堅物な婚約者に溺愛させる方法
「セレア様? 何をご覧になっているのですか?」
怪訝な顔をした侍女に問いかけられ、セレアは顔を上げた。セレアの前に置かれたテーブルには、セレアと同年代の貴族のご令嬢の姿絵が、所狭しと並べられている。セレアは今日、婚約者であるノインの家を訪れていたのだが、生憎ノインに急用が入り、客間で待っていた。
待たせることを謝罪する侍女に“お気になさらず”と嫌な顔ひとつせず快く応じたセレアは、テーブルを使っていいかたずねると、おもむろに持参した鞄からこれらを取り出した。およそ、婚約者の家を訪れたご令嬢が持ってくる物ではない。そんな侍女の困惑を知ってか知らずか、両手にもそれぞれ一枚ずつ姿絵を持って見比べながら、特に隠すことでもないと言うように、セレアはあっさりと答えた。
「ああ、これ? ノイン様の婚約者候補だそうですよ?」
鼻歌でも歌いそうな調子で、貴族の娘たちの姿絵を吟味するセレアに、侍女は絶句した。
「何をしている?」
「あら、ノイン様?」
侍女が慌てて出ていったと思えば、少しも経たないうちに、青年を連れて戻ってきた。彼の顔を見て、セレアは流石に動きを止める。
「もうご用はお済みになったのですか、ノイン様? わたくしでしたら、まだいくらでも待てましたのに」
「……誰のせいだと……」
整った顔立ちに不機嫌さが加わり、ノインからは近寄りがたいような雰囲気が漂う。侍女は思わず一歩後退したにもかかわらず、ノインの視線の先にいるセレアはけろりとしていた。
ノインはセレアの向かい側のソファーに腰掛けると、テーブルに広げられたものを一瞥する。
「それで、……誰から預かった」
「さあ? 気付いたらうちに届いておりました」
セレアがやはり何の気負いもせず答えると、ノインは考え込むように顎に手をあてた。
「セレア」
「はい、ノイン様」
「二度とお前のうちに釣書を送ってこないよう、処理を行っておきたいのでこの書類を貰ってもいいか?」
「ええ、構いませんわ」
「……あと、すまなかった」
セレアがノインの方を向けば、ノインが頭を下げている所だった。
「あなたが謝ることではありませんよ? 頭を上げてください」
「だが、……嫌な思いはしたのではないか?」
「あなたが、そうやって気遣ってくれるだけで帳消しです」
穏やかに微笑むセレアに、ノインは眩しげに目を細めた。
「そんなことより、ノイン様」
「何だ?」
セレアは真面目な顔をして、姿絵を二枚とりあげる。絵の方がノインに見えるように左右の手に一枚ずつ持ち、真剣な声で聞いた。
「ノイン様は、このお二人でしたらどちらの方がお好みですか?」
「おい」
咎めるようなノインの口調にも、セレアは臆した様子もない。
「どちらですか?」
素知らぬ顔でなおもたずねるセレアに、ノインは口を開きかけ、……口を閉じた。
「ノイン様?」
だめ押しとばかりに聞いてくるセレアに、ノインの眉間にしわがよった。
そのまま、二人はしばらく睨み合う。
「……セレア」
「ノイン様の返事を聞くまで、引きませんよ」
「だから、セレア。……お前だ」
「はい?」
きょとんとしたセレアに、ノインはそっぽを向きながら言う。
「だから、──俺の好みは、お前だセレア」
目だけを向けたノインは、セレアの顔がぱあっと輝いたのを見て再びそらす。
「あらあら、そんな情熱的なことを言ってくださるなんて、嬉しいです」
「白々しいな、言わせた癖に」
「わたくしとしては、どちらかを選ばれて、“どこそこがお前に似ているからな”って言ってくださるのを期待していました」
絵姿を置き、セレアは立ち上がるとノインの顔が向いていない方の隣に座る。頑なにこちらを見ようとしないノインに構わず、その肩に頭を預ける。
「ノイン様」
「何だ」
「あなたの不器用な溺愛、素敵だと思います」
「そうか」
口では素っ気なく返しつつ、伸びてきたセレアの手を握るノインの手の温かさに微笑みながら、セレアは目を閉じた。
セレアは、王国でも有数の貴族である公爵家に生まれた。そんなセレアが、同じような家柄の生まれであるノインと婚約するのは、ごく自然な成り行きだったと言える。
セレアが、原因不明の病に侵されるまでは。
その病は即座にセレアの命を奪うものではなかったが、セレアの体力はかなり落ち、社交もほとんどままならなくなってしまった。
これが田舎の一貴族であれば問題はないものの、ノインの実家は大貴族であり、その妻がほとんど公の場に姿を現せないのは、体裁が悪い。
そのため、ノインとセレアの婚約は本来セレアが病に倒れた時点で破棄されるはずだった。
セレアの父は先方に婚約解消を申し出た。セレアの父は、無理に婚約を続けてセレアが疲弊し、その体に負担がかかるのを憂いたからだ。
しかし、相手方はその申し出を断った。
すなわち、婚約は継続する、と。
父から聞き間違いかと何度も説明してもらったセレアは、首を傾げた。言い方は悪いが、病気で傷物になったセレアとの婚約を先方から解消するなら、わかる。しかも、今回のようにセレアの側から申し出ているのだから、向こうにとっては渡りに船だ。勿論、セレアの病を知らないはずもないし、知っていてなお婚約を続けるのは、どうしてだろうか。
“お前、名前は何と言う?”
セレアはいつでも、初めてノインと出会った日がありありと思い起こせる。お互い6歳の幼子で、実際のところ、婚約の意味もよくわかっていなかったかもしれない。
“セレア・ルフォンと申します”
父から、公爵家ご子息と会うとだけ聞いていたセレアは、無礼がないようにと、緊張でやや固くなった口調で自己紹介をした。ドレスの裾をつまんで行ったお辞儀は今まででいちばん良いできだったように思う。
“そうか。セレア、と言うのか”
声がわり前の澄んだ高い声に名前を呼ばれ、弾んだ心音を今でも覚えている。
“俺は、ノイン・デュッフェルフ。今日からお前の──”
「こんな隅で、何をしている」
セレアの回想を、不機嫌な声が遮った。セレアが目を開けると、声の主は思いの外近くにいる。
セレアはにこりと笑顔を作った。
「ノイン様、お久しぶりです。お元気なようで何よりですわ」
セレアがノインの家を訪れてから、数日が経っていた。あの後、今年何度目かの風邪を拾ったセレアはしばらく家で静養していた。ノインがここ──ルフォン家の庭にいるということは、セレアが床払いしたことを、誰かがデュッフェルフ家に伝えたのだろう。
ベンチに座るセレアの顔色を見つつ、ノインは淡々と言う。
「お前はあまり調子が良くなさそうだな」
「滅相もございません。今日は、庭に散歩に出るくらい調子が良いのです」
「つまり散歩に出たは良いが、帰る時の体力を残しておくのを忘れ、こんな隅で力尽きて座り込んでいると」
図星をつかれ、セレアの笑顔が苦笑に変わる。視線をあらぬ方向に動かしたセレアに胡乱な眼差しを向けつつ、ノインはその傍らに腰を下ろした。
「セレア」
「はい?」
ノインの呼び掛けにセレアはノインの方へ顔を向ける。ノインは、自らの腿をぽんと叩いた。
「使え」
予想外の申し出に、セレアはぱちぱちと瞬きした。
「珍しいですわね、わたくしがねだったわけでもありませんのに」
「……横になっていた方が、お前の体力が戻るのは早いだろう」
ぶっきらぼうに言ったノインに微笑みつつ、セレアはありがたくノインの申し出を受けることにした。
「ありがとうございます、ノイン様」
セレアの礼にノインは答えない。その代わりに身を横たえたセレアの体に、ノインの上着がかけられる。
風の音を聞きながら、セレアは口を開いた。
「学院生活は、いかがですか?」
「正直、つまらん」
「ノイン様の魔力は、かのハイン様譲りですものね」
「茶化すな。俺は、大伯父ほどの使い手ではない」
「そうなのですか。わたくしは魔術に詳しくありませんから、違いが分からなくて」
余計なことを申しましたね、と謝るセレアにノインは首を振った。
「いや、今のは俺が悪い。どうも、大伯父と比べられる時は、むきになってしまう」
そうこぼしながら、ノインはセレアが笑っているのに気付いた。
「何だ?」
「大体すました顔をしていらっしゃるあなたが、むきになっていらっしゃるのが、かわいらしいなと思いまして」
「……つくづく、良いとは言えない性格をしているな、お前は」
「そうですか?」
くすくすと笑ったあと、セレアは口元に手をあてた。久しぶりの外は快晴であり、日溜まりがちょうどよい暖かさで、つい瞼が重くなる。
「何だ、眠いのか」
「ええ、少し」
「ここで寝ては、体を痛めるかもしれないぞ」
「そうですね、……だいぶ体力も戻りましたから、起きますね」
身を起こそうとしたセレアに、ノインが手を貸す。
「ありがとうございます、ノイン様……え?」
ノインはセレアの腕をとると、ぐっと自分に引き寄せた。
「ノイン様!」
「動くな、持ちにくい」
そんな、荷物を抱えるでもあるまいし、とノインに横抱きにされながらセレアは戸惑う。
「歩けます」
「へばっていたのは、どこのどいつだ?」
「もう十分休憩いたしました」
「信用ならないな」
にべもなくつっかえされ、セレアは困惑した。ノインは一度こうと決めたら容易に覆さない、強情なところがある。しかしセレアとしても、これ以上ノインに迷惑をかけたくはなかった。セレアはじっとノインを見上げる。ノインはセレアの抵抗がなくなったのを見るや否や、前だけ見て歩き出した。その足取りに迷いはない。セレアからは、端整な横顔しか見えないが、その頬に僅かに朱が走っているのを見つけた。
「ノイン様」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「最初から、それだけ言えば良い」
「もしノイン様がよろしければなのですが」
途切れたセレアの言葉を、ノインが視線だけで促す。
「次に庭を散策したくなったときは、ノイン様についてきていただいても、よろしいでしょうか?」
「……暇だったらな」
「同情ですか?」
あれは、セレアが病に倒れてからすぐのこと。
唐突な言葉に、ノインは目を瞬かせた。賢い彼にしては珍しく、瞬時に意味を図りかねたのだ。セレアはそれを、傍目には微笑んで見ていた。その視線に、かすかにまじっている怒りに、ノインは驚く。ノインの知るセレアは、優しく穏やかで、堅物なノインにも柔軟に接する完璧な令嬢だった。そんな彼女は、一度たりとも激情を見せたことはなかった。婚約者であるノインの前ですら。
彼女は、ノインが彼女の境遇を憐れみ、婚約を続行したと思っているらしい。
「いや、違う」
「では、なぜ?」
その続きをはっきりと口にするのは、ノインには途方もなく敷居が高かった。しかし、生半可な誤魔化しでは、彼女をより誤解させてしまうかもしれない。ノインは覚悟を決めて、真実を告げた。
「俺の、我が儘だ」
ノインの言葉に、セレアはきょとんとした。まじまじとこちらを見つめるセレアの瞳を開き直って受け止められるほどノインは大人ではなかったので、視線はそらしてしまった。しかし、はっきりと続きを口にする。
「俺は、お前に惚れている。だから、お前に隣にいてほしいから、婚約を続けたいと申し出た」
「まあ」
セレアは目を見張り、口元に手を置いた。笑うなり茶化すなり好きにしろ、と破れかぶれな気持ちになりつつ、ノインは言い切った。
「俺もお前も公爵家の出だ。家柄的に、世間の目は厳しいだろう。できる限りのことはするが、確実に病を得た体で苦労をかけると思う。それでも俺の側にいてもいいなら、俺の婚約者でいてくれ、セレア」
返事は即答ではなかった。黙り続けるセレアに、ノインは恐る恐る視線を戻した。
セレアとノインの視線が合う。恐々とこちらを見ているノインに、セレアはくしゃりと笑った。
「本当に、仕方のない方ですね。わざわざわたくしのような傷物を選ばなくても、引く手あまたでしょうに」
「傷があるかないかなんて関係ない。俺はセレアがほしいんだ」
「……今日のあなたは、びっくりするほど素直ですね」
「お前を失うかどうかの瀬戸際だからな」
赤面しつつも開き直ったノインの言葉に、セレアはくすくすと笑う。セレアが十分に笑ったのを待って、ノインはたずねた。
「返事は?」
「ええ、あなたの熱意に負けました。婚約は続けましょう」
「本当か」
喜色を浮かべたノインを、セレアは手で制する。
「あなたとこれから歩む道は、決して平坦なものではないでしょう。くじけそうになる時も、あるかもしれません。……ですから」
真面目に聞いているノインの小指を取って、セレアはさっと自分のものに絡める。
「時にはわたくしを、溺愛してくださいね。──約束ですよ?」
「で、できあ……わ、分かった。善処する」
一瞬だけ意味を掴みかねてきょとんとした後、ノインは真っ赤になる。しかし、小指を放そうとはしなかった。セレアはそんな彼を見て、小指に力を込めた。
最期の時まで、この温かさを覚えていられるように、しっかりと。
誤字報告くださった方ありがとうございました。
修正いたしました。