そばにいるから
アランが屋敷を出た後から、どうもシェリーの様子がおかしい。
そう感じたリチャードは、シェリーの部屋の前をもう何往復もしていた。
気になるなら入ったらどうです? と、とうとうテレサにも不審がられてしまった。
夕食はいつも通りきちんと食べていたし、珍しく嫌いなトマトも残さず食べていた。前までは"馬鹿らしい"と言っていたストレッチも自ら進んでしているようだ。
ーーこれは喜ぶべきことだ、リチャードの日頃の苦労が功を奏してきたということ。
……と、喜びたいのだが、シェリーはずっと浮かない表情だ。アランとのことは、なんとなく予想がついている。おそらく"いいお友達で"と、上手く収まったのだと思う。
何があったのか訊ねたいが、やたらと首を突っ込んで嫌がられてしまうかもしれないと思うと踏み出せない。
社交界デビューと舞踏会を成功させ、残る重要任務はシェリーにとって良い縁談相手を見つけることだ。もちろん、お転婆気質が顔を出さないように監視も怠らない。
(それなら、彼女の心のケアも仕事の一部では……? )
これも仕事だと思えば、この目の前の扉を叩くのも容易いことのように思える。
(本当は今すぐ行って、様子を見たい……しかし、これまで通り彼女が話してくれるのを待つ方がいいのかもしれない……)
リチャードは扉に拳を当ててみたり、数歩扉から離れてウロウロしてみたり、かれこれ数十分は悶々としていた。
『リチャード? 』
扉の向こう自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。空耳だろうか。リチャードは思わず、足を止めて扉に近付いた。
耳を扉に近付けたと同時に、ガチャリと扉が開いた。
「さっきからそこにいたの、知ってるのよ」
シェリーは呆れたように笑いながら、リチャードを部屋に招き入れた。
「……少し、お元気がないようでしたので」
「心配してくれてありがとう」
シェリーは事の結末をリチャードに話した。友だちのままでいること、アランがまた遠くに行ってしまうこと。
「それは……さみしくなりますね。せっかくまた三人揃われたというのに」
三人の再会の喜びようを間近で見てきたリチャードとしても、アランの旅立ちをさみしく思った。
「ええ、本当に。それで、考えたの。もっと大人にならなくちゃって……」
シェリーは俯いたまま、淡々と自分に言って聞かせるようだった。リチャードは、それを黙って聞いていた。
「アランは優しい人だわ。ずっと、気遣ってくれたの。困らせてごめん、って……それなのに」
私は何も返せなかった、シェリーはそう言って少し俯いた。
アランは未来にしっかりと目を向けていた。それなのに、今の自分はどう見ても流されているだけ。周りから取り残されたような気分になって落ち込んでいたけど、変わらなくてはいけないのは自分の方だった。
「もっとしっかりしなくちゃって、思ったの。アランはきっと、もっと素敵な人に出会えるわ。でも、私は……でも、もしかしたら私は今日の選択を、この先もずっと後悔するのかも」
淡々と話しながら、シェリーは薔薇のクリームを丁寧に肌に塗り込んでいる。リチャードが勧めたクリームだ。以前は、眠る前に口煩く言わないと忘れていたのに、今は自主的にケアしているようだ。
いつもより落ち着いた声、無防備な横顔。時折見せる真剣な眼差しは、普段のシェリーとは別人のようだ。
いつの間に時が進んでしまったのだろう、目の前の知っているシェリーは、自分の知っているシェリーではないように思えた。
随分と大人びて見える。
「オリビアみたいに、って考えてたけど。大人は複雑ね」
ふっと、リチャードを見て、シェリーは困ったように微笑んだ。
「いつまでもこのままじゃだめ、私も変わらなくちゃ」
要するに、覚悟が足りなかったのだと思う。シェリーはそう考えていた。
「お嬢様、それは素晴らしいお考えかもしれませんが……」
リチャードはグッと言葉を詰まらせた。
シェリーの薄く閉じた瞼が震え、静かに一粒の涙が零れたのを見てしまったから。
リチャードは静かに囁いた。シェリーは黙ったまま、静かに涙を流し続けている。
「変わることはありません」
シェリーはシェリーのままでいい。今の彼女にそう言っても、ただのその場しのぎの慰めに聞こえてしまいそうだが、リチャードは心からそう思っていた。
天真爛漫で、危なっかしくて放っておけない。ころころ変わる表情をずっと見ていたくて、少しでも自分に笑い掛けてくれたら嬉しいーー。
「今はたくさん泣いてください。大丈夫、私が眠れるまで一緒にいますから」
栗色のふわふわとした髪を優しく撫でると、唇を震わせて泣いていた。こんな風に声を押し殺して泣いているところ見るのはこれがはじめてだった。
(まったく、振った側がこんなにダメージを受けることないのに)
リチャードは小さく溜息を吐いた。振る方も振られる方も、一応一通りの経験はして来たつもりだが、ここまで心が動くことはなかったと思う。
所詮その程度の関係しか築けなかったと言われてしまえば、それまでなのだが。
きっと、これから先にはこれ以上に心を痛めるようなこともあるだろう。
社交界は華やかに見えるが、いわば戦場のようなものだ。それに、彼女は耐えられるだろうか。
リチャードはそんなことを思いながら、慣れない手つきでシェリーの髪を撫でていた。
リチャードに頭を撫でてもらいながら、シェリーは少しずつ眠くなっていた。少し目を瞑ると、リチャードの手が止まった。
「……おやすみなさい、お嬢様」
おやすみなさい、シェリーは小さく呟くいた。
その瞬間、シェリーの唇に、何か柔らかいものがそっと触れた。気のせいではない、触れるか触れないかほどの距離で、シェリーは確かに体温を感じた。
ーーもしかして、今のはキス……?




