体温
下の階で簡単な食事を済ませ、再び部屋に戻って来る。当然だが、何度見てもベッドの数は変わらない。
狭いながらもきちんとした浴室のついた気の利いた部屋だった。混み合っていた理由も納得だ。この悪天候で空き部屋を見つけられた自分たちは、ひょっとしてものすごくラッキーだったのかもしれない。
「では、私はこちらで」
リチャードは近くにあった椅子に腰掛けた。
「駄目よ、そんなんじゃ疲れが取れないわ」
シェリーは慌ててリチャードを止めた。
「慣れているので平気です」
コールドウェル家でも、休憩時に作業室の椅子で仮眠を取ることがある。
「それじゃあ私がそっちで寝てみたいわ。貴方がベッドを使って」
「いけません」
シェリーはリチャードが椅子で眠ることを断固として認めない。
だが、リチャードだって彼女を椅子で眠らせる訳がない。何としてでもベッドで眠らせるつもりだ。
「じゃあ、一緒に寝る?」
シェリーは、閃いた!と顔を輝かせた。
「……」
だが、提案した後、急に恥ずかしくなったのか両手で顔を覆ってしまった。やっと事の重大さを理解してくれたらしい。
「まったく……いいんですか? 何をするかわかりませんよ」
畳み掛けるようにシェリーをベッドへと誘導する。きっと、彼女は申し訳なさそうに、「それはまだ……ごめんね、リチャード」なんて言うだろう。「気にしないで、お嬢様」と言えば、これで万事解決。完璧だ。
リチャードはシェリーの言葉を待ちながら、余裕たっぷりにグラスの水を飲んでいた。
「……そうね、眠っている私にキスするとか?」
思ってもいなかった反撃に、リチャードは盛大に水を吹き出した。
「……っ! やっぱり気付いていたんですね……」
ーーあの日は、つい魔が差したのだ。
翌日、シェリーの様子がおかしかったのでもしや……と、思っていたが、何も言わないので大丈夫だと踏んでいたのに。
「あれは夢かと思ったのよ……ちょっと言ってみただけ。でも、本当にそうだったのね……」
「すみません、つい……」
今度はリチャードが両手で顔を覆って俯く番だった。シェリーはその肩をさすりながら、シャツに溢れた水を拭ってくれた。
「いいのよ。……ほらね、私は平気。さあ、ベッドへ行きましょう」
シェリーは慈しむように慰めると、リチャードを支えるようにして、ベッドの方へと誘導する。
リチャードはハッと顔を上げた。その手には乗らない。
「次はキスだけじゃすまないかもしれません。……今だって、このまま押し倒してしまいそうです」
「……望むところよ」
リチャードがシェリーの嫌がることをするはずが無い。シェリーはそう信じているようだった。
(親子揃って、どうして俺をそんなに信用出来るんだ……)
シェリーはこうなったら絶対に譲らない。リチャードがベッドで眠らない限り、自分もベッドを使うことはないだろう。
リチャードは小さく溜息を吐いた。押し倒したいのは半分以上本音だった。だが、まだ誠実でいたいという気持ちも本物だ。
(……生殺しの夜のはじまりだ)
一人で眠るには広いベッドだが、二人で眠るにはやっぱり狭い。
「……狭くありませんか?」
背中を向けたままリチャードが訪ねた。
向かい合って眠る勇気はまだ待てなかった。そんなことをしたら朝まで心臓がもたないだろうし、理性を保てる自信もない。
「私の方が広いわよ、貴方こそ大丈夫? 足落ちてるんじゃない?」
シェリーがもぞもぞと手を動かした。足が落ちてないか確認しようとしているらしい。
「……っ! 大丈夫です、まったく問題ありません」
リチャードはその手をやんわりと制した。だが、実の所、彼の足はほとんど下に落ちていた。
「明日は早いですからね、しっかり眠ってください」
「わかったわ。おやすみなさい、リチャード」
「ええ、おやすみなさい」
静かな部屋に雨音だけが響いている。リチャードは身動き一つ取れずにいた。背中に小さな体温を感じて落ち着かない。
ーーまったく、この状況でよく眠れるな。
あまりの無防備さに、段々と腹が立ってくる。起こさないように、慎重に振り返ると、シェリーとばっちり目が合ってしまう。
さっきまで背中合わせに眠っていたはずなのに、いつの間にかこちらを向いていたらしい。
慌てて体を戻すと、今度はシェリーが背中にぴったりと寄り添った。
「何もしないの?」
「……しませんよ!」
人の気も知らないで、とまた振り返る。シェリーはすでに小さな寝息を立てていた。
あまりにも気持ち良さそうに眠っているのが悔しくて、リチャードはその小さな鼻を摘んでやった。
「ふがっ……?」
一瞬だけ驚いたように眉を顰めたが、またすぐに穏やかな寝息を立て始めた。
「……まだ、ね」
静かに布団をかけ直してやると、寝顔が僅かに微笑んだように見えた。




