プロローグ
「くっ」
魔王は追い詰められていた。敵の攻撃によって全身が血で染まっていた。
人の倍はある体躯がボロボロだった。
いまにも倒れそうで、しかし、どうにか踏みとどまっていられたのは人間よりも強い生命力と、そして魔王としての矜恃だった。
人間に殺されるわけにはいかない、そんな思いが魔王を奮い立たせていた。
すでに部下のほとんどは倒されてしまった。
魔王城の各所に横たわる死体。その命に報いるためにも、簡単には死ねなかった。
「観念するんだ、魔王。お前にはもう反撃する力すら残っていない」
魔王城の最上階にある謁見室に勇者の声が響き渡る。剣先を魔王に向けたまま勇者は続ける。
「これ以上の戦いは不毛だ。いますぐ投降しろ」
「そんな指示にわたしが従うとでも思っているのか」
「無駄な血は見たくないだけだ」
勇者の言うことは事実でもあった。魔王には抵抗できるほどの力は残ってはいなかった。
このままでは勇者に倒されるのは時間の問題だった。もし素直に投降すれば勇者が命を取ることはないのだろう。
しかし、魔王にはそんな考えは一瞬たりとも浮かばなかった。
無様に頭を下げるのなら、殺された方がよっぽどましだった。それが死んでいった部下たちへの礼儀でもある。
魔王は胸元に下げてあるペンダントを握った。
先王から引き継いだ装飾品だが、そのとき、こんな言葉も伝えられた。
ーーもしも窮地に陥ったときは、このペンダントを壊すのだ。
宝石に魔力が込められていることは珍しくない。
このペンダントを壊すことで勇者ともども蹴散らすような爆発が起こるのかもしれない。
「すでに他の選択肢はない、ようだな」
自爆とは情けない話だが、部下の恨みを晴らせる方法はもはや、これしかない。
魔王は石をも軽く砕くその握力でペンダントを濁り潰した。
次の瞬間、砕け散った宝石からまばゆい光が放たれた。
魔王すらもつい目を背けてしまうほどの輝きであった。
しかし、それだけだった。
光が収まると、そこには粉々になった宝石が落ちているだけ。勇者は健在で、魔王も無事だった。
単なる目眩ましだったのか。
魔王は笑った。こんなものに頼ろうとしてしまったことが情けなかった。
魔王はすでに死を覚悟していた。
しかし、勇者に殺されることは受け入れがたかった。
自分の最後くらい、自分できめるべきだ。魔王は最期の力を振り絞って壁のところまで移動し、そこにある窓ガラスから身を投げ出した。
空気の抵抗を受けながら落下する体。魔王は目を閉じた。
ーーそして。
バサ。
思いの外早く感じた背中への衝撃。
いや、それは衝撃と呼べるほどのものではなかった。
やけに柔らかい。痛みは一切感じていない。
というか、あまりにも落下が早すぎる。
魔王城は雲にも届きそうなほど高くそびえている。
その最上階から落ちたのだから、もっと滞空時間は長いはずだ。
そもそも、意識がハッキリとあるのもおかしい。
魔王とはいえ、あそこまで傷つけられた状態なら、落下の衝撃には耐えられないはずだった。
まさか、死後の世界?魔族の教えでは天国も地獄もない。死ねば灰となるだけだが。
魔王は目を開けた。真っ先に飛び込んできたのは、見知らぬ女性の姿だった。
「だ、大丈夫ですか、橘先生!」
その女性の声に、魔王の意識はさらにはっきりとする。
周囲に広がる光景はまったく見慣れないものだった。白い壁にガラス窓がはめられている建物が近くにある。
そこからこちらの眺めているのは黒髪の若い男女。
確実に魔王城の敷地ではない。
「よかった、意識はあるみたいですね」
魔王が落ちたのは学校の敷地内で、その校舎に沿って置かれた生け垣に身を沈めていた。混乱しつつも生け垣から脱出する魔王。
「あ、手を貸しますよ」
こちらへと手を伸ばしてくる女性を見て、魔王は思った。こいつは人間だ。建物のなかからこちらを見ているのもそうだ。
しかし、武器らしきものは持っていない。
いやむしろ、こちらを助けようとしている。これはいったいどういうことなのか。魔王は混乱した。
「貴様、人間だな」
「え、そうですけど」
「なぜここにいる」
魔王は自分で生け垣から出ると、改めて周囲を見回して、怪訝そうな表情を浮かべた。
「ここはどこだ?勇者はどこにいる?」
「勇者?」
「貴様は人間でも、一般人だろ。わたしは敵意を持たないものを傷つける趣味はない。とりあえず勇者の居場所を言え」
魔王は自分を落ち着かせようとした。
魔王国とは明らかに違う見慣れない景色に動揺していたものの、人間の前で無様な姿を見せるわけにはいかない。
魔王にとってはとりあえず魔王らしくあることが最優先だった。
「すいません、勇者についてはよくわからないんですけど、とりあえず体が大丈夫なのか教えてもらえますか?」
「体?」
魔王は自分の体を見下ろした。
なぜか服を着ている。
魔族は基本的に上半身は裸で過ごすが、なぜか白くてピッタリとしたシャツを身に付けていた。
傷もなくなっている。
勇者の剣や魔法によって全身から血が吹き出していたのに、完全に傷が消えていることは服の上からでもわかる。痛みが全くない。
強いて言えば頭がさっきからガンガンと鳴っていることだ。激しい頭痛が繰り返されている。これまでに感じたことのない痛みだった。
いや、と魔王は頭を振った。
気を抜けば勇者に殺される。
これは目眩ましの魔法かもしれない。幻影を作り出して、わたしを惑わせているのかもしれない。
「おのれ、勇者。このような姑息な手を使うとは、貴様も落ちたな」
「え、勇者?」
「正々堂々戦うのが怖いのか。わたしはこんなものには騙されんぞ!」
「ちょ、ちょっと、橘せん」
「幻影を振り払う方法など簡単だ。軽い衝撃を与えればすぐにでも消えてなくなる」
そういって魔王は自分の頭を拳で殴った。
そしてそのまま、その場に倒れた。