恋は人を情緒不安定にする
夜になり、宿の一階にある浴室で簡単な湯あみを済ませた私は、今になってベッドが一つしかないということを思い出していた。
シドは床で寝るって言っていたけれど、やっぱりそれはいけないような気がする。
困った。
すごく困った。
明日には感動の親子対面があるというのに、彼を床で寝させて疲れが取れていないなんてことになったら困る。
あぁ、こういうときに侍女のエルザがいてくれたら的確な助言をくれたのにな。いつもそばにいてくれた皆の笑顔がないということに、国外逃亡して一夜明けると少しずつ淋しさが押し寄せる。
わかっていたつもりだったけれど、いかに自分が恵まれて、愛されて暮らしてきたかを実感した。
人相の悪い若い衆だって、大勢集まるとにぎやかで楽しかった。今になってしみじみそう思う。
何か月、何年かかるかわからないけれど、落ち着いたら皆に会いに行こう。いっぱい「ありがとう」って言いたい。
今はただ、一緒に来てくれたシドを大事にしたいと思った。
――キィ……。
部屋の扉を開けると、就寝準備をするシドの背中が目に入る。
「あぁ、よかった。もう少し遅かったら迎えにいくところでした」
彼は宿の毛布ではなく、持ってきた方に浄化魔法をかけながら言った。濃いブラウンの毛布は、旅の途中とは思えないくらいふかふかになっている。
本当に何でもできるな!
私の出番はまったくない。
シドはそれを床に敷き、その上に座って壁にもたれて眠るつもりらしい。これじゃあ野営と大して変わらないじゃない。
う~ん、ここは私が強引にベッドに連れ込むべき……?ってこの言葉の選び方は間違ってる!
でも「一緒にベッドを使えばいい」というだけの一言が、何となく言いづらい。私は眉間にシワを寄せ、悩みに悩んだ。
「ヴィー様?どうしました?」
荷物の整理を終えたシドが、きょとんとした顔で尋ねてくる。
あぁ、何その表情かわいい……!撫でまわしたい。犬みたい。
しかし私には、彼を説得するという仕事がある。
荷物を床に置くと、意を決して口を開いた。
「シド」
「はい」
「ちょっとベッドに寝ころんでみませんか?」
「は???」
はい、これがきっと正解。一緒に、という表現は、恥ずかしすぎて口から発することはできないからね!
ただしシドにはあまり伝わっていないように思える。
「とにかく、ここに寝ころびなさい!」
「え?あ、はい」
シドは困惑しつつも、ベッドに腰かけ、ごろんと横になる。
それを見た私は「よし!」と頷き、自分もシドの隣に寝ころんだ。
「ヴィー様!?」
慌てて上半身を起こそうとするシドだったが、私が全力で腕を押さえつけてベッドに引き留める。
「大丈夫!大丈夫だから!悪いようにはしないから!!」
「ヴィー様!それは変態のセリフです!!」
「失礼ね!?私はただあなたも隣で寝たらいいのにって思っただけで、疲れが取れたらいいなって、床はダメでしょうって思っただけで……」
そう、他意はない。
ただ純粋に、シドに横になって眠って欲しかっただけだ。
ありがたいことに、ベッドの広さは普通の一人用よりはちょっとだけ広い。二人で仰向けになって眠ると、ちょっと肩が触れるくらいの幅がある。
横向き寝をすれば、それこそ接触なしで眠れるくらいだ。
しばらくシドは抵抗していたが、私が魔力を使って絶対に離さないぞの姿勢を貫いたので、渋々折れてくれた。
「くっ……!生きろ、生きろ俺」
まるで戦いに行くようなセリフである。
ただ身体を休めて欲しいだけなのに心外だ。
横向きになりベッドの縁をつかんでいるシドは、私に背中を向けている。
「そんなに端で寝たら落ちるわよ?」
「落ちません。結界で支えます」
能力のムダ遣い!!いや、有効活用か!?
野営のときもそうだったけれど、眠っていても結界がきちんと作動するのは実はむずかしい。シドは当然のように魔法を使うけれど、習ってもできない私からすると神の領域だ。
「それじゃあ、おやすみなさい!」
「…………おやすみなさいませ」
ランプを消すと、月明りだけが部屋をかろうじて淡い白で満たした。
まだ眠れそうにない私は、何となくシドの背中を見つめて過ごす。
とりあえずベッドの上には寝転んでいるけれど、こちらを向くつもりはないらしい。
薄手の黒いノーカラーシャツは、首元が寒くないんだろうか。
毛布は腰あたりまでしか掛かっておらず、彼の細いのに筋肉はほどよくついた首筋がしっかり見える。
むき出しの首筋に「これ、今なら殺れるか?」とか思ってしまうのは、マーカス公爵家というおかしな家で育ったせいだろう。
こんな思考でごめんなさい。
「「…………」」
向こうも眠っている気配はない。
明日、お母さんに再会したときのことを考えているのかも。
ここに来てよかった。
願わくば、これまでの時間を埋めるような話ができますように……。
私はそろっと近づき、両手と額をシドの背中にぴったりつけて目を閉じる。
「っ!?」
「明日、お母さんとたくさん話せるといいね」
薄手のシャツから伝わってくる熱が心地いい。
はぁ……指先がぬくもっていく。
「ヴィー様、残虐性がすごいです」
シドが背中を向けたまま、ため息交じりに言った。
「なぜ?ちょっと体温奪ったくらいで大げさね」
「あなたが奪っているのは俺の正気度です」
「……それなら離れるわ」
何となく状況を察した私は、スッと背中から手を離した。
が、パッと振り返った彼に両手を握りこまれてしまう。
背中に向かっているときは平気だったのに、彼が振り向いて目が合った瞬間に急激にドキドキと心臓が鳴り出した。
額が当たるほどの距離に驚き、私は思わずビクッと肩を揺らす。
シドは恨みがましい目で私を見つめ、握った手の力をぎゅうっと強めた。
「ご自分から襲っておいて、逃げるつもりですか?」
「襲ってなんか……!」
薄暗くてよかった。顔も首も、指先までもが赤く染まっていそうだ。
「不用意に触れられると危ないです。気を付けてくださいって、言いましたよね?」
あ、これはちょっと怒ってる?
「惚れた女がそばにいたら、我慢には限界がありますから」
シドはそう言うと私の手を離し、ベッドの外に足を投げ出して座った。やっぱり一緒に眠るのはやめるみたい。
私もそろっと起き上がりベッドに座ると、また背中を向けてしまった彼に向かって尋ねた。
「シドはなんで私を好きなの?」
「なんでって……」
主家の娘とはいえ、好かれるようなことはした記憶がない。
シドはうちの護衛で平民だけれど、使用人や他家のお嬢さんからもモテていた。こんな面倒な私に惚れる理由が見当たらない。
「理由が知りたいわ。まぁ、私って確かに顔はかわいいし家柄はいいし、だし巻きたまごは上手く作れるけれど」
「最後のは確実にいらなくないですか?」
え、いるよ。大事なポイントじゃないの?
しばらくの沈黙の後、シドは前を向いたままぽつりぽつりと話し出した。
「俺は……ヴィー様の顔がかわいくて家柄がよくて、だし巻きたまごが上手く作れるから好きなわけじゃないですよ。例えばそうですね。顔がイマイチ俺の好みじゃなくて、貧民街に住んでて、料理が何にもできなくて、裸同然の姿でも……ってむしろそれは喜ばしいですが」
「あなた何言ってるの」
今それ言う?
私は彼の背中を半眼で睨む。
「ははっ……すみませんね。こういう性分なもので。ただ、何て言うか……ヴィー様が俺を必要としてくれて、心から笑ってくれるから一緒にいたいと思うんです。
例えば俺がもし魔法が使えなくなって、落ちぶれたらどうなさいますか?」
シドに何もかもなくなったら。
想像もつかないけれど、第一声はだいたい想像できる。
「バカね、って言うわ。それで、何とかなるようにする」
私の返事に、彼は笑いを噛み殺して言った。
「そういうところですよ。何もなくなったとしても、あなたは俺を許してくれる。そばにいてもいいと言ってくれると思うんです。だから、俺はヴィー様が好きなんですよ。……そんな曖昧な理由じゃいけませんか?」
シドの声が優しい。
その背中に、無性に抱き着きたくなってしまった。
「好きになるって、何かものすごいきっかけとか言葉とか態度とか、そういうの要ります?俺にとっては、そこにいるだけで『あぁ、好きだな~』って思えるからそれでいいんですけれど。ヴィー様は違うんですか?」
「私は……」
急に話を振られてどきりとした。
「特別な何かがないと、惚れてくれませんか?」
ようやく振り返ったシドは、座ったまま何かを確かめるように見つめてくる。
「特別な何か……」
私にとっては、シドがいてくれること自体が、この人そのものが特別で。
そこに理由なんてなかった。
シドがシドだから、好き。
私たちは似た者同士なのかもしれない。
「「…………」」
視線がぶつかり、なぜか逸らすことができなかった。右手を胸の前で握りしめ、息苦しさを感じながら私は呟く。
「……きよ」
それは、自分にすら聞こえないくらい小さな声だった。
シドは何も言わず、じっと待っていてくれている。
私はもう一度、今度はしっかり息を吸ってから声を出す。
「好きよ。シドが好き」
暗がりの中、紅い目が瞬きを忘れて見開かれる。
私はもう限界まで大きく激しく胸が鳴っていて、この苦しさから逃れたいと思う一心で言葉を続けた。
「ずっと好きだったの。シドが私の婚約者だったらよかったのにって、何度も思った。国を出たとき、ついてきてくれるって聞いてどれだけうれしかったか……!」
「ヴィー様!」
「シドがいればそれでいいって私、本気で思っ……うわぁ!!!!」
決死の覚悟で話していたのに、途中で飛びつかれて窒息しそうになる。
「ヴィー様!ヴィー様!」
「きゃぁぁぁ!やめて!!死ぬっ!!」
抱き締められて頬ずりをされ、何だか本当に犬に懐かれているみたい。
頭や肩をぐりぐりと撫でまわされ、羞恥心がこみ上げる。
「よく言えましたね!どうなることかと……!」
え?
待って、どういうこと?
まさか知ってたの?私の気持ちを?
いつから???
茫然とする私を見て、シドが笑った。
「歯を磨きながら叫んでたじゃないですか。いつになったら、はっきり面と向かって言ってくれるのかな~って思ってたら、意外に早く白状しましたね」
「白状っていう表現やめてくれる?人が一生懸命告白したのに!」
ってゆーか、歯みがきしながら叫んで練習していたときにバレてたの!?
うわっ、最低なカミングアウトだった!!
落ち込む私に構わず、シドはぎゅうぎゅう抱き締めて撫でてくる。
「俺のヴィー様……」
これまで悩んでいたのは何だったのか。
ぐったりした私は投げやりに言った。
「はいはい、シドのヴィー様ですよ~」
もう放して欲しい。
色々とショックだからふて寝したい。
そう思っていると、喜びを露わにしたシドがふいに手を緩めた。
「ヴィアラ」
「はぅあっ!?」
不意打ちにもほどがある。
あれほどまでに頑なだったのに、いきなりの呼び捨て……!
両手で顔を覆い、初の呼び捨ての感動に浸る。
するともう一度、今度は優しく囁くように声が降ってきた。
「ヴィアラ」
「もうやめて!殺さないで!私の中の何かが壊れるっ!!」
シドはわざとからかっているんだろう。全身からニヤついたオーラが出ている!
「ヴィアラ、こっち向いて」
「やめて!そう呼んでほしいとは思っていたけれど、いざ耳にすると鼓膜が溶けそうよ!好きが込み上げて気が狂れるわ!」
「そんなに俺のことを好きなんですか?困りましたねぇ」
何なの!?全然困ってないくせに!
「お願い、そっとしておいて!今が一番大事な時期だからー!!」
自分でも何を言っているかわからないけれど、私はさっと逃げて毛布を頭からかぶった。シドがクスクスと笑っている声が聞こえる。
「おやすみなさい、ヴィー様」
「……おやすみなさい」
また、様づけに戻ってるし。
ちょっとだけ不服に思うけれど、これ以上は危険だから今日は我慢しよう。
ベッドが軋み、彼が床に下りた音がする。
やっぱり一緒には眠らないらしい。私も相当だけれど、シドも頑固だなと思った。
毛布の中、まだドキドキする胸を必死で押さえて深呼吸を繰り返す。
明日、どんな顔でシドに会えばいい?
ああっ!お母さんには「妻です」って挨拶した方がいいかな!?まだ早い!?
緩み続ける口元。
私はこの日、人生で初めてニヤニヤしながら眠りについた。