二人旅のはじまり
一時間ほどで山道を抜けると、背の高い針葉樹が生い茂る森へとやってきた。
その森をやや速度を落として進んでいくと、少しだけ開けた場所に到着する。
「お嬢、今日はここで野営です」
シドはそう言うと、馬からさっと降りて私に向かって両腕を伸ばす。
当たり前のように差し出された手にドキリとするけれど、平静を装ってその手を取って馬から飛び降りた。
馬に着けているランプのほかに、シドがリュックからランプを出して灯りをつけたので顔がはっきり見えるくらいには明るくなる。
「このあたりなら、大型の魔物や人食い植物はいないかと」
「……それはよかった!」
恋愛小説に人食い植物はダメだ。ファンタジーが過ぎる。
もちろん、シドがいれば何が来ようとケガひとつ負うことはないだろうけれど、少しでも休んでもらいたい。
馬に乗せられているだけの私に比べると、手綱を握って周囲を警戒しながら馬を走らせるシドは疲労していると思う。
「お嬢、こっちに寝床を作りますから毛布を取ってくれますか?」
シドは大きな樹の根元を指し、馬の手綱を引いて歩く。
私はバッグから毛布と防水布を出し、彼の指示してくれた場所にそれを置いた。
「疲れたでしょう?魔力は随分と回復したみたいですが、念のため二、三日は誰も殴らないでくださいね」
「人を暴力女みたいに言わないでくれる!?」
私は、手あたり次第に人を殴るような人物ではない。断じてそうではない。
シドはクツクツと楽しそうに笑い、荷物を馬から外した。
ホウホウと鳥の鳴き声がして、頬を撫でる風はひんやり冷たい。凍えるほど寒くはないけれど、さすがに夜は冷える。
森の土は湿気ていて、枯葉の匂いが鼻を掠める。
「さむっ……」
自分を抱き締めるようにして腕をさすった私を見て、シドはお湯を出して甘い飲み物をつくってくれた。
ぼんやりと明るいランプを前に、私たちは大きな木の幹にもたれて座る。
手渡された木のカップを両手で持つと、じんわり温かさが伝わってきた。
「お嬢、ヤケドに気を付けてくださいね」
「……」
「お嬢?」
腕が当たる距離に座ったシドは、返事をしない私の顔を覗き込む。
「ねぇ、私のこといつまでお嬢って呼ぶの?」
「へ?」
紅い瞳をじっと見つめると、そこには私が映っていた。少し目線を外せば、ちょうど目の前に彼の形のいい唇がある。
「えーっと、お嬢?ダメですか?」
カップに視線を落とすと、シドが困ったように言った。
「ダメじゃないけれど……」
突然私を嫁にするって言ったり行き先をニースへ変更したり、シドには翻弄されてばかりだけれど、せめてこれからは主従ではなくただのヴィアラとして扱ってもらいたい。
でもこの気持ちを何と説明すればいいのか。
黙っていると、根負けしたシドが躊躇いがちに言った。
「ヴィー様でいいですか?」
「様もいらないし、丁寧な言葉も使わなくていい」
「ええっ」
「ダメ?」
ちらりと見上げると、シドがめずらしく狼狽えていた。
「いや~ちょっとその顔は反則……理性を保つにはお嬢呼びしないと……」
「ヴィアラって呼んでほしい」
「ぐっ……!!耐えろ、耐えるんだ。おまえはやればできる男だ。目の前にいるのはお嬢じゃない、イーサン様だ。イーサン様……」
ダメだ、現実逃避し始めた。
あげくの果てには私を見て「イーサン様」と呼んでくる始末。誰がお兄様だ、誰が。
うちの兄妹は、容姿に関しては似てないぞ。兄は父似、私は母似だからね!
私は温かいスープを飲み、シドのことは放置する。
だいたいシドは本当に私のことが好きなんだろうか。
お兄様に「妹をよろしく」って言われたから、こうしてついてきているだけなんじゃないだろうか。
ここで私が「シドが好き!」なんて言ったとしても、それは同じくらいの好きの量なの?
わからない……。
わからなさすぎる。
じっと見つめると、はっと何かに気づいたシドがカップを持つ私の左手を握る。
「シ、シド……!?」
「ヴィー様」
心臓がひときわ大きく跳ねた。
無言で見つめ合うと、これはもしかしていい雰囲気なのではと思ってしまう。
え、え、まさかキスとかしますか!?
ドキドキしながらまっすぐに彼の目を見つめていると、カップを持つ手をぐっと強く握りしめられてさらにドキドキが加速する。
それなのに。
彼の口から出た言葉は無情だった。
「虫が入りました。もう飲んじゃダメです」
「え」
スッと私の手から引き抜かれていくカップ。
表現しようがない虚しさが私を襲う。
「虫……?」
「はい、虫です」
私のバカッ……!!
私のバカバカバカ!!!!
今すぐ背中の木で頭を打ち付けたいくらい後悔した。
シドが魔法でカップを濯いでくれているのを、恨みがましい目で見てしまう。
両手で顔を覆って猛烈に反省していると、隣に戻ってきたシドが不思議そうな目でこちらを見た。
「眠いんですか?」
「そうね。永眠したい気分よ」
不貞腐れて投げやりにそう言うと、シドはすぐに右手を翳して魔力を周囲に放った。結界を張り、気配も遮断したんだろう。眠る準備をしてくれた。
さすがは紫の魔導士、高レベルの魔法を鮮やかに使いこなしている。
「ありがとう」
「いいえ」
眠くはないけれど、本当に寝てしまおう。
とりあえず、むずかしいことは明日考えよう。
そう思った私は木の幹にもたれたまま、もぞもぞと動いて寝心地のいい位置を探す。
イイ感じのくぼみを見つけた、と思ったその瞬間。
ぐいっと背後に腕が差し入れられて、私の身体が斜めに倒れた。
「支えていますから、ゆっくり眠ってください」
「〇△×〇△×〇△×!?」
片腕で抱かれる状態になり、声にならない悲鳴が口の中で空回りした。
シドの胸に頭を預けるなんて、こんな状態で眠れるわけがない!
殺す気?私のこと殺す気ね!?
離れたい、いや、離れたくない。
どうする?どうもしない。
ありがとうございまーす!
ご厚意に感謝して、眠れなくてもずっとくっついていようと思った。