月面浮遊
大地は水に覆われ、空は一面星空となっており、その中でも青い星が目立つ場所であった。その大地の上で、星を眺める片翼の女性。
まだ二十代ほどの若い女性。その背には天使のような純白に輝く翼が煌々と輝いていた。
「あの子ははいったい、どこにいるの」
その悲し気な声は、静かな水面に響く。そして訪れる静寂は一層彼女の心を締め付けるのだ。
しかし――
「サグメ様……穢れに身を堕とした鬼は我が幽世へ、その身を隠していますよ」
「誰⁉」
唐突に聞こえた声に、女――サグメは驚きながらも振り向きざまに水気から形成した槍を飛ばす。
だが、目の前にいたのは十代後半になったばかりのような少年。何の力も心得もなさそうな人の子。不味い、殺してしまう。
そう思った頃には、水気の槍は少年の心臓を貫こうとしていた。その瞬間、少年を中心にした空間がゆがみ、槍そのものを消し飛ばされてしまう。
「貴女がアマノサグメですね」
静かに紡がれた言葉に、身の毛がよだつほどの悪寒にさらされる。目の前にいる少年は危険だ。近づいてはならないと彼女の本能が告げている。
少年は何の警戒心もなく、踏み出し、水に波紋を走らせる。一歩少年が前に進めば、サグメも一歩、後ろに下がる。それを見て、少年は不思議そうに顔を傾ける。
「何故、避けるのですか?」
「あなたは、いったい何ですか……」
そう少年に問いかけると何か合点がいったような顔をする。そして右ひざを地面につけ、片膝立ちをして、頭を垂れる。
「いやいや、失礼した。私は穢れた地上の人間。無作法ではありますが、これで許していただきたい」
「いえ……そうではなくて……」
作法とかそういうことをサグメは聞きたいのではない。地上の人間にしては一切の穢れは感じず、月の民と思えるほど神性を感じられない。むしろ何も感じないことに彼女は恐怖しているのだ。
「すいませんね。私は審神者童子と呼ばれているものですから」
「審神者ですか……」
本来、審神者とは神託を受け、その意思を伝える人のことだ。それは地上を見てきたサグメも、知らないわけではない。だからこそ、目の前の少年から感じる鬼気に疑問を感じた。別の種族の血、ましてや存在する次元の違う生物の血が交わることは決してないのだから。
「貴女が感じている不安については、気にしないでほしい。私はそういう一族の出なんですよ。あなたが生んだ子供のようにね」
「待って……あの子に何かしたの!」
そう声を荒げ、周囲の水気を集め始めるが、審神者童子は慌てて訂正する。
「違う違う! これを私に来たんですよ」
そう言って懐から白いカードのようなものを出し、サグメに投げ渡す。渡されたのは封筒に入れられた手紙。
「まぁ、開けてみてください」
恐る恐る開くと出てきたのは手紙。内容は『一度でいいから、会いに来てくれないか』というものだった。
だってそうだろう。勝手に生んで、勝手な都合で捨ててしまったあの子が自分を恨まないはずがない。そう思って、今日まで生きてきた。だけど――
「会いたかったのは彼女も同じなんですよ」
「え……」
「いえ、たとえ捨てられたと思っていても、あなたが与えた愛情が届かなかったわけがないんです。だから――」
童子が手を伸ばそうとすると、星がグラグラと揺れる。水面もちゃぷちゃぷと音を立て乱雑な波紋を作る。彼は少し、いやそうな顔をしてからサグメの手をぎゅっと握る。
「すいません。時間がないので勝手に連れていきますね!」
「ちょ、ちょっと」
待ってと言い切ることなく空間が歪み、大きな動物の口に飲み込まれたような感覚に陥る。
その数秒後、二人の体は投げ出され、後ろの襖を突き破って畳の上を転がり、童子の背中で柱に当たり止める。
「いてて……サグメ様、大丈夫ですか」
「は、はいぃ……」
正直、そんなものではなく普通に気持ちが悪かった。
だが、彼女の目の前には月では見られなかったサテラン式庭園が目の前に広がっていた。まだ月にいるのかと錯覚してしまうほど、綺麗だったのだ。
その奥にある四阿の下に、サグメの知る人物がいた。
「行ってあげてください」
その一言でサグメは四阿に向かって走っていった。
彼女が心から愛していたあの子のもとへ。