にやにやする元悪役令嬢
宿は混み合っていたので、三軒目でようやく部屋を取ることができた。
今は冬支度をする人々が備蓄を買う時期だそうで、近隣の町や村からこのアズオールにわざわざやってきている人が多いらしい。
三人部屋に二人で泊まることになったのは不可抗力。私の「離れたくない!」という念が通じたわけではないから、多分。
シドは鍵を握りしめ、「がんばりますっ……!!」と声を振り絞っていたから、一応声はかけておいた。
「結界を張れば大丈夫なんでしょう?こうして宿にきちんと泊まれるなら、シドががんばって見張りする必要はないんだし夜はしっかり休んでね?」
「……俺が休めるかどうかは、結界の問題ではありません」
この世の終わりみたいな、悲痛な面持ちで見られたのはなぜだろう。
休んだら死ぬ病気にでも患っているのかもしれない。マーカス公爵家でどういう護衛教育を受けたのか気になってきた。
馬は宿の厩舎につないでいるので、荷物をそれぞれ持って私たちは三階の部屋へと向かう。普段なら私の後ろを歩くシドが、警戒して前を歩いているのは新鮮だった。
警戒中だから仕方ないけれど、私が平民になった今、隣に並んで手を繋いで歩ける関係なんだから普通のデートがしてみたいな。
キラキラした夜会やパーティーに行きたいわけじゃない。全部落ち着いたら、庶民のカップルがきゃっきゃするイベントをやってみたいと思う。
部屋に入り、シドはカバンを置くと窓を開けた。掃除は行き届いているけれど、締め切った部屋は湿気が篭っている。
「けっこう日当たりのいい部屋ね!」
窓から潮の香りが風にのって入ってきて、私は大きく息を吸う。
あぁ、なんだか本当に新婚旅行みたい!
この世界にも結婚指輪という文化はあって、そういえばヒロインは薔薇の花をモチーフにしたリングをバロック殿下からもらうはずだった。
私は庶民らしい、シンプルな銀細工の指輪で十分。いつかシドとお揃いでつけられたら……と思うと顔がにやける。
「ヴィー様?」
ニヤニヤしている私を見て、シドが不思議そうな顔をした。
もう今から結婚後の妄想をしてニヤついているなんて気づかれたくない!
慌てて口角を元に戻してベッドの近くに荷物を置いた。
ちらっとシドを見ると、今度はにやりと意地悪く笑って首を傾げる。
「俺のことなら、いつでも襲ってくれていいんですよ?」
妙に色気のある目をしてくるから困る。
冗談ってわかっていても、私は動揺してしまった。
「おっ、襲うなら魔力銃でも持ってるときにするから!」
「大丈夫です、あなたなら素手で十分息の根を止められます。あ、でも俺が言ったのはそういう意味じゃなくて、この身体を好きにしていいという意味で」
「わかってるー!わかってるから!いちいち説明しなくていい!」
「そうですか?ヴィー様だから、てっきりわかっていないんじゃないかと」
「わからないわけないでしょう!?」
子ども扱いして!
こうやってぷりぷり怒ってる時点でもう子どもなんだけれど、一体どう答えるのが正解なの!?
こんなの学園の試験に出なかった!淑女の嗜み本にも載っていなかったし、領地教育や歴史の先生も教えてくれなかった!
「かわいいなぁ」
笑いを噛みしめつつ、じりじりと距離を詰めてくるシド。
私は何となく後ずさり、下がりすぎて壁に背をつける。
こうして真正面から見下ろされると、走ってもいないのにドキドキして息が上がる。はぁはぁ言っている私は不審者!
どうやら恋は人を変態に変えるらしい。
至近距離で向き合えば、大きくて骨ばった手が私の前髪から耳、頬をゆっくりと伝った。
「ヴィー様」
「っ!」
逃げたい。
けれど紅い目がそれをさせてくれない。緊張で足がガクガク震えてきた。
あぁ、見れば見るほどこれまで抑えてきた想いが溢れてくる。
好きすぎておかしくなりそう。
この手も、声も、何もかもが愛おしい。
ただしそれは声にならず、パクパクと酸欠の魚みたいになってしまっていた。
これまでシドからこんな風に触れられたことはなくて、一挙一動にドキドキするんだから仕方ない。
狼狽える私を見て、シドはくすりと笑った。
「何もしませんよ。紳士でいたいので」
その言葉に私はホッとして気が緩んだ。
「っていうのは嘘で」
「はぃ?」
一瞬の隙に、彼の顔がスッと近づいて頬に柔らかな唇が当てられる。
「っ!?」
目を見開いて固まっていると、シドはうれしそうに言った。
「あまり油断されると理性がもたないので、適度に身を守ってくださいね?こればっかりは俺がヴィー様の敵になりますから」
「敵って……!?」
シドは、やっぱり気づいていないんだろうか。
さっきの頬にキスだって、私にとってはご褒美でしかないことを。
って、今さらっとキスしたよね!?
うわー!!初めて頬にキスされた!!お兄様や家族にはされたことあるけれど、婚約者の王子とも一度も……!
背中を壁につけ、へなへなと床に座り込んだ私は思わず口からぽろっと言葉が漏れた。
「キスなんて初めてされたわ」
左の頬を手で押さえ、感動で顔がへにゃりと崩れる。
うれしい。
好きな人に好きだと言われ、ほっぺにチューなんていう特典をもらい、幸せが身に余る。
「ヴィー様?」
床に座る私に合わせ、シドが片膝をついて私の顔を覗き込んだ。
「シド」
「はい」
今なら言える気がする。私も好きだって言わなきゃ。なんならここで、すべてを捧げてもいいくらい。
「私……」
両手をぎゅっと組み、深呼吸をしてからいよいよ想いを口にする。
そのはずだったのに。
――ブブッ、ブブッ、ブブッ、ブブッ、ブブッ
低い振動音。
カバンの中からタイミングを見計らったように音が聞こえてくる。スマホのマナーモードみたいなこの音は、通信セットが発する着信音だ。
「「…………」」
私たちは二人してその場で固まる。
誰かに叱られるわけじゃないのに、目を合わせてこの状況に戸惑った。
先に動いたのはシドで、ちょっと顔が赤い。けれどそれは指摘しないでおく。
「イーサン様から連絡きましたね」
お兄様、なんで今なの。
また言えなかった。
せっかく好きって言おうと思ってたのに!!
え、見てるの?今私たちがどんな状況だったか。わざとなの?
そんなはずないけれど、つい発信機や盗聴器でもついているのではと疑ってしまう。
「ヴィー様、俺が出ますよ?」
「あ、うんお願い」
カバンから通信セットを取り出したシドは、お兄様の第一声「おまえたち今どこにいるんだ!!」という怒号から始まって、しばらくお叱りを受けるのだった。