天使の訪れ
来客を告げるベルが鳴る。穏やかに晴れた昼下がり、この時間に約束をしないで訪れる客人は限られている。
「ああ、リチャード。シェリーはいるかな?」
リチャードの予想は的中した。なんとなく、彼がもうすぐやって来るような気配を感じていたのだ。
「アラン様、少々お待ちください」
応接間に通すと、アランはそわそわと落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
アランはウィンストン子爵家の次男だ。ふわふわと柔らかそうな茶色い髪、透き通るような白い肌、ほんのり蒸気した薔薇色の頬、ぱっちりした瞳……彼の中性的な顔立ちは、まるで絵画の中の天使のようだとも称されている。
彼なら長男でなくても構わないと、良家の娘や母親たちが密かに狙っているという噂も耳に入っていた。
幼い頃は体が弱くて病気がちだったというが、今はその翳りもなく柔らかそうな薔薇色の頬は多幸感が溢れている。勿論それは健康だから、という理由だけでもないだろう。
「アラン?」
「シェリー……!」
どこからかアランの訪れを知ったシェリーが、嬉しそうに駆けてくる。アランは少し上擦った声で嬉しそうに椅子から立ち上がった。
そのアランの仕草はリチャードの目から見ると少しあざといように思えてしまう。だが、こうした子犬のような愛くるしさが女性は放っておけないのだろう。
(うちのお嬢様にはあまり通用していないみたいだけど)
アランがシェリーに好意を寄せていることは誰の目から見ても明らかだった。リチャードもテレサも見抜いている。気付いていないのはおそらくシェリー本人くらいだ。
シェリーは幼馴染との久しぶりの再会を喜んでいた。水を差したくはないのだが、念の為に注意しておくことも忘れない。
「お嬢様、お喜びなのは結構ですが、あまり走り回らないで。顔面から転ばれたら困ります」
できるだけ穏やかに、柔らかく……。そう意識して声を掛けたつもりだったのだが、シェリーはまだ少し不機嫌そうだ。
今朝、朝食を持って行った時からずっとこの調子だった。
『お嬢様、朝食は一日のはじまりです。しっかり食べてください』
シェリーは度々、朝食よりも睡眠を優先しようとする。睡眠も大事よ、なんてもっともらしい言い訳をするのだ。だから夜は早く眠りなさい、と言っているのに。
今朝のシェリーはどことなく元気がなかった。声をかけても気のない返事をするばかりで、どこか具合でも悪いのかと訊ねると、『なんでもない』と澄まして答えた。
なんでもない、ということはない。これは何かある時の"なんでもない"だ。
リチャードは胸に手を当てると、何か心当たりはあるかと自身に問い掛けた。
『ただね、昨日のことを少しだけ怒ってるの』
朝食をありがとう、とシェリーは小さく呟いた。
(昨日のこと……? )
マダム・ジュリアの店で話が盛り上がり過ぎてお嬢様を放っておいたことだろうか。それとも、新しい美容法が気に入らなかったのか。それとも帰り際の口喧嘩……?
どれも正解のようで不正解のようでもある。いくら考えても、ピンと来るものがない。心当たりがあり過ぎる。
今朝のそんなやり取りを思い出し、二人には気付かれぬように小さく溜息を吐く。女性というのはつくづく難しい生き物だ。
「アラン、本当に久しぶりね。いつ戻ったの?」
リチャードの胸の内など知らずに、シェリーの声は楽しそうに弾んでいる。
「さっきだよ、早くシェリーに会いたくて」
アランは休暇の間だけ祖母の家で過ごしていた。それほど長い期間というわけでもないはずのだが、この年頃の二人には離れていた時間がとても長く感じていたらしい。まるで数十年振りかのようにはしゃぐ二人を、リチャードは物陰からそっと見守っていた。
実の所、リチャードはアランのことをシェリーに相応しいい結婚相手候補の一人として考えていた。
シェリーに好意を寄せているし、年相応で、純真だ。どれほど純真かというと、庭に咲いた野の花にリボンをつけて渡すような男だ。
コール・ランベールのように、気取った真っ赤な薔薇の花束を抱えて、歯の浮くような台詞を言ったりしない。
ーー容姿は文句なし、家柄も申し分なし、次男という所は少し引っ掛かるが……そこは一旦保留にしよう。素行も問題なし、性格も問題なし、誰に対しても優しく、いつも礼儀正しい。
(……完璧じゃないか、ほとんど)
だが、"強さ"に関してはどうだろうか。すっかり健康になったといえども、ほっそりとした華奢な体格は些か頼りなく思えてしまう。
もしも、森の中で突然熊に襲われたら? 彼はきっと三秒も持たずに負けてしまうだろう。
自分だったら狩猟は得意だし、剣も使える。いざとなったら素手で戦う覚悟もで出来ている。
(じゃあ、もしも海の真ん中でサメと出会ってしまったら……って、俺は何を馬鹿なことを考えてるんだ)
シェリーに相応しいのはどんな男か、考え始めると止まらなくなってしまう。
リチャードはこれまで以上に焦りを感じていた。うかうかしていると、また変な男に引っ掛かかねないと不安だからだ。
「アランってば……うれしい。話したいことがたくさんあるの」
リチャードは、シェリーが友人達と楽しそうに話しているのを遠くで眺めているのが好きだった。彼女が笑うと、その場にパッと花が咲いたみたいに明るくなる。自分にその笑顔が向けられることは滅多にないのだけど。
「憎まれるのも仕事のうち……かな」
「あら、何か言った?」
シェリーは紅茶のカップを優雅に持ちながら、リチャードの方を振り返った。
「いいえ、なにも」
二人の様子がどこかおかしいことに気付いたようで、アランは心配そうな表情を浮かべていた。
「そうだ、お天気もいいから外に出ましょう」
シェリーは自然な流れでアランの手をとると、ふわっと舞い上がる風のように軽やかに歩き出した。アランは握られた自分の手と、シェリーの横顔を困ったように何度も交互に見ていた。かわいそうに、初心なアランは耳まで真っ赤に染めている。
「あまり遠くには行きませんから、ご心配なく」
だから、文句はないでしょう? と、リチャードの言おうとしたことを先回りして伝えた。
子ども同士の戯れのように繋がれた手、シェリーの方はまったく無意識のようだ。
(アランなら白昼堂々と馬鹿な真似をすることもないだろう。もし間違いを犯そうものなら、その場で制裁するまでのことだ)
シェリーに相応しい結婚相手の候補の一人ではあるが、完全に認めたわけではない。リチャードがどんなに不穏なことを考えてるのか知りもしないアランは、リチャードと目が合うとにっこり微笑んだ。
「お嬢様……外へ出られるのでしたらこちらを羽織っていってください」
リチャードはそう言って薄手のショールをシェリーの肩にふわりと掛けた。春といえど、風が吹くとまだ少し肌寒い。それに、先日マダム・ジュリアから美しい肌を保つ為に日傘やショールを使うことがどれほど効果があるのかを説かれたばかりだった。
何よりも、彼女の白くて美しい肌がアランにとって目の毒にもなりかねない。
シェリーは珍しく怒らないリチャードを一瞬怪訝な顔で見て、ショールをしっかり羽織り直した。
「……ありがとう」
少しは機嫌を直したのだろうか、またいつものようににっこりと微笑んだ。