いつまでも、いると思うな親と猫。
国外逃亡三日目。
シドが酒場や傭兵たちから仕入れてきた情報によると、まだ私の追っ手はファンブルへ入っていないみたい。
私が身支度をしているうちにシドは馬に水をやり、少ない荷を積む。
「ヴィー様、今日はたくさん馬を走らせますが体調は大丈夫ですか?」
昨日のことなどすっかりなかったかのように、シドは優しい笑みで私を見下ろす。
だが私は今日の行き先をすでに心の中で変更していた。
「ええ、大丈夫。さっそく、ウェルヒネスタへ行きましょう」
「…………は?」
馬の鬣を掴んでその背によじ登る私。シドは目を瞬かせて、めずらしく動揺を顔に出す。
「行く必要はないと俺は言いました」
鞍に手をかけ、眉根を寄せるシドに私は言った。
「あら、そうだったかしら。でも私は昨日ちゃんと言ったわよ。お礼を言いにいかなきゃって」
「あれはそういう意味だったんですか!?本当に行く気で!?」
当然だ。ウェルヒネスタは内陸だからちょっと遠回りにはなるけれど、反対方向ってわけではない。どうせニースに行くという目標しかない旅だ。一日や二日くらい遅れたって大丈夫なはず。
「本当に?」
馬上から見下ろすと、シドの顔がよく見える。見上げられるのは貴重で、つい見惚れてしまいそうになるけれど、私はふいっと前を向いた。
「今行かなきゃ、きっと一生行けないでしょう?」
シドはわりと頑固だから、私を守ると決めた以上は自分の故郷のことは後回しにするはずだ。
「いつまでも、いると思うな親と猫」
「なんですか?その格言」
これはうちの家令が言っていた言葉だ。
飼っていた猫に逃げられたときの格言だけれど、両親をすでに亡くしている私からすると、会えるときに会っておかなければいけないと思う。
こんなに近くにいるなら、会わないなんてダメだ。
シドは諦めたように笑い、あくまで私の希望に付き合うというスタイルでウェルヒネスタ行きに同意する。
「もうとっくに居を移しているかもしれませんよ~?」
「そうだとしたら、昨日の時点でお兄様がシドにそう伝えるはずよ。狙った獲物は逃がさないんだから、お兄様は」
「獲物って」
うん。行っても会えない可能性なんていくらでもある。会える可能性の方が少ないかもしれない。だとしても、行ってみなければわからない。
「行くったら行くの!ピクニックよ、お天気もいいし」
「到着する頃には夕方です」
「あら、じゃあ急がないと。早く乗って」
強引に話を終わらせると、シドは渋々ながらも馬に跨る。怒っていたらどうしよう、そう思うと振り向けない。
でも手綱を握る手は昨日と同じく私を包み込むように回されて、彼はいつも通り優しかった。
でもすぐに出発せずに、私の左肩に頭を埋める。
「シド!?」
びっくりして肩が跳ねた。でもシドはただ頭を預けていて、甘えるような声を出す。
「少しだけ、このままで」
「い、いいけど……」
十六年ぶりにお母さんに会いに行くんだ。緊張しているのかも……そう思うと無性に彼の髪を撫でたくなった。そっと手を伸ばそうとすると、突然に頭をブンッと上げる。
「うわぁっ!?」
「はい!行きまーす!出発します!」
早っ!復活するの早っ!!
もうちょっとくらいこうしていてもよかったのに……!
シドは馬の腹を軽く蹴り、さっさと宿の敷地を出る。
潮風が鼻をくすぐり、海沿いの道には白い小さな鳥がたくさんいるのが見えた。
だんだんと速度が上がり、目を開けていられないくらいになって私は気づいた。
「ちょっと早すぎない!?魔法使ってるよね!?」
耳を掠める風が痛いほどで、びゅうびゅうどころか轟々と凄まじい音がする。
街を出たばかりなのに、こんなに飛ばして商人たちの馬車にぶつからない!?
「ヴィー様が言ったんですよ~。『じゃあ急がないと』って」
「これはさすがに急ぎすぎよ!!」
真正面から吹き付ける風が強烈で、私はシドに完全に背中を預ける。落ちないように腕で囲ってくれているけれど、目は完全に閉じてしまって息を吸うだけでギリギリだ。
「さぁ、二人でピクニックに行きましょうねー!」
なぜか楽しそうな声音でシドが言う。
強制的に行き先を変えて、おせっかいを焼こうとする私へのいじわるなんだろうか!?
人の肩に顎をのせて、必要以上に密着して腕に閉じ込めてくる。
シドじゃなかったら肘を入れているところだけれど、私は「ありがとうございますっ」と心の中で呟いた。
いつまでも私が動揺すると思ったら大間違い。例え顔が熱くて燃えそうでも、私はこのご褒美タイムを享受してみせよう!!
ただ、耳元で囁くように話すのは何とかしてもらいたい。ゾクッとして心臓が破裂しそうだ。
「ヴィー様。俺が母と再会できることを願ってるんですよね?」
「え?もちろん、そうよ」
「それなら、ちゃんとご期待に添えたときには褒美をくださいね」
「褒美?」
「はい」
「金貨十枚でいい?」
「発想が金持ち!そういうのじゃありません」
だったら一体何が欲しいというのだろう。シドが欲しい物、シドが欲しい物……シドが食べたいもの。
「チーズ入りのだし巻きたまごね!」
おととい食べたいって言ってたもの。私ったらシドのことなら何でもわかる。さすが愛の力。記憶力バンザイ!
「まぁ、後で相談しましょう」
「え、ええ。そうね。私にあげられるものなら何でもあげるわ」
「言いましたね……?楽しみですね、ヴィー様」
何だろう。ちょっと脅迫めいた声なのはなぜ?
獲物をいたぶるのが楽しいみたいな……
何か企んでる?
まぁ、落ちぶれ令嬢の私にあげられるものなんてたかが知れてるか。
自分にリボンでもかけて「褒美は私でーす」とか言ったらすごく冷たい目で見られるんだろうな。もっとちゃんとしたものを考えておかなければ。