それ以上の笑顔
「ほら見ててあげるから…自分でやってごらん」
そう言われて一瞬息が止まる。
シャープペンシルを持つ手が震える。
そっとジャスさんの方を見ると、柔らかく下がった目尻が笑った。
自分の心臓の音を聞きながら問題を解く。
「…できました」
ジャスさんは何も言わずノートを取ると目を細めた。
「正解。じゃあ今日はここまで」
やっと一息つくことができた。
「ぜろ君」
名前をいきなり呼ばれて背中に電流が走る。
「お互い大人になったら…」
その後何を言おうとしたのだろう。遠い目をした大学生のジャスさんは充分大人に見える。
自分は…まだ家庭教師のジャスさんに教わることしかできない高校生だけど。
大学生になり彼女ができた。
大人びて物静かな子だった。
その子がバーに行きたいと言うので、近場を探して連れて行った。
まさかあの時のあの人がいるとは。
バーテンダーの格好をしたジャスさんは以前に増して艶やかに見えた。
「彼女?」
「え?あ、いやそういうわけじゃ…」
聞かれて思わず言ってしまった時には遅かった。
顔面にパンチが飛び、床に倒れると彼女は泣きながら走って出て行った。
静かな時間が流れていたバーが一瞬騒然とする。
「大丈夫?」
落ち着いた口調で起こしてくれるジャスさんはやっぱり大人だ。
「ここで働いてたんですね」
「今年で大学も最後だから…バイト」
立ち上がると耳元で囁かれた。
「あと1時間くらいで終わるから…飲んで待ってて。おごるから。ぜろ君」
名前を呼ばれるとそれだけで頭が酔ってしまいそうな感覚に陥った。
タクシーに乗って連れていかれた先は…
「ラブホテル…?」
「行ったことない?」
そう言うとジャスさんは相変わらず目尻を下げて笑う。
手を引かれながら心臓が耳元で鳴る音を聞きつつ部屋に入る。
静かで暗くて広かった。
いきなり深い口づけをされる。
そこからは酔いもあってあまり覚えていない。
ただジャスさんの名前を呼んで目を覚ました時にはもう彼はいなかった。
その後何度もバーには通ったが会えなかった。
可愛い君が相変わらずで。
愛おしくて守りたくて。
ずっと大事にしたかった。
けれど。
今の僕はまだ何の力も無くて。
だけどもしも。
次に運命の神様が微笑んでくれたら。
絶対に守るから。一生をかけて。
普通に大学に通い、そのまま派遣のプログラマに就職した。
わざわざ派遣になったのは万が一…なんて考えたからかもしれない。
でもその万が一は突然起こった。
外資系弁護士事務所でシステムの開発を依頼された。
降りてきたエレベーターから出てきたのは。
ジャスさんだった。
スーツを着て弁護士バッジを付けている彼はあの時とは違う色気がある。
「ジャスさん!」
思わず叫び声をあげる。
こちらを見て驚いた顔をしたジャスさんは初めて見る表情でなんだかおかしかった。
こちらに歩いてきたジャスさんはポケットから出した手帳に何か書くと破いて、自分のズボンのポケットに入れた。
「ぜろ君後で電話して」
どうしてジャスさんは毎回耳元で囁くように言うのだろう。
おかげで仕事が終わるまで心臓は爆音をずっと上げていた。
ビルの外で渡された紙の電話番号に電話をかけると、すぐにジャスさんは現れた。
「ぜろ君何か食べた?」
首を大きく振る。
「何か作ろうか。これでも料理するんだよ」
作る…?ということはジャスさんの家…?
タクシーに乗り込むと手を握ってくれる。タクシーの窓から流れる景色はいつもより煌めいて見えた。
初めて入ったジャスさんの部屋は広くて片付いていて物が少なかった。
「少し待っててね」
「あ…手伝います…それなりにやってるんで…」
「ありがとう」
目尻を下げて笑う顔も相変わらずだ。
すぐに部屋中に美味しい香りが漂ってくる。
種類はわからないが何か高そうなワインも出してきた。
食器等を整えて席に着く。
「乾杯」
静かに食事が始まった。
「ゼロ君泊っていくでしょ?」
食事が終わると片付けを始めたジャスさんが言った。
「あ…えっと…」
「明日土曜日だし」
「じゃあ…お言葉に甘えて…」
泊っていくということはそういうことだ。お互い大人だから。
『お互い大人になったら…』
あの時の遠い目をしたジャスさんが蘇る。
大人になったらジャスさんはどうしたかったのだろう。
夢に溺れたその夜はずっとこの先も忘れられない。
朝起きると服は無く、片足が鎖に繋がれていた。
びっくりしてジャスさんを探す。
「ああ、おはよう」
朝食を作ったと思われる食器を持ってジャスさんが部屋に入ってきた。
「ジャスさん…これ…」
「ねぇゼロ君。僕は君をずっと守りたかったんだ。本当だよ。ずっと…大人になってもう一度会えたら一生をかけてずっと守ろうと決めてたんだ」
食器を床に置き、軽く口づけされる。
「一生僕に守られてくれるよね?」
好きな人にこんなに思われる事があるだろうか。
顔を上下に動かすのがやっとだった。
…玄関の方から足音が聞こえる。あぁあの人だ。
鎖を鳴らしながら玄関に走る。
鍵が空くと、抱き着いた。
「いい子で待ってたかい」
優しくて大きな手が頭をなでる。
「いい子にしてた…だから…ご褒美ちょうだい…」
目尻が下がった柔らかい笑顔。
これ以上の笑顔を自分は知らない。




