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8/31 八畳の部屋で

作者: 翠──midori


「何かに追われることは、人間が感じる最も原始的な恐怖だと思わないかい?」


 とっくに暮れた夜をカーテンの隙間から見上げて、缶ビール片手に彼女は言った。


「どうしたの急に」

「いや、ふいにそう思ったんだ」

「はぁ」


 唐突な問いだったけれど、彼女はいつだってこんな感じだ。突然考えを言葉にして、周囲の人間を困惑させるような。

 僕はスナック菓子を一つ口に入れて、鈴虫の声を聞いた。


「ね、そう思わないかい?」

「……そうかもしれないね」

「だろう」


 彼女は缶に口をつけ、もう一口飲んだ。


「虫も、動物も、人間も、遠くにいるなら怖くない。でも、それが猛スピードで近づいてきたら怖い」


 まぁ、確かにそうだ。

 僕は頷いた。


「それでね、ここからもう一つ発展してみよう」

「うん」

「時間はどうだろう。もっと言えば、夏はどうなんだろう」


 僕は口に運んでいた右手を止めて、中途半端な位置で彷徨わせる。

 時間、夏。確かにどちらも『迫る』と言う表現を使うかもしれない。タイムリミット、なんて言葉もあるくらいだ。小学生から高校生の人たちにとってみれば、夏の終わりは特に迫ってくるものだろう。


「学生にとっては恐怖だろうね」

「じゃあ、宿題も通勤もない、私達大学生からすれば?」


 僕は思ったことをそのまま、なんの脚色もせずに口に出す。


「嫌だな」

「どうして?」


 どうしてだろう。

 僕は止めていた右手を再起動させて、不健康の塊を咀嚼した。


 夏が終わるのは嫌だ。七月に入る前からそう考えていた。いまは、もっと強く思っている。理由なんか見当たらない。理由も対処法もないのにその勢いだけが強くなっていく。質が悪い感情だ。


 そう言えば、最近それを強く実感したことがあった。

 八月二十八日。晩夏が大雨に晒されたあと、雨上がりの空は香るほど深い青を見せた。それを見て胸が締め付けられたんだ。

 いいや、『胸が締め付けられる』なんて平凡な表現じゃ表せない。あれは、苦痛に近かった。夏が終わったら呼吸が止まってしまうような気がする。


 そう言う意味では、それは。


「恐怖かもね」


 僕は言った。


「だよね」


 彼女の口元がふっと笑う。

 目線はすぐに窓の隙間へ戻された。彼女には、そこに何が見えているんだろう。薄く雲がかかった空には月も星も見えない。虫の音と、黒になり切れない紺色の空気が一面に漂っている。


「寂しいなぁ……」


 彼女はアルコールだけを摂取するように缶を傾けた。


「ほんと、終わらなければいいのに」

「終わらない夏はきっと退屈だよ」独り言のようなそれらに僕は口を挟んだ。「桜が一年中咲いてたら、きっとあんなに美しく感じないでしょ?」

「そうかも」


 コトン、と軽い音が立つ。彼女はいつの間にか缶を空にしていた。机に置かれたそれは鈍く光っていた。


「でもね、続けと願うんだよ」

「……はぁ」

「終わってほしくないんだよ、何かを残せると思うんだよ、人は」


 膝を抱えて、彼女は目に涙を浮かべた。

 あまりに唐突な出来事。声をかけることすら忘れて、僕は彼女を見つめた。


「あーあ」


 鈴虫の音が一瞬止んだ。無音の色はとにかく濃かった。

 一から再び始まったその声は、なぜかさっきと同じものだとは思えなかった。


 なぜか苦しかった。空と海と植物と虫と、全部の青を思い出した。

 鼻の奥が熱くなって、望んでもいない雫が零れそうになる。


「苦しいなぁ」


 泣き出せたら楽なんだろうか。

 でも、彼女の一言で僕の涙は苦しさに変わった。


 涙で流したい何かが、いつまでも喉にこびりついて消えない。


 夏だったんだ。


「寂しいね」


 そう声に出した。

 これから何もかも報われないだろう人生が、少しだけ薄まった気がした。


「寂しいな」


 彼女はもう一度そう言った。

 僕は頷いた。

寂しいなぁ……

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