半月
眼下に広がる海。
オーシャン・ビューのレストランで。
ぼんやりと、渡された指輪を眺めていた。
これが、わたしの望んだ結末なのか。
そんなことを、一人思いながら。
―― 都ってさ、意外と好き嫌い多くね?
向かいの席の、若い男が囁いてくる。
下卑た笑みを浮かべながら。
どうして呼び捨てなのよ? と、わたしは思う。
この五年間。
あの人は一度も、そんな風にわたしを呼んだことはないのに。
いつも、都ちゃん、と、呼んでくれるのに。
決して育ちのいい人じゃないけど。
いつも、わたしのことを大切にしてくれたのに。
―― うちのおふくろ、そういうのうるせえからよ。ま、とりあえず話合わせておいて。
嬉しそうな彼に引き換え。
わたしはまるで、死んだ魚のよう。
笑わないことすら、相手は気にせずに。
自分ひとりで喋ってる。
それもまあ、いつものこと。
―― てゆーか、ぶっちゃけ式とかめんどくせーんだけど。親孝行だと思って、我慢してくれよ。
ふと見ると。
天空には、ほの白い半月が浮かんでいる。
丁度、あの人の奥さんのお腹のようにも。
何かの頭骨のようにも見えた。
"都ちゃんの好きにして。俺には、引き止める権利なんかないから。"
あの人はいつも、そう言ってくれる。
上司だった頃からずっと。
誰にも言えない恋に気付いたのは、二十四の春。
あの人はすでに、四十を過ぎていて。
仕事の出来る人でも、話の上手い人でもない。
何処にでもいる、普通の人だった。
それなのに。
何故だろう。
そんな普通のおじさんに。
どうしようもなく、惹かれてしまったのは。
―― お前の家って、借家だろう? あんなの引き払ってさ、うち来ればいいんだよ。
お前って何? と。
また、わたしは思う。
あの人は、こんなに年の離れたわたしを、いつも"あなた"と呼んでくれたのに。
人知れずつく溜息を、知ってか知らずか。
背の高いウェイターが、メイン・ディッシュを運んでくる。
お金のかかった微笑みを浮かべながら。
二年前。
苦しくて、悲しくて。
あの人を何度も困らせた。
一緒になりたいと。
隠れて会うのは嫌だと詰め寄って。
ありもしない可能性を確かめて。
出来もしない約束をさせようとした。
どうせ遊びなんでしょう?
これまでの三年、返してよ!
どれだけ付き合っても、どんなに好きになっても。
結局、何処へも行けないんだから!
泣き叫ぶわたしを置いて。
あの人は一度、車を出したけど。
すぐに、戻ってきてくれた。
わたしを、きつく抱き締めるために。
"…ごめん。判ってる。卑怯なことしてるのも。辛い目に遭わせてるのも。"
あの人の涙を。
その時、初めて見た。
"でも…離したくないよ。離れたくない。俺の我儘かもしれないけれど。"
その言葉に。
わたしはやはり、負けてしまって。
あの人を抱き締めながら、思わず、天を仰いだ。
そう言えば。
初めて、二人で泣いた夜も。
奥さんが妊娠したと告げられた夜も。
こんな、半月が出ていた。
嘲笑いもせず、慰めもせず。
月は、そこに浮かんでいるだけ。
その眩い光を。
いつか、叩き落としてやりたいと思った。
―― それ、超すごくね? ヤフオクで買ったんだけど。定価十五万だから。
指輪の箱を閉めながら。
わたしはちらっと顔を上げ。
気の進まないまま、微かに頷く。
それで彼は満足なのだ。
あの人への当てつけに、去年から付き合い始めた男。
三流大学出の、茶髪の営業マン。
そのことを報告した時。
おめでとうとは、言われなかったけれど。
もう、連絡は取らないよと。
あの人は、寂しそうに笑って。
こう、付け加えた。
前から、何度も反芻していたように。
"都ちゃんが幸せなら、俺はいいんだ。今の俺には、あなたを幸せには出来ないから。"
この五年間。
あの人から貰った言葉は、今も全部残っていて。
何かの折に、ふと甦ってくる。
裏切られたのに。
捨てられたのに。
それでも、あの人のことが忘れられなくて。
今は、顔を合わせても、挨拶程度の関係なのに。
それでもいいから。
あの人の傍にいたいと思っていた一年間。
来月、初めての子供が生まれると知りながら。
あの人の奥さんを、殺してやりたいと思う自分。
あの人に愛されて、決して手放されない存在を。
滅茶苦茶にしてやりたいと思う自分がいる。
それもまた、わたしが背負う現実の一つ。
味なんか、まるで判らないまま。
最後のデザートが出る。
能天気な男は、わたしの不機嫌にすら気付かない。
週に何度か寝さえすれば、モノさえ与えておけば。
所有権があるとでも思っているのだろう。
―― あ、そうそう。結婚したら、仕事辞めてくれよな。
―― え?
―― 三流メーカーの、しかも一般職だろう? 要らねーじゃん、別に。俺が食わせてやっから。
―― ……。
―― 寿退社。一戸建て住まいの専業主婦。いいじゃん。女の夢じゃね?
わたしはついに、彼の顔を凝視する。
お調子者で、楽天的で。
単純で、怒りっぽくて。
でも、悪い人じゃない。
けれど。
何故だろう。
どうしても、この人を好きになれなくて。
この人と、一生連れ添っていく気がしなくて。
彼との未来を、想像することすら出来ない。
思うに。
わたしが求めているのは、彼ではなくて。
他の誰でもなくて。
安定した生活ではなくて。
祝福される結婚ではなくて。
もっとずっと、胸を熱くするもので。
知らず、涙がこぼれるようなもの。
上手く説明出来ないけど。
この場所では、何かが違っていて。
何かが、根本的に足りていない。
それに気付いた時。
バッグを胸に抱き、席を立っていた。
―― …帰る。
彼は、きょとんとしてわたしを見上げるけれど。
指輪はそのまま置いていく。
仕方がない。
あとで、説明しなくては。
暮れかかる空の下。
高速道路に乗り、床までアクセルを踏み込んだ。
夕焼けの向こうに光る半月。
臨月の腹を思わせるそれに。
わたしは迷わずナイフを突き立てる。
胸の下から、陰毛の上まで真っ直ぐに。
溢れる羊水の中にいる生き物の。
半分は、あの人の。
残り半分は、見知らぬ女のもの。
あの月と同じように。
赤子は、眠っているだろうか。
それとも、起きているだろうか。
わたしには、関係ないけれど。
あの人に会わなければ。
一刻も早く。
その一心で、わたしは車を飛ばす。
でなければ。
わたしは本当にやってしまいそうだ。
あの人の半分と、妻と呼ばれる女の半分。
小さな塊を引きずり出して。
真っ二つに切り裂いてしまいたい。
あの半月のように。
それから、ばらばらに切り刻んでしまいたい。
あの人を恋しがる、物欲しげなこの心と共に。
それが二度と生き返らないように。
誰からも、目を背けられるように。