橘先生と魔王の犯罪
校舎には学生相談室という部屋がある。
悩み多き十代の生徒が気軽に心の内を打ち明けられる場所として利用されている。
放課後、魔王は胡桃に腕をつかまれたまま、その部屋の前までつれていかれた。
胡桃はなにも言わず、ただ不機嫌そうな顔をするばかりだったので、魔王はなぜこんなところに連れてこられたのかもわからない。
「おい、胡桃。これはいったいどういうことだ」
胡桃が立ち止まったところで腕を振り払い、魔王は言った。
「ドア、開けてください」
「貴様が開ければいいだろう」
「開けてください」
氷のように冷たい声で胡桃は言ったので、魔王は仕方なくドアを開けた。
相談室なので部屋は簡素な作りとなっている。
ポツン中央にと置かれたような椅子とテーブル。
椅子は向かい合いようにして設置されていて、そのひとつに一人の女子生徒が座っていた。
「座りなさい」
なぜか今度は命令口調で言われ、魔王は女子生徒の前に腰かけた。
「おい、胡桃。そろそろ説明をしないか」
胡桃はバン、とテーブルに手をついた。
「橘先生、説明するのはそちらではありませんか」
「何を言っている」
「目の前の生徒、見覚えありますよね」
魔王は正面に座る女子生徒を見た。どこか怯えた様子でうつむいている。
それでも見覚えがない、というのはわかる。それに自分の担当する生徒ではないということも。
「何者だ、この女は」
「はー、とぼけるわけですか」
胡桃はなぜか見下すような目をしている。魔王にはそれが不快だった。
「貴様が回りくどいだけだ。ここに連れてきた目的をさっさと言え」
「自分から認めたほうがよくないですか。他人に犯罪を指摘されるのは気分がよくないでしょうから」
「犯罪だと」
「そうです。橘先生のせいで栗沢さんの人生はもうめちゃくちゃなんです」
「相変わらず面倒な女だ。わたしが何をしたのかはっきりと言え」
「淫行です」
「淫行だと」
その意味は魔王にもわかる。そして目の前の女子生徒でがその相手である、と指摘されていることも。
「彼女ーー栗沢有華さんは一年生のとき、橘先生のクラスに在籍していました。それで距離が近づき、関係を持ったと本人が証言しています」
「それは何かの間違いだろう」
「認めましたね」
「貴様、日本人のくせに日本語が理解できないのか」
「だっておかしいじゃないですか。橘先生は記憶を失っているはずですよね。なのにどうしてそう断言できるんですか。やましいことがあるから、必死に否定しようとして墓穴を掘ってしまったんじゃないですか」
胡桃は魔王というよりも橘悠太に語りかけているようだった。
これには魔王も困惑した。
すでに中身が別の人物であると胡桃は理解しているはずなのに、橘悠太の責任を追求している。怒りで混乱しているのかもしれない。
橘悠太の過去を魔王は知らない。
記憶は引き継いでいないので、そのような過去があったのかどうかもわからない。
なので完全に否定もできないわけだが、ここでそれを認めるのはまずいということくらいはわかった。
「わたしはあまり生徒とは親しくしていなかったとみなが言っている。それなのに特定の女子と関係をもっていたら、その時点でばれるのではないのか」
「逆です。やましいことがあるから、他の生徒とは距離を取っていたんです」
「教師ともあまり親しくはしていなかったと、貴様も言っていただろう」
「ではなぜ自殺をしたんですか?」
「なに?」
「こう考えたらしっくりくるんじゃないですか。橘先生が自殺をしようとしたのは、淫行が発覚することを恐れたから。警察に逮捕されるくらいなら死んだほうがましだ、そんな思いに駆られて屋上から飛び降りたんじゃないですか」
一応筋は通っていると思う魔王であったが、それを認めるわけにもいかない。
そもそも、仮に橘悠太がそのようなことをしていたとしても、自分にはなんの責任もないと思う魔王だった。
「おい、胡桃、貴様忘れてないだろうな」
「なにをですか」
「わたしは橘悠太ではなく、魔王だということをだ」
「橘先生は罪悪感からファンタジーに逃げた、つまりそういうわけですね」
「おい!」
「なんと汚らわしい。教師としてあるまじき行為です。警察に捕まっても面会に来る人はひとりもいないでしょう」
「冷静に考えろ、胡桃。去年のことがなぜいまになって問題になる。しかもこのタイミングというのは解せない」
「先生が記憶を失ったと聞いたから、です」
か細い声で言ったのは有華だった。
胡桃は有華を慰めるように肩に手を置いた。
「栗沢さんは橘先生から口止めをされていたんです。二人の関係をばらしたら大変なことになるぞ、と。だから橘先生が記憶を失ったタイミングでいまの担任であるわたしに告白をしたんです」
「報復を恐れていたが、いまのわたしの状態なら安心、というわけか」
「なに冷静に受け止めてるんですか。淫行は大きな犯罪ですよ。わかってるんですか」
「何か証拠はあったのか」
「本人の証言があります」
「それだけなのか。なら犯罪の証明としては弱すぎるな」
「女子生徒がなんの理由もなくこんなこというわけがありません」
胡桃は完全に栗沢有華という女子生徒のことを信じていた。
魔王を見る目は汚物をみるそれで、端から事情を聞く気すらないようだった。
一方の魔王は有華からきな臭さ、みたいなものを感じていた。
有華はさきほどからうつむき、体を小刻みに震わせていたが、それがどうしても演技に見えてしまうのだ。
「金でもせびるつもりなのだろう。淫行という犯罪はなるべくなら表沙汰にしたくないものだ。なにも覚えていないわたしなら金で解決できると考えたのだろう」
「それが教師の言うことですか」
「若いから正直とは限らない。立場の弱さを逆に利用する輩も世の中にはいる。貴様は教師として生徒を見る目をもっと養ったほうがいいな」
「橘先生を貶めて、栗沢さんにいったいなんの得があるというんですか」
「だから金だろう。他にも事情があるなら、そこにいる本人に聞けばいい。どうしてもわたしを疑うというのなら、証拠を出すべきだ」
「橘先生はなるべく証拠は残ささないように、と言いくるめていたそうです」
「なら警察も相手にはしないだろう」
「もうやめてください!」
有華が両手をテーブルについて立ち上がった。
「わたしが、わたしが悪かったんです。橘先生を追い詰めなければこんなことには」
涙を浮かべた目を拭う有華。
「橘先生が自殺をしたのはわたしのせいなんです。橘先生から別れを切り出されたとき、わたしはついこう言ってしまったんです。どうしても別れるというのなら、二人の関係を公表するって。それで橘先生は……」
「もういいですよ、栗沢さん。無理に話さなくても大丈夫ですから。あとはわたしがなんとかしますから、今日は家に帰って休んでくださいね」
「は、はい」
胡桃の励ましに、有華は弱々しくうなずいて立ち上がり、部屋をあとにした。
それと入れ替わるようにして入室する人物があった。ふくよかな体つきをした男性だった。
「あ、学園長」
この学園のトップである一条晴樹はすでに七十を越え、髪はすっかり白く染まっている。
しかしその貫禄のある体は若々しさに溢れている。
肌は艶やかで、白髪ではあるけれどしっかりと髪も残っている。いつも笑顔を絶やさないので、生徒受けも良かった。
「おやおや、難しそうな顔をしてどうされたのですかな」
「実は」
胡桃はさきほどのやりとりを含めて晴樹に説明した。
「ほう、そんなことが。橘先生も見た目によらずお盛んですなぁ」
教師の不祥事を聞いて、晴樹は朗らかに笑った。
「学園長、笑い事ではありませんよ。この騒動が拡大したら学園の責任問題にも発展するわけてすから」
「いや、失敬。確かに芹沢先生のおっしゃる通りで。しかし、橘先生は否定されているのでは?」
「醜い言い訳ですよ。自殺しようとしたのが何よりの証拠ですから」
「ふむ、そうなるとやはりあの話はこの件、ということですかな」
「あの件?」
「ええ、実は今日、警察がやってくる予定だったのですよ」
「け、警察!」
晴樹によると、警察から電話があったのは昨日のこと。
明日の放課後に学校を訪ねるから時間を開けておいてほしい、と連絡があったという。
橘悠太の飛び降りにより校内が混乱したことで、また後日にお願いしたいと晴樹は断り、警察もそれを受け入れたので、今日の訪問はなくなったわけだが。
「間違いありませんよ、それ、橘先生の淫行がばれたんです!」
「勝手に決めつけるな」
「他にありますか?このタイミングで警察が関係することなんてひとつしかありませんよ!」
魔王はうんざりした様子で立ち上がった。
「なら、いまから警察に行ってやろう」
「逮捕されに、ですか」
「わたしの無実を証明するためだ」
「それには及びませんよ」
部屋を出ていこうとした魔王を呼び止めたのは晴樹だった。
「警察は明日、改めて訪ねてくるそうなので、そこで弁明すれば良いかと思います」
「そうか。なら一日待とう」
「ところで橘先生、あの噂は本当なのですかな?」
「魔王のことなら事実だ」
「ほう、事実と」
春樹は興味深そうな目付きで、魔王の頭から爪先まで眺め回した。
「異世界から魂のみがやってきた、そのように聞いておりますが、それを証明する手段はありますかな」
「残念だが、魔術を使うことは胡桃に禁止されている」
「ふむ、それは残念ですな。わたくしもこの目で確かめたかったのですが」
「諦めろ。そもそも異世界のものは口にしないほうが身のためだ」
魔王は春樹の突き出たお腹を見ていった。
「ほっほっほ、食べ物を召喚してほしいなど一言も言ってはおりませんよ。こう見えてわたくし、少食なのです」
「わたしの知る限り、魔法士はみな細身だった。魔法の使用はエネルギーをかなり必要とするからだ。その点を考えると、貴様も教師と同様に一般人なのか」
「失礼ですよ、橘先生」
胡桃が制しようとするが、春樹はほっほっほと朗らかに笑う。
「さすがに一般人ではこの立場は難しいでしょう。わたくしが生徒に直接指導することはありませんが、学園の象徴として信頼される必要はありますから」
「信頼されることが仕事なら、少しは痩せたらどうだ。貴様のしまりのない体型は生徒に悪影響を及ぼす。必要以上についた脂肪は立ち回りにおいて不利になるからな」
胡桃は頭を抱えたが、春樹は不愉快な表情をひとつも見せずに笑っていた。