序章 その一 問
そいつは、いつだってお構いなしだ。
「はぁ……はぁ、あ……」
全く、それに付き合わされるこっちの身にもなってほしい。
「……く、苦し……し……し……」
……まあ、それはお互い様か。
「……死ねない!」
「またやってんのかよ」
俺は思わずツッコミを入れた。いけねぇ、この後コイツがどうするつもりだったのか、しばらく見ていようと思っていたのに……。まあいい、やってしまったものは仕方がない。俺は逃げも隠れもせず、ゆっくりと奴の前に回った。
「あっ、帰ってきてたの……お、お願い、助けて……!」
俺が移動している間、彼は──じいさんは体を不器用にゆらゆらと揺らし、こちらに視線を遣っていた。彼はたまたま部屋の入り口に対して背を向けていたのだが、こちらに振り返るだけでも一苦労、といった感じで体を捩っている──なぜって、彼は地に足を着けていないからだ。
慣用句的な意味ではなく、文字通り地面に足を着けていない。それは幽霊だから?いや、少し違うな、脚はちゃんとあるし。じゃあ地面に足を着けていないのにどうやってそこにいるのかって?それはまあ、簡潔に言えば──
首吊りだ。
ロープを結んでできた輪に首を通した、古典的な首吊り自殺。
……ま、正確に言うと、首吊り自殺“未遂”だけど。
「く、首もげる……い、息が……」
「自分でやったんじゃねぇのかよ。つか、なんでまた首吊り?」
率直な疑問。ここにはじいさんしかいないし、自然に考えてじいさんが自らの意思でやった“自殺行為”だ。どうなるかだって分かっていただろうに、なぜまた……。しかし答えを待っている俺を見て、じいさんはくわっと鬼の形相になった。
「そんなの後ででいいんだよ……!いいからさっさと助けてよ……!」
「まだ元気そうじゃん?」
自分でやったくせに八つ当たりしてくんじゃねぇよ。それに、そんなに急がなくてもいいだろ──
どうせ死なないんだから。
「ほらいくぞ。せーのっ」
じいさんの脚を抱え、そんな掛け声をかけながら持ち上げる。紐が髪や顎に引っかかったが、重さに耐えながら何度か上下に動かしていると、縄は難なく首から外れた。ふぅ、いい筋トレになったな。
「おええええ!あー助かった!死ぬかと思った!」
「さっき自分で『死ねない』っつってただろ」
「そうだけど……あれ、なんか喉おかしい」
そう言ってじいさんは自分の首に手を当てる。そう言われると、確かにいつもより声が若干しわがれているな。それこそ、本来の年齢に相応しい声だ。首を見てみると、うっすらと縄の跡が残っていた。縄に絞められて喉をおかしくしたのか。
「なんか痛いし……呼吸もいつもよりしづらい気が……」
「分かった分かった、治してやるから」
苦しそうに疼くまるじいさんを立たせ、俺は縄の跡を覆うように手を当てた──文字通り、“手当”である。
「……あ!治った!」
数秒後、じいさんは元気な笑顔を咲かせた。よし、もう大丈夫だな。
「いつもありがとうね、チカちゃん」
「いい加減懲りろよな、俺がいねぇと治せねぇんだから」
全く、相変わらず面倒臭い体だな──俺の口からは思わず大きなため息が溢れてしまった。俺の言葉に、じいさんはまた呑気に笑っていた。
昔々、あるところに、強力な魔力を持った“偉大なる魔術師”がいた。
彼女は様々な災厄をもたらす者として街を追い出され、人里離れた山の奥でひっそりと暮らした──捨て子で天涯孤独だった、一人の少年と共に。
少年は“偉大なる魔術師”に育てられ、立派な青年になった──しかしそんなある日、残酷にも、彼は“偉大なる魔術師”に大事なものを奪われてしまった。
それは──時間だった。
時間を失った彼は、老いることもなく死ぬこともない、不老不死となってしまった。しかし、彼自身が驚異的な魔力を得たわけでも、強靭な体を手に入れたわけでもなかった。逆に、時間がなければ成長も変化もない──彼は人間が本来持つ自然治癒能力すら失ってしまったのだ。致命傷を負っても死ぬことはないが、その傷が治ることもない──そんな厄介な体にさせられてしまった。
その青年が、俺の祖父さん──黒田正憲。
彼は正真正銘、死ねない男だった。