃないか」と言うのが不思議だ。
クルトと手紙のやりとりをしたことなんて一度もない。
そもそも、同じ家で育っても会話すらなかったのに。
「私たちは、そんなやりとりをするような仲だったか?」
思ったままのことを口にすると、クルトは驚いたように目を見開いた。
「それは……。でも、父さんからシンシア様を連れて家に来るようにと手紙が届いただろう?」
「ああ、それか。断った」
「はぁ?」
ポカンと口を開けるクルトに、私は「話はそれだけか?」と尋ねた。
「悪いが今は急いでいるんだ」
なぜなら、シンシア様が足を痛めてしまったから。
今も私は、シンシア様の足に負担がかからないように身体を支えることに必死だった。
早くシンシア様を馬車にお連れして、座っていただかないと。
「兄さん――」
「用があるなら手紙で。王都にいる間、私はターチェ伯爵家に滞在している」
クルトの言葉を遮って、私は再びシンシア様と共に歩き出した。
横を通り過ぎるとき、クルトの顔が引きつっているように見えたが、そんなことはどうでもいい。
「ちょっと待って!」
そう言いながら腕を掴まれたので、私はクルトを睨みつけた。
もし、私が体勢を崩して、シンシア様の足に負担がかかったらどうする気だ。
「な、なんだよ。その顔は……」
「?」
青ざめ怯えたような顔をするクルトに、『おまえのほうこそ、どうした?』と聞きたい。
ターチェ家の馬車の御者が私たちに気がつき、こちらに馬車を寄せてきた。
馬車の扉を開けてくれたので礼を言い、シンシア様を慎重に馬車に乗せると、私はようやく胸を撫で下ろすことができた。
少し余裕ができたので、クルトを振り返り「なんの用だ?」と尋ねる。私から視線をそらしたクルトは「兄さんのくせに……」と悪態をついていた。
小声なのは、シンシア様に聞こえないようにしているのかもしれない。
その証拠に馬車の中からシンシア様が「だ、大丈夫ですか?」と声をかけたとたんに、クルトは悲しそうな表情を作った。
「ひどいよ、兄さん! どうして僕に冷たく当たるの?」
それはまるで、冷酷な兄にいじめられている、哀れな弟のような言動。
とたんに、シンシア様の表情が虫を見たときと同じになったので、私は笑いを噛み殺しながら馬車の扉を閉めた。
これ以上、シンシア様に不快なものを見せるわけにはいかない。
馬車から少し離れた場所で私はクルトに向き直り「何がしたいんだ?」と尋ねた。演技をやめたクルトの表情はこちらを見下しているように見える。
「別に? シンシア様に、ご挨拶がしたかっただけだよ」
「……アンジェリカ様は? 一緒じゃないのか?」
「うるさいな。アンジェリカが外に出たがらなかったんだ!」
クルトとアンジェリカ様との結婚生活がうまくいっていないことは私も知っている。クルトが王都で有名な女優と不倫していると遠いバルゴア領まで聞こえてきたくらいだ。
王都中の貴族がクルトの不倫を知っていると思うが、王都では貴族の不倫は、そこまで問題視されない。
それでも、王室の行事に元王族のアンジェリカ様と一緒に参加しないなんて、ありえないことだった。いくらアンジェリカ様が王位継承権を剥奪されたとはいえ、アンジェリカ様をないがしろにする行為は、王家をもないがしろにしていると取られかねない。
王命で定められた婚約を破棄させるきっかけを作り、アンジェリカ様を妻に娶ったクルトは、ウソでも表向きはアンジェリカ様を大切にしなければならない。そうすることで、ベイリー公爵家は罪を免れたのだから。
そのことにクルトは、気がついていないのだろうか?
だとすれば、あまりに愚かすぎる。
「さぁね」と鼻で笑うクルトの考えが読めない。何が目的なのか探っておいたほうがいいかもしれない。
「それより兄さん、本当にシンシア様と婚約できると思っているの? シンシア様が本当に兄さんを選ぶとでも?」
クルトは馴れ馴れしく私の肩に手を置いた。不快だが情報を集めるために、されるままになっておく。
「シンシア様はとてもお優しい方なんだってね。兄さんは同情心で側に置いてもらえているだけなんだから、もうそろそろ身の程を弁えなよ」
クルトが私の耳元でささやいた。
「どうせ、アンジェリカのときと同じで、まだシンシア様に手を出していないんだろ? まぁ、兄さんに触れられるなんて女性が可哀想だもんね」
何がおかしいのかクルトは、クスクス笑っている。
「アンジェリカは、もういらないから兄さんに返すよ」
「何をバカなことを……」
「できるよ。シンシア様が僕を選んだら、ね」
クルトは不敵な笑みを浮かべた。
「バルゴアってすごいんでしょ? だって、王配になる予定だった兄さんを王都から連れ出せるくらいなんだもの」
クルトはそういうが、王家の秘密を私はまだ知らされていなかった。
例えば、カゲを率いている貴族は誰なのか?
どうカゲを育成しているか、など。
それは、私が王配になったときに伝えられる予定だったもので、それを知ってしまえば、もう王家から離れることはできない。
それでも私は、すでに王家の深いところまで知ってしまっている。
クルトの言う通り、本来ならアンジェリカ様に婚約破棄されようが、私が王家から離れることは許されなかったはずだ。
そんな私を救うことができたのは、シンシア様がバルゴアだったから。それほどの力を持つバルゴアが、本気でクルトをシンシア様の婿にしようとしたら?
王家はアンジェリカ様とクルトを離婚させ、シンシア様にクルトを与える代わりに、バルゴアの後ろ盾を得て、私とロザリンド様との婚約を成立させようとするかもしれない。
そんなことはありえない。でも、ありえないことが、できてしまうのがバルゴア。
私は自分の血の気が引いていくのが分かった。
シンシア様の側にいられなくなるなんて。そんなこと、一秒たりとも耐えられない。
クルトが楽しそうに笑っている。
「いい顔してるね。そうそう、兄さんはこうでなくっちゃ! 兄さんは大人しく仕事だけしていればいいんだよ。シンシア様は僕がもらってあげるから」
その瞬間、私は肩に置かれていたクルトの手を強く払った。驚くクルトの襟首を掴む。
「シンシア様は誰のものでもない!」
大きく目を見開いたクルトに、つい声を荒げてしまった。湧き上がる怒りの感情を抑えることができない。
「誰のものでもないが、おまえよりは私のほうがシンシア様を知っている! 彼女の手はとても温かく、その肌は滑らかで、いつも花のような甘い香りを漂わせているし、何より私はすでにシンシア様の唇のやわらかさを知っている!」
掴んでいる襟首を離すと、クルトは体勢を崩して尻もちをついた。私を見上げる顔は呆然としている。
「言っておくが、私はシンシア様に押し倒されて、服を脱がされたことがある。私たちはすでに、それほど深い関係だ」
正確にはケガをした私を心配したシンシア様が、ケガの箇所を見ようとして私の上着をめくっただけだが、クルトを牽制するにはこれくらい言っておいたほうがいい。
「間に割って入れるなどと思うな」
クルトに背を向けて、私は馬車に乗り込んだ。ゆっくりと動き出した馬車の中で、私はため息をつく。
まさか、クルトの目的がシンシア様の婿になることだったなんて。実家であるベイリー公爵家には、もう関わる価値すらないと思っていた。しかし、もしクルトの考えがベイリー公爵家の総意なら話は変わってくる。
父がシンシア様をわざわざベイリー公爵家に連れて来いと言っていたのは、このためだったのか?
バルゴア領にいた頃は、毎日が幸せすぎて復讐しようなんて考えたことすらなかった。
今でも復讐するための時間がおしいと思うくらいに、家族のことはどうでもいい。でも、向こうから関わってくるのなら、こちらも相手をするしかない。
これ以上、余計なことをされる前に、徹底的に潰しておかないと……。
そこでふと、私は向かいの席に座るシンシア様の様子がおかしいことに気がついた。
両手で顔を覆い俯いている。
慌てた私が「足が痛むのですか?」と尋ねると、シンシア様は無言で首を左右に振った。
表情は分からないが、耳も首も真っ赤に染まっている。
「もしかして……」
クルトの言動に腹が立ち、つい声を荒げてしまった。
「聞こえ、て?」
私の質問に長い時間をかけてから、シンシア様はコクリと頷く。
「も、申し訳ありません!」
なんとか謝罪をしぼりだすと、シンシア様は「だ、大丈夫です」と言いながら顔を上げてくれた。その顔は真っ赤に染まって、恥ずかしさから瞳が潤んでいる。
綺麗だなと思ったのは一瞬。先ほどの自分の発言を思い出し、今度は私のほうが羞恥で顔を上げられなくなってしまう。
あっという間に着いてしまった行きの馬車とは違い、帰りの馬車の時間は長く、そして、馬車内は汗をかいてしまうくらい暑かった。